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気になってシーンを足したりしてた結果20,000字になりました。
お時間がある時にお読みいただければと思います。
かつて私は、誰かの役に立ちたいと願っていた。自分自身とあの人の死、そして彼を囚えてしまったことに端を発するこの生にも、きっと意味はあるはずだ。そんな夢想に縋っていたのだ。
それが人でなしの身にはどれほど過ぎた迷妄かを思い知った時には、あらゆる事態は取り返しの付かないところにまで至っていた。
窓の外で、ユーリヤの歌声が風に乗って遠く響いている。
この前ハーマンが口笛で吹いていた曲だろう。耳を澄ませ、歌詞を聴いていると、確かにこの歌の頼み事は成しようのないものばかりだ。
布地に針のひとさしもすることなくシャツを仕立て、それを雨も落ちない枯れ井戸で洗ってほしい。海と塩の海の間に
その歌声がふいに途切れた。少しの間を置き、マリーの声が聞こえてくる。
「あら、みんなでお昼寝? 私もお邪魔していいかしら?」
「もちろん」
衣擦れの音。堪え切れずに
「ふふっ」
「どうしたの、マリー?」
「こうやって、ユーリヤを独り占めできるのは久しぶりだなって思ったら、つい」
「独り占め?」
「ロージャもアレクシスも、それからダニーもティアもいるけど、みんな眠っているもの。だから、独り占め」
普段のしっかりした雰囲気とは異なる、どこか甘えた声である。寝ている皆を起こさないようにひそめた声で、楽しそうに言葉を交わす。ティアについて。ロージャとアレクシスが何を描いているのか。誰かさんの雰囲気が最初に比べてずいぶん柔らかくなったけど、それでもユーリヤはまだとってもすてきなものを見られていないこと。
やがて会話は途切れ、風に乗るのは
「……ユーリヤが元気になってくれて、本当によかった」
「ごめんね、マリー。ずっと心配かけて……」
「謝ることなんてないわ。心配してた分、元気になってくれた時は本当に嬉しかったもの。それで充分」
噛み締めるように、マリーは言う。
閉ざされた学校の中で、大切な人が日に日に弱っていく。マリーや皆が感じた不安と恐怖はいかばかりだったのだろう。どれほど強く、失いたくないと願ったのだろう。
「あとはロージャの足が良くなってくれれば、また元通り……ううん、アレクシスとハンターさんが増えたぶん、きっと前より素敵な毎日になるわ」
「……そうね。いつまでも、楽しい日々が続いてくれたらいいな……」
あなたは開け放たれたままの二階の窓から庭を見下ろし、目を細めた。
木漏れ日の下で、少女たちは寄り添って座っている。ロージャはユーリヤの膝を借りて
ポケットに入れたままになっている先触れの精霊が、あなたを見上げて触角を揺らした。手を添えて頭を撫でてやりながら、あなたは
己の事だけなら構わない。
だが、たとえば。
あの子たちの身に何かあった時、己は縋らずにいられるだろうか。
「あ、ハンターさん。ちょうどよかった」
呼ばれて、あなたは廊下へと視線を戻す。階段を上がってきたルーリンツが、手を軽く振っていた。
「どうした。手伝いか」
「違う違う。休憩がてらチェスの棋譜を探してたら、面白いものを見つけたんだ。きっとハンターさんの勉強にも役に立つと思ってさ。ほら」
ルーリンツは古びた記帳をあなたに差し出した。表紙の隅に書かれた名前はルイス・グレイブズ。筆跡は幼いが、確かに今の面影が見て取れる。
「グレイブズの……随分古いな」
「うん。ほら、ここの日付を見てごらんよ。何十年も前だから、ずっと若いころ……それこそ僕やユーリヤと同い年くらいの時のものかもしれない」
受け取り、あなたは開かれたページに目を落とした。対局後半、二重線で修正されたいくつかの手と、端に書かれた、誰かに宛てた走り書き。
“ロビンへ。ニコラスの成長のためにも、彼を甘やかすのは金輪際やめるように。……私の勝ちだったのに!”
どうやら、何者かの乱入によって、数手戻っての指し直しとなったらしい。
「校長先生が初心者に指し方を教えた時の記録もたくさん載ってるから、ハンターさんにちょうどいいと思って……」
ルーリンツは言葉を切る。もの思わしげにあなたの顔を覗き込んだ。
「なにかあったのかい?」
「なにか、とは」
「なんだか元気がないみたいだけど……」
元気がない、とあなたは繰り返した。原因は考えるまでもなく分かっている。今は考えない、と決めたところで、気を抜けば思考はより重い問題へと引きずられる。
だが、元々秘密を抱えていたがゆえに、その重さを引き受けられたハーマンとは違う。この何も知らない優しい少年に打ち明けるということは、重荷を背負わせるということだ。
「……何でも、ない」
「それなら、無理には聞かないけど……」
ルーリンツは静かに息を吐く。そして、見る者を安堵させるような柔らかい微笑みを浮かべた。
「ハンターさん。用事がなければ、この後一局付き合ってくれないかい? ちょっとした気晴らしに、それとお茶も用意してさ」
ティーセットと、先触れの精霊の為にキャベツの葉も用意して、あなたとルーリンツはチェス盤を挟んで向かい合う。駒を並べながら、ルーリンツはあなたに話し掛ける。
「そういえば、アレクシスたちの仲直りの方の進み具合はどうなんだい?」
そちらの話題ならば、とあなたは肩の力を抜いた。
「ああ。それは何とか、少しずつやるべき事は見えてきたように思う」
あなたは先触れの精霊をキャベツの上に乗せてやった。小さなナメクジは腹足をぺったりとキャベツに貼り付け、嬉しそうに触角を揺らした。あなたが普段用意する餌より、よほど好みだと見える。
「着地点を見つけるためにも、ティアがどうしてこれを嫌うのか。それから……あいつは、気持ちが伝えられたら、それからティアの気持ちがもっと分かればいいのに、と」
校長にはああ言われたが、すねている、というニルスの見立て自体は、間違ってはいないとあなたは考えている。構われ疲れて隠れていたティアが、アレクシスには姿を見せた。足を投げ出して寝転がっていたのは、警戒も必要ないという表れだろう。先触れの精霊がアレクシスの傍にいない場合、ティアはそれだけの態度を取る。それだけ、信頼を置いているのだ。
