「そらからくん。なにか食べたいものとか、あるかな?」
「……特にありませんけど、苦手な食べ物もないので、なんでもいいですよ」
「なんでもいい。それが一番困るんだよね、いや、うん、了解しました」
キッチンにいる剣藤からはリビングにいる空々の表情を見ることはできないが、しかし剣藤にとって空々の表情を想像することは実に容易いことだった。
剣藤が一ヶ月ほど前から身の回りのお世話をしている年端もいかない英雄──空々空──には、感情がない。
だからこそ彼女は、空々空は今日の献立を聞かれたからといってなにかを考えるような思案顔をするはずがないと。
つまりは無表情なはずだと、そう考えることができたのだ。
考えるというよりも、これは一種の方程式のようにも思えるが。
ちなみに、感情がないというのはなんの誇張もない表現である。
空々空には感情というものが、それこそ最初からそんなものはなかったかのだと言われても不思議でないほど決定的に存在していない。
いや、実際、最初からなかったんだろうと剣藤は思う。
だからこその、欠如している──ではなく、存在していない。
以前彼女は空々から「心に穴が開いているだとか、どこかが空っぽだとか、そういう感じじゃないんですよ。僕にとって感情は、何物にも変え難き理想みたいなものなんです。地球のように、ありふれているはずなのに、決して手に入らないものなんですよ」という話を聞いていたのだ。
よく分からない例えに眉を寄せながらも、つまりは彼は最初からそういう風に生まれたのであって、感情が入る隙など一部も存在していないようなのだ、ということをあっけらかんとした態度で思っていた。あるいは、感情があるべき空間には既に何かで埋まっているのかもしれないとも思った。
剣藤ら対地球組織含め人類皆共々が憎むべき相手である『地球』という言葉を例え話の中で出すあたり、やはり空々には『地球』に対する恨みがないように思える──いや、そんな恨み辛みを感じるような感情こそが、彼には存在していないのだろうけれど──
──そんな彼でも。いや、そんな彼だからこそ。
地球撲滅軍という対地球組織に所属し、そして英雄と呼ばれる由縁があるのだ。
剣藤犬个という致死率百パーセントの『小さき悲鳴』の生き残りにはあり続けることができなかった、英雄たる由縁が。
空々は、人類の敵である『地球』の手先『地球陣』と我々『地球人』とを区別することができる。
未知の技術で人間に擬態している地球陣を見分けるためには『実検鏡』というゴ道具が必要で。しかしそれだけでは足らず、地球陣を見ても潰れない目も必要であるのだ。
地球陣はあまりにも美しい。その美しさに、その神々しさに当てられ、『実検鏡』を通して地球陣の姿を見たものは文字通り目が潰れる、再起不能なまでに──人類の敵が美しすぎるというのは皮肉なものだが──空々にはものを美しいと思うような感情がない。
およそ、感情と呼べるものは存在していない。
なんたって、剣藤が空々の家族を惨殺したときだって、彼は眉ひとつ動かさなかった。
おそらく空々は、自分以外の全人類が死んだとしても──ひと月近く共に暮らしてきた剣藤が目の前で惨殺されたとしても、なにも思わないのだろうけど(さすがに、これからどうしようかと悩みはするだろうが、きっと彼は悲しみはしないだろう)それを別に、可哀想だと思う必要はない。
むしろそれは今の彼にとっての処世術であるのだから……感情がないから生かされているようなものなのに、今更感情なんてものが彼の中で生まれてしまえば、空々空という英雄はただの人だ。
『地球陣』の存在を知ってしまった以上はおよそ日常と呼べる平穏な日々は送れないだろう……地球撲滅軍はそこらへん、結構ドライな組織である。
そもそも感情があれば、地球撲滅軍に目を付けられることもないと言ってしまえば元も子もないが……そのうち、『蒟蒻』こと花屋瀟が天才少女から大人へと成長したのちに、結局は力にものを言わせて空々を地球撲滅軍に引き入れていただろうから、感情があろうとなかろうと、空々にとっては遅いか早いかの違いではあった。学生時代に大半を失うのは明らかに多大なる損失ではあるが──地球にいつ全滅されてもおかしくない人類からすれば、それは些細な事柄である。
ともかく、『地球陣』の文字通り目が潰れてしまうような美しい姿を直視してもそれを美しいと感動する感情がないから、彼の目は潰れることがない。
その唯一性を買われて、空々は地球撲滅軍に英雄としてスカウトされたのだ。
