スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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それ、旅は果て、峯は尽きて、
 障礙(しょうげ)()れぬ、
唯、すゑの誉の(むくい)えむとせば、
 なほひと戦。

For the journey is done and the summit attained,
 And the barriers fall,
Though a battle's to fightere the guerdon be gained,
 The reward of it all.
  ロバート・ブラウニング「瞻望」より(訳文・上田敏「海潮音」)


偃曝(ひなたぼこり)に微睡む。」-1

 夜明けを迎えたヤーナムに、生きたものの姿はなかった。

 

 道端に転がるのは干乾(ひから)び崩れた、何とも知れぬ亡骸(なきがら)ばかりであった。(うじ)も湧かぬほどに古びた(うつ)ろな眼窩(がんか)は、ただ青空を見上げている。

 

 それ以外に、あの狂った夜の痕跡はなかった。正気を失い異形と化した市民や医療者の姿はなく、建物にへばりつく人ならぬ上位者は見えず、風に混じる赤子の泣き声は聞こえることがない。

 

 まるで、すべては悪い夢だったかのように。

 

 あなたは街をただ彷徨(さまよ)う。

 雲一つない空を渡る太陽は高さを増し、陰を短く、そして濃く深めていく。風は()ぎ、乾いた死臭が(まと)わりついて離れない。窓ガラスは割れ、棺は朽ち崩れて散乱している。ガス(とう)は半ばで折れ、空の乳母車(うばぐるま)(つぶ)していた。

 そのどこにも、生命の姿はない。

 

 日の差さない暗い路地であなたは足を止め、手の中に先触れの精霊を呼び出した。

 先触れの精霊はあなたを見上げ、そして周囲を見渡して、困惑するように触角を揺らめかせた。親指の付け根に頭をすり寄せる先触れの精霊の額を、()びの意を込めて指先で()でる。

 

 ついでにと、湖畔の学舎で拾った半透明のナメクジたちも呼び出す。

 先触れの精霊よりも小ぶりなナメクジたちは、我関せずと手のひらを()い、丸まり、先触れの精霊の背に登り始める。嫌がるように身じろぎした先触れの精霊の背中からつまみ上げると、精霊はあなたに向けて触角を下げた。

 たとえ人ならぬ者に連なる存在だとしても、この冷たく小さな軟体生物たちだけが、あなたが悪夢から連れ出せた命だった。

 

 あなたが助けられたのはそれだけだ。

 他に救えた者などいない。

 

 先触れの精霊たちを夢に戻し、そうして辿(たど)()いた陰に沈む教会も、しんと静まり返っていた。

 

 

 ああ、そもそも皆、死んでしまったのだったか。

 

 

 誰もいない教会で、あなたはそんなことを考える。

 偏屈な老人は身を(やつ)した男に喰い殺され、娼婦は血の聖女に刺殺された。赤衣(あかぎぬ)の盲人の悲痛な声は、あなたの頭蓋の裏に刻み込まれていた。

 

 

 ――俺はただ、たださあ……誰かの役に立ってみたかったんだよ……

 ――でも、それがいけなかったんだろうなあ……

 ――母さんからも、みんなからも、ずうっと言われていたのに……

 ――なんで、勘違いしちまったんだ……

 

 

 その彼の姿も、どこにもない。血の聖女を返り討ちにした後はオドン教会に寄り付くこともなかったため、あなたは彼がどのような末路を辿(たど)ったのかを知らない。ただ、彼が(うずくま)っていた場所に、かすれた染みが残るばかりだ。

 よろめきながら、あなたは教会を後にする。

 

 禁域の森へと歩く足が、ふと大橋の上にある広場へと向いた。階段を降り、骨壷の立ち並ぶ小部屋を抜けて、扉の前に立つ。

 あなたは息を吐き、扉を全力で蹴りつけた。

 音を立てて呆気(あっけ)なくへし折れた扉に、あなたは笑いを漏らす。かつて鍵が掛かっているからと通行を諦めたのは、一体何だったのかと。

 

 そうして大橋の上へと出る。欄干から見下ろす街並みは、乾いた静寂に覆われていた。

 

 あるいは、狂気に満たされた悪夢の街の方が、よほど現実味があったとさえ言えるのかも知れない。

 あの街には吐き気を催すほどの死と、それを喰らいながら腐り果ててなお(うごめ)く生の気配が混沌と渦巻いていた。

 だが日々の営みの痕跡もまた、あちこちに刻まれていたのだ。それは道端に転がる薄汚れた酒瓶であり、石畳の目地に入り込んだ汚物の跡であり、獣狩りの群衆が叫ぶ罵倒であった。下劣で粗雑、手垢(てあか)に塗れているがゆえに、日常を推察するには充分すぎるものだ。