「でも、なんだか感慨深いなぁ。少し前に仲直りの仕方で悩んでたハンターさんが、他の人の仲直りの為に頑張っているなんてさ」
「身の丈に合わない事をやっている自覚はある」
それも獣狩りの狩人が、と、あなたは内心で自嘲した。
一方で、ルーリンツは首を振る。
「たとえ身の丈に合ってなくても、みんなの助けを借りて手が届くなら、それで充分だったりするものだよ」
「……充分、なのか。それは」
独力で成し遂げられないのに、充分などといえるのか。
あなたはルーリンツを見つめるが、彼の顔に浮かんだ温かな笑みが揺らぐことはなかった。
「そうさ。チェスだって同じだろう? どれだけ強い駒であっても、キングを守るのがクイーン一騎だけでは勝負には勝てない」
そう言いながら、ルーリンツは指を折っていく。
「年長である僕とユーリヤは、それぞれキッチンと医務室を担当してる。ハーマンはなんでもそつなくこなせるし、手先が器用で、壊れた道具や家具を直すのがうまい。マリーは綺麗好きで掃除上手。読みたい本を探す時はニルスに訊けば、どこにあるかすぐ答えてくれる。ロージャは今は怪我があるけど、その前はよくユーリヤやマリーについて仕事を手伝ってた。そこにハンターさんが来て、僕たちだけじゃ難しかった力仕事をがんばってくれてる。アレクシスは、自分から進んでみんなの手伝いをしたいって言ってくれる」
折った指を開き、ルーリンツは笑みを深めた。
「みんなそれぞれ、得意なこと、できることは違う。得意なことをお願いして、その代わりにその人が苦手な部分はみんなで助ける。ここでの暮らしはそういうものだって、昔、教わっ、て……」
笑んでいた目が見開かれた。
「どうした」
「いや……ちょっとなにか、変な感じがしただけだよ。大丈夫、気にしないで」
ルーリンツは首を
「それにさ、やっぱり、なめくじの子も含めて、みんなで仲良くできたらいいよね。僕もその子には、いつも助けてもらってるから」
「どういう事だ」
キャベツの外っ葉を熱心に食べていた先触れの精霊もまた、ルーリンツへと触角を向けた。
「なめくじの子がいてくれると、アレクシスがどこにいるのか、僕にもはっきりと分かるんだ。ハンターさんみたいに目で見えたり、ユーリヤみたいにすぐに気づけたらいいんだけど、僕にはなんとなくしか分からないからさ」
ルーリンツは力なく笑う。
「アレクシスが近くにいるって気づけなくて、無視してしまったことが何度もあるんだ。あの子は気にしないでって言ってくれたけど……。だから、なめくじの子がいてくれると、本当に助かるんだよ。その子が浮いていれば、そこには必ずアレクシスがいるから」
「……そうか」
駒を並べ終え、ルーリンツは茶を注いだカップをあなたに手渡した。赤い水面からは、湯気のほかにセージの澄んだ香りが立つ。
「それにしても、どうしてティアはなめくじの子を嫌うのか、か」
あなたはキングの前のポーンを取り、二マス進める。鏡合わせのようにポーンを動かしたルーリンツは、あごをさすって少し考えこんだ。
「そういえば、最初はティア、怯えてたな」
「怯えていた?」
オープニングの定跡は大抵決まっている。あなたは
「ほら、ハンターさんがなめくじの子をポケットに入れたまま洗濯に出した時だよ。ティアは今よりもずっと激しく威嚇してたけど、その時は耳が後ろに寝てたんだ」
猫は表情を顔に出さない代わりに、耳や尻尾で感情を示す。耳が後ろに寝ているのは、気持ちが負けている状態を示すという。
ルーリンツは茶を一口飲み、あなたから見て左手側のナイトを進める。
「ティアにとって、なめくじの子は怖いものだった。ティアだって、なめくじを見るのは久しぶりだった……いいや、もしかしたらはじめてだったのかもしれないなぁ」
「だが、これが怖いものか?」
先触れの精霊へと視線を向ければ、当のナメクジはすっかりキャベツに夢中になっていた。今ここで床に落とし、靴底を乗せて体重を掛ければ、この小さな軟体生物は体液と神秘の
ルーリンツはあごに手を当て、曖昧に
「ハンターさんにはぴんと来ないのか……。僕は最初、見たことない生き物だと思って腰が引けてしまったけど、ハンターさんは驚かなかったのかい?」
「私は……」
思い返せば、ヤーナムでのことはずいぶん遠い昔のように感じられた。
あの悪夢を漂う教室棟。脳髄に刻み込まれた人ならぬ者への根源的恐怖と、それすら上回る、禿頭に騙されたことへの
水銀塗れの手のひらで転がされる小さな体は、害意どころか抵抗する気力さえ失っているように思えた。あなたはそれをすぐさま狩人の夢に連れて帰り、餌になるものを探して与えた。
偏屈な老人も、娼婦も、殺害された後のことだ。
結局、ただの代償行動だったのだろう。助けようとした人々が
すっかり緑まだらに変わり、別の生物じみた模様となった先触れの精霊の背中を見つめた。指で転がそうとすると、腹足でキャベツを掴み、尾で指を叩いて抵抗する。これもここに来てから、随分と感情表現が豊かになったものだ。
「驚きは、しなかったな」
「うーん、じゃあ、なんて説明しよう……」
ルーリンツは顔を上げ、周囲を見回した。誰もいないことを確かめて、声を潜める。
「……あのさ、ハンターさん。少し、情けない話をしていいかい?」
あなたはビショップへ伸ばしていた手を止め、机の上に戻した。目で促せば、ルーリンツは
「本当はね。……アレクシスのこと、最初は少し怖かったんだ」
「僕にはあの子が見えない。顔が見えないから、どんな気持ちなのかも分からない。言葉を掛けても、あの子だって連絡ボードかハンターさんの近くじゃないと返事ができないから、伝わっているかどうか分からない。特に最初の頃は、あの子も今ほど字が書けたわけじゃないから、それもうまくできなかった」
寡黙であることと、話せないことの差は大きい。どころか、ほかの皆はあなたのように表情で補完することもできない。直接感じ取れるのは、なんとなくいるのが分かる、という曖昧な感覚だけだ。
「ユーリヤから優しいいい子だって教えてもらったから、悪いことはしてこないって分かってはいたんだ。でも、なにを考えているのか、僕たちのことをどう思っているのか、なにも見えない。なのに、そこにいるかもしれない。こちらを見ているかもしれない。なにをしてくるのか、分からない。それがね、怖かったんだ。……年長の僕が不安がれば、他のみんなも怯えてしまうと思って、ずっと隠してたけど」