一ヶ月程度一緒に暮らしていた一介の女子高生(今となっては高校生ではないが)が死んだ程度で、彼の死んでいた感情が蘇るなど、今時安い青春漫画でもまずない展開だろう……成績優秀品性方向清廉清楚の三つ編み委員長並みに、絶滅危惧種のようなシチュエーションだと言ってもいい。
ともかく、空々空には感情がない。だから、人の目を潰してしまうほどの美しさを誇る地球陣を見ても、彼の目は潰れなかった。
それだけの話。
そして彼に感情がないということは、剣藤にとっても期せずしてありがたいことであった。なにせ彼女は空々の家族を斬殺したのだから──惨殺したのだから。
剣藤が、自らの家族を焼き殺した『火達磨』のことを良く思わないように。もし感情のある英雄を剣道が世話することになっていたなら、自分のことと同じように庇護する対象から恨まれたっておかしな話ではなかった。
空々空をスカウトする前にも仕事の一環で何人かの英雄候補をスカウトしに日本各地を転々としていた剣藤だが、こうしてその英雄候補と共に暮さねばならないのだというのなら、あの四国でのスカウトも絶和の連中に邪魔されて良かったのかもしれないと、思わないでもなかった。
(さて、と。そらそろ夕飯を作り出さないと、我らが英雄のお腹が背中にくっついくんじゃないかな)
と、剣藤はあっけらかんとした態度で大容量の冷蔵庫の前に立つ。
空々は育ち盛りで、元野球部ということもあってだろう。その中学生ほどの体躯や大人しめの態度以上によく食べる。
なのでやはり量は大切だと、剣藤はこの一ヶ月近い生活の中で無意識的に感じ取っていた。
「今日は、別に、凝ったものじゃなくってもいいかな……?」
別にいつも凝ったものを作っているわけではないものの、手抜き料理を作るのはなんだか罪悪感を感じてしまうものがあるので(なにせ今の剣藤の存在価値は空々の世話係だ。それで手を抜くとはこれいかに)、せめてもの言い訳のようにそんなことを呟いて、剣藤は牛肉が入ったトレーと焼肉のタレを冷蔵庫から取り出した。
先日、スーパーで買っておいたものである。
唯一性を買われてか、特別な待遇を受けている彼の食費には制限もないため、実は少しお高めのお肉を買っていたりする。
一緒に暮らしているということは、即ちそのお高いお肉を剣藤も食べることになるのだが……こうしてみると、なんだか年下のおこぼれをもらっているようで情けない。
(まあいいよね。私だってあくせく働いてるわけだし。そらからくんと労働量は一緒だよ)
と、誰に聞かれるでもない言葉を自分に言い聞かせ、薄い膜のようなビニールを引き裂いた。
(肉は別に、洗う必要はないよね。どうせ焼くんだし)
ポリ袋に、切り込みを入れた牛の切り落としと焼肉のタレを適量入れ、揉み込む。
下準備はこれで完了だ。あとは二十分ほど待ってから、焼くだけ。
つまり何があってもあと二十分は暇なので、剣藤は、空々と一緒にテレビでも見ようかと思い立ち、手を洗ってからリビングに向かった。
自分の親を殺した人間と肩を並べるだなんて、空々の立場からすれば笑えない冗談だろうが、笑えないではなく笑わない彼にとっては思うところもないのだろう。
彼は自分が生きるということ以外は結構無頓着だ、と剣藤は思う。料理だってできないほど、そのほかの事をどうでもいいと思っているんじゃないか……と、彼女は勝手に推測していた。
料理こそ生きるための術なのだから、中学生らしい矛盾を孕んだ生き方だ。
あるいは、英雄らしい生き方か。
生憎、剣藤は一介の女子高生なので(再三言うと、今となっては高校生ではないが)彼についてのプロファイリングといった専門知識を必要とするようなことはできない。
空々が中学生らしい矛盾を孕んでいるように、剣藤だって、高校生らしい未熟さがどうしても隠しきれない。
そしてお互いにその欠点を補え合えるほど、まだ、絆は深まっていない。
空々はいつもドキュメンタリーやニュース番組などといったものを見ていると、剣藤は最近気がついた。
感情のない彼は日常と言える生活の中で周囲の人に感情がある振りをしていたというから、そういった人間の本質のようなものを見ることのできる番組を観て、立ち振る舞いなどを学んでいるのだろうか? 既に野球少年でないのにもかかわらず今日も筋トレに勤しんでいた彼は、そういった面からしても努力家だ。
(単に、大人しい雰囲気の番組を見ているだけかもしれないけどね)
だったらテレビを付けないでいた方が静かな気もするが、それはそれで寂しく感じてしまったりするのだろうか?
