スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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6/20:修正
6/29:ルビを増やしました

 おまたせしました。
 30,000字を越えてしまったのでさらに分割しました。

 デラシネの登場人物の名前はブラボのキャラクターと対応している場合が多い、というのは有名な話かと思います。本の表紙や本文、手紙の差出人名・宛名など、隠れた場所にある名前もほとんどは対応していたりします。(07/31追記:原作では名前が明らかになっていない登場人物についても、原則それに則って名前を振っています。ロッブの森のおじいさんとか)
 となれば、気になるのは対応する名前のキャラクターがいない登場人物たちのこと。
 そのうちの一人であるマルガレータについては、
 マルガレータ←真珠←細川珠の洗礼名←ガラシャ
 という頭のいかれた連想をしたことがありますが、もっと単純に考えた方がいいのではないか、と最近は思います。
 もしかしたらルイスにとってマルガレータとは、暗い夜道を照らす真珠のごとき月のような、そんな女性だったのかも知れません。
 デラシネ側からすると名前の対応自体はさほど意味のないちょっとしたお遊びでしょうが、そんなことを考えたりします。


「偃曝に微睡む。」-2

 記憶を失い、あの診療所で目覚めてから、あなたは常に夢と共にあった。

 

 

 ――もし誰かに見咎(みとが)められたら手品とでも誤魔化しておけばいい。わざわざばか正直に説明することはないだろうさ。最も、そんな疑問を抱けるようなまともな人間が、このヤーナムに残っているとは思えないけどね……

 ――手品、とは何だ。

 ――……あんた。賢そうに見えて、案外ものを知らないんだね。

 

 

 他の者には使えないのが当たり前であり、使えることの方が異常だとは先達(せんだつ)から教えられていたものの、あなたにその実感はあまりなかった。先達たる烏羽の狩人の言うとおり、疑問を抱くようなまともな人間は、既にヤーナムにはいなかったのだ。

 

 時刻を確認するためにポケットから懐中時計を取り出し、またポケットに戻す。あるいは、掃除のために(ほうき)を手に取り、担当の場所を掃き清めた後に片付ける。あなたにとって夢から物を取り出す異能とは、それらと同じである。

 目蓋を下ろせばほの暗いその裏に、網膜に刻まれた逆さ吊りのルーンが浮かび上がる。暗い場所で強く思う時ばかりは集中が必要となるものの、普段は意識するようなものではない。目覚めた時から聞こえていた、道具類の使い方やその性質を教え、時に指示を告げる(ひそ)やかな女の(ささや)きと同じように。

 診療所で罹患者(りかんしゃ)の獣に生きたまま貪られ、そして狩人の夢にて目覚めた時の、あの全身の血液が冷え切ってしまったかのような衝撃を忘れられなどしない。だが繰り返される死と目覚めは、いつしかそれを陳腐でありきたりなものに代えた。死を夢に()りなかったことにする異能もまた、常にあなたの靴底の下をついて回っていた。

 

 どれも、なんら疑念を抱く対象ではなかったのである。

 あの雨の夜。ゲールマンからの介錯を受け、夢から解放されたはずの今でも使える異常さに気付くまでは。

 

 あなたは動転し、そして身を案じて手を握ってくれたあの子と皆のために覚悟を決めた。

 

 

 まだ、己は夢()見られている。

 何よりも、死を夢に依ってなかった事にできる。

 死への忌避は失われて久しい。狩人の徴を用いて、医務室のベッドの横で目覚められるのも確認している。安全を度外視し、身を削りながら切り込むのは得意だった。いざとなれば何度でも、盾になってでも皆を守る事ができる。

 それは(おぞ)ましき呪縛である。だが皆の為に振るえるのであれば、これほど心強い武器もない。

 

 

 そうして、あなたはまた暗い隧道(すいどう)を抜け、外へと踏み出す。

 他でもない、手を差し伸べてくれた皆の為に。

 

 

 ゆえに、私は使者を送ることも、灯りを置くこともせず、ただ、見続けている。あなたが何よりも恐れているのは、この温かな場所が喪われてしまうこと――あなたの抱える血腥い秘密によって壊れてしまうことなのだから。

 

 


 

 

 なぜもっと早くに気付かなかったのか。

 

 

 あなたは湧き上がる自身への怒りを、息に込めて静かに吐き出した。

 

 目の前には、(さや)を伴った聖剣により叩き斬られた倒木がある。ささくれた断面は白く乾き、まるで石のようにひび割れている。

 その下に潰されていた同種と(おぼ)しき木は湿り気を帯び、大地に触れた部分から腐り始めていた。樹皮の隙間に銀の剣の切っ先をねじ込めば呆気なく()がれ、木屑(きくず)と共に巣くっていた小さな虫がばらばらと(あふ)れる。一匹摘まんで上の木に載せれば、のた打ち、すぐに逃げ出してしまった。

 同時期に土砂崩れに巻き込まれたであろうこの二本の倒木には、明らかな差異があった。

 

 あなたは斜面を見上げた。一帯の木々が一斉に立ち枯れたせいで、地盤が弱り、崩れたのだろう。草がまばらに生えたむき出しの地面の様子から、起きてからまだ一年も()っていないように見受けられた。土砂に巻き込まれた木々のほとんどは、白変した断面を(さら)しながら横たわっている。枯死の原因は、尋常のものではない。

 

 これが、命の時間を奪われた、ということなのだろうか。

 聞いてはいたが、実物を見るのはこれが初めてである。

 

 だが、とあなたは崖に寄りかかり、夢から小さな手帳を取り出して開いた。得た情報をまとめながら、所感と共に書き込んでいく。

 

 ここに来るまでに通った廃隧道には蝙蝠(こうもり)の群れがいた。となれば、彼らの主食である虫もいるのだろう。現に、腐った倒木には何らかの虫が見られる。

 また、ハーマンの証言もある。まれとはいえ、猛禽(もうきん)のたぐいを遠くの空に見かけるというのだ。ならばその餌となる小動物も生息していると考えられる。ニルスの友だったというネズミについても、学校で繁殖している様子がない以上、外から迷い込んだと見て間違いないだろう。

