スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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6/27:後の話もふくめてまえがきを修正しました。

 ちょっとしたストレス展開が三話ほど続きます。



 頭をたれ、両手を合わせたままで、彼女はかすれた沈んだ口調で最後の質問をした。
「神さまは兎を愛してらっしゃるかしら?」
「そうさ」とぼくはいった。「むろん愛しておられる。神さまはあらゆる生き物を愛しておられる。罪ぶかい人間でさえね。罪など犯せない動物はなおさらだよ」
  ルイス・キャロル「シルヴィーとブルーノ」より(訳文・柳瀬尚紀 ちくま文庫)


ローズマリー【追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる】
「夢寐にて。」-1 /「偃曝に微睡む。」-4


 

 

「獣狩りさん。お母さん、まだ見つからないの?」

「……、……君のご母堂は、オドン教会の地下で――」

 

 

 


 

 

 窓辺に少女の姿はなかった。

 

 あなたは息を呑み、窓へ駆け寄る。鉄格子に覆われた出窓は、真っ赤なブローチを手渡す際に細く開けた時のままであった。隙間から覗く室内は暗く、白いリボンを金髪に飾った少女の姿はどこにもない。

 握り締めた鉄格子が軋み、(わず)かにひしゃげる。血の遺志による変質を繰り返したあなたの肉体は、今や常人の域を超え始めている。

 

 

 真実など、伝えるべきではなかったのではないか。

 

 

 後悔と自身への怒りで、あなたは目の前が真っ赤に染まるような錯覚さえ感じた。

 

 いまだ夜の終わる気配はなく、何度狩り尽くしても正気を失った群衆は絶える様子を見せない。同様に、斧に脳天を割られ、散弾に足を砕かれ、鋭い爪に喉を抉られ、剛腕に力任せに挽き潰され――幾度となく死を夢として繰り返したあなたもまた、未だに終わりを迎えていない。

 地獄のような痛苦を何度味わってもなおあなたが諦めなかったのは、ひとえにヨセフカとの約束と、病身をおして知恵を貸してくれたギルバートや、分かりづらく遠回しな激励をくれた烏羽の狩人に対する恩義。何よりも少女への(しょく)(ざい)の念があったからに他ならない。

 

 あなたは、間に合わなかった。

 荒れ果てた墓地。目元を包帯できつく隠した大柄な男と、彼に叩き刻まれた群衆の死体。屋根の上に転がっていた、大きな赤いブローチを胸につけた金髪の女性の亡骸(なきがら)

 そして、男を見た瞬間にあなたの脳裏に(よぎ)った“ガスコイン神父”という見覚えのある名前。何度呼びかけても彼はあなたを人と認めず、一縷の望みにかけて鳴らし続けたオルゴールは人であった彼にとどめを刺した。もう誰も彼も人じゃない――烏羽の狩人の忠言を、文字通り身に、そして精神に刻み込まれたのだ。

 

 恐ろしい獣と成り果てたガスコイン神父を狩ったのち、あなたはせめてもの償いとして女性の胸元にあったブローチを回収した。二人の亡骸を家に帰すことは叶わなくても、形見だけでも少女に託すべきだ。あなたはそう考え、行動に移した。

 

 その結果が、これであった。

 

 子供の足ではそれほど遠くまで行けないだろう。しかし、地理に(うと)く記憶もないよそ者のあなたと違い、少女はこのヤーナムの住人である。知らない路地や裏道があるかも分からない。

 

 逸る感情を抑えて、あなたは開け放たれた門の向こうを睨みつけた。

 

 

 とにかく、探さなければ。

 一刻も早く見つけ出し、安全な場所へ誘導しなければならない。

 

 

 しかし、襲い来る群衆をくまなく狩り、木箱や棺桶の裏を確かめても、少女の姿はない。

 強くなる焦燥に足を急かされながら、あなたは診療所へと踏み入れた。入口に転がる群衆の亡骸を飛び越えて、階段を駆け上がる。その騒がしい足音が奥まで聞こえていたのだろう、すぐに扉の曇りガラスに人影が映った。

 

「……あら? どうしたの、そんなに慌てて」

「悪い。少女がこちらに来ていないか。金髪に、白いリボンを結んでいるはずだ」

 

 今、扉の向こうにいるのはヨセフカではない。立場を尋ねたことはないが、診療所なのだから医者を手伝う看護婦もいるだろう、とあなたは見当をつけていた。

 曇りガラスに映った影は、すぐに首を横に振った。

 