彼が寂しさを感じるかどうかは別として。
(そういえば、私は、そらからくんのことはなにも知らないような気がする)
剣藤はどこぞのおねーさんよろしくなんでも知っているというわけではないが──しかし、かといってなにも知らないというわけではなかった。彼女は彼の名前を知っているし、出身地も、家族構成も、そして彼のその特異性も知っている。
けれどそんな事務的なものではなく。彼女が言う知らないという言葉の意味としては、いわゆる日常でありふれているような、どうということでもない、はっきりいって知っていなくてもいいようなことを知らないのだというのが適切である。
私たちが守るべきである日常を、私は知らない──と、剣藤は思っていたのだった。
(知らないっていうか、忘れちゃったって感じだけど──それにしても、そらからくんは地球撲滅軍に入って間もないのに、もう、そんな生活感は感じ取れないな……。そもそも中学生なんて、寝て食べて、学校に行って、部活やって、遊ぶくらいしかしないだろうし。寝て食べるくらいしかできない今となっては、生活感もあったものじゃないかもしれないけど)
そもそも空々にはそんな生活感なんていうものは身に備わっていないのだが、剣藤はそれを知る由もない。
それに好きなテレビ番組云々も剣道が勝手にそう思っているだけで、実際にそうなのだと空々の口から聞いたわけでもなかった。
一ヶ月近く共同生活をしているのだから、そういった踏み込んだことを聞いても良いだろうか? と、そんな期待を胸に、手を洗ってからリビングにいる空々の隣に剣藤は座った。
最初の頃は、それでも違うソファーに座っただろうが、剣藤は無意識に空々の座るソファーに腰をかけて顔は前に向けたまま、チラリと横を見やる。
空々は隣に座った剣藤のことを一瞥しただけで、またテレビの方に目線をやった。
集中して番組に食い入っているように見えるが、ただぼうっと眺めているだけのようにも見えて……そんな幼い横顔をこうして見ていると、本当に、まだまだ中学生なんだな──と、剣藤は思った。
不思議な男の子だ。
不思議な、英雄だ。
「そらからくんってさ、ドキュメンタリーとか好きなの?」
と、あまり会話が上手でない剣藤は安直にそう訊いた。
空々は依然として顔を液晶画面に向けたままこう答えた。
「父が大学で働いていて、真面目な人間でしたから、夕飯時はよくニュースを見ていたりしました。食後も、ドキュメンタリーが流れていることが多くって……だから、その名残みたいなものです」
「……ふうん」
(相変わらず、ずれた答え方をする子だ。それが、そらからくんらしいといえば、そらからくんらしいんだけど)
剣藤が黙ってしまったので、なにか不味いことを言ったんじゃないかと危惧してか、空々は彼女の言葉を少しだけ変えて質問を返した。
「剣藤さんは、以前は普通の生活を送っていたと聞きましたけど、テレビ番組はなにを観ていたんですか?」
「私はバラエティかなー……。私くらいの歳だと、携帯電話とかで友達と夜遅くまで連絡を取り合ったりするんだろうけど、生憎そこらへんは疎くってねー。だから夜は暇で、バラエティを見てたよ。あとはドラマとか。……まあ、そんな連絡を取り合うような友達も死んじゃったんだけどね」
「そうなんですね。僕の友達もみんな死にましたよ、野球仲間も死にました──花屋のやつは除いてですが」
平気な顔をして友達が死んだことを語る空々──いいや、語るなんて情緒の篭った話し方はしていないだろう。ただ彼は事実を述べているだけで、そこに悲しみや想いはない。
空々が、友達を失くしたのだという剣藤を慮って自身の経験を引っ張り出してきたわけではないだろうから、本当に思い出しただけみたいな物言いであったが……剣藤からしてみれば、少し同情されたような気持ちにならないでもなかった。