カップを手に取り、一口飲む。小さく息を吐いて、ルーリンツは揺れる赤い水面を見つめた。
「今は見えないなりに色々やりとりして、あの子のこと、分かってきたから。なんとなくだけど、ユーリヤに似てるなって思う。でも、細かいところに気がつく性格だよね。ユーリヤはほら、けっこうおおらかなところがあるから」
思い詰めた顔が、ほんの少しだけ和らいだ。
「もしあの子が言葉を覚えようとしてなかったら……僕たちと話せないままでいたら、きっと今でも、僕はあの子のことをなにも知らないまま、知ろうともしないまま、怖がってるのを隠してた」
そこで、あなたはようやく気付く。
ルーリンツが最初にアレクシスに抱いた、そして恐らくティアが先触れの精霊に感じているものと同様の感情を、あなたは知っている。他でもない、過去の自分自身に対して募らせている。それは恐怖ではない。
得体の知れぬものへの警戒である。
「ティアにとってなめくじの子は、そういう存在なんだと思う。よく分からないから、怖い。……なんて、憶測だけどね」
冗談めかした笑みはすぐに消え、静かに息を吐いて盤面を見つめた。
「でも、ティアが怯えてた理由なんて、僕にはそれくらいしか思いつかないんだ。今でこそ怯えるほどのものじゃないって分かっていても、そんな相手が大切な友達と一緒にいる。それも、友達は自分から積極的に関わっていこうとしてる。ティアにとっては納得できないし、寂しいんだろうね」
気を取り直すように姿勢を正して、ルーリンツは盤を手で指した。
「ごめんよ、変な話をして。ほら、ハンターさんの番だったね」
あなたは一度盤面に目を落とし、そしてルーリンツを見つめた。首を傾げたルーリンツは、話を始める前より少し疲れているように見えた。
「? ハンターさん?」
「変な話でも、情けない話でもなかった。何を伝えたいのか、私にも分かった。それに……」
怖いと思っていながら、それでも皆を第一に考えたことも。それから、得体の知れない相手であっても遠ざけず、親交を深めようとしたことも。
ルーリンツの姿はあなたには眩しい。憧れても彼のようにはなれないと分かっているから、尚更。
皆を思い気持ちを隠し通していたことは、彼の何よりの強さの表れだと思うのだ。
「相手を思いやって、そういう事ができるは、その……すごい、と思う。私には決してできない。だから…………」
覚えてまだ日の浅い日常会話の語彙をひっくり返しても、状況に合ったものを見つけられない。
あなたは火照る顔を押さえた。仮ににも年長者を名乗っておきながら、言葉の選択があまりに幼いことに羞恥が湧き上がる。ナメクジの一件の時、どうしてフードを脱いでほしいというマリーのお願いを聞いてしまったのかという支離滅裂な後悔と共に。
ルーリンツはぽかんと口を小さく開けて、あなたを見つめている。その口元がじわじわと笑みの形に変わっていった。
「笑う事はないだろう……」
「あ、ごめんよ。でもまさか、逆に励まされるなんて思ってなくて……」
その笑顔はただただ温かい。どうにもきまりの悪さを感じて、あなたは駒を手に取った。
「私の手番だったな、ほら」
「うん。……ありがとう、ハンターさん。そう言ってもらえて、気が楽になったよ」
実力差のある相手に、動揺した状態で勝てる遊戯ではない。善戦はしたものの、対局はルーリンツの勝ちで終わる。
「付き合ってくれてありがとう。気晴らしになったらよかったけど」
「私こそ、礼を」
駒を片付け、席を立ったあなたに、ルーリンツは言いにくそうに声を掛けた。
「……あのさ。アレクシスは、疲れていたり、つらそうだったりしていないかい?」
あなたが知る限りでは、コマドリの一件でひどく落ち込んだほかは普通にしているように思える。その落ち込みにしても、あのコマドリが定期的に顔を見せに来ている現状では解消されているように思えた。
それをかいつまんで伝えれば、ルーリンツは弱々しく笑みを返した。
「そっか。もし、この先そんな様子が見られるようなら、すぐに教えてほしい。……少し不安なんだ。あの子は僕たちからの頼みごとを、全然断らないからさ。我慢をさせてないか、本当はやりたくないようなことを無理強いしてないかって」
ルーリンツと別れ、あなたは医務室に戻る。夕食の準備にはまだ早く、他の日々の仕事も一通り済んだ。
医務室には薬の匂いと、ユーリヤがあなたの為に作った小さな匂い袋から漂う、爽やかで澄んだ香りに満ちている。椅子に腰掛け、息を吐き、そしてポケットから先触れの精霊を出して机に寝かせた。
キャベツ一枚をまるまる食べ尽くして満足したのか、触角を楽しげに揺らす小さな体はすっかり鮮やかな黄緑色である。雨垂れのように透き通ってきれい、という子供たちの評価を不思議に感じているあなたであるが、この状態を綺麗とは言わないだろうということだけは断言できる。
分からないから、怖い。ルーリンツの言葉を思い返しながら、あなたは先触れの精霊を見つめた。
「先触れ」
名を呼べば、先触れの精霊はあなたに触角を向けた。
「お前は、皆をヤーナムの秘密に関わらせるつもりはあるか」
小さな軟体生物は、はっきりと頭を横に振った。
「なら、いい」
呟き、その小さな頭へと指を伸ばす。すり寄せてくる頭は軟らかく、この軟体生物が単身で誰かを傷付けるような真似は不可能だと証明していた。
しかし、それをどうやってティアに納得してもらえばいいのだろうか。
響いたノックの音に、あなたは顔を上げた。
「ハンターさん、いる? 入っても大丈夫?」
「ああ」
入室して扉を閉めようとしたユーリヤに声を掛け、開け放ったままにしておいてもらう。校長のほかはこの行動の意味に気付く者はいないのだが、あなた自身の名誉の為にも。
「どうした」
「ハンターさんとロージャのお薬を作ろうと思って。少し、作業させてね」
そう答えるユーリヤのほかに、子供たちの姿はない。
「少し前に、庭で揃って昼寝しているのを見かけた。他の皆は」
「マリーは休憩室で編み物。ロージャとアレクシスは、またお絵描きしに戻ったわ。ダニーも二人と一緒だけど、ティアはひとりでデッキの方に」
あなたは目を見開いた。
「ティアは、アレクシスとは別れたのか?」