「女の子? ごめんなさい。心当たりはないわ。あなたにお願いをしてからここに来たのは、おばあさんが一人だけ。……ああ、彼女については大丈夫。治療は順調、何も心配はいらないわ」

「そうか」

 

 焦燥の中にも安堵を覚え、あなたはほっと息を吐いた。老婆の足であの下水橋を渡るのは酷だろう――そう考えていたあなたは、オドン教会ではなくこの診療所を避難先として伝えていた。

 

「そうそう、おばあさんの分のお礼をしないとね」

「礼など。むしろ足りないものはないのか。可能な限りかき集めてくるが」

 

 あなたが使者との取引において、他の消耗品を節約して輸血液を交換しているのは、もう渡せるものはないというヨセフカの言葉が念頭にあったからだ。

 しかし、返ってきたのは押し殺すような笑い声であった。

 

「フフッ、お優しいのね。でも大丈夫。それにこれは治療に使う薬剤ではないし……どうか、あなたのなすべき事に役立ててちょうだい」

 

 足音と共に影が遠ざかり、扉の向こうで棚を漁る音が響く。ほどなくして戻ってきた影は、割れたガラスの隙間から丸い瓶を差し出した。

 その細い女の指に絡みついた、青白い何かを見た瞬間。

 

「――――……ッ」

 

 あなたの脳裏で蒙が啓く音が蠢いた。

 風音に微かに混じる女の囁きとは異なる、何事かを訓戒するような男の声が脳髄を内から震わせる。

 眼球の中に潜り込んだ軟らかく冷たい何かがのたうつ。虹彩の縁をなぞり、瞳の裏を舐め、視神経を伝って奥へ奥へと蠕動し、やがて()(がい)の奥の蠢きと混じり合う。

 

 大橋やオドン教会の地下で恐ろしい獣と相対した時にもあった、怖気の立つような感覚であった。しかし同時に、密やかに背骨を下り、腹の底に溜まるような何かが、あなたの体を震わせた。

 

「どうしたの?」

 

 声を掛けられ、あなたは我に返る。

 

「……そ、れは」

「あら、ごめんなさい。汚れていたわね」

 

 手がいったん引き込まれ、少しの間を置いて再度差し出された。綺麗に拭われた瓶を、あなたは呆然としたまま受け取る。

 まだ平静を取り戻せないあなたをよそに、人影は扉から離れていく。

 

「もし、女の子を見つけたら連れていらっしゃい。私が治療してあげるから……」

 

 そんな言葉を残し、足音は診療所の奥へ消えた。

 

 

 

 

 

 呆けている暇などない。

 

 

 あなたは自身をそう(しっ)()し、来た道とはまた別の路地を辿る。

 

「女の子……ですか?」

 

 ギルバートは咳こみながら、考え込むように曖昧な声を漏らした。

 

「うーん……すみません。見ていませんね。ただ少なくとも、この家の前を通ってはいませんよ」

「分かった。もし見かけたら、ヨセフカの診療所へ、と。頼めるか、ギルバート」

「ええ、任せてください。……こんな夜だ。どうか早く見つかりますように」

 

 窓越しに見送るギルバートへと手を振って感謝を伝えた後、あなたは横の門を抜けて階段を下る。

 

 大橋へと上がる建物を検め、大橋の馬車に隠れていないかを一台一台確かめる。下の広場は既に探した。その相向かいの道の先には下水道へと下る木の梯子がある。少女があのような場所に寄りつくとは思えなかったが、それでも隅々まで松明で照らしながら呼びかけた。

 

 探していない場所が減るたびに、心臓が締め付けられるような気がした。

 

 梁づたいに下水道の最下層へと降り、あなたは頑丈な金属の梯子を見上げる。少女の家から梯子を下りて少し歩けば、すぐにここに辿り着く。だがこんな場所に、少女が果たして来るのか。もっと別の場所を探すべきなのではないか。まとまらない思考の中で、ふと過る記憶があった。

 

 

 ――君のご母堂は、オドン教会の地下で亡くなっていた。

 

 

 あなたは自身の迂闊さに吐き気を覚えた。

 

 恐らく少女は、その言葉を確かめるために家を出たのだ。暗く淀んだ夜道よりも、獣と成り果てた群衆よりも、そんなものよりも恐ろしく信じがたい事実を、きっと嘘だと確かめるために。