 

 しかしこの真昼の街はどうか。動くものはあなたと陰のほかになく、聞こえるものはあなた自身の息と鼓動、そして静寂の中で浮き彫りになった(ひそ)やかな女の(ささや)きばかりである。

 亡骸も、乱立する冒涜(ぼうとく)的な石像群も、建造物も、ここに確かに生きていたはずの人々の記憶でさえ。あらゆるものは等しく風化して、(ちり)へ、灰へ、そして土へと(かえ)るさなかにある。

 調和があるというなら、まったくその通りなのだろう。

 この街において、(いま)だ息をするあなたは確かによそ者であり、異物であった。

 

 渡り終えた大橋の先を(ふさ)ぐ朽ちた馬車に、あなたは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、(さや)を伴った聖剣を叩き込んだ。

 音のない街に場違いな破壊音がつんざめいた。返ってきた残響が消えるだけの間も置かず、再度、破砕音が響く。

 瓦礫(がれき)と化した馬車を踏み越え、あなたは橋の先にある隧道(すいどう)をくぐった。やけに長く感じるその出口を(くぐ)()けた瞬間、稜威(みいづ)の風があなたを打つ。まるで出てきたものを廃虚に戻さんとするかのような勢いに、足はその場に縫い留められた。

 

 やがて、風が()んだ。

 

 顔をかばっていた腕を下ろし、あなたは目を開く。

 

 まず目に入ったのは、荒れた石畳を覆う雑草である。風の名残に揺れる若草の先には、名も分からぬ羽虫が留まり、透明な(はね)を緩やかに羽ばたかせている。別の草では天道虫が緩慢に昇り、低い羽音を立てながら、どこへともなく飛んでいった。

 甲高く透った鳴き声に、弾かれるように空を見上げた。何とも知れぬ朧気(おぼろげ)な鳥の影が二つ、遠くの空を渡っていく。

 

 呆気に取られて、あなたはただ空を見た。

 

 濃密な草の香と、土ぼこりの匂い。精気に満ちた風の色。春の澄んだ空気があなたを包み、ゆえに肺腑(はいふ)にこびり付いた死臭を否応(いやおう)なしに感じさせる。

 当たり前を謳歌(おうか)する命の姿が、そこにはあった。

 

 あなたはその中に足を踏み出した。一歩目は躊躇(ためら)いがちに。二歩目からは淡々と。振り返ることは決してなかった。

 湖のほとり、谷の斜面にそびえるヤーナムの尖塔(せんとう)群は、ただ(たたず)んでいる。

 

 

 病んだ古都は、死んでいた。

 死してなお、人を(むさぼ)り喰らう飢えた口は止まることがない。

 

 

 

 

 

 あてどなく、足を進める。

 日は落ち、夜が来て、また日が昇る。それが繰り返されるうちに、草原はいつしか(まば)らな林へと変わる。

 

 あの診療所で目覚めてから、あなたは跳ねた返り血や汚泥、得体の知れぬ薬剤のほかは何も口にしていない。

 息をするだけで喉が痛んだ。唇の端は乾燥によって裂け、塞がり、そのうちにまた裂ける。口内に広がる血は甘くねばついて、喉の渇きを否応なしに自覚させた。

 倒れそうになるたび、太腿(ふともも)に輸血液を打ち込んで無理矢理意識を覚醒させた。酩酊にも似た生きる実感が全身を駆け巡る。しかしそれは足をどす黒く染める内出血を癒しはすれど、消耗した体力を回復させることはない。樽の穴を塞いだところで、(こぼ)れた水は戻らないように。

 

 体はとうに限界を迎えている。

 それでもなお、あなたは足を止めない。

 

 鼓動に合わせて視界が明滅する。それを晴らすために、手の中に注射器を呼び出す。しっかりと握り締め、しかし打ち付けられた太腿に針の突き刺さる痛みはなかった。

 耳鳴りの中に、何かが草に落ちる音が聞こえた。

 瞬間、集中が途切れた。かつてであれば致命的な、しかし悪夢から覚めた今なら大したことのないはずの、その一瞬。

 足がもつれ、転ぶ。起き上がるためについた腕は震えて崩れた。

 襟の隙間から、黒い狩人証が落ちる。それを握り締め、歯を食いしばり、あなたはなお、進もうと足掻く。

 

 悪夢に目覚めて名前以外の記憶を失い、守りたいと思った者のほとんどを(うしな)い、残ったものは悪夢の中で藻掻いた記憶と、変質し人の枠から逸脱し始めた肉体のみだ。

 このまますべては無意味だったのだと諦めてしまえば楽になれる。正気をも失い、泥黎(ないり)に堕ちてしまえば、もう、苦しいと感じることはないというのに。

 