「ええ。アレクシスは一緒にいようとしたのだけど、ティアはひとりになりたかったみたいなの。……あの子も、迎えに来たアレクシスを見て、思うところがあったんだと思う。責任感がとても強い子だから」
「責任感? 猫が、か?」
疑わしさを隠そうともしないあなたに、ユーリヤは困った顔で笑う。
「昔は私もルーリンツも、今のニルスと同じくらいの年で、できることもずっと少なくて。そんな時、まだ小さかったマリーやニルス、ロージャを見ててくれたのがティアなの。体は小さいけど、しっかり者で頼りになるお姉さんなのよ」
ユーリヤは棚から
「それで、ハンターさん。……不眠の方は、どう?」
躊躇いがちな質問に、あなたは首を横に振った。
「いや。だが体調も変わらないから、心配はいらない」
この医務室で目覚めてから、あなたは一度も睡眠を取っていない。ひとすじの眠気を感じたこともなく、
眠りを助ける薬を処方するという申し出は断り、ならせめて、とベッドは整えてもらっているが、ここ数カ月は一睡もすることなく過ごしている。
何故発覚したのか、そして何故誤魔化してもすぐに嘘だとばれるのか、今でもあなたは疑問に思っている。穏やかな眠りの経験を持たないために、柔らかなベッドで人が熟睡すればその重みでシーツに
そう、とユーリヤは眉尻を下げた。温かな指先が、あなたの頬に触れる。
「最初のころと比べたら、顔色はずっとよくなったけど……どうか無理はしないで。少しでも調子が悪かったら言ってね」
「分かっている」
頷いてみせても、ユーリヤは心配そうな顔を崩さない。
「もし倒れてしまったら、元気になるまでハンターさんが食べるものは全部私が作るからね。お薬もいちばん効くのを用意するし、それからハーブをたっぷり入れた、体にいいシチューもお鍋にいっぱい」
「……、絶対に、無理は、しない」
どれほど努力しても、声の震えは隠せなかった。ようやくユーリヤは表情を緩める。
「冗談よ。でも、一度は食べてみてほしいなぁ。おいしいって言ってくれるのはロージャだけだけど、もしかしたらハンターさんの口には合うかもしれないもの」
いかな夢に
だがユーリヤを傷付けず、かつ断るのにちょうど良い言葉は、あなたの語彙にも存在しない。曖昧に
「そうだ。匂い袋も取り替えましょう」
「良い匂いだと思うし、それに気持ちはありがたいが、しかし……」
「ううん、用意させて? タイムはね、眠りを悪い夢から守ってくれるのよ。ハンターさんがきっと今夜は眠れるって思った時には、良い夢を見てほしいもの」
声もなく、あなたは目を見開いた。
棚に向き合い、手慣れた様子で小さな布の袋にハーブを詰め、リボンで口を結ぶユーリヤは、きっと思いもよらないのだろう。その言葉が、どれだけの価値を持つのかを。
「はい。もし匂いが弱くなったら軽く
差し出された匂い袋を、両手で受け取る。乾燥させたハーブはひどく軽い。あなたの手の大きさならば、片手でも握り込めるほどの小さな袋だ。
だが、さわやかで澄みわたりながら、貫き通すような確固たる強い香りは、悪夢に立ち込める血や獣の臭いの中でも掻き消されることはないだろう。
「いい匂いでしょう?」
「……ああ」
見る者を安堵させるような微笑みから目を伏せ、あなたは中のハーブが砕けないように、そっと握り締めた。
夢というものが、すべてこの香りのように優しく確かならば、誰も
「そうだな」
あなたは匂い袋を夢の奥に納めた。そうして現実から切り離してもなお、残り香は強く漂い続ける。
「ユーリヤ」
あなたを見つめ返すユーリヤの表情は、まったくいつもの通りだった。彼女にとっては、これは大したことではないのだろう。あなたにとっては何にも代え難いのと同じように。
彼女に心配を掛け続けていることは、あなたにとっては負い目である。
だが、今は。
「その……ありがとう」
拙い感謝に、ユーリヤはどういたしまして、と微笑んだ。
ロージャの痛み止めとあなた用の内服薬を作り終えて、ユーリヤは道具を片付け始める。あなたはそれを見計らって声を掛けた。
「相談がある。アレクシスとティアの件だ」
「相談? なにか、困ったことがあったの?」
「困った事、というべきか……」
突拍子もない、それこそ真剣に取り組んでいるのかと疑われても仕方ない質問だ。だがこれを訊けるのは、ティアと最も仲の良いユーリヤを置いてほかにいない。
椅子に腰掛けて向かい合ったユーリヤに、あなたは意を決して問いかけた。
「ティアに意志を伝える手段を知らないか」
「隣に座って、お話すればいいのよ」
さらりと返ってきた答えに、思わず面食らう。
ユーリヤの顔には普段通りの柔らかな微笑みが浮かんでいた。からかっているようには見えず、そもそも彼女が人を茶化したことは覚えている限り――先の発言も、冗談という言葉があなたを落ち着かせるための方便であるのは疑いようがない。その機会が来れば彼女は成し遂げるだろう――ない。これは真面目な返答なのだ。
「話を……鳴き真似をすればいいのか? どのように?」
だからといってどうしてそうなる……
ユーリヤはきょとんと目を丸くして、あなたを見つめる。一拍置き、思わずといった様子で吹き出した。
「もう、そういうことじゃないよ。人の言葉でお話すれば、ティアにもちゃんと伝わるってこと」
「だが……」
「大丈夫。ティアもダニーも、私たちの伝えたいこと、分かってくれてるから。むしろ落ち込んだり困ったりしてるのを隠しても、ふたりにはすぐ気づかれてしまうの。言葉の意味を聞いてるのではなくて、こもった気持ちを感じ取ってるのかもしれない、って、昔……その、ある人が言ってたわ。ハンターさんだって身に覚えはない?」
反論できずに、あなたは黙りこくった。
頭では分かっているのだ。
ダニーは賢い。時計台での留守番にせよ、アレクシスのことを任せた時にせよ、こちらの意図をしっかりと
理解してなお人と獣が違うという認識を改められないのは、結局のところ、それを認めれば同時に認めたくないことも受け入れなければならないというだけだ。
「ティアは少し意地っぱりだから、引っ込みがつかなくなってるところもあるみたい。それはアレクシスもだけど……アレクシスにとっては、わがままを言っても大丈夫って思える、たったひとりの相手みたいだから、余計にね」
「それは、どういう……」