 ハーマン自身、外はまだ致命的な段階ではないと推察していたという。何らかの大規模な事件、あるいは災害が起こり、それによって環境が激変して学校と外部が分断したのは間違いないが、回復する猶予はまだ充分に残っているのではないか、と。

 何よりも、あなたが何者かに攻撃を受けている様子はない。こうやって無防備に出歩いているのは、自身を生き餌として原因たる妖精を(おび)()せないかという打算があっての事だ。しかし命の時間を奪う、という行為が一体どのような手段によって行われるかは想像するよりないが、あなたの五体は満足なままである。

 

 

 何かがあったことは間違いない。

 だがそれは、永続し(むしば)み続ける呪いのようなものではない。あくまで妖精が能動的に起こす現象なのだろう。

 何より、確認できた痕跡はさほど新しいとは言えない。

 ならば、これを起こした悪い妖精はどこに行ったのか。

 

 

 あなたは書く手を止めた。数ページほど戻り、一目であなたのものだと分かる癖の強い走り書きに目を落とす。

 

 

 “妖精がなぜ生命を無差別に害するようになったのか。”

 “命の時間のやり取りに於ける互換性の問題。目的は蘇生ではない。”

 “仮にローアンの妖精ならば、蘇生は不可能だと理解している筈である。特別なものは、妖精には決して用意できない故に。”

 

 

 妖精は、命の時間をやりとりすることができるという。

 だがこうしていたずらに命を奪う、その理由が分からない。

 

 図書室の書籍を読み解く限り、ローアンの妖精は人間に対して非常に友好的であったようだ。

 「妖精研究概論」には子供に()かれ、その願いを叶える存在だとあるが、学者という立場の大人に対しても協力している。母の為に薬を探す少女を導き、オルゴールによって止まった時の世界からでも声を届けようとし、学者に請われて一晩語り合ったという。

 それらにどれだけの脚色が混ざっているのかは判断に悩むところではあるが、関係が良好でなければ、妖精の行動による整合についての研究など出来はしないはずである。行間から(うかが)えるその姿は、子供たちの手伝いをしたがり、校長やあなたに懐いているアレクシスによく似ていた。

 

 だからこそ、あなたは現状との噛み合わなさに違和感を覚えていた。

 

 あなたは顔を上げ、荒れた森を眺める。

 

 ローアンの妖精がこの惨状をもたらしたのか。

 あるいは、また別の個体によるものか。人為的に妖精を生み出す手段があるということだけは、コマドリの一件の時に校長から聞かされている。

 どちらにせよ、その動機は何なのか。それとも既に狂って正気を失い、理由もなく命を奪っているに過ぎないのか。

 

 

 果たして悪い妖精を狩るだけで、本当にこの異変は()むのか?

 

 

「…………」

 

 決め手に欠ける、と声もなく呟いた。

 

 判断を下すには手札が足りなすぎる。それは当然のことでもあった。

 あなたはこの件に関して、寄宿学校の校長ルイス・グレイブズに一切の相談をしていない。

 

 校長は、子供たちを(いつく)しみ、時に諭すこともできる、穏やかな気性の人物だ。神秘の側の存在であるアレクシスについてもよく気にかけ、どこの誰とも知れぬあなたにも信を置いてくれている。あなたにとっても、寄宿学校で唯一の大人である彼は、子供たちとはまた違った気安さで話ができる相手だ。

 

 だが。どのような理由があれ、彼は人を人ならぬ者へと変えた。

 そして、その理由も知っているからこそ、彼をメンシスや医療教会の狂人どもと同じだなどと断ずることはできない。

 

 いっそのこと、彼が探求と好奇に狂っていれば割り切りようもあった。さりとて、人を人ならぬ者に変えたという事実は、あなたにとっては許し難い行為でもある。同一視すべきではないと理性は判断しても、どうしても、ヨセフカやギルバートの変わり果てた姿が(よぎ)るがゆえに。

 

 

 ――狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話す事もない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら。

 ――むしろ、獣の病に(かか)らぬ事を、感謝しています。せめて、人のまま死ねるのですから……

 

 

「……、……帰るか」

 

 あなたは息を深く吐いた。今この場で、結論を出すべきではない。無理をしないとアレクシスとも約束している。焦って取り返しのつかない状態に追い込まれれば、それこそ本末転倒である。

 

 道の確認だけで終わってしまった前回とは違い、今回は最低限の手掛かりは得られたと言っていいだろう。倒木の差異を確認できたこと、そして奥にあった古い山小屋を見つけられたことは大きい。

 鍵が掛かっているために中には入れなかったが、窓から覗いた室内はがらんどうに冷え切っていた。床の一部が開いているのが妙に引っかかったものの、地下に倉庫でもあるのだろうとあなたは見当をつけている。アレクシスに壁や扉をすり抜ける様子がない以上、妖精もまた同様だろう。いざとなれば扉を壊し、誘い込むことで逆に逃げ道を(ふさ)げる。

 

 そして、もう一つ。

 

 あなたは顔を上げた。崩れた斜面のすぐ横の崖に、ぽつんと枯れ木が(たたず)んでいる。

 

 あれが、どうにも気にかかるのだ。

 いったいどのような負荷が掛かったというのか、幹も枝もよじれ、奇妙な形に(ゆが)んでいる。異様な生長を果たした樹木はヤーナムでも度々見られたものだが、それらと比べても異常であった。

 枝を手折った感触は軽く、(もろ)い。その脆さは腐ったものとも、白く枯れたものとも異なる。かつて似たようなものに触れた覚えはあるが、しかしそれが何なのか、喉元で引っ掛かって思い出せない。

 

 あなたは首を振って思索を打ち切り、懐中時計を確認した。そろそろハーマンと打ち合わせた時間である。

 

 

 

 

 