 

 あなたは弾かれるように駆け出す。汚泥のぬかるみに足を取られそうになりながら、横道を一つ一つ確かめ、少女のあの淡い金の髪を探す。

 段差を飛び降りたその時、飛び降りてきたカラスの蹴爪があなたの頬を抉った。跳ねた鮮血が右目を潰し、瞬間、焦燥は憤怒に姿を変えて噴き上がった。

 

「ッ、邪魔を……!」

 

 衝動のまま、あなたはノコギリ鉈をカラスに叩きつけた。ざりざりと羽根ごと肉や骨を断つ感触が手のひらに伝わり、断末魔の悲鳴が狭い下水道に大きくこだまする。

 

 それが命取りとなった。

 

 断末魔を()(つぶ)すかのように、(すい)(どう)の奥から金切り声がつんざめく。

 硬直が解けたあなたが振り向いた時には、地響きを立てて迫る巨体は目前にあった。

 

 衝撃。

 

 体の中から鈍く硬質な音がいくつも響くのを、あなたは聞いた。

 受け身も取れないまま下水道の壁に叩きつけられ、血混じりの吐瀉物が喉を、口を焼く。覆いの中に溢れたその熱が、滴り落ちて下水に散った。

 

 壁にもたれて崩れ落ち、息もままならず痙攣するあなたを、人喰い豚は覗き込んだ。口の端からはこの肥溜めにあってなお吐き気を催すような腐り澱んだ呼気を漏らし、歪んだ牙には真っ赤な毛束が絡みついて――

 

 

 ()()

 

 

 あなたは気付いた。気付いてしまった。あれは赤いのではない。血に汚れただけで、元は淡い金色をしていたことに。そしてその持ち主が、どのような末路を辿ったのかということに。

 

 暗い臓物の血の赤にまみれた、見覚えのあるリボンが結ばれたままの、少女の、髪。

 

 

 嘘だ。

 

 

 あなたは絶叫した。

 したつもりだった。だが喉から漏れるのは引きつった音ばかりだ。

 

 人喰い豚はその歪なあぎとを開いた。滴る赤に染まった口内を、そしてその赤をもたらしたであろう残骸を、あなたはただ見つめることしかできなかった。

 

 やがて軽く湿った音を立て、あなたの頭蓋は噛み砕かれる。

 それは恐らく、少女が(さい)()に聴いた音と同じものだったことだろう。

 

 


 

 

 少女の赤い髪に、白いリボンはよく映えた。

 

「――……あ」

「ハンターさん? どうしたの?」

 

 突如として凍りついたあなたを見上げ、ロージャは心配そうに首をかしげた。

 

「顔が真っ青よ。だいじょうぶ?」

「……、……ああ。悪い」

 

 あなたはかろうじてそれだけ絞り出すと、その場から足早に去る。医務室に駆け込み、扉に鍵を掛けると、その場にうずくまった。押さえた口の端からこぼれそうになるものを、必死でこらえる。

 

 

 これほどまでにロージャとあの少女を侮辱する行為があろうか。

 己に心底あきれ果てる。

 だが、彼女の髪が、それに映えるリボンが、あの記憶と結び付いた。

 結びつけて、しまった。

 

 


 

 

「おやすみなさい、ハンターさん。明日もよろしくね」

「ああ」

 

 女子の寝室の前で、ノブに手をかけながら、ユーリヤはあなたに手を振った。

 いつもの夜の挨拶である。しかし今日の彼女は、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに上機嫌だった。いつにも増してにこにこと笑っているユーリヤに、あなたは首を傾げた。あの小さな茶会を終え、ここまで一緒に歩いてきたところだが、その間に変わったことなどないように思えたからだ。

 

「何か、いい事があったのか?」

「ふふっ、ハンターさんにはないしょ。……マリーの言ってたとおりね。とってもすてきだったわ」

 

 首を捻るあなたを残し、ユーリヤは寝室へと入っていく。ポケットから見上げる先触れの精霊の生暖かい視線に気づかないまま、あなたもまた医務室へと戻った。

 

 扉を閉じ、鍵を掛ける。金具が擦れる音がやけに大きく響いた。

 開け放ったままの窓から晩夏の風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしていた。窓辺に寄れば、日は山の端に隠れ、暮れなずむ空は少しずつ暗さを増していく。

 

 もう、八月も終わる。

 