ユーリヤはそれには答えなかった。右手の赤い指輪をそっと撫でた。
「アレクシスとティアのこと、どうかお願いね。妖精さんは猫が苦手なのに、それでもお互い仲良くしてきたのだもの。すれ違ったままなのは悲しいし、さみしいから」
あなたは頷こうとして、そして動きを止めた。
「……、……妖精は、猫が、苦手?」
「ええ。校長先生やアレクシスから聞いてない? 妖精さんは猫に見つめられると、そちらに近づけなくなるのよ。きっと猫の目は未来と真実を見定めるものだからって、昔、お母さんが……え、ハンターさんっ?」
「……何でもない」
うなだれたままあなたは呻く。
「えっと……もしかして、知らなかったの?」
頷くと、ユーリヤも困惑したように曖昧な声を出した。
アレクシスがよく部屋や廊下の角に追い詰められているのは、単に不機嫌なティアの迫力に怯えているのだと思っていた。そういうものだという先入観のまま、確かめることもしなかった。ユーリヤの言うとおり、先触れの精霊が絡まなければ本当に仲が良かったからだ。
尻尾をぴんと立ててアレクシスに駆け寄るティアと、目を細めてしゃがみ、転がって腹を見せるティアを撫でるアレクシス。
それはありきたりで、眺めているだけで心が安らぐような、お互いの仲の深さを感じさせるような、そんな温かな情景だった。
形容しがたいもどかしさが喉元まで込み上げ、しかしそれを明確にできる語彙をあなたは持たない。先触れの精霊に目をやれば、ナメクジはポケットの縁に頭を載せてうなだれていた。
「その、大丈夫?」
手を振って答え、また腰を上げる。
「相談に乗ってもらえて、助かった。行ってくる」
ユーリヤは心配そうな顔をしていた。それでも、あなたがしっかりした足取りであることを確かめて、胸元で手を握りしめる。
「がんばってね」
「ああ」
あなたは医務室を後にする。廊下の半ほどで振り返れば、こちらを見守っていたユーリヤはそっと手を振ってくれた。
「……うん、できたっ!」
はずむようなロージャの声が廊下を通り抜けた。
あなたは足を止めた。反射のように脳裏に過る少女の泣き声を何とか振り払い、それに耳を傾ける。
「みんな、よろこんでくれるかなぁ。いつも助けてくれるから、そのお礼になったらいいな……」
声は第二教室から漏れ聞こえていた。壁側の黒板に書き付けているのだろうか、チョークの硬質な音が壁越しにくぐもって響く。
「えへへ。アレクシスこそ、手伝ってくれてありがとう。今度は私がアレクシスのお願いを聞く番ね。できることはがんばるから! ティアのことだって任せて?」
再度聞こえたチョークの音は、先ほどのものより弱々しい。
「謝ることなんてないのよ。いつも言ってるでしょ、私はアレクシスよりお姉さんなんだから。みんなが私にしてくれたこと、今度は私がアレクシスにしてあげたいの。それにね、頼りにされるのって、すごく嬉しいんだから!」
頼りにされるのは、嬉しい。
あなたは口の中で繰り返した。
ふたりはまだ何かを話していた。尾を引かれながらも、あなたは背を向けて礼拝堂へと足を進めた。
己は皆の優しさに報いれているだろうか。
ふと、そんなことを考える。
ただでさえものを知らず、皆に迷惑を掛けた。これ以上は許されないし、何より己が許せない。
だが、たとえ己がそう思っていても、あの子たちは笑って手を貸してくれる。貸したいと言ってくれる。
その気持ちを
まるで子供の
己に何ができるだろう。
外の事の他に、もっと皆に何をしてやれるだろう。
必ず恩を返すと心に決めてから、皆のためにできる事を探してきた。だがそれは思い上がりにも似て、日々無力さを痛感するばかりだ。
胸を張って皆が与えてくれるものを受け取るには、そして皆が与えてくれた以上のものを返すには、どうすればいいのだろう。
悩みは尽きないまま、あなたは礼拝堂の奥の扉を開けた。
デッキの片隅に置き去りにされた安楽椅子の上に、黒猫はまるくなっていた。あなたは床の軋みが響かないように注意して歩き、その正面にあぐらをかいて座る。
こうして改めて向き合うと、その体の小ささに驚かされた。
「ティア」
ティアは身じろぎしない。だが、ぴんと立った耳は確かにこちらに向けられた。それを確かめ、あなたは話を続けた。
「我々は、我々の事情にアレクシスや皆を巻き込むつもりはない。……皆を傷付けない。これまでと同じように、これから先も」
平易な言葉に言い換え、ティアの様子を伺う。目に見える反応は、ない。
「だからどうか、アレクシスの傍に先触れがいる事を許して欲しい。皆と仲良くできたら、嬉しい。外の事を解決すれば、私も先触れもここを出て行く。それまでは、頼む」
頭を下げる。視界の隅で、ポケットから顔を出した先触れの精霊も同じように頭を垂れているのが見えた。
だが、本当に通じるのだろうか。その不安は今でも拭えていない。
ユーリヤの言葉については、信じ切れていないのが本当のところである。それにたとえ理解していたとして、何年も共に暮らしてきたユーリヤと、出会ってまだ数カ月のあなたの間にある差は大きく、深い。実際に、こちらも通じるとは思っていなかったとはいえ、先の雨の日など全く聞く耳を持ってくれなかった。
ティアの沈黙が、場を支配している。
諦めかけたその時、細い鳴き声がした。
威嚇でも、不満げでもない。甘える時とも違う、静かな声だった。
あなたは恐る恐る顔を上げ――青い光に目を見開いた。
アレクシスの目元を覆う暗い紺青とは異なる、瞳の内に宿る淡い水色の光。あなたはそれを知っている。
死に、それが夢に依ってなかったことになった後。あなたが死んだ場所のすぐ近くにいる獣が、薄ぼんやりとした光を目から放っていることがあった。大抵は死血に
遺志の青が、黒猫の両の瞳に宿っている。
「――なぜ」
あなたはその光に見入る。
これほど近くにあるのに、その色は少しの穢れもなく、どこか温かささえ感じさせた。まるで、枝葉の隙間から覗く夏空のように。
無意識のうちに手を伸ばし、そして、
目に飛び込んできたダニーの寝顔に、あなたは一瞬呆気に取られた。同時に違和感を覚える。足は太く、短い。顔も丸く、全体的にふっくらとしている。幼いのだ、ということに気付いた直後、あなたの思考に何かが混じり込んだ。