「ぅ、ざ……げ、ァ」

 

 

 認めるものか。

 それは、己にとって、最も無様な敗北に他ならない。

 たとえ死が、(まなこ)を塞ぎ這いずって来いと命令したとしても、なぜそんなものに従わねばならぬというのか。

 たとえこの天の下に生きる誰もが、己の生存を望まないとしても、それに膝を屈さねばならぬ道理がどこにあるのか。

 ここで折れてしまえば、もう二度と、歩くことができなくなると分かっているがゆえに。

 

 

 しかし、どれほど気力を燃やそうと、あなたの肉体は、その意志に応えるだけの力を使い果たしてしまった。

 視界は(にじ)み、ぼやけ、薄暗がりに転げ落ちていく。それに抗うことは、もうできなかった。

 

 暗転する直前、(かす)む瞳は、真昼の月のような白と、夕暮れのような黄金色を捉えた。

 

 


 

 

 廊下の奥から駆けてきたアレクシスに、あなたは立ち止まって目を瞬かせた。

 

 アレクシスはあなたの姿を認めると、一目散に背中に隠れる。そうして恐る恐る、来た方へと顔を覗かせた。

 視線を奥へと向ければ、廊下の角に隠れて黒猫のティアが金色の目でこちらを睨みつけていた。耳をいからせ、見えるように角から伸ばした尻尾をしきりに床に叩きつけているさまは、あなたにも間違いなく不機嫌だと分かる。

 

 再度、あなたはアレクシスに瞳を向けた。

 一見して、淡い金の燐光で形作られた、十にも満たない子供にも似た姿である。風に揺らぐ雲のように定まらない輪郭の中で、手首から先は明確な形を持ち、小さな爪や関節の(しわ)まで生々しく見て取れた。

 頭部もまた、目元以外は茫洋(ぼうよう)としている。曖昧な金の光から細かな表情を読み取ることは、他者の機微に(うと)いあなたには不可能に近い。顔の中で唯一はっきりとしている、無機質な青い光に覆われた目元の様子、あるいは子供らしい所作によって、大まかな機嫌が把握できる程度である。

 ただ、今は間違いなく、ティアに対して怯えている。

 

「どうした」

 

 問い掛けてから、あなたは自省した。

 アレクシスは話せない。意思のやり取りは(もっぱ)ら筆談であり、これほど単純な質問であっても、返答には時間と手間を掛けさせることになる。尋ねるならば、是か非で答えられるようにすべきだった、と。

 

「いつもの喧嘩か」

 

 喧嘩というには一方的に過ぎるが、日常的な語彙が不足しているあなたの認識はその程度である。

 

 アレクシスは勢いよく首を振った。その動きに合わせて、頭上の先触れの精霊の触角も揺れる。間違いなく、原因はこれと見ていいだろう。どういうわけか黒猫のティアは、先触れの精霊を嫌っているのだから。

 

「……全く」

 

 頭の上から先触れの精霊をつまみ上げると、アレクシスは慌てたように手を伸ばしてくる。彼我(ひが)の身長差のせいで手が届かない高さだというのに、その場で跳ねてまで先触れの精霊を取り返そうとする。ティアが不機嫌そうな声で鳴いても、肩を震わせるだけで諦めようとはしない。元々アレクシスは先触れの精霊を構いたがっていたが、最近はその頻度が妙に上がっていた。

 

 状況の打開策として一番手っ取り早い手段は、原因である先触れの精霊を夢に戻してしまうことである。だがあなたは、可能な限りはアレクシスの好きにさせてやりたいと考えている。

 

 あなたは先触れの精霊を見つめた。困ったように触角を揺らす姿にため息をついて、伸ばされた手に先触れの精霊を渡した。

 小さな金の手に戻された先触れの精霊は、親指の付け根に頭をすり寄せる。アレクシスもまた先触れの精霊を胸に抱き、虹彩(こうさい)のない目を細めた。

 一方、ティアの尾は音を立てるほどの強さで床を叩いている。とても気に食わないということは、あなたにもはっきりと理解できた。

 背中にアレクシスたちを(かば)い、ティアから目を逸らさぬまま声を掛けた。

 

「ティアは私が見ておく。行くといい」

 

 しかし、アレクシスはあなたとティアを交互に見るばかりである。先触れの精霊をまた頭の上に戻し、あなたの手を取ると、ティアに怯えながら人差し指で字を書いた。

 

 

 “だいじょうぶ? この前みたいに、ティアにいじめられない?”