中途半端に彼と親密になったせいか(今となっては深い意味はなしに同じベッドで寝る仲である)それを喜ぶべきか怒りに変えるべきなのかが剣藤の中でごちゃ混ぜになり、複雑な感情を形成する。
それを表情には出してはいけないと、剣藤は気をそらすように先ほどの会話の中で出てきた『花屋瀟』のことを考え始めた。
花屋……花屋瀟、『蒟蒻』。第九機動室副室長。
剣藤犬个の上司であり──空々の小学校時代からの親友でもある。
ただ、彼から聞く花屋瀟と、彼女の知っている『蒟蒻』とでは抱く印象には大きな差があって。『蒟蒻』の話になると、途端にまるで違う人の話をしているような気分になることが多々あった。
「……ねえ、私の知ってる『蒟蒻』と、そらからくんの知ってる『花屋瀟』は本当に同一人物なのかな?」
「……? 地球陣ではないと思いますけど」
「そうじゃなくって。別人なんじゃないか……っていうこと」
自分でも言っていておかしなことだとは思った。
まさかここに来て人類と地球以外の第三者が乱入してきたわけがないだろうし、仮にあったとしてもそんな
英雄になれなかった自分にそんなことができるわけがないと、はなから決めつけている。
(できるのは精々、ペットとそらからくんのお世話くらいだ……いや、それだって、半分できなかったんだけど)
しかし剣藤は、そんな言っていておかしなことを理由もなしに口にするほど私は愚かではないはずだとも思っていた。ともかく彼女が知っている『蒟蒻』と空々が語る『花屋瀟』の人物像があまりにも違いすぎるのだ。
感情のない空々があれこれ『蒟蒻』の過去を美談のように脚色するようには思えないので、やはり彼の言う『花屋瀟』は実在しているのだろうけど……それがイコールで『蒟蒻』なのかというと、そうではないのでないかという思いもある。
だから、別人なのではないか、と。
そしてそんな判断材料から導き出される答えはこうだった。
「『蒟蒻』は、二重人格だったりする?」
地球と戦う戦士が、人の形態をとる地球陣を殺していくうちに心を病み、精神が分裂する──というのは、よくある話だ。
精神的にも幼い少年兵ならなおさら。
しかし、「いや、それはないんじゃないですかね」と、空々は相槌を打つよう言い、そして舌の根も乾かないうちに続けてこう言った。友達のことだからと、頭ごなしに否定するわけではないようだ。
「あいつは、そんな柔なやつじゃないですし──それに『蒟蒻』だったときの花屋は、僕のことを知っていたじゃないですか。ああいうのって、記憶が共有されないはずですよ」
ドキュメンタリーで観たことがあります。と、付け加えるように言う空々。
「そうかもね……そもそも、そうならないための精神ブロック剤だし」
精神ブロック剤。
剣藤は『地球陣』を殺すとき、いつもそれを飲んでいる。
しかし、以前空々の家族を惨殺した際にも服用していたからか、今となっては「地球陣を殺すために飲んでいる」というよりも「人を殺す罪悪感から逃れるために飲んでいる」といった意味合いも含んでいるのではないかと、より一層夜魘されることが多くなったのは明らかだった。
それも空々のおかげでだいぶマシにはなっているものの……それはとんだマッチポンプであった。
「単に仕事と私生活にメリハリをつけているだけじゃないですかね。ある意味、二重人格めいたものではありますけど」
「そうかもね。そういうの得意そう」
(そうなってくると……そらからくんの目の前じゃ気が引けて言えないけど、二重人格どころか怪人二十面相もビックリなほど多くの人格を持っていそうだな。『蒟蒻』はさ)
『蒟蒻』が弱冠十数歳で第九機動室副室長という役職に就いていることにさほど疑問はなかった。
それは彼女が、自ら誰に言われるでもなく地球陣の存在に気がつき地球撲滅軍に志願してきたからでも、四年ほど前、初めて明確に地球陣を倒してみせたという人類にとっての大切な一歩を踏み出したからでもない。