それは言葉ではなかった。だが言語化されていないにも関わらず、その意思は容易に読み取ることができた。少しの呆れと、それ以上の
見える世界はぼんやりと
「……お皿のお片づけ、おわったよ。……」
「……ありがとう、ハーマン。うーん、どきどきするなぁ。いったいどんな子が来るんだろう? 仲良くできるかな。……」
「……きっと先生によくにた、やさしい子だよ。でもルーリンツ、そんなに固くならなくてもいいんじゃないかな。だって、まだ生まれたばかりの赤ちゃんなんだからさ。……」
そんな会話が近くの窓から漏れ聞こえた。しかし呼び合う名前と、彼らの幼く高い声は、あなたの知るものとは一致しない。
ここは、寄宿学校なのだろうか。
ぼやけ、細部は分からないまでも、目の前の建物は音楽堂とそれと繋がる外廊下のように見える。ただ、目の前にあるデッキの手すりに経年によるスレや補修の跡はなく、まだ真新しい木の匂いを漂わせていた。
それに、子犬のダニーと、声変わりしていない声で呼び合うルーリンツとハーマン。
まさか、という思索は、体の下で遠く響き始めた地鳴りに打ち止められた。
それを呼び水として、学校のあちこちからばたばたと響く足音が重なる。キッチンの二人も揃って玄関へと走り、そして。
「……今帰った。ほら、マルガレータ。皆、君たちを待っているよ。……」
「……ただいま、みんな。……」
その声が聞こえた瞬間に歓声があがり、なぜか胸がつきりと痛んだ。それがどんな響きだったのかさえ、もう思い出せないのに。
「……おかえりなさい、マルガレータせんせい! その子がせんせいの赤ちゃん? なまえは? おとこのこ? それともおんなのこ?……」
「……だめよ、マリー。せっかく気持ちよさそうに寝てるのだから。静かにしないと起きてしまうわ。お帰りなさい。それと……ふふっ、はじめましてのあいさつは、目を覚ましてからかしら。……」
たどたどしいマリーの声と、幼さの残るユーリヤの声。他にも子供の高い声が、口々に喜びを伝える。
皆の声を聞きながら、視線がもう一度ダニーへと向く。健やかな寝息を立てる頭の下には、黒い毛皮に覆われた胴があった。起き上がればダニーも起こしてしまう。だから動くことはできない。
努めて耳を外に向けて、これ以上聞こえないようにしても、この耳は音をはっきりと捉えてしまう。あなたには耳慣れない足音が近付くたび、心臓が大きく音を立てた。
そして、足音が、デッキ側の扉の前で止まる。扉は軋むことなく開き、顔を覗かせた黒髪の女性が、こちらを見てぱっと表情を明るくした。
「ただいま、ティア。ダニーも大きくなったわね。ふたりとも、元気にしてた?」
途端、体に根を張っていた不安が消し飛んだ。
ユーリヤやルーリンツと話す時の安堵を粘り気が出るまで煮詰めたような、深い深い喜び。顔が見える。匂いがする。声が聞こえる。それだけが、何よりも嬉しい。あなたにとっては
覚えていてくれた。
思わず立ち上がり、足元へと駆け寄る。ふくらはぎに体をすり寄せ、尻尾を絡めると、ここにいるんだということが感じられていっそう嬉しくなる。ダニーはあごを床に打ち付けて目を白黒させ、そして女性を見上げて後退りながらわふっ、と鳴いた。
「ダニーには忘れられちゃったみたいね。三カ月も空けてたのだから、仕方ないことだけど……また、これからよろしくね、ダニー」
尻尾を丸めていたダニーも、女性の言葉に何か想起するものがあったようだ。体のこわばりを解いて、首を傾げて女性を見つめた。
女性はくすりと笑みをこぼすと、その場に膝をつき、抱えていた白い布の包みをこちらへと見せた。
「あなたたちにもこの子を紹介したいの。こっちへいらっしゃい」
包みの中にいたのは小さな赤ん坊だった。
まろみを帯びた頬に、頭を薄く覆う柔らかな産毛。それから、赤ん坊特有のミルクの甘いにおい。目蓋を閉じて、すやすやと眠っている。健やかで愛らしい、ただの人間の子供だ。
「この子はアレクシス。今日からみんなの家族になるわ」
あなたはまじまじとその赤ん坊を見つめる。
ロージャ、ではないように思えた。一方で目のかたち、特に目尻の雰囲気には、どこか既視感を覚える。
見つめていた視線が、ふいに
「……ティア? どうしたの?」
胸からこぼれそうなほどだった嬉しさが、するすると
きびすを返し、走り出す。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返ることはない。途中、喜びに顔を綻ばせた幼いユーリヤとすれ違うが、今は甘えるつもりになれなかった。
階段を駆け上がり、女子の寝室に飛び込んで、ベットの下に潜り込む。狭い暗がりに安堵を覚え、しかし行き場のない気持ちがそれをすぐに塗り潰してしまった。
あの人の事は嫌いだ。ずっとさみしい思いをさせる。だから、嫌い。
きっとしばらくはあの子にかかりきりで、またほったらかしにされてしまう。この学校にみんなが来た時みたいに。
仕方ないとは分かっている。小さな子は誰かが見てないといけないから。危なっかしい小さな子を見てるのは得意だけど、赤ん坊の面倒は人間でなければ見てあげられないことも、分かっている。
でも。
混入する意志に引きずられ、あなたの思考は自身のものではない感情に翻弄されるよりない。
放っておいてほしいというこちらの気持ちなど知らないと言わんばかりに、二つの足音が近づいてくる。一つは先ほどの女性だろう。もう一つは重く、間隔も長い。
「……大丈夫か。……」
「……ええ。アレクシスのことお願いね、ルイス。……」
女性の足音が女子の寝室に入ってくる。床とベッドの隙間から部屋を覗けば、女性の足は迷いなく隠れているベッドの横に立ち、そのまま腰を下ろした。
「ティア」
女性の手が、床を軽くノックした。思わず飛び出しそうになって、慌てて
「……ごめんね。ずっと、寂しい思いをさせて」
その声は
「約束したとおりにみんなのいいお姉さんをしてくれてるって、ルイスから聞いてて、また甘えようとしてた。アレクシスのことも、あなたならきっと守ってくれるって」
気にかけてくれたことが嬉しい。そう思ってしまう単純な自分が嫌い。
振り回してしまったことが嫌だ。でもこっちがつらかったぶんだけ、同じだけさみしい思いをすればいいんだとも思う。
ぐるぐるして、どっちつかずで、ほんとうに嫌になる。