 ここに来て二カ月半が経つことを自覚して、あなたは小さな驚きを覚えた。

 

 ルーリンツに頼まれて野菜の皮むきや下拵えを手伝い、外の調査のかたわらでハーマンと共に家具や(たて)()の補修を行い、あるいはニルスの調べ物を手伝う。普段から体調を気に掛けてくれるユーリヤのいたわりはこそばゆいながら嬉しいもので、洗濯物の一件からマリーには頭が上がらない。ロージャについては、うまく接することができないなりに、せめて傷つけたくはなかった。

 それから、アレクシス。人ならぬ者でありながら、それ以外はほかの皆と何も変わらない優しい子だと、あなたは今までの付き合いから知っている。

 

 

 今日のことで、たとえ僅かでも、あの子に報いれたのなら嬉しい。

 

 

 皆のために役立つすべを探しては、日々自身の無知と無力さを痛感するばかりだった。確かに役に立てているのだと、卑下する必要はないのだと伝えてくれたユーリヤを、あなたは尊敬している。彼女だけではない。ほかの子供たちも、あなたにとっては(せん)(だつ)である。

 

 人として生きる、ということがどういうものなのかを、皆は教えてくれた。

 もしここに連れて来られなかったら、あなたは終わりのない悪夢をただ繰り返し続けたことだろう。それの行き着く先は、人からかけ離れたものである。

 血の遺志によって変質を繰り返した肉体は、常人の域を越えて久しい。ヤーナムの血はあなたを呪縛し、悪夢はいまだにあなたの後ろから現を眺めている。

 そのような身の上であっても、人として生きられるのだと。――それがたとえ、儚い白昼夢に過ぎないとしても。

 

 あなたは小さく息をつくと、壁に背を預けて座り込み、夢から注射器を取り出す。輸血液で満たされたそれを軽く振りかぶり、太腿に針を突き立てた。

 冷えた感触が皮膚の下に染み込んでいく。それはすぐに痺れるような熱さへと変わり、鼓動に乗って全身へと広がっていった。

 熱に浮かされた息が、口の端からこぼれ落ちた。部屋に漂う清涼な香は意識が快楽に蕩けることを許さず、この行動の悍ましさをまざまざと突きつける。

 

 注射器を夢に片付け、皮膚のすぐ下で這い蠢く快感に意識を委ねたまま、あなたはぼんやりとつま先を眺めた。

 

 どうしようもなく疼くのだ。

 

 変質した肉体すら容易に切り裂く爪を紙一重で避け、ノコギリ鉈で獣の肉を抉る。極限状態の命のやり取りの中で、温かく腥い血をしとどに浴びる。確かに耐え難い痛苦も味わったはずなのに、ふとした瞬間に思い出してしまうのは、あの興奮ばかりである。

 あるいは傷を負った体に、輸血液を打ち込む。痛みに軋む四肢に、生きる実感が満ち足りていくあの快感。

 血の常習を重ねた体は、それ以外に生きている実感を得る方法を持たない。この寄宿学校で生活するようになって二カ月以上経つ、今でさえ。

 

 食事は温かく、美味である。服や体は清潔に保たれ、ハーブのよい香りが染み込んでいる。子供たちはあなたを友と呼び、様々なことを教えてくれた。

 ここには幸福があった。ふとした拍子に恐ろしさを感じるほどの、穏やかな幸福が。

 

 だが、皆から与えられる幸福では、死闘による興奮も、血のもたらす(あらが)い難い多幸感も、そしてそれらが得られないが故の飢えも、埋めることはできない。

 

 

 それで構わない。

 あの子たちが与えてくれるもの血腥い快楽とは無縁である事の、何よりの証なのだから。

 

 

 あなたが顔を上げた時、僅かばかりの残照のほかに光はなかった。

 

 立ち上がり、窓を閉める。頭の疲れは血によって取れ、その血による酔いは僅かな余韻を残して消えていた。

 

 かつてヤーナムでヨセフカに返すためにかき集め、そして結局渡されることなく終わった輸血液は、今の使用頻度であれば一冬は越せるだけの量がある。

 だがこれまでに見つけられた妖精の痕跡はどれも古いものばかりで、文献調査の成果も芳しいとは言えない。

 時間は無駄にできない。

 

 こんな時、あなたは自身が眠らずともよい体になったことに強い安堵を覚える。ユーリヤには心配を掛けてしまっているが、しかし睡眠時間を本を読み込むことに()てられるからだ。

 

 携帯ランタンに火を灯し、あなたは夢から取り出した本を机に積み上げて、一番上の一冊を開いた。

 

 

“ああ、妖精が見えるお嬢さん

 君ももう分かっただろう?