天才がそう呼ばれるきっかけとなったこと以外を人並み以上に出来たってさほど不思議なことではないように。その人並み以上にできてしまったことがきっかけを越すことなんていうのはザラにある。
天才という稀有な例にザラという言葉は不似合いか──そんなアンバランスさは、それほど気にならなかった。
(天は二物を与えずっていうけど、その例外こそが天才なんだろうなあ……いや、例外なわけだから、天からすれば天災なんだろうけど)
実際権力的な面からすれば、『蒟蒻』は第九機動室室長の『茶飲み話』を優に越す力を持っていることは明らかである。
剣藤は仕事の一環で多方面にコミュニティを持っているけれど、おそらくはそれを凌駕する量と質のコミュニティを、『蒟蒻』は形成しているはずだったからだ。
『蒟蒻』の真に恐ろしい部分は、戦闘力ではなく、観察力ではなく、そのコミュニケーション能力にあると言えるだろう。
もっとも、戦闘力も観察力も人並外れたものであるのだから──これを天才と言わずしてなんと呼べばいいのか。
(だけれどそのことはきっと、そらからくんは知らないだろうな──言われても、ピンとこないんじゃないかな)
だから言わない。不粋なことをするほど性根が曲がっているわけでもない。
そんな曲がりは、この対地球組織に入る際、矯正されたように思う。
あくまでもそう、剣藤が思っているだけだが。
「そろそろかな」
時計を見てみると、既に三十分は経過していたのでそろそろといった時間ではないが、まあ漬けてるわけだし、時間はかかればかかるほどよく味が染みて良いかもしれないと楽観的に考える。
ポリ袋から取り出した牛肉をフライパンの上にばら撒き、加熱していく。
肉に火が通るまでの小時間に食器棚からサラダボウルを、冷蔵庫からはラップに包まれたキャベツを取り出す。キャベツを二口大ほどの大きさになるよう手でちぎり、そしてサラダボウルへと入れる。
キャベツはシーチキンで和えて食べても美味しいことを思い出し、明日の夕飯にでも出そうか、なんていう風なことを、剣藤は漠然と考えていた。
ここ一ヶ月ほど空々の世話をしていて、すっかり誰かの世話をすることが板についてきたように剣藤は感じていた。以前の彼女なら、他人のために作る料理であれこれ悩むこともなかっただろうに──
(それなりに私も成長したのかな?)
これから先、いつまでこんな生活が続くか分からないけれど。
剣藤はこの生活を日常として捉えることができるようになっていた。
いつまでも続けばいい──なんていうことはないにしても、それでも彼女は、ある種の温かさをこの生活から感じ取っていたのだった。
このような生活が続くということは、それはイコールで地球との戦争が停滞状態にあることを意味する──人類を守るために日夜戦う剣藤からすればそれは望ましくない未来であった。だからそれは望めないし、望まない。
でもまあ……決着がついたところで、なんやかんやで、身寄りのない空々とは一緒に暮らすとまではいかないにしても、それなりに親しい仲にはなれるのではないだろうか──とも思っていた。
感情のない彼に、親しむ心がなかったとしても──彼女にはその心があり。そしてそれを拒否する感情を、彼は有していない。
それに、彼はペットな訳だし。むしろ将来そうなる可能性は高いとも言える。
少なくとも、彼女の精神的な部分が癒えるまでは──あるいは彼の代替品が見つかるまでは。
寄り添い、抱き締めて眠る日が続くだろうと、少なからず感じ取っていた。
パチパチと小気味の良い音が肉の方からしてきたので、そちらも気にしながらキャベツをちぎる。
サラダボウルが七分目あたりまでキャベツに埋まった頃合いに、肉も十分焼けてきたようだった。まあ最悪、中まで火が通っていなくとも牛肉だし大丈夫だろうとタカをくくり、ガスを止める。
瑞々しいキャベツの上に肉汁弾ける牛肉を乗せ、追い討ちをかけるように焼肉のタレをかけて……完成!