「こんなに長く学校を空けることは、もうきっとないわ。あなたにも寂しい思いはさせない。……許して、くれる?」
でも何よりも嫌なのは、悲しい顔をさせてしまうことだ。
ためらいを覚えながらベッドから出て、彼女のそばに寄る。
たおやかな腕が体を持ち上げ、そっと抱きしめてくる。その腕にすべて預けてしまって大丈夫だと知っている。
背中を撫でられるたびに、嫌いという意地が、どんどん崩れていく。
顔を見上げれば、あらわになったあごの下を白い指が撫でた。自然とのどが鳴り出して、悔しいけれど、嬉しいことを認めざるを得ない。
温かく、優しくて、惜しみなく愛してくれる人。だから――
即座にあなたは自己を取り戻す。間近だからこそはっきりと見える、涼やかな目鼻立ち。あなたはそれを知っている。女子の寝室の前に置かれた写真立て。そして、あなただけが紺青の向こう側に見出せる、あの子の目元の雰囲気。
「家族が増えて、きっとこれからもっと楽しい毎日になるわ。……ううん、してみせるわ。みんなが笑って過ごせるように。マーシャと約束した通りに」
先ほどの赤ん坊の名を察する。そして、ハーマンが言っていた思い出せない大切だったはずの誰かの正体も。
「ティア。これからもよろしくね。あなたとみんな、それからアレクシスが、いつまでもよい日々を送れるように」
あなたはこの女性に、アレクシスの面影を見た。
我に返る。
たとえばヤーナムの大聖堂で初代教区長の頭蓋に触れた時のように。あるいは、水銀弾を媒介として、古い狩人の遺骨から加速の業を引き出した時のように。
同様の感覚があなたを捕らえ、そして何者かの過去を見せた。
吸い込む空気の冷たさが、喉を、肺を浸す。視界は明瞭で、代わりに耳に届く音はどこか
ティアの額から、指先を離す。
「……お前、か?」
こちらを
あなたは額を押さえた。確かに見たはずなのに脳裏に浮かぶのは断片ばかりで、具体的な内容を思い出すことはひどく難しい。まるで常人の見る夢のように、曖昧にかすれてしまっている。
だが、胸の底に確かに残る感情の
あなたはティアへと瞳を向けた。ごく普通の、なんの変哲もない猫である。人ならぬ者に関わりがあるがゆえの違和感は、どこにもない。
なら、先ほどのあれは――
扉を引っ掻く音に、沈みかけた思考は浮かび上がる。
礼拝堂の扉が軋み、ゆっくりと開いていく。隙間から飛び出したダニーはあなたの良く知る大柄な体躯であり、そして後を追うように顔を覗かせたアレクシスの体は、黄金色に儚く揺らいでいた。
声を掛けるよりも早く、アレクシスはあなたの隣に腰を下ろした。
“ユーリヤからここにいるって聞いた。なにしてるのかも。”
それだけ書くと、すぐに視線をティアへと向けた。
ダニーが首を伸ばし、
あなたが見守る中、立ち上がったティアはアレクシスを見つめ、それから目を伏せた。それから意志を読み取ることはひどく困難であるが、少なくとも普段のように不機嫌ではないのは確かである。
ただ、それはあなたにとっては、というだけだったのだろう。
黄金色の手があなたから離れ、ティアの額を撫でた。
アレクシスはそのまま、目を閉じたティアの小さな体を抱きしめる。
腕の中の黒猫は、顔をそっとすり寄せた。頭を頬のあたりに半ばめり込ませ、喉から漏れ出す声はあまりに頼りなく、細い。
昼に聞いた通りなら、その艶やかな毛並みの感触はアレクシスには届かない。だが、それでも、伝えられたものは確かにあったのだろう。紺青の光に覆われた目元は、確かに笑んだのだから。
その瞬間、あなたの中で像を結ぶものがあった。先ほどの白昼夢で耳にした言葉。彼女の声がどのような響きだったのかさえ忘れてしまった中で、それでも覚えていたもの。
――これからもよろしくね。あなたとみんな、それからアレクシスが、いつまでもよい日々を送れるように。
やがて、アレクシスは腕を緩めた。
顔を離し、ティアはいつもの調子で一つ鳴く。
そのまま椅子から飛び降り、先触れの精霊をじっと見つめた。下がった尻尾の先を左右に揺らし、あなたを見上げる。何かを促すような視線にあなたは目を瞬き、そしてポケットの先触れの精霊と顔を見合わせた。
「……いい、のか?」
ティアは答えない。ゆっくりとまばたきしながら目を逸らし、尻尾を揺らすだけだ。動きあぐねるあなたの隣で、ダニーが立てた尻尾を勢いよく振りながらその場でぐるぐると回りだす。アレクシスを見やれば、目元を細めて先触れの精霊に指を差し出し、小さく頷いていた。
あなた一人だけ、状況が掴めていないのは明らかである。それでもアレクシスが先触れの精霊を手の甲に乗せ、それにティアが唸らないことで、ようやく理解する。
「あ……」
あなたはぼんやりと、先触れの精霊を頭に乗せたアレクシスと、この子に撫でられて尻尾をゆっくりと揺らすティアを眺めた。
よかった、と声を掛けるべきなのか。それともあくまで部外者として、傍観に徹するべきなのか。
あなたの手を、アレクシスが開いた。
“ありがとう。”
“仲直りできたよ。”
手のひらに書かれたその言葉を、あなたは握りしめた。
「……私は、役に立ったのだろうか」
結局、日をまたぐことはなかった。夜に医務室に来ればいいというあなたの提案は、生かされることなく終わる。
自身ができたのティアに仲良くしたいと伝えたことだけ。放っておいても、そのうちふたりの喧嘩は収まっていたのではないか。
あなたがそんな疑念を抱く一方で、アレクシスは大きく頷いた。
“きっかけを作ってくれたのはハンターだよ。”
“それにあの時、ティアのことだけ考えてやれって言ってもらえたから。言ってもらえてなかったら、さみしい思いをさせてたって気づけなかった。”
「気付けなかったなどという事は……」
アレクシスは静かに首を振る。
それから、うっすらとした眉尻を少しだけ下げて。
“自分のためにみんながなにかをしてくれるのって、少し苦くて、でもやっぱり、うれしいね。”
そこまで書き、アレクシスは姿勢を直した。
“あのね。ロージャと一緒に、みんなの似顔絵を描いたの。”
“ロージャ、すっごくがんばったんだよ。私もお手伝いしたけれど、ほとんどロージャが描いたんだ。”
“それで医務室まで呼びに行って、ユーリヤからここにいるって聞いたんだ。ティアとダニーにも伝えてくれる?”