 ハーマンは古びた錠前の鍵を持っている。

 それが外に繋がる倉庫の鍵だと把握した上で、普段からお気に入りのがらくたとして持ち歩いている。

 

 鍵の存在を打ち明けられた時、あなたはどうしようもない()瀬無(せな)さに(さいな)まれた。

 

 この少年は(さと)く、行動する時は躊躇わない。外の事情を知る校長がこんな鍵を子供たちに預けるはずもなく、その鍵を持つハーマンは今、がらくたとして扱っている。それが示す事実は一つだ。

 

 いったい何年の間、彼は誰にも悟らせることなく、秘密を独りで抱え続けたのだろう。

 

 ゆえにあなたは、役に立てて欲しいと鍵と地理の情報を渡してくれたハーマンを、ほんの少しだけ巻き込むことにした。

 

 ユーリヤやアレクシスと鉢合わせかねなかった一回目の反省もあり、協力者が必要だと痛感したのも理由の一つである。あらかじめ時間を決め、ハーマンに廊下に誰もいない時を見計らって扉の開閉を頼む。そうすればほかの皆に発覚する可能性を(いちじる)しく下げることができる。今はまだ、外に出ていると極力知られたくない――あなたの述べた理由に、ハーマンは静かに頷いた。

 人ならぬ妖精に関わる問題である以上、詳しい情報の共有は行わない。それでも、開示できる範囲で報告は行う。どこまで到達したのか、何か目印になり得るようなものを見つけたのか。彼の記憶の中の地理と照らし合わせてもらい、次の調査の場所の見当をつける。

 

 かつての行動と決断は決して無駄ではなかったのだと、これで少しでも伝わるだろうか。

 

 

 

 

 

「そもそもさ。アレクシスって、あまり自分のことは言い出さないだろ?」

 

 屋根の上での少々の報告と次回の打ち合わせも終わり、話題はアレクシスとティアのことへと移っていた。数時間のうちに、マリーは皆への周知を終えたらしい。

 

 潜めていた声を普段の大きさへと戻し、表情を和らげたハーマンは帽子の下で思案を浮かべる。

 

「アレクシスは僕たちのお手伝いをしたい、ってよく言ってくれるけど、アレクシスが僕たちに手伝ってほしい、って言ったことは、知ってる限りはないと思う。この前の染め物の話だって、手を挙げたのはやりたいって意味じゃなくて、本当は危険な作業は任せてほしいって言いたかっただけらしいんだ。自分は傷つくような体を持っていないから、って」

 

 今までのお返しになればって思ったんだけどな、とハーマンは寂しそうに笑う。とはいえ、あの子の真意が分かった今でも、準備は進めているという。きっと、良い思い出ができるから、と。

 

「そんなアレクシスが、ティアに怒られるって分かった上で、なめくじの子に構いたがる。僕としては、その理由が気になるかな」

 

 なるほど、とあなたは頷いた。ティアばかりを注視していたが、アレクシスもまたこの問題の当事者である。その事情も確認するのは確かに必要だろう。

 しかし。

 

「そういうものを尋ねていいのか」

 

 何故仲良くしてるのか、などという類の話題は外野が触れてよいものなのか。あなたには判断がつかない。

 

 自身の社交性は地を()めるほどの低さだということは、あなたも理解しているところだ。たとえ血の遺志により技量、手先の器用さを研ぎ澄ましても、性格の不器用さまでは改善されないのである。

 この寄宿学校に来てから口数が増えたという自覚はあるが、それはひとえに子供たちが気にかけ、よく話してくれるからだ。気遣いの方法や心配りのこつは多少の場数を踏んで覚えたと言えど、あなた自身の対人技能はヤーナムで殺し合いをしていた頃から特に成長していない。

 

「そうだねぇ……このタイミングでなめくじの子について訊かれれば、ティアとのことについてだって分かるだろうし」

 

 あなたとは方向性と水準の高さが異なるが、ハーマンも懸念を浮かべて空を見上げる。

 

「でもね。お互いに納得できる形で折り合いがつくのが一番だけど、ティアは猫だから、難しいかもしれない。アレクシスに我慢してもらわないといけないかもしれない。そうなった時、それでも一番いい着地点を見つけるには、やっぱり事情をしっかり確認する必要があると思うんだ」

「……そう、だな」

 

 真摯(しんし)な言葉に、あなたを目を伏せた。

 ティアは猫である。いくらあなたがアレクシスの好きなようにさせてやりたいと考えていても、ティアにその要求を通すことはできない。言われるまでもなく、理解しておくべきだったというのに。

 

 ハーマンはあなたの顔を覗き込んだ。

 

「なんだったら、僕の方で訊いておこうか?」

「いや、それは……私がやる」

 

 確かにハーマンに頼めば、あなたよりずっと(うま)く聞き出してくれるだろう。

 だが、今回のことはあなたが連れてきた先触れの精霊が原因である。途中で誰かに委ねるわけにはいかない。

 

 そういったつもりのあなたの返答に、ハーマンは少し笑った。心配そうに、だがどこか嬉しそうに。

 

「そっか。なら、頼んだよ。でも、ティアもどうして、なめくじの子をあんなに嫌がるんだろうね。ヌーの時はそんなことなかったのに」

「ヌー……礼拝堂のネズミか」

「うん。その、猫とねずみってそういう関係だろう? 最初はもしかしたら、って心配してたけど、ヌーとは仲良くしてくれてたんだ。だから、なおさら不思議なんだよ」

 

 首をひねるが、心当たりは何も思い付かなかったようだ。

 

「僕が言えるのはこれくらいかなあ。役に立ったらよかったけど」

「ああ。意見、助かった」

「もしまたなにかあったら言って。なんでも相談に乗るからさ」

 

 言いながら、腰を上げる。

 

「じゃあ、そろそろ戻ろう。時計台で留守番してもらってるダニーを、これ以上待たせるのも悪いからね。……っと」

 