「そらからくん、できたよー」
箸を配り、机の真ん中あたりにキャベツと肉が入ったサラダボウルを置く。小皿も一枚ずつ。
それを見て空々は不思議そうに「あれ、ご飯はないんですか?」と言った。
「キャベツがご飯代わりってことだよ。結構美味しいんだよ?」
「はあ」
中途半端な声を返した空々は「いただきます」と言ってから、小皿に取り分けた肉とキャベツをやや食べづらそうに口を大きく広げて食べる。
それを見てから、剣藤もまた箸を手に取った。
「ん、おいしいですね。お肉もそうですけど、キャベツの食感がいいです」
「そうでしょ? 結構お手軽だからね、料理が苦手なそらからくんでも作れるんじゃないのかな」
「じゃあ今度、作ってみましょうか」
その提案を剣藤はやんわりと断った。
空々が料理を覚えたら彼女の存在価値が下がってしまうというのもあるけれど、それ以上に空々は料理が下手なのだ。
(彼はきっと、薄口醤油と濃口醤油の使い分けができないタイプの人間だ……下手すれば、ボトルが似ているなんていう理由でめんつゆと醤油を間違えかねない……)
間違いを間違いのままにしておくのはいけないことだが、しかし矯正の過程で舌がおかしくなってしまうというのはいささか許容し難いことであった。
「……? どうかしましたか」
「ううん、なんでもないよ。それより味はどう? おいしい?」
「はあ……? おいしいですよ」
表情に出てしまっていただろうかと、剣藤は誤魔化すように味を聞いてしまった。ついさっきおいしいという言葉は彼の口から自主的に聞いたものだったので、より一層怪しまれてもおかしくはないのだが、何もないと言われるとそれ以上は追求してこないのが空々であった。
十数分もすればサラダボウルは空になり、満腹になった二人だけが残った。
「ごちそうさまでした」
の一言から始まる後片付けの折に、空々が脈絡もなく話を振った。
「剣藤さん、もし──」
食器を洗う彼女を横目に、空々はなに食わぬ表情で言う。
「──もし、僕が地球撲滅軍から逃げようと」
「そんなことを本気で言ったら殺しちゃうよ? 気をつけてね、そらからくん」
空々の言葉を途中で遮るほどに、強い口調で剣藤は言った。
それに対し空々は、顔色を変えず「すみません」と返した。
殺す。という言葉が冗談でないことを空々は知っていたし、思い知らされていた。
なにせ彼は彼女に家族を惨殺されていて、なおかつその死体を目の当たりにしてしまっていたのだから、彼女が殺そうと思えば自分のように戦闘力のない人間はあっという間に身体が小分けにされてしまうことくらい想像に容易い。
それと同時に空々は、言い表せないような疑問感を抱いていた。
つい最近、ある程度打ち解けてきて剣道の方から話した自らの命に関わる重要な話であるにもかかわらず、それをまるっきり忘れて質問してしまったのはかなり肝を冷やすようなミスだが(なにせ命がかかっている)、それに対する彼女の態度に、少しばかり不思議さを感じていたのだ。
先日、剣藤は空々に対し逃げるようなことがあれば殺すという宣言めいた言葉を伝えていた。
ただたんに、今回はもしもの話だったから冗談半分殺意半分で対応してくれたのかもしれなかったが……それでも。
(それでも剣藤さんなら、ワンクッション挟むことなく『破壊丸』に手をかけてたって、おかしくはなかったと思うけど)
けれどそんなそぶりは──いや、見えてないのだから、動作で表すのはおかしいか──強いていうのなら、剣藤が洗い物をしている音が止まった気配は感じ取れなかった。
皿同士が触れ合うかちゃかちゃとした音がしていたから、刀に手を伸ばしてはいなかったのだということが推測できた。
ソファーから身を乗り出すようにして、空々はキッチンにいる剣藤の方を見た。
やはり彼女は、自身の手の届く範囲に『破壊丸』を置いている。……となると、自室に破壊丸を置いたままにしていたから、わざわざ取りに行くのが面倒で皿洗いを続けていた……という線はないらしい。
皿洗いで手が濡れていたから破壊丸に触りたくなかった──というのもあるかもしれないが、そんな理由は理由にならないだろう。
信用。して、もらえているのだろうか?