 

 

「……、…………」

 

 先の雨の日、ティアに完封された時のことを言っているのだろう。先触れの精霊をポケットに入れたまま洗濯に出した時ほどではないにせよ、あれはあなたにとってほろ苦い記憶であった。

 

 不安げに下がった目尻から、アレクシスは純粋に心配しているのだと分かる。しかし、あなたにも年長者としての矜持(きょうじ)がある。確かに猫は愛らしくも恐るべき脅威ではあるが、いじめられないかと幼い子供に心配されるのは、脇腹を指先でそっとつつかれているような気分になるのだ。

 

 あなたは少しだけ肩を落としながら、乾燥させたキャットニップを夢から引き出した。瞬間、ティアの耳と尻尾がピンと立つ。左右にゆっくりと振れば、つられるように目と耳も動いた。

 

「聞いた通りか」

 

 真正面に向けて放れば、完全に視線は釘付けである。

 

 しばらくの逡巡(しゅんじゅん)の後。

 

 一声鳴き、もう辛抱できないというように飛びついた。前足で抱え込み、ごろごろと喉を鳴らしながら顔をすりつける様は、先ほどまでの不機嫌さが嘘のようであった。

 

 ティアはキャットニップが好きなので、もし困った時は渡してみるといい。たいていの場合は許してくれる。

 

 ユーリヤから得た助言は、非常に有益なものであったと言えよう。

 

「これで問題ないだろう」

 

 アレクシスはほっと胸をなで下ろし、礼の代わりにあなたの手を軽く握る。頭上の先触れの精霊も、あなたに向かって触角を下げた。

 

 鼻から息を深く吐き、あなたは廊下を駆けていく黄金色の背中を見送った。

 

 あなたは自身を無口な質であると思っている。だが、自分の考えを声に出して伝えられることと、アレクシスのように声を出せないことの差は埋めがたいのだという事実もまた実感していた。

 人であれば表情に出るだろうが、アレクシスは人ならぬ神秘の側の存在である。あなたでもかろうじて読み取れるのは、アレクシス自身の情緒が豊かだからだ。もしこの子が人間であれば、ころころと表情を目まぐるしく変えるような、子供らしい子供だったのだろう。

 

 ティアがキャットニップに夢中になっていることを確かめ――初めて触れることのできた(つや)やかな黒い毛並みは、手を離すのに強い意志が必要なほど蠱惑的(こわくてき)であった――あなたはその場を後にする。階段を下りながら、考えるのはアレクシスのことであった。

 

 ヤーナムで狩った獣や人ならぬ者に比べれば、アレクシスの姿は人間に近い。

 ゆえに、この寄宿学校の中にあれば、その異様さは浮き彫りになる。

 

 どこを見ているとも知れぬ、虹彩のない虚ろな眼球。目元を覆う紺青の光は、その代わりに視線のようなものを投げかけてくる。光の粒を零し続ける胸は呼吸を見て取れず、足はまるで棒のように痩せ衰えている。その体は触れれば確かに感触こそあるが、温かくも冷たくもない、空虚な塊としか言い表せない。

 何より、寄宿学校に暮らす他の子供たちが、その丸みを帯びた頬に持ち合わせている柔らかな幸せを、アレクシスだけは備えていない。あの子が常にどこか緊張しているという気付きは、人ならぬ智恵によって(ひら)かれた脳髄がもたらした根拠のない、それゆえに無視できない直感であった。

 

 

 だからこそ、せめて見える己が気にかけ、そしてほかの子供たちとの橋渡しとならねばならない。当人が気にせずに親しくしようとしてくれている以上、それこそが、かつて刃を突きつけて恫喝(どうかつ)したことへの(あがな)いとなる。

 

 

 あなたはそう考えている。そう考えているからこそ、アレクシスとティアが仲違いをしている原因が、あなたがヤーナムから連れ出した先触れの精霊であることに頭を悩ませていた。

 

 そもそもである。先触れの精霊は、あなたにとってはヤーナムで救えた数少ない命であるが、その思い入れがない他の者にとってはただのナメクジである。

 ビルゲンワースの見えた神秘の名残であり、見捨てられた上位者エーブリエタースをイズの深奥より召喚する触媒であるが、かの上位者に見えたこともなく、素質が足りないあなたからしても、少し不思議なナメクジである。

 湖畔の学舎で回収した小さいナメクジたちとは違い、外界に対して明確な関心と興味を示し、その行動からは親愛と高い知能を感じるとはいえ、ナメクジである。

 そのナメクジに、何故アレクシスがここまで執着するのか、そして何故ティアがあそこまで敵視するのか、あなたには理解できなかった。

 