 軽やかな羽ばたきの音と共に、小さな影があなたたちの足元に降り立ち、レッドブレストの異名の通りの赤い胸をふるわせ(さえず)る。

 

「やあ。また来たんだね」

 

 しゃがみ込むハーマンに向けて、コマドリは歌うように鳴き声を返した。

 逃がしたはずのコマドリであるが、今でも定期的に戻ってきては、こうやってニルスやハーマンに餌をねだっている。

 

 ハーマンはポケットを探り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「ごめんよ。今はあげられるものを持ってないんだ」

 

 コマドリは催促するように何度も鳴いていたが、両手を広げてひらひらと振るハーマンを見て、求めるものはないと理解したようだった。最後に一声鳴き、また空へと飛び立っていく。

 

「元気そうだったな」

「うん。外でもうまくやっていけてるみたいで、よかったよ」

 

 コマドリは人懐こいが、縄張り意識が強い鳥でもある。時に自身より大きな猛禽にすら争いを仕掛けるという。そしてその闘争心の強さが、彼らの短い平均寿命をより縮めている。

 あのコマドリはその厳しく激しい生存競争を乗り越えた、非常に強靭(きょうじん)な個体である。

 設置した餌台にちらほら寄ってきた他の小鳥たちを蹴散らし、餌を独占していることを、あなたや子供たちは知らない。

 

「……、…………」

「ハンターさん? どうしたんだい?」

「あ、いや……何でもない」

 

 

 世の中には知るべきではないこともある。

 そう考えてニルスに真実を伝えないことを選んだが、そんなあなたにもまた、知らない真実があるものだ。

 

 

 

 

 

 方針は決まったとはいえ、アレクシスにもアレクシスの用事がある。

 

 あなたが蹴ったボールを追いかけ、ダニーが全速力で走っていく。力強くしなやかな足が芝生を蹴り、見る見るうちに追いつくと、鼻先でボールを打ち返した。

 戻ってくるボールを爪先で蹴り上げ、膝で受ける。目を輝かせて走り寄ってくるダニーを見定め、その頭上を通るようにボールを蹴り飛ばした。

 

 アレクシスは午前からの続きで、ロージャと共に絵を描いている。訊きたいことがあるから時間ができたら声を掛けてくれ、と連絡ボードに書いておき、あなたはあの子が来るまでの間に、残りの日々の仕事――ダニーとのボール遊びを済ませてしまうつもりであった。

 

 ボール遊びといえば可愛らしいものだが、その実態は激しい。イングリッシュ・フォックスハウンドは猟犬であり、強く(さか)しい狐を狩るために選ばれた血筋の生まれである。その持久力は人とはくらぶべくもないほどに高い。ダニーが満足できるまで一緒に遊ぶ、というのは、二時間近くボールを蹴り続け、受ける為に走り回るということになる。それに付き合えるだけの持久を持つあなたが相手をするようになったのは自然なことであった。

 

 尻尾を振り回してボールにじゃれつくダニーを眺めながら、あなたは汗ばむ襟元に指で風を入れた。吹く風は涼しいが、夏の終わりの日差しは強い。少し前にマリーが差し入れてくれたミント水の清涼さが恋しく、受け損ねたボールを追って池に飛び込むダニーをうらやましく思うほどに。

 懐中時計を確認すると、そろそろ三時になろうとしていた。皆、休憩を入れる頃だ。ロージャとアレクシスも一旦切り上げるだろう。

 

「ダニー」

 

 呼べば、ダニーはボールを転がしてあなたの元へと歩いてくる。しゃがみ、頭を撫でてやれば、舌を出して息をしながら満足そうに目を細めた。

 

 そうしてダニーを連れて学校に戻ろうとしたその時、背後から金属と木が(きし)む音がかすかに聞こえた。

 

 ダニーもまた、気付いたのだろう。顔を上げ、一目散に礼拝堂のデッキへと走っていく。

 

 あなたは置いてけぼりになったボールを拾い上げ、後を追った。手すりの隙間からデッキへと登ろうともがくダニーを、後ろから持ち上げてやる。ダニーは尻尾を振り回しながら、彼の膝に顎と前足を乗せた。

 

「グレイブズ、どうした」

「なに、たまには外にも出ないとかびてしまうからな」

 

 笑い、校長は空を見上げた。夏の終わりにも衰えを見せない太陽は、ここからは建物の陰に隠れて見えない。頭上にはただ、清澄な青空が広がっている。

 

「神、空に知ろしめす。すべて世はこともなし。……今日もまた、よく晴れている」

「ピッパが通るか」

 

 校長から勧められた本の、とある一節である。穏やかな笑みを浮かべ、校長は頷いた。

 

「ああ。詩というものも、なかなか良いものだろう? 日々の喜びを豊かにし、ふいの悲しみに寄り添ってくれる」

 

 その微笑みの陰に、数日前に見せた苦悩を見出し、あなたは静かに目を伏せた。

 

 コマドリの一件で最も大きな傷を負ったのは、ニルスでもハーマンでもなく、校長だったのだろう。ひた隠しにしてきた現実を、予想だにしない形で突き付けられたのだから。

 ニルスと入れ違いになる形で校長室を訪れたあなたの前で、校長は憔悴(しょうすい)を隠すことすらできなくなっていた。明らかにする必要のない心情を、吐露するほどに。

 

 

 ――私は既に、罪を犯した身だ。アレクシスに恨まれても仕方のない事をした。

 ――あの子を妖精に変えようと決めたのは私じゃ。外はもはや医者を呼べる情勢ではなく、それ以外に命を救う術はないと。……かつての友から預けられた好奇がまた熱を帯びるのを、そんな建前で隠した。

 ――その選択は間違っていたのだろう。あの子が妖精としてではなく、ただのアレクシスとして現れた事こそが、何よりの証じゃ。

 ――罪を負うのは私だけでいい。子供たちに恨まれるのも。ローアンの遺した負の遺産について、君が気にする事など何もないのじゃよ、ハンター。

 

 

 妖精になる前、アレクシスは重い病を患っていたという。

 

