本編終了後の世界。
行為は無いですが、それっぽい表現があります。



1 / 1
滲んだ恋の話 after episode

 

 

 違和感を覚えるほどの距離になって初めて得るものもあるのだろう。

 いつもと違う、と。エレベーターで一緒になった彼女から艶のある匂いを嗅ぎ取った自分自身に得も言われぬ気持ち悪さを覚えた。

 

 

 

 父親の伝手で都内でも有数の高級マンションの一室に住居を構える大学生といえば随分とお気楽な身分のように感じるかもしれないが、実際のところは浪人に浪人を重ねてようやく念願の美大に受かることが出来た程度の人の皮をなんとか被り続けられている肉塊にすぎない身分である。

 その念願の美大にしても、私の代は不作だの可能性を感じないだのと散々な言われようであり、その中でも半分より下に属する私のようなものにとっては欠片も居心地のいいところではなかった。

 それでも挫けずに大学に通えているのは、異質と共にあるべき美大生にしては恥ずかしいほどとても単純でありきたりな理由で、まどろっこしい言い方をせずに言うならすなわち恋であった。

学内の明かりが消え始め、一部を除いた教授陣やほとんどの学生が帰りきったであろう時刻、私自身も制作を途中で切り上げて帰路に向かう途中に通りがかった棟で制作をしていた一人の女性の姿に私の心は奪われた。

 蛍光灯の光を幾億にも魅力的に写し変える金色の長髪。使い込まれて汚れた作業用つなぎ服。土で汚れた両手の一部からわずかに見える陶器のような美しい肌。真剣な眼差しで作品に向かう顔つきはどこか愁いを帯びている。

 ガラス窓越しに見ることがまさしくショーケースに中に居るかのような錯覚を起こさせたのか、まるで製作者自体が芸術品ではないかと思えるほどその人は美しかった。

 

 

 

 

 

 初めて見てからしばらくの間、私にとって大学とは制作の帰りしなにその人のことを見ていくためのものになっていた。

 やがてふとした偶然、というのはあまりにも自分本位な考えでありむしろそういった機会を待ち望んでいたのだが目的の棟を横切るときにその人が帰る準備をしている場面に遭遇したのだ。

 私はその機会を逃すことなしと息巻いて何食わぬ顔で普段は滅多に買わない自動販売機のコーヒーを2本ほど立ち飲みをして時間をつぶしながらそこらに転がっている死んだ同期たちのような、つまるところ如何にも芸大生ですよと言わんばかりの態勢を演じて彼女がくるのを待ち構えていた。

 

 やがて作業着姿とは打って変わった、とても夜に映える美しい服装をした(私には女性の服装について詳しい知識が無いのでこれ以上の表し方がわからないのである)彼女が向こうからやってくるのに対して何食わぬ顔で「お疲れ様です」とあいさつをしてみせたのだ。

 馴れ馴れしいと思われしないか、顔はにやけてなかっただろうかなどと焦る心は頑として表に出さないように気を付けたまま相手の反応を待っていると、彼女は慣れていないのか困惑した顔で「アリガトウ」と片言の日本語で返事を返してくれた。

 そのようにして彼女が海外からの留学生かなにかなのだと、初めて私の中で彼女についての詳しい情報が刻まれたのだ。

 

 それから私はゆっくりと彼女に話しかけた。いつも遅くまで残ってますねとか、どんな作品を作っているんですかとか。そうするとどうだろうか、どうやら彼女の方も私のことには気づいていたらしい。いつも大体同じ時間に帰っていくから覚えていたのだと。

 こんなにうれしいことがあるだろうか、専攻科目が違うため共通の話題は少なかったが、私にとってはとても大きな前進だった。

 

 

 

 フランチェスカ。と名乗ったその人は家に帰ってやることがあるらしく、途中までという体で一緒に帰ることにした。

 下手くそな世間話にも落ち着いて返事をしてくれる彼女の髪が夜風に揺れるたびに鼻腔をくすぐる油と土の残り香がとても特別に感じた。

 

 

 しかし、どうにもおかしなことに一向に離れる気配が無い。まるでこれでは私がストーカーのようではないかとあらぬ勘ぐり(おおよその意味では間違っていないのだが)をされてしまう危険を感じて住居を聞いてみると、これまた驚いたことに同じマンションであることが判明した。