空々は感情がないがゆえに、彼の発言は大抵の場合冗談と本音の区別がつきにくい。だから剣藤からしてみればさっきの発言は本音とも取れるはずだ。
ならば空々は、「もし」だとか「仮に」なんていう言葉を頭に置いたところで、逃亡の可能性があると判断され抹殺……とまでは行かないにしても、それなりに命に関わる危険くらいは与えられてもおかしくはない。
むしろそうなる可能性は極めて高かった。けど、そうはならなかった。
(単に、師匠の代わりがいなくなるのが不都合だから、多少は甘く見て、見逃してくれたのかもしれないけど)
それでも一応念押しにと、空々はキッチンで洗い物をする剣藤にも聞こえるように若干大きめの声で言った。
「今の僕に地球撲滅軍を離れる意味はありませんよ。家族や親戚、関係者は全員死んでしまったんですから。頼る身寄りもないですし。それに地球撲滅軍は政府とも繋がってるんですから、そういう施設にも頼れないでしょう」
確かにそれはもっともな話ではあるが、しかし今の彼には『目』がある。地球陣を直視しても潰れることのない、唯一性に優れた目が。
それを取引材料に使えば、今の地球撲滅軍ほどの好待遇は受けないにしても、しかし地球陣を見分けることができる貴重な存在として他の対地球組織に所属することができるというのもまた確かなことだろう。
もっとも、対地球組織はそう大っぴらに活動しているものではないのでまったくコネクションを持たない彼が前提条件としての交渉に出ることは不可能に近いのだが……。
「剣藤さんは、地球撲滅軍を離れようなんていうふうに思ったことはないんですか?」
「ない、それはないよ。そらからくん」
剣藤はそう断言した。彼女の中で地球撲滅軍を裏切るなんてありえないからこその即答とも言える。そんなこと、考えたこともなかった──なんていう風な葛藤も通り越すほどに、彼女の組織に対する忠誠心は強い。
「もし私が地球撲滅軍を離れることになるとしたら……それはきっと、捨てられたときだろうね。私から離れることはないよ。既に『見込みなし』の烙印を押された私だから、あり得ない話じゃないんだろうけど──そのへん、結構ドライな組織だよ。地球撲滅軍はさ」
「…………」
その言葉になにを思うでもなく、空々は考えていた。
(そういえば剣藤さんは、大いなる悲鳴を止められなかったから、言葉を借りるなら見込みなしの烙印を押されたわけだけど──実際この人がどうこうできた問題だったんだろうか)
そう考えてみると、別に剣藤は悪いことはしてないんじゃないかと空々は思った。
空々の英雄たる理由はその『目』にあるように。
剣藤の英雄たる理由はその『耳』にある。
結局、彼女は英雄にはなれなかったというし、耳といってもじゃあ耳を塞げば大いなる悲鳴が聞こえないのかといえばそうではないのだが──ただ、小さき悲鳴や大いなる悲鳴を聞くことがなかった剣藤犬个が、それで大いなる悲鳴を止められることができるとは思えない。
むしろ悲鳴が聞こえないのだから、体験していない以上実際聞いた人と比べればハンディキャップがあるはずで(総人口七十億人が聞いていたにもかかわらず、未だに大いなる悲鳴がなんだったのから解き明かされていないため、ハンディキャップもなにもあったものじゃないかもしれないが)。
むしろそうなってくると、別に彼女が英雄でなくても──彼女にわざわざ期待を寄せる必要性はなかったんじゃないかと思う。
むしろ、なにを根拠に期待していたのだろうとも。
自動的に人を切り刻む『破壊丸』にか──? いや、あれはもともと地球撲滅軍が開発した武器のはずだ。
精々いいところがあるとすれば、大小関わらず悲鳴で死ぬことがないというその一点に尽きる──
いつ訪れるか分からない地球からの無差別攻撃の範囲外──イレギュラーな存在。
しかしとはいえ、カウンターめいた彼女は、生き残るというだけで別に悲鳴を食い止めることが出来るものではない。
あるいは地球撲滅軍は、彼女を調べて全人類に悲鳴が聞こえないようにするための処置を施そうとでもしたのだろうか──?