 できる限りアレクシスの味方でありたいあなたとしては、何とかティアには怒りを収めてもらいたいところではあるが、その原因が何なのかさえ見当がつかない。朴念仁のあなたには猫の機微を読み取ることは難易度が高く、それ以前にあなたに対するティアの態度は素っ気ない。

 

 それに、とあなたは階段の横にある倉庫の扉を見つめた。ほかにも色々と問題を抱えている身である。立ち向かわねばならない事柄の多様さと多難さに、再度ため息を吐いた時であった。

 

 背後から聞こえた息の音に、あなたは足を止めて振り返る。かかとにぶつけられた革のボールを拾い上げ、転がしてきた相手の名を呼んだ。

 

「ダニー」

 

 ダニーはあなたの元へ小走りに近寄り、腰を下ろして見上げてくる。かつてヤーナムであなたの喉笛を喰い千切った狂犬どもとは違い、その目には穏やかな親愛の情があった。頭を撫でながら膝をついて視線を合わせると、嬉しそうに鼻を鳴らし、尾を振った。

 

 ティアとは違い、ダニーはあなたに懐いてくれている。最初の頃はアレクシスと揃ってあなたを遠巻きに眺めていたが、アレクシスと和解してからは、同じように親しくしてくれていた。ダニーとのボール遊びは、大型の狩猟犬である彼が満足するまで付き合える体力を持つあなたにとっての日課でもあった。

 

 しかし、とあなたは片手に抱えていたボールを床に置いた。

 ボール遊びをするのはいつも午後になってからだ。それにせがむ時は、常ならば足元を何度も回る。何か別の用事があるのだろうが、付き合いの浅いあなたにはその真意を測ることはできない。

 

「どうした。まだ遊ぶには時間が早いだろう」

 

 たとえ血に狂っておらずとも、獣に言葉が通じるはずもない。あなたの問い掛けに、やはりダニーは小首を(かし)げるばかりであった。

 

 あなたは自身の行動を内心で自嘲しながら、ダニーの首回りや耳の後ろを撫でる。毎日ブラシで適切に()かれている毛並みは健康的で、手触りも良い。ダニーの反応を見ながら撫でるうちに、思考は先触れの精霊のことへと戻る。

 

 ダニーは、先触れの精霊を嫌がらない。と、いうよりも、あまり興味がないのだろう。一度真剣な顔で臭いを嗅いだ後は、特に反応を示していない。この寄宿学校で先触れの精霊を敵視するのはティアのみなのである。

 

「……ティアはどうして、先触れを嫌うのだろうな」

 

 独り言を呟いた途端、ダニーの片耳が動いた。丸い目があなたを見つめ、(まばた)きをする。

 鼻を鳴らし、ダニーはあなたのズボンから垂れ下がったサスペンダーを(くわ)えた。困惑するあなたをよそに、何度も引っ張る。どうやら、どこか連れていきたい場所があるようだった。

 

「ダニー、何を……」

 

 あなたは引かれるままに歩き出す。たどり着いたのは第一教室であった。ノートに何事かを書きつけていたニルスが、振り向いて小首をかしげた。

 

「あれ。ハンターさん、どうしたの?」

 

 あなたはダニーの脇を抱え上げて見せた。よだれでべとべとに汚れたサスペンダーを、あとで夢に片づけておこうと心に決めながら。

 

「ダニーに引っ張られたんだ。邪魔をしたか」

 

 ニルスがロージャの足を治すために調べ物をしていることは、あなたも知っている。専門書を読み解くのに知恵を貸したことも度々ある。彼の邪魔をするのは(はばか)られたが、しかしニルスは首を振った。

 

「いいや、大丈夫。ダニー、どうしたんだい?」

 

 床に下ろされたダニーはニルスを見て、それからあなたの顔をじっと見上げる。まるで促すように尾を振るが、あなたにその真意は分からない。

 

「? ハンターさん、ダニーとなにかあったの?」

「いや……」

 

 何でもないと返答しようとして、あなたは思いとどまった。

 ダニーは、あなたの言葉に反応した、ように見えた。

 獣が人の言葉を解するはずもない。それはあなたがヤーナムで得た知見の一つである。通じるのであれば、あなたが獣に成り果てた恩人を手に掛けることはなかっただろう。

 だが仮に、ダニーがあなたの独り言を解したとすれば。

 

 

 ――なにか困ったことがあれば、誰かに相談してみて。きっとみんな、力を貸してくれるわ。

 

 

 ユーリヤの柔らかな声が脳裏を(よぎ)る。そしてその言葉の通り、あなたはこの寄宿学校に来てから、幾度となく皆に助けられてきた。ダニーも同じように、あなたを助けようとしてくれたのだろうか。見つめれば、ダニーは勢いよく鼻を鳴らした。