 当時、この寄宿学校は既に孤立していた。日に日に衰弱していく赤子に対して、校長が取れる手段は二つだけだった。

 そのまま死がアレクシスを奪っていくのをただ待つか、人ならぬ者に変え、定めを克させるか。

 

 校長はそれを指して罪と言った。だが選択肢などあってないようなものだ。死なせるよりは、どのような形でも生きていて欲しいと願った結果なのだろうから。

 

「そうじゃ、ハンター。マリーから色々と聞いたぞ。アレクシスとティアの事で、いろいろと動いてくれているそうじゃないか」

「ああ、まあ」

 

 そのティアだが、すねているのかもとの話を聞いた皆から大いに構われ、撫でられ、甘やかされて、最初は喜んでいたものの、さすがに気疲れしてしまったらしい。日課になりつつあったアレクシスへの見張りも取りやめ、今はユーリヤのベッドの下で丸くなっているという。やりすぎてしまったと全員反省しきりである。

 

「それで、私も一つ、助言と……それから少し、訊きたい事があってな」

 

 校長の穏やかな微笑みに、あなたはなぜか、胸騒ぎを覚えた。

 それは脳髄の奥の(うごめ)きとは全く関係のない、ただの勘である。だがそういうものほど馬鹿にならないということは、あなたの数カ月しかない人生経験のはじまりに嫌というほど思い知っている。

 

 そんなあなたの心情などつゆ知らず、校長はダニーの頬を撫でながら言う。

 

「猫はよく虚空を見つめているものじゃ。昔、サイモン……古い友人が研究の傍らで飼い猫の観察記録を取っていてな。詳細は省くが、虚空を見ているのではなく、耳を澄ませて音を聞いているのではないか、などと結論を出していた」

「……つまり、何だ」

「ティアが誰もいない場所を見つめていても、それはアレクシスを見ていた事には繋がらんと、そういう事じゃ。それに、今のふたりの関係を見てどう思う? もしティアがアレクシスを見つけたなら、見ているばかりではなく、誰もいない場所に向かって甘えるような仕草を見せていたとは思わんかね?」

 

 そこを切り崩されると、出発点から間違っていたことになるのだが。

 

「……いや、目撃者がいない時に甘えていた可能性もあるだろう。だいたい、それならどうしてあんな風に不機嫌になる」

「なあに。ティアは賢く、義理堅い。猫の身ながら彼女との約束をいまだに守っているのだからな。その責任感の現れじゃろうて」

 

 校長は苦笑して、ダニーの頬を軽く伸ばした。

 

「ただ……アレクシスが流れる時の世界で過ごすようになった時期は、六月一日の深夜から二日の明け方にかけてで間違いない。それ以前は、そもそもあの子はここにいなかったはずじゃ。いくらティアとて、いないものを見つけられるはずがない」

「……待て」

 

 思考は即座に冷えた。あなたは鋭く(とが)る視線を校長へと向ける。

 

「いなかったとはどういう意味だ」

 

 校長の言うとおりに六月の頭に現れたとすれば、あの子がここにいる期間はあなたと一週間程度の差しかないということになる。そんな馬鹿な話があるのか、と、あなたは言外に(にら)()けた。

 

「……止まった時の世界に生きる、という事に関しては、長年研究していた我々にも理解の及びかねる部分が多くてな」

 

 校長はダニーから手を離した。その途端、勢いよく振られていた尻尾がへたれる。物足りなそうに鼻を鳴らすが、校長が催促に答えることはなかった。

 

「人間にとっての時間……これまで生きてきた軌跡が紡いだ糸ならば、妖精にとっての時間とは、その糸にできた()()のようなものだという。人ならば紡いだ糸は紡錘(つむ)に巻き取られていくのみだが、妖精はそのだまとだまを、ひと跳びに渡る事ができるのだそうだ。それは妖精に制御できるものではなく、人間の尺度で一時間も経たないうちに再会する事もあれば、何年も間隔が空く場合もある。そして恐らくは、あの子はユーリヤの……」

 

 校長は()(よど)み、しかしすぐに首を振った。

 

「いいや、もう構うまい。……あの子はユーリヤの呼ぶ声に応えて現れたのだろう。だが現れたばかりのはずのあの子は、ユーリヤのものではない、別の誰かの願いを叶えた」

 

 校長は深く深く息を吐いた。脱力した体を車椅子の背もたれに預け、呟く。

 

「あの子はいったい、どれほどの思いをして、今の結論に至ったのじゃろうな」

「グレイブズ。何が言いたい」

 

 あなたとほとんど変わらない期間しかここにいないと言った口で、どれほどの思いをしたのかと(あわ)れむ。

 校長はあからさまに、あなたの知らない情報を前提として話を進めている。その言葉に脈絡があるようには見えず、思惑がどこにあるのか分からない。

 

 あなたの目に険が(にじ)む。空気が変わったことを察したのだろう。ダニーは慌ててデッキから飛び降り、その下に潜り込んだ。

 

「……ハンター。君にも、何に代えてもやり直したい過去はあるのではないかね?」

「だから何、を……」

 

 荒げた声は、尻すぼみに途切れた。

 

 汚れた眼鏡の下、加齢によって白濁した目は、ただ前へと向けられている。

 しかし、そうではない。あなたはそれに気付いてしまった。

 

「自身の命と引き換えに、過去を変えられるとしたら……君はどうする?」

 

 彼は今、何も見ていない。

 

 今ここにある風景を眺めているのでも、思索に(ふけ)り過去を(しの)んでいるのでもない。目蓋を開いて網膜で光を受容しながら、しかしそのひとすじも彼の精神に届いていない。

 背筋が粟立(あわだ)ったのは、冷えた汗のせいだけではなかった。

 

「命と引き換えとは言ったが、実際のところ失うものは何もない。過去が変わるという事は、そのために命を(ささ)げる理由もまた無くなるという事じゃ。誰も……命を捧げた本人でさえ気付かないまま過去の改変は行われ、そこからの延長として日常は続いていく。多少の違和感は残るやも知れんがな」