(ありそうな話だけどね。でも──)
でも結局、それは無理だったのだろう。
そもそも七十億人──今となってはその三分の二、四十七億人そこら──に医学的処置を施そうなんていうのは、いくら政府が関与しているからとはいえ土台無理な話だ。
夢物語もいいところである。
「……夢、かあ」
脈絡もないが、ふと空々は、夢物語という言葉から小学生の頃に書かされた『将来の夢』なんていうタイトルの作文を思い出していた。
野球をしていたから野球選手になりたいと書いたような気もするし、宇宙飛行士なんていうベタな夢を書いたような気もする。
案外大穴で公務員なんていうお堅い職業を書いたかもしれないが、そこまで利口な子供でもなかったはずだ。
語彙こそ父の影響で周りよりかは大人びてはいたかもしれないが、別に頭が良かったわけでもない。むしろ成績はいつも悪いくらいであったのだし。
「剣藤さんは、将来の夢ってあるんですか?」
「将来の夢?」
そう訊かれて、剣藤は戸惑った。
地球撲滅軍に入った時点で日常なんてものは望めないのだと、はなから諦め考えていなかったからだ。
小中高生の頃は今はなき夢に想いを馳せていたのかもしれないけれど──生憎、それを思い出すのには時が経ち過ぎたように思う。
精々二年か一年ほど前の話だが、しかしそれは、剣藤犬个という一人の人間の価値観を変えるのには十分すぎるほどに長い時間だ。
人は時に、それもほんの一瞬の出来事で、世界観が変わるというのはよくある話だ。
大いなる悲鳴は良い例だ──もっともあれは一瞬ではなく二十三秒間だが。
「将来の夢……か。考えたことなかったな」
「……? すいません、聞こえませんでした」
「ううん、今のは独り言。だから聞こえなくっていいんだよ」
先も言った通り、剣藤が地球撲滅軍に所属するようになったのは高校一年生の頃のことである──そのときは大いなる悲鳴も響き渡ってはいなかったため、平和な国でぬくぬくと育っていた彼女は将来に対する危機感なんてものは感じず……ゆえに、将来のことについて深刻に悩むような高校生活は送ってはいなかった。
むしろ、受験から解放された惰性でだらけていたほどである。
とはいえ、だからといって、将来に対する不安を感じ「大いなる悲鳴で死ぬことができたら。小さき悲鳴を聞くことができたら」なんていう風に悔やむことはない。
彼女は既に人類を守る戦士であるからだ。
英雄にこそなれずとも──その義務を、自身が得ることのできた力を放棄するほど世界に絶望はしていない。
(まあだとすると、やっぱり将来の夢っていうと、地球との戦いが終わった後のことなんだろうな──)
そうやってまた、深々と彼女は考えてみるが、しかし答えは一向に見出せなかった。
(夢……)
好きな人と結婚したいだとか、もっと綺麗になりたいだとか、そんな年頃の悩みや望みは持たない彼女である。
望みがないということは、すなわち未来に対する希望もない──そうなると、夢を考えるというのは彼女にとっては大変難しいことだった。
(夢がないっていうのは、なんだか寂しいな。人類皆幸せに──なんていう人類愛は、さすがに夢とは言わないだろうし)
ありきたりな、それこそ誰かに言おうものなら何かの誤魔化しに使っているんじゃないかと疑われてしまいかねないような夢こそが、彼女にとって夢というべきものなのかもしれなかった。
「まあ、幸せに生きたいよね。そう言っちゃうと、なにが幸せか──ってなるかもしれないけど。きっと私にとっての幸せは、世界の平和とかなのかも。うん、きっとそう」
「世界の平和、ですか。いかにもヒーローって感じですね」
「はは、そうだねそらからくん。……きっとこの願いは、君のような英雄が願うべきものなのかもしれない。そして私たちが、誰もそんなことを願う必要がなくなるような世界にしなくちゃいけないんだろうね」
「世界、ですか」
空々は大きく息を吐く。その嘆息の音は剣藤の耳にまで届いていた。
「大それた話ですけど……それくらい、大きな話なんでしょうね。地球を倒すっていうのは」
「そうだね、大きな話だよ──私には大きすぎる。けど君にならきっと……きっとできるよ」
「頑張ります」
「うん。頑張ってね。応援するよ、そらからくん」
洗い物を終えた剣藤は、冷えた両手を揉みながらリビングに向かった。
ソファーには、空々が座っている。
その背中は年相応に小さいけれど、しかし彼女には頼もしくも見えた。
触れてみようかとそっと手を伸ばすが、少しまごついて、結局触れはしなかった。
まだ幼い彼の背を見ながら、剣藤は想う。
この少年が、いつか世界を救うというのなら。
私はその世界で生きていきたい──と。
剣藤は気付いていなかったが、きっとそれこそが彼女の願いなのだろう。
その願いが叶うまでは死ねないな──そう、剣藤は柔らかく微笑むのだった。
ここで言うのもなんですが、西尾維新先生が出されたシリーズで一番好きなものは伝説シリーズです。
好きなキャラクターも多いので二次創作とかもっと読みたいんですけど、いかんせん知名度がないせいかあんまりないんですよね。
増えろ! 二次創作!