 

 特別な命の時間ってのは

 その人自身の、命の時間だけなのさ

 

 誰だって、自分のものでない

 時間を生きようとすれば

 別の何かに変わっていくのさ”

 

 

 この本を(あらわ)したローアンの学徒は賢明だったのだろう。マリヤ・ウスペンスカヤなるこの人物は、知識の多くを物語に擬態させて残している。

 

 あなたは「特別なもの」の上巻に視線を移した。表紙には箔押しで、太い木の枝に腰掛けた少年らしき人影が描かれている。尋常の者はその正体に気づくことはないだろうが、アレクシスを知るあなたには、その絵が何を描いているのか理解できた。

 マリヤ・ウスペンスカヤ、あるいは彼女と親しい関係にあった人物は、妖精を視認できた。表紙の絵によってその確信が得られたからこそ、あなたは彼女の著作に信を置いている。そして文章の節々に滲む妖精への温かな視線は、親密な関係にあったからこそなのだろう、と。

 

 彼女のような人物がいたというのに、なぜローアンは悪い妖精を解き放つような末路を辿ったのか。

 今日の昼、様子がおかしかった校長の姿が脳裏を過る。あなたを除けばこの寄宿学校で唯一の大人である彼は、その理由を知っているのだろうか。

 

 

 煙に巻かれても追及を続けられるだけの知識は得られた。

 どのように切り出せば、より情報を引き出せるのだろう。

 

 

 ノブを捻る音がして、あなたは思索から顔を上げた。

 

 鍵のかかったノブが数度、金属音を立てる。足音もノックの音もしていなかったということは、おそらく扉の向こうにいるのはアレクシスだろう。

 

「待ってろ。今開ける」

 

 そうして開けた扉の先にいたアレクシスの、どこか所在なさげな姿に、あなたは目を瞬いた。

 

「……用事か?」

 

 言いにくそうに、アレクシスは視線をそらした。それでもあなたの手を取ると、ためらいがちに文字を綴る。

 

 

 “あのね。お昼に、日が落ちたら医務室に来ればいいって言ってたから。”

 “仲直り、できたけれど、おじゃましていい?”

 

 

 昼、とあなたは繰り返す。ポケットから顔を覗かせ、主張するように触角を揺らす先触れの精霊を見て、ようやく何の話か思い至る。

 

「……ああ、あの時の」

 

 得心の声を上げたあなたの前で、アレクシスは肩を落とした。

 

 

 “その、やっぱり迷惑だった?”

 

 

「そんな事はない。それに……」

 

 あなたにとっても、アレクシスの来訪は都合が良かった。

 

「とにかく入れ。それと、これを」

 

 先触れの精霊を、手の上に載せてやる。途端に緊張を解いて表情を緩めたアレクシスを、あなたは部屋に招き入れいた。

 

 机の角を挟んで、いつかの雨の日のように合い向かいに座る。先触れの精霊と戯れるアレクシスを眺めながら、思い起こすのは昼のことである。

 校長の言葉と、脳髄の奥の蠢きがもたらした()()()。妖精は命の時間を用いて過去に(さかのぼ)ることができ、そしてアレクシスは未来から戻ってきた可能性が高い。

 既に平静を取り戻した今、あなたはアレクシスに確認しなければならないことがあった。

 

「……訊きたい事がある」

 

 顔を上げたアレクシスと目が合った瞬間、喉の奥で言葉が詰まったような気がした。

 訊かねばならないことだ。そう分かっていてなお指先が震えるのは、ヤーナムでは感じたことのない恐怖に、体がすくんでいるからだった。

 

 

 この子を傷つけてしまう事が怖い。

 そしてそれ以上に、それによって今の関係が壊れてしまうかもしれない事が、何よりも、恐ろしい。

 

 

 あなたはシャツの上から首元の狩人証に触れた。硬い感触を確かめ、渇いた口から唾を飲み下し、そして、息に音を乗せる。

 

「お前は、未来から戻ってきたんだろう」

 

 アレクシスは動きを止めた。虹彩のない目を見開き、唇のあたりをわななかせて、あなたを見つめている。手元の先触れの精霊が案じるように身を寄せたが、それにさえ反応を見せなかった。