 

 過去を変えるなど不可能である。人ならぬ者の夢に依ったところで追憶が戻るはずもなく、ゆえに誰もが、その身の抱える罪に苛まれている。

 だが校長はただ淡々と言葉を続ける。荒唐無稽な話を、ひどく具体的に、まるで経験があるとでも言うかのように。

 

 あるいは、これもアレクシスに関係するのだろうか。指輪を持つ妖精は、過去の改変すら可能とするのか。

 あなたはそう考え、すぐに首を振る。

 そんな馬鹿な話はない。それに、仮にアレクシスが過去を変えられたなら、少なくともロージャの足をそのままにはするまい。詳しい経緯こそ知らないが、彼女が杖をつく理由は、病気ではなく怪我だということだけはあなたも知っている。止められる力があったなら、あの子は何としてでも止めただろう、と。

 

 

 ()()()()()()()()()()

 あなたの脳髄の奥が蠢き、湿った音を立てながら眼球の裏を舐めた。

 

 

 命と引き換えに過去を変えられるという、妖精の研究者であるグレイブズの言葉。前後の話題からしても、この二点は関連づけて考えるべきであろう。そして六月の頭に現れたのだという推測も、何らかの根拠を元に導き出したものだろう。そしてその根拠は、グレイブズにとっては疑う必要もないほどに強い。

 アレクシスがかつて連絡ボードに書いた“あなたは機会を与えてくれた もう一度みんなに会えた”という言葉の意味。一方で、ユーリヤ以外の皆は――ユーリヤとほとんど年の変わらないルーリンツでさえ――アレクシスの存在すら知らなかった。学校が閉じた時点ではまだ人として暮らしていたはずのアレクシスをなぜ忘却しているのか、などの疑問は尽きないが、アレクシスは認知された事を再会と捉えている以上、ルーリンツ達とも交流した事がある。それはアレクシスがユーリヤだけでなく、ほかの皆にも深い親愛を向けている理由ともなり得る。赤ん坊だった頃の記憶が残っているのか、それとも。

 命と引き換えに過去を変える。紡いだ糸とそれにできた()()。現在も過去も未来も、相対的な定義でしかない。現在から過去に跳べるなら、それは未来から現在に跳べるのと同じだ。

 アレクシスが未来から来たとすれば。

 妖精として皆と過ごし、誰かの命の時間と願いを託されて未来から過去に(さかのぼ)り、指輪を手放したならば。

 そして、アレクシスが指輪を手放した日に、ユーリヤが望み、叶わなかった事は。

 

 

 ――消えてなくなってしまいそうだった私の命の時間が、あなたのためになるならって、そう、思っていたから。

 ――ご、ごめんなさい……! そうよね、だって指輪を見つけられなかった妖精さんは……

 

 

 妖精を妖精たらしめるという、赤い指輪。

 流れる時の中に痕跡を初めて残したという六月一日。ユーリヤの命の時間は、アレクシスの手によって奪われ、そして戻された。

 その命の時間と呼ばれるものが、指輪に留められていたのではなく、指輪そのものの形をしていたなら?

 

 

「なに、ただのたとえ話じゃ。答を聞かせてもらえるかな」

 

 溺れるような思索から、我に返る。

 

 校長は相も変わらずどこを見るでもなく、足元に戻ってきたダニーは心配そうにあなたを見上げていた。視界の中で、狩人の徴がちらちらと明滅していた。

 いつの間にか詰めていた息を、できるだけ静かに吐き出す。それから、疲労し、ともすれば千切れそうになる思考をまとめ、校長の問い掛けの内容を思い出す。死闘を経た後のように激しく脈打つ心臓を、気取られてはいないだろうか。

 

「……過去を、変えられるとしたら」

「ああ」

 

 蠢いていたはずの脳髄の奥は、今は()いだ湖面のように沈黙している。だがその深みから浮かび上がった今、もたらされた確信はあなたの疲れ切った頭にこびりついていた。

 

 妖精は、命の時間を奪い、それにより過去に遡ることができる。

 

 それは校長が述べた過去改変の条件とも矛盾しない。自身の命を元手に妖精を過去へと遡らせ、後悔の原因を取り除かせるということなのだろう。

 それならば、考えるまでもない。

 

「何もしない」

 

 校長は身じろぎした。

 

「何も、か。何を失う事もなく、すべての過去は過ちたり得ず、すべての未来は正しさに満ちる。その可能性が目の前にあってもか」

「失われるものはある」

 

 白濁した目がゆっくりと(まばた)きした。顔の向きはそのままに、眼球だけがあなたへと向けられる。

 

「いなくなったら悲しいと言われた。過去を変えれば、それは間違いなく失われる。それに……」

 

 医務室で目覚めたばかりのあなたならば、校長の問いに頷いていただろう。あの時のあなたには、あの悪夢の一夜と、それから朦朧と彷徨(さまよ)った日々の記憶しかなかったのだから。

 ヤーナムに、あの命のない廃虚の街に戻るつもりはない。だが後悔と懺悔(ざんげ)に塗れた、人生のおおよそを占めるあの悪夢を自らの手でやり直せる方法があるならば、その決意も打ち捨てて求めていたことだろう。

 

 しかし、過去を変えるというその手段が、妖精を過去へと跳ばし、原因を取り除くというならば。

 

 仮に自覚なきまま過去が変わり、そしてそのままこの寄宿学校に辿(たど)()けたとして――あなたは、人ならぬ者に成り果てたヨセフカを手に掛けた後悔を持たない自分が、人ならぬ者であるアレクシスを害さないという確信を持てなかった。

 

 なによりそのためにアレクシスとユーリヤを、あるいはほかの子供たちを、犠牲になどできない。

 選択肢などはじめからない。今のあなたは、この寄宿学校の皆を天秤に掛けることはできない。

 あなたが最も恐れているのは、この温かな場所があなたの抱える血腥い秘密によって壊れてしまうことなのだから。

 