 

 助力を乞うことに抵抗がないと言えば嘘になるだろう。幼さの残る子供たちに助けられるたび、罪悪感と羞恥はあなたを(さいな)んでいる。だがそれに足を止めるなどということもまた、あなたにとって恥ずべき行為であるのだ。

 何よりも、これはあなただけの問題ではなく、今はもう、あなたは独りではないのだから。

 

 あなたは静かに息を吐き、口を開く。

 

「悩んでいることがある。相談する時間はあるか」

「うん、大丈夫。僕にできることなら力になりたいしね」

「実は……」

 

 これまでのことを()()まんで説明すると、ニルスは不思議そうな顔をした。

 

「この前のはそういうことだったんだね。けんかというよりは、ティアが一方的に怒ってるだけみたいに思えるけど……でもアレクシスも全然譲らないんだね。なんだか珍しいな」

 

 ニルスはあごに手を当て、しばらく考え込んだ。やがて困ったように眉尻を下げたまま首を横に振った。

 

「ごめん、ハンターさん。僕では力になれない。けんかなんてしたことないし、ほかのみんながしてるところを見た覚えもないんだ」

 

 あなたは頷いた。たとえ譲れないことがあっても、ここの子供たちの気性であれば、冷静に話し合いで折り合いをつけるだろう。

 

 悩んでいたニルスの顔が、ふっと上がる。

 

「ああ、でも、ダニーが寝てるティアをまくらにして、怒られてるのはよく見かけるな。あれはけんかになるのかな?」

「枕にする? あのティアをか」

 

 思わずダニーを見ると、きょとんとした顔で見つめ返された。よく見かける、ということは、何度怒られても懲りていないらしい。穏やかな紳士に見えて、図太いところもあるようだ。

 

 その時のことを思い出したのか、ニルスはくすくすと笑う。

 

「ダニーはね、ティアのことが大好きなんだ。だから、とにかく構ってもらいたがるのさ。ティアがなにもしないと、逆に落ち込むくらいで……あ」

 

 何事かを思いついたのか、ニルスは顔を上げた。

 

「もしかしたら、すねてるのかな」

「すねる」

 

 反復し、あなたは目を瞬いた。ニルスは頷き、これは僕の想像だけど、と前置きする。

 

「ハンターさんにアレクシスのことを教えてもらう前から、ティアはなにもないところをじっと見てることがあったんだ。もしかしたら、元々アレクシスが見えてたのかもしれない」

 

 それにはあなたも心当たりがあった。

 あなた以外の皆にとって、アレクシスは姿も見えず話もできない、幽霊のような存在である。なんとなくいるのは分かるというが、その感覚も個人差が大きいらしく、ユーリヤや校長は視界にいればすぐに気付けるのに対し、ほかの子供たちは見失うことがたびたびあるという。

 しかし一方で、ティアだけはアレクシスの顔にはっきりと焦点を合わせている。そう伝えると、ニルスはやっぱり、と頷いた。

 

「でも最近、アレクシスはなめくじさんと一緒にいることが多いよね。ティアからすると、友達を取られてしまった気分なのかもしれない。怒ってるのはなめくじさんがアレクシスと一緒にいる時だけで、アレクシスやなめくじさんがひとりの時は大丈夫なんだろう?」

「ああ」

 

 嫌っているのは確かだが、医務室の窓辺や裏庭で日光浴をする先触れの精霊に対して、ティアが喧嘩を売りに来たことは一度もない。アレクシスにしても、夜はティアやダニーと共に過ごしているという。

 

「寂しい時、ダニーは落ち込むけど、ティアは気が強いから、落ち込まずにすねてるのかもしれない。それで、アレクシスがなめくじさんと一緒にいるところを見るたびに、怒ってるのかも」

「なるほど……」

 

 何故ティアは怒っているのか。その手掛かりが掴めたのは大きな一歩である。

 

「礼を言わせてくれ。参考になった」

 

 ニルスは安堵したように息を吐き、微笑む。

 

「調べ物を手伝ってもらってるぶん、役に立てたならうれしいよ。ほかのみんなにも尋ねてみて。別の意見も聞けると思う。それに、なるべくなら仲良くしてほしいって思うのは、僕も同じだからね」

 

 教室を出、サスペンダーを外して夢に片付けながら、あなたはニルスから得た助言を反芻(はんすう)する。

 

「友達を取られた気分になって、すねる、か」

 

 足がふと止まった。隣を歩いていたダニーもまた立ち止まり、あなたを見上げる。

 