 

(きゅう)(だん)するつもりはない。何があったのかを訊くつもりも。少なくとも今、お前は焦っていない。皆の手伝いのほかは、特に行動を起こしてもいない。お前が未来から戻ってきた原因は解決できたと、そう考えていいのだろうから」

 

 あなたは少し、嘘をついた。

 アレクシスはいつもどこか緊張している。それは、未来から戻ってきた原因を完全に解決できていないからこそなのだろう。あなたはそう確信していた。

 

 人の命の時間を元とする赤い指輪。アレクシスに命の時間を奪われてもいいと考えていたというユーリヤ。子供たちの手の届く場所にある、妖精と命のやり取りについて書かれた本。ハーマンの持つロッブの森へ繋がる扉の鍵と、彼の行動への躊躇いのなさ。子供たちが、どれほど互いのことを大切に思っているのか。

 アレクシスとユーリヤの間で合意があったとしても、ことがことだ。妖精についての知識を持たない皆に詳細を伝えることはないだろう。何よりユーリヤ以外の子供たちは、外の悪い妖精の存在を知らないのだ。

 何が起きたのか、想像に難くない。

 

 そして、この子が果たせたのはあくまで起きたであろう悲劇の回避であって、原因自体は(つぶ)せていない。外にまだ妖精がいるということ自体が証拠である。

 それを責めるような真似だけはしたくなかった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()何の役にも立たなかったのだろう。そんな中で、この子は自分にできる精一杯をやり遂げたのだ。責めて、いったい何になるというのか。

 

 

「妖精は、人間の命を用いて過去に戻る事ができる。……それは間違いないか」

 

 アレクシスはうつむき、小さく頷いた。目元は強張り、肩は消沈している。あなたにそのつもりがなくとも、この子にとっては今まさに、過去の罪を暴かれているように感じるのだろう。この子は未来から戻ってきた。それはつまり、誰かの願いと命の時間を託された――大切な誰かの命の時間を奪わざるを得なかったということなのだから。

 

「確認したいのは一つだけだ。……悪い妖精は、時間を遡る事ができるのか」

 

 アレクシスは左手を伸ばし、恐る恐るあなたの手に触れた。

 

 

 “私が見た、ロッブの森にいた妖精は、青い指輪と金枝を持ってた。”

 

 

 青い指輪に、金枝。初めて聞く単語を頭の片隅に留め、あなたは手のひらに書かれる言葉に集中する。

 

 

 “あのひとは過去に戻れる。何度もみんなやおじいさんから命の時間を奪ったのは、そのためだと思う。”

 

 

「……、……何度もあった、のか」

 

 

 “繰り返したの。みんなを止められなくて。”

 “たぶん、それはあのひとも同じだと思う。”

 “変えたい過去があって、でもうまくできなくて、それでも諦められないのだと思う。”

 

 

「……そう、か」

 

 あなたはほぞを噛んだ。同時に、今までの探索で出くわさなかったことの幸運を理解する。

 

 一度でも命の時間を奪われれば、たとえ夢に依って死をなかったことにしたとしても、あなたが遭遇地点に戻る頃には妖精は手の届かない過去へと旅立ってしまっているだろう。そして妖精が過去に戻ることを目的としている以上、それ以降に現れる可能性は極めて低い。

 そして妖精が引き起こす過去の改変によって、どのような影響が出るかも分からない。どころか、アレクシスの経験した時間の中であなたが妖精と遭遇していた場合、相手にどれほど手の内が知られているかも知れないのだ。

 

 死を夢としてなかったことにする、という、あなたに許された絶対的な優位性は、妖精には通用しない。

 

 あなたは、人間を一撃で殺害しうる力を持ち、追うことのできない場所へ離脱可能な存在を、一度の攻撃も逃走も許すことなく狩らなければならないのだ。

 

 

 “だけど、”

 

 

 アレクシスは指を止めた。言葉を選びあぐねるように、幼い指先があなたの手のひらをなぞる。やがて、ためらいがちに動かし始めた。

 

 

 “学校の外で、生き物の命の時間を奪っている妖精は、あのひとじゃない、かもしれない。”

 “過去を変えたいなら、あのひとには人の命の時間を奪う理由はある。”

 “でも、ほかの動物の命の時間を奪う理由は、どこにもないんだよ。動物や植物の命の時間では、過去に戻れないから。”

 

 