「ロージャが……」
あなたは過る記憶に目を逸らし、それでもあごを引いて頷いた。いると分かっているなら、対処はできる。彼女を傷つけないよう態度に出さなければいい。
「分かった。……ダニー、ティア」
声を掛けながら立ち上がったあなたの手を、黄金色の小さな手が握りしめた。案内するように手を引いて歩き出したその小さな背中を、ティアたちと共に追いかける。
憂慮は消えない。
だが、この子が手を引いてくれるのはよい事の前触れだと、あなたは既に知っている。
聞こえていた
手の中に呼び出した先触れの精霊へ餌を――生皮を
あなたがこの寄宿学校で目覚めてから、一週間が
最初は、いったい何の冗談かと自身の正気を疑った。口に含んだ
数日が経つ頃には霞みがかっていた思考も元に戻り、こうしてただ座り込んでいる。
動けないあなたを後目に、彼らは、日々の営みを送っている。
それのなんと尊く、素晴らしいことか。
それに、あの子供の亡霊にも似た、しかし人と呼ぶには
あれはあなたから少女を
この場において、己こそが異物だ。
成せる事など何もない。
あなたはそう考えている。
立ち止まれば動けなくなると分かっていた。まさしくその通りだ。気力だけで奮い立たせていた心は折れ、こうしてただ蹲り、自責に駆られることしかできない。
あの街で、己が成し遂げられた事などあるだろうか。
失った記憶を取り戻す事も叶わず、どころか、かつての己に嫌悪と警戒を抱くようになった。
独り生き残るだけで、誰も助ける事はできなかった。
あの
傷口をこそげていた歯舌の感触が途切れた。
先触れの精霊は食事を終えたらしい。血肉を
体がもう少し動くようになったら、ここを離れる。あなたはそのつもりでいる。
あの廃虚の街に戻るつもりはないが、ここにいても迷惑にしかならない。子供たちの優しさに報いてくれとは言われたものの、あなたはその手段を知らない。
ここを離れ、そして――どこに向かえばいいのだろう?
目の端を過った黄金色の光に、あなたは先触れの精霊を夢に戻しながら視線を向ける。
「お前は……」
一直線に駆け寄ってきたそれは、何も言わずにあなたのマントの裾を掴んだ。
それは裏口を指さし、引っ張る。あなたの体は小揺るぎもしないが、それは裾を引き続ける。あなたは見かねてその手を掴み、立ち上がった。
それは虹彩のない目を見開き、そしてあなたの手を――この弱々しい人ならぬ者を容易に殺害しうる狩人の手を、縋るように握り締めた。
体温こそないものの、小さな手は子供らしき見た目相応に繊細で、柔らかい。かすかに震えているのは、あなたへの怯えか、あるいはそんな相手を頼らねばならないほどの何かが起きたことへの焦燥か。
そこで初めて、あなたは自身がひどく動揺していることに気付いた。
手を引かれるまま、足を踏み出す。
何の意図があるのかも、どこに連れて行こうとしているのかも分からない。
それでも、これはあなたを頼った。
「……、…………」
あなたは小さく息を吸い、人ならぬそれの手を、ほんの僅かに握り返した。
私に成せることなど何もない。誰を救うこともできない。願いを抱くなど烏滸がましい。
生まれるべきではなかった。
まったく嘆かわしい話だ。人ならぬ、高次の思考を持ち得る者。そんなものとして産まれたというのに、身の程さえ弁えていなかった。
そんなこと、あの人の姿を模しただけの人形が彼に打ち壊された時点で、理解しておくべきだったのに。
だから眩しい。
何かを成そうと歩みを続けられるあなたが。そして、一度は蹲ってしまったあなたを引き上げた皆が。
あなたを包む日なたのような温かさが決して私に向くことはないと分かっているからこそ、失われてほしくないと、ただ、希う。
タイム【勇気、活動力、あなたを忘れない】
・補足
スカボローフェアについて。
様々なバージョンのある曲ですが、デラシネのスカボローフェアは歌詞などから、セシル・シャープが採録・改変して1916年に出版したバージョンのアレンジかと思われます。
みんなの演奏会との大きな相違点は、ワンフレーズがちょっと長くなっている、といえばいいのでしょうか。元々三拍ぶん長くなっている最後のフレーズの長さに、ほかのフレーズの長さを合わせたみたいです。~true lover of mineのメロディも大きく変更されているので、印象はだいぶ異なるように思います。
このシャープのバージョンは、日本ではVita Nova、波多野睦美さん、白鳥英美子さんなどが歌っております。
(参考:"...Tell Her To Make Me A Cambric Shirt" From The "Elfin Knight" to "Scarborough Fair"
全文英語。第十パラグラフの後半に該当のバージョンについての話があります)