「……すねるって何だ?」

 

 そんなことを呟いたあなたに、ダニーが目を丸くして、わふっ、と間の抜けた声で鳴いた。

 

 

 

 

 

「そういうことだったのね。すねるって何だ、なんて突然言うんだもの」

 

 これまでの話を聞き終えたマリーは、笑いながら得心がいったと頷いた。

 

 あなたは午前の仕事を終え、たまたまタイミングの合ったマリーと一緒に休憩を取っていた。玄関の隣にある談話室にティーセットを運び、ゆっくりと一息入れる。血の遺志により変質したあなたの体は、日々の仕事程度では疲労しない。それでも仕事の後の温かな茶は、確かにどこか深い部分を癒していた。

 紅茶をカップに注げば、湯気に乗って落ち着いた香りが広がる。足元ではダニーが船を漕いでいた。この心優しいイングリッシュ・フォックスハウンドは、今日はあなたに付き合うことにしたらしい。

 

「すねるっていうのは、そうね……寂しい気持ちが、心の外側にとがってしまったもの、かしら」

 

 紅茶を一口飲み、マリーは息を吐いた。

 

「寂しさって、自分だけではどうしようもないわ。誰かと他愛もないお(しゃべ)りをしたり、こうやってお茶を一緒に楽しんだりしたいって気持ちを、一人で埋めることはできないでしょう? その誰かが決まった相手なら、なおさらね」

 

 マリーはカップの赤い水面を見つめた。取っ手を支える白い指が、その繊細な縁をなぞる。

 

「どうしようもない気持ちを埋めたくて、それでとにかく自分を見てほしくて、わがままを言って……それで大切な人を困らせてしまって、そんな自分がいっそう嫌になったりね」

「……そうか」

 

 マリーが説明するその感情を、あなたは知らない。

 単純に分類するなら怒りのようではあるが、あなたが自分自身に抱くそれとは根本から異なるように思えた。

 ただそれでも、その原因となる寂しいという気分については、ここでの生活の中で朧気ながら理解が進んだように思える。

 喜びや楽しさを分かち合い、困難は互いに手助けし合うという、ここの子供たちには至極(しごく)当たり前の行為の、その高潔さ。

 そういったものに触れるたび、あなたには思うことがあった。

 

 

 この場に人形がいて、そして子供たちの親愛を受けたならば、人は自分を愛さないと断言していた彼女はどんな反応を示すのだろう。

 あの赤衣の盲人もそうだ。彼からの信頼を考えうる限り最悪の形で裏切った己の言えたことではないが、あのような善き人こそ、幸いを感じるべきであろうに。

 それだけではない。あの終りの見えない悪夢の中で、己の幸いを祈ってくれた人々は確かにいたのだ。死に、殺され、狂い、獣と成り果てた、善き人々が。

 彼らがいたら。彼らと、温かな時間を分かち合えたならば。

 

 

 叶わぬと分かっていてもなお、あなたは考えずにはいられなかった。

 そしてそれが、寂しい、ということなのだろうと。

 

「私も小さいころ、ユーリヤに迷惑を掛けてしまったことがあるのよ。どうして寂しく思ったのか自分でも説明できなくて、それで……あら?」

 

 言葉を切り、マリーは顔を上げる。なぜか、その目には困惑が滲んでいた。

 

「あの頃にはもう学校にも慣れて、ユーリヤだってずっといたのに……どうしてあの時、あんなに寂しいなんて思ってたのかしら?……ううん、今は相談の方に集中しないとね」

 

 すぐに困惑は消え、元の穏やかな表情へと戻る。

 

「とにかく、その時の経験からすると、すねてる時の解決方法なんて、満足するまで構ってあげるくらいしかないと思うの。それならアレクシスが一緒にいてあげれば機嫌も直ると思うけど……アレクシスとなめくじさんが一緒の時だけってことなら、もしかしたらもっと別の理由があるのかもしれない。私もティアがぴりぴりしてたら、気にかけてあげるようにするわ。ほかのみんなにも話しておくわね」

「助かる」

「私こそお礼を言わなくちゃ。アレクシスになにかあっても、私たちじゃ気づけないもの。あの子のこと、気にしてくれてありがとうね。ハンターさん」

 

 その言葉に頷こうとして、聞こえてきた硬質な杖の音に、あなたは心臓にそっと氷を当てられたような錯覚に陥った。

 杖の音はだんだんと近づいてくる。そうして、可愛らしい声が頭上から降ってきた。

 

「あ、マリー。ハンターさんも」

 

 息を詰めたあなたの前で、マリーは顔を上に向けて手を振った。

 