 

 運命というのは私はそれほど信じておらず、というのもそれを信じてしまえば私に力が足りなかっただけの浪人時代を無意味に肯定してしまうようで愚かながらも真面目でいたい苔むしたプライドがそうさせるのだが、この時ばかりは流石の私もそういうものを感じざるを得なかった。

 

 驚いた表情を浮かべていたが、それでも彼女としては大学の知り合いというのを求め始めていた時期だったらしく、そうして私は晴れてフランチェスカさんとお近づきになれたわけである。

 

 

 

 それからの大学生活は実に晴れやかなものだった。制作への熱も入り、それほど長いするつもりもないのにいつもより長く学校に入り浸り、タイミングが合えば(もちろんとして一切の下心が無いとは言えず、狙ってその時間に合わせていたのだが)フランチェスカさんと一緒にマンションへと帰る。やがては大学以外の近くの店で出会ったときでも挨拶をするような、そんな素晴らしい関係を築けていた、そんなある日のことだった。

 

 

 

 

 朝、大学に向かうエレベーターの中で一緒になったフランチェスカさんから柔らかなシャンプーの香りを嗅ぎ取った。

 それだけならば何もない、大して気にも留めなかっただろう。事実それからしばらくの間私は何一つとしてそのことに疑問を覚えず、いずれ忘れてしまうだろうことになるはずだった。

 

 

 

 大学の講義室でのことだ。一限などという存在に殺意を覚える概念講義に出席する、いつにもまして死屍累々の面々に混じり、私としても出席だけしておいて後方の席で眠気覚ましのクロッキングに勤しもうと考えていたときのことだ。

 

 

 近くの席でささやくように話している女子学生の会話が耳に入ってきた。

 

 

 

 「今日めっちゃシャンプーの匂いしない?泊まったの?」「ちがうよ、うちに来たの」「えー、何時まで」「3時だったからほとんど寝てなくてさー」「うっわ最悪、えってかこれ取ってなかったっけ」「起こしたけど起きなかったからほったらかしにして出てきた」「それうける」

 

 

 

 凪いていた心に突如として生まれた波紋。鎮めるために無心に鉛筆を走らせるも一度認識したものを消し去ることなどできようもない。

 

 それは言われてみれば当たり前のことだった。あれほど美しい人がどうしてそうでないと思えていたのか。今となってはさっぱりといってわからない。

 

 幾度となく感じていた良く知っている油と土の混じった香りが、今朝の甘い匂いにかき消されていく。

 

 近くの女子生徒の声も、教授の声も、何一つ耳を通らない。

 

 

 春風のような彼女の声色を思い返し、それが砂糖菓子のような嬌声に変わってゆくのを妄想する。触れたこともない彼女の柔肌の感触を思い描き、それの上に覆いかぶさる黒い人影を幻視して眼球の奥が鬱血するのを感じて目をつむる。夜風になびく整えられた金色の長髪がくしゃくしゃになってシーツの上に広がる様が瞼の裏に映る。愁いを帯びた表情ではなく、だらしなく口を開けて汗ばんだ紅潮した顔つきに変貌するのだろうか。

 

 そんなことばかりが思い浮かんでは消え、また思い浮かぶ。そしてなさけないことに身体は正直でそうした頭の中の彼女を思うたびに下腹部に熱を感じてしまっていた。

 

 

 

 同じ日の夜。私はとてもじゃないが学校に残って制作に取り込む気にはなれなかった。いや、もっと正確にいうならばフランチェスカさんの顔を邪な気持ち無しで見る自信がなかったのだ。疼く胸を押さえ、彼女がいるであろう棟の方に一瞥もくれずに私は足早に大学を去った。

 いつもよりも随分と早い時間帯、普段と比べて温かいはずの帰り道だというのに、家までの道が寒々としていたのを覚えている。

 

 

 家に帰ってもなお胸の疼きはとどまることを知らない。否、道すがらに見るものすべてに彼女との思い出がちらつき、むしろ痛みは増すばかりだった。

 味気ない食事を済ませ、一人ぼっちの部屋がいつもより格段に広く思えて恐ろしくなり、部屋の電気を消す。

 

 

 その暗闇の中で、あの人のあられもない姿をけして自分には見せることがないだろう姿を妄想し、熱を求める。

 