「恩を(あだ)で返したくない。後悔だけが消える事はない。だから、何もしない」

 

 校長は緩慢に目を瞬く。

 

 やがて、その顔が歪んだ。

 

「……そうか。君は、そう言えるか」

 

 それは安堵であり、あるいは諦めにも見えた。力のない笑みを浮かべ、デッキの奥、古い安楽椅子へと向けた。

 

「感謝しなければ。ここに若者が辿り着き、指輪を失ったあの子を見つけ、誰一人欠けていない子供たちと、ありふれた日々を大切に思ってくれている。その幸運に」

 

 静かに噛み締めるように、校長は呟く。満たされたようなその表情に、しかしあなたが感じたのは、何かを間違えてしまったのではないかという根拠のない確信だった。

 

「突然、妙な話をして悪かった。だが、おかげで……私も、決心がついたよ」

 

 声を掛けるよりも早く、校長はハンドリムに手をかけ、車椅子を扉の方へと切り返した。

 

「ハンター、君に頼みたい事がある。とても大切な話になる。またあとで、ゆっくりと話そう。アレクシスとティアの事が、一段落ついてから」

「待て、グレイ――」

 

 校長が呼び声に振り返ることはなかった。伸ばす手はデッキに遮られ、遠ざかる車椅子の軋みをただ聞くよりない。

 脳髄の奥の蠢きが残した余韻は未だ抜けきらず、ただ全身を強い倦怠が覆っている。

 

 

 妖精は、命の時間を奪い、それにより過去に遡る事ができる。そして妖精を妖精たらしめる指輪は、恐らくは他者の命を素材とする。

 だから――だから、何だ?

 それが今までの手掛かりにどのような影響をもたらす?

 

 

 考えを繋ぎ、まとめるには、今のあなたは疲労が過ぎた。

 そもそも、どうして校長はティアのことについての助言にかこつけてこんな話をしたのか。その真意はどこにあるのか。脳髄の奥の蠢きは、肝心な時には役に立たない。嫌な予感ばかりが腹の底から顔を覗かせ、あなたを苛んだ。

 

 足元にいたダニーが、つと鼻先を校舎の方へと向けた。つられるように顔を上げれば、歩いてくる黄金色の小さな体が見えた。

 

「あ……」

 

 あなたの姿を認めたアレクシスは手を振り、小走りに駆け寄る。

 

 

 “おつかれさま。”

 “連絡ボード見たよ。訊きたいことってなに?”

 

 

「……聞こえて、いたか?」

 

 アレクシスは小首を傾げた。手のひらを握る小さな手には、あの雨の夜のような震えは見られない。頭上の先触れの精霊に視線を移すと、小さな軟体生物はあなたの意図を()んで頭を横に振った。

 

「いや、何でもない。……ロージャと絵を描くのは、終わったのか」

 

 普段通りの声を出せているだろうか。あなたはそんなことを考えた。

 

 

 “ううん。ロージャはユーリヤとお茶飲んでる。それに、ロージャ、この時間はいつもお昼寝してるから、それが終わったらお昼寝すると思う。”

 “ねえ、顔が真っ白だよ。だいじょうぶ?”

 

 

「先ほどまで、グレイブズと話していて、それで……」

 

 口の端から思考が漏れていることにすら、一拍遅れて気付く始末だった。

 あなたは額を押さえた。混乱をありありと自覚する。

 

 

 “校長先生とお話してたの?”

 “その、妖精の、こと?”

 

 

 アレクシスはあなたを見上げる。紺青の光に覆われた虹彩のない目は、心配そうに細められていた。

 

 問えば、この子は答えるだろう。

 この子は嘘をつかない。校長と違ってはぐらかすようなこともあるまい。妖精については校長に比べれば全然知らない、と言われて額面通りに受け取っていたが、あなたと比べれば造詣(ぞうけい)は深いはずだ。実体験として、知っているはずなのだから。

 

 だが、何を尋ねればいい。あなたはそう自問する。

 先ほど得た手掛かりも全く整理がついていないのに、元々訊くつもりだった内容を差し置きそれを()(ただ)して、それから、どうすればいいのだろうか。

 

 黙り込んだあなたを見上げ、アレクシスはうっすらとした眉尻を下げた。肩は不安に強張(こわば)り、握る小さな手に力が籠もる。

 

 

 不安を晴らそうとしている側が、心配をかけてどうする。

 

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 怒りにかえって平静さを取り戻す。

 

 今は、妖精のことは訊かない。

 整理を着け、何を訊くのかを明らかにしてから尋ねるべきだ。今無理に尋ねても、混乱を助長するだけにしかならない。

 森では件の悪い妖精に遭遇できず、残された痕跡も新しいものではなかった。恐らくここ数カ月は、付近に現れていないだろう。

 妖精のことで何かを頼みたがっていた校長も、アレクシスとティアのことが落ち着いてからと言っていた。

 時間の猶予はまだある。少なくとも、このふたりの問題を後回しにする必要がない程度には。

 

 あなたは息を吐く。服の上から、首に掛けた狩人証に触れる。

 この判断は間違っているのかも知れない。感情に(ほだ)されず、猫の機嫌取りなど後回しにすべきなのかも知れない。

 だがそれに納得できるなら、あのおぞましく陰惨な獣狩りの夜に、失った記憶を取り戻すという自分自身の目的を脇に置き、見知らぬ街で少女の母親を探すことはなかっただろう。

 

「訊きたい事は別にある。……先触れといるのは、楽しいのか」

 

 アレクシスは戸惑いながら、あなたの手に言葉を(つづ)る。

 

 

 “えっと、うん。一緒にいると、ほっとするから。”

 

 

 予想していなかった答えに、あなたは目を瞬いた。

 

「ほっと……安心する、のか?」

 