「どうしたの、ロージャ?」

「あのね、アレクシスがどこにいるか、知らない? ユーリヤのお手伝いが終わったら、いっしょにお絵かきする約束してるの」

 

 あなたは小さく息を吐き、二階の廊下を見上げる。その先には、手すりから身を乗り出すロージャの姿があった。赤い髪と、それを結ぶ白いリボンが、廊下を抜ける風に揺れていた。

 

「私はユーリヤともアレクシスとも、朝に会ったきりね。ハンターさんはなにか知ってる?」

 

 あなたは乾いた口から唾を無理矢理飲み下した。

 

「……分からない。見かけたら、声を掛けておく」

「うん分かった。お願いね、ハンターさん」

 

 ロージャは手を振り、手すりから離れる。翻る赤い髪を見送り、杖の音が遠ざかったことを確認してから、マリーは顔に(うれ)いを浮かべてあなたを見つめた。声を潜め、吐息に問いを乗せる。

 

「ハンターさん。私の勘違いならいいのだけど……ロージャと、なにかあったの?」

「何も」

 

 あなたは即答して、(うつむ)いて唇を()んだ。

 

「彼女には何の非もない。私が、ただ……混同している、だけだ」

 

 ロージャが明るく素直な少女だと、あなたも知っている。あの物静かな金髪の少女とは容姿も性格も似ていない、まったくの別人だと理解している。

 

 だが、ある時ふと、彼女の赤い髪と白いリボンが、あの記憶と結び付いた。結び付けて、しまった。

 

 それは今や条件反射のように染み付き、あなたの思考を塗り潰す。そこからどれだけ早く我に返ろうとも、動揺が表に出た事実は覆せない。

 それが彼女を傷つけるのではないかと、意図して接触を減らしていた。足の悪いロージャは、あなたが手伝うような日々の仕事を任されていない。だからこそ、距離を取ることは容易だったのだ。

 そんなことをすれば、ほかの皆がその違和に気付かないはずがないというのに。

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 

 

 己の反応はロージャへの、そしてあの金髪の少女への侮辱に他ならない。ロージャの優しさも心遣いも無視して、別人の幻影を見出しては悔やんでいる。

 過去を変えることなど、出来ようはずもないのに。

 

 

 マリーは眉尻を下げ、そっとあなたに問いかけた。

 

「それは……ロージャと、一対一では話せない?」

 

 頷くよりないあなたに、マリーは言葉を重ねた。

 

「なら、私やほかのみんなが一緒にいる時なら大丈夫?」

 

 あなたは顔を上げた。あなたを見つめるマリーの目は、ただただ真摯(しんし)な色を帯びている。

 

「……どうして」

 

 責めないのか、と続けようとして、あなたは口ごもる。彼女がそういう性格ではないことは、ここでの生活の中ではっきりと理解していたからだ。

 

「大丈夫よ、ハンターさん」

 

 マリーはそっと笑う。見ている者を安心させるような笑顔は、ユーリヤをはじめとして、皆がよくあなたに向けてくれる表情だった。

 

「少しずつでいいの。気持ちに整理をつけて、いつかはロージャ自身のこと、見てあげてちょうだいね。あの子もハンターさんと仲良くしたいって、ずっと思ってるのだから」

 

 その言葉はただただ優しい。あなたならきっとできるという、柔らかな信頼に満ちている。

 あなたは目を伏せた。その期待に応えたいという思いが、(くすぶ)る自身への怒りを鎮静化させていく。しかし同時に、思うことがあった。

 

 

 そう。ここの皆は、あまりに優しい。

 その優しさを受け取る度、勘違いを起こしそうになる。

 ずっと、ここにいられるのではないかなどと、叶うはずもない夢幻を見る。

 

 

 その時、二階の奥からロージャの声が響いて聞こえた。

 

「ティア、どうしたの?……あ。もー、またアレクシスを困らせてるのね? だめよ、アレクシスはこれから私とお絵かきするんだから」

 

 ついで、うにゃー、という不満げな鳴き声。さすがのキャットニップも、何時間も拘束する力はないらしい。

 

 しまった、と右手で顔を覆ったあなたの前で、マリーは困ったように笑っている。

 

 あなたは息を深く吐き、気合いを入れ直して立ち上がる。せめて次は情けないところを見せるまい。足元でうたた寝をしていたダニーもまた起き上がり、あなたの足にぴったりと身を寄せた。

 

「様子を見てくる」

「私も一緒に行くわ。ティアのことは任せて? ユーリヤにはまだまだかなわないけど、私だってティアを撫でるのは得意なんだから」

「頼む」

 

 そう張り切るマリーに向けて、あなたはしっかりと頷いた。

 

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