 

 滲む花弁に滴る雫の意味を考え、しなやかな首筋から生まれる鼓動を模索する。瑞々しさ溢れる吐息と漏れ出る音の甘さに酔いしれ、シーツに広がる乱れた髪の先は細やかに揺れ動き、きめ細やかな白い肌はなにのとわからぬ体液によって必要以上に汗ばんでいるのだろうか、と。

 届くはずもないものに手を伸ばした末路としては、ごくありきたりだが、それでも無性に侘しさを感じざるを得なかった。

 

 

 

 それからしばらくの間、私は以前のように遅くまで大学に残ることはしなくなった。たったそれだけのことでかと笑われるかもしれないが、幸いなこと(怪我の功名と自分で言うのはあまりにも滑稽だろうか)に大学内でしか出来ない課題はあらかた終わっており、細々とした作業であれば家の中でも十分に進められるのであった。

 だが、どうやらそういう状況に置かれているのは私だけではなかったらしい。

 

 

 

 ある日、「オツカレサマデス」と柔らかな表情で話しかけてきたフランチェスカさんに私は随分と驚かされた。

 ぎこちない返事をしたあと、何か話さなければと口に出した相変わらず下手くそな世間話にも彼女は優しく乗ってくれていたのだが、それとは関係なしに脳裏にフラッシュバックする妄想上の彼女の姿を思い出してあらぬ方向に暴走した私の口から突然飛び出した「フランチェスカさんって付き合っている人とかいるんですか」という幻想の終わりを告げる言葉だった。

 

 

 私の言葉を聞いて彼女は驚いた表情をし、その意味を探るのにあぐねいているようだったが、少し恥ずかし気に下を向いた後、あどけない顔で「ソウデス」と言った。

 その表情を見た私はまるで糸の切れた操り人形の気分だった。それでも、なお話を続けたのは偏に全てを知る機会を逃したくないという、ある種やっかみに似た自傷行為だったろう。

 

 ゆっくりと、彼女のペースに合わせて話を続けていくうちに、彼女の恋人についての情報がまとまっていく。

 以前やっていた趣味を通して知り合ったとか、最初は最悪の印象だったが、それとは別に好印象も持っていたとか、真正面からぶつかったことが何度もあったとか、自分より年下なのに優しく包んでくれるところがあるとか、家族ぐるみで仲がいいとか。大学に仲の良い人を作ると良いと彼が言っていて、それで勇気をもらえて私に声をかけたのだとか。

 

 

 嬉しそうに話す彼女のことを見ていると、自然と荒んだ心が鎮まっていく。そうか、私と出会う前から彼女はもう十分に幸せだったのだと、愁いを帯びた表情も、私がそういう風に見たかったからそう見えていただけで、今のこの表情こそが本当の彼女なんだと。まだ少し賑やかさの残る帰り道で、私はそれを理解した。

 

 

 

 

 

 

 フランチェスカさんと久しぶりに帰った翌日の朝。昨日のことで今までの悶々が吹っ切れた私は、休みの日だが、課題ではない制作のために大学に向かおうとマンションのエレベーターに乗ったのだが、そうして乗ったエレベーターがある階で止まった。そこはあの人の部屋がある階だ。もしやと思って身体を強張らせていると、想像は外れて一人の青年が乗り込んできた。

 これといった特徴があるわけでもないが、幼さを残した、けれども凛々しさも感じる不思議な顔つきの青年だ。

 二人きりのエレベーター。気付くべきか気づかぬべきか、いいや。わかっている。エレベーターに広がるこの香りは以前にあの人から漂ってきたものと同じシャンプーの香りだ。

 

 

 

 ロビーに付くと青年は急いで飛び出し、手を振って待ち合わせをしている誰かの元へと寄っていく。

 

 

 

 

 ああ、あの笑顔を私は見たことがない。昨日で十分あの人のことをわかった気でいるが、それこそ彼女に失礼な勘違いというものだったらしい。

 朝日にも負けないあの眩しい笑顔はきっと、誰でもないあの青年にしか見せることのない笑顔なのだろう。

 

 

 

 

 こちらに気付いてお辞儀をする彼女とその彼氏に応えるように挨拶をし、私は大学へ向かった。

 



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。