 子供たちからはかわいいだのきれいだのと、観賞用として人気の先触れの精霊だが、一緒にいると安心する、という返事は想定外である。

 何に安心するのだろうと、あなたはアレクシスの頭の上にいるナメクジを見つめた。ダニーのような撫でがいのある体躯も、ティアのような蠱惑的な毛並みもない、小さな軟体生物だ。当のナメクジも、アレクシスの頭上で触角を傾げていた。安心させている自覚はないらしい。

 

 

 “ほっとするよ。つめたくて、ぷにぷにしてるのが分かるもの。ハンターの手とちがうけど、おなじだよ。”

 

 

 そう書いて、アレクシスはあなたの手を確かめるように握る。同時にあなたは思い出すことがあった。アレクシスはあなたとは手を握ってコミュニケーションを取るが、校長や子供たちに同様の仕草を見せたことはない。かつて、この子の手がユーリヤの手に重ねられた時、黄金色の手はすり抜け、窓枠に半ば埋まっていた。実体が、傷つくような体がないのだから当たり前だ。現に今、寄り添うダニーの体にはアレクシスの足が埋まっている。

 どうして気付かなかったのか。否。思ってもよらなかったといった方が正しいのだろう。同じ生き物同士でさえ、他者のものの見方など意識しないのだから。

 

「……感触が分かる、というのは、お前にとっては特別な事か」

 

 

 “うん。”

 “不思議だよね。ふたりはすり抜けないし、触ってるのが手から直接分かるんだよ。”

 

 

 アレクシスは無邪気に笑った。ゆえに、あなたは何も言えなくなる。

 

 この子は眠れない。食事を()れない。皆の目には映らず、触れ合うことも、言葉を音として交わすこともできない。確かにその場にいるのに、いない。アレクシスだけは、隔絶した感覚の中で独り生きている。死を克した代償に、人としての当たり前を享受する権利を(うしな)った。

 校長が罪だと言っていたその意味を、理解する。人のまま死なせるか、人ならぬ者として、孤独の中で生かし続けるか。彼が選んだ二択はそれなのだ。どちらにせよ、選択肢などあってないようなものだというのに。

 

 我慢しろ、などとは言えるわけがなかった。

 どうにかして、ティアに納得してもらうしかない。

 あなたは唇を舐めた。

 

「それを、先触れを返してもらえるか」

 

 体を強ばらせたアレクシスと、じとりと触角の先を向けてきた先触れの精霊に、あなたは慌てて言葉を付け足した。

 

「ニルスから、もしかしたらティアはすねてるのではないか、と助言を受けた。友達を取られた気分なのではないかと。マリーには、そういう時は満足するまで構ってやるのが一番だと。だがそれがいると、ティアは嫌がるだろう」

 

 緊張を解き、アレクシスは首を傾げる。先触れの精霊も同じように触角を傾けた。

 

 

 “マリーも言ってたけれど、ティア、本当にすねてるの?”

 “怒ってるわけじゃなくて?”

 

 

「私にはそうらしいとしか言えない。皆に色々訊いて回っている。どうにか、着地点を見つける。それまでは、日が出ている間はティアの事だけを考えてやれ。日が落ちて皆が寝たら、医務室に来ればいい。私もそれも、夜中は起きている」

 

 

 “でも、迷惑になるよ。”

 

 

「この程度は迷惑ではない。迷惑というのはたとえば……あー、ポケットにナメクジをいれたまま洗濯に出すような事を言うんだ」

 

 アレクシスは目を丸くした。“そんな風に自分のこと言うのはよくないよ。”とやんわりたしなめられたということは、慣れない冗談は冗談として通じなかったらしい。あなたは咳払いをして話を進めた。

 

「話し相手にはなってやれない。それでも良ければ来るといい。玄関で一人起きているよりは、少しは気が紛れるだろうから」

 

 先触れの精霊の尾が、アレクシスの頭を撫でる。それに手を添えて、アレクシスは小さく頷いた。

 

 

 “うん、わかった。”

 “ごめんなさい。いつも、いろいろしてもらってばかりだ。”

 

 

 アレクシスは頭上の先触れの精霊を手のひらに移し、あなたの手に乗せた。

 あなたは先触れの精霊を夢には片付けずに、ベストのポケットに入れる。頭を覗かせた先触れの精霊は触角をアレクシスへと伸ばし、黄金色の人差し指で頭を撫でられて嬉しそうに体を震わせた。その指先が離れてから、あなたは(かが)()んでダニーと目の高さを合わせる。

 

「ダニー。こいつとティアの事を頼む」

 

 いくらかでも伝わってくれればという一心だったが、その心配さえ吹き飛ばすようにダニーは勇ましく尾を振り、元気よく鳴いてみせた。

 

 立ち上がったあなたの手を、アレクシスはまた握る。そのまま、じっと()(すく)んで動かない。

 

「どうした」

 

 問い掛けてから、あなたは自省した。だが、アレクシスが何に悩んでいるのか、あなたには判断がつかなかった。

 

 

 勘の鋭いハーマンであればすぐに思い当たり、ルーリンツなら気の利いた言葉を掛けられるだろうに。

 己では、そのどちらもできない。

 

 

 アレクシスは躊躇いがちに、あなたの手を開いた。

 

 

 “ハンターにするみたいに、こんな風に、ティアにも気持ちが伝えられたら、それからティアの気持ちがもっと分かったらいいのにね。”

 

 

「……、……ああ。そうだな」

 

 頷き、アレクシスはあなたの手を離した。ずっと触れていた温度のないその手に、あなたの体温が移ることはなかった。

 




 ブラボで個人的に悪趣味だなと思った一番の描写は、頭のみの患者の皆さんの体内のオブジェクトの芯が脈動している事です。ビルゲンワースや教室棟に置いてある死産子とミイラ変性胎児もきつかった。
 デラシネで個人的に呻き声を上げた一番の設定は、スカボローフェアのバージョンが校長室のカレンダーその他から想定される舞台年に噛み合わない事です(一週間悩んだ)。とある手紙の筆跡が便箋と封筒で違うこともきつかった(三日悩んだ)。
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