 短く吸った息が音を立てた。茫洋とした推測に過ぎなかったはずのそれが急速に輪郭を得て、のしかかる。

 

「……お前の見た妖精のほかに、別の妖精がいる可能性がある、のか」

 

 アレクシスは頷いた。

 

 

 “ロッブの森には山小屋があって、そこにおじいさんと白猫がいたのだけど、そのおじいさんの手帳にはね、妖精がまだ一人残ってるって。”

 “今でも外の生き物の命の時間を奪ってる妖精がいるのだと思う。ただそれは、私が見たあのひととは別、かもしれない。”

 “はっきりしたことが言えなくてごめんなさい。校長先生なら、なにか知ってるかもしれないけれど。”

 

 

 ロッブの森の山小屋に、直近で人が住んでいる様子はなかった。その老人と猫はこれから現れるのか。それとも、何らかの要因によって既に妖精と遭遇し、死亡したのか。

 

「追加で訊く。お前が妖精を見た日の、日付は分かるか」

 

 

 “11月3日。今年の。”

 

 

 今からおよそ二カ月後。ほかに悪い妖精がいるとしても、過去を変えうる妖精は逃がすわけにいかない。

 あなたが意識を引き締める前で、アレクシスは震える指を動かした。

 

 

 “ねえ、ハンター。直接妖精に会ってどうにかしよう、とか、考えてないよね。”

 

 

「……え?」

 

 直接対峙できなければ狩りようがないのに、なにを当たり前のことを、とあなたは呆気に取られた。

 ぽかんと見つめ返すあなたを見て何を思ったのか、アレクシスは何度も首を横に振る。

 

 

 “あのひとはきっと諦めないよ。なにを言っても、響かないと思う。やり過ごせるならそっちの方がいい。”

 “無茶はしないで。おねがい。”

 

 

 その言葉の意味を、しばらく考えた。そうして、お互いの認識の間に刻まれた断絶の深さを知る。

 

 この子はそもそも、自分から他者に暴力をふるう、という行為自体を思いつけないのだ。

 

「……分かった。大丈夫だ。無理はしない」

 

 あなたの返答に、アレクシスは強い怯えの中で、少しだけ肩から力を抜いた。その安堵は、ロッブの森の妖精によってあなたが害される心配がなくなったことへのものだろう。かつて刃物を喉に突きつけられ恫喝された経験があってなお、あなたが暴力をふるう側だとは決して考えていないのだろう。

 

 この寄宿学校において、ほかの誰かを叩く者など皆無である。大切な人々を奪い去る存在への対抗だとしても、その発想が浮かばなくてもおかしくはない。

 

 いや、あるいは、とあなたは思い直す。

 

 大切な誰かの命を自らの手で奪ってしまった経験があるからこそ、その恐ろしさが身に染みているからこそ、この子は他者を傷つけるような選択肢を意識から除外しているのかもしれない、と。

 

 あなたの手を握るアレクシスの手は柔らかい。誰かを傷つけることなど、とてもできないような小さな手のひらだ。その震える小さな手が、あなたの節ばった手のひらに弱々しく字を書く。

 

 

 “あの時  ハンターがいてくれたら、あんなことにはならなかったのかな”

 

 

 あの時、いてくれたら。それはつまり、皆の危機に居合わせなかったということだ。

 手の内が見られている可能性が低いことへの安堵以上に、当時の自分自身の不甲斐なさに、あなたは奥歯を噛み締めた。

 

「その時の私は何をしていたんだ。皆を危険に晒すなど……」

 

 アレクシスはきょとんと、まるでそれまでの怯えさえ吹っ飛んでしまったように目を丸くした。小首を傾げ、困惑を目元に浮かべて、あなたの手に言葉を書く。

 

 

 “えっとね、いなかった。ハンターは学校にいなかったよ。”

 

 

 あなたはまず、自分の読み間違いを疑った。

 

「いなかった?」

 

 繰り返したのも、否定されると思ってのことだ。だがアレクシスは頷いた。

 

「……事が起こる前に、寄宿学校を離れてしまったという意味か?」

 

 そういうことなら(ごう)(はら)だがあり得るだろうという納得さえ、アレクシスはすぐに首を振って否定した。

 

 

 “たぶんだけど、そもそもいなかったの。”

 “私も、十月より前のことはあんまり知らないのだけれど。でもいたならどこかで話題に出てたと思うし、それに校長先生の日記にも書いてなかったもの。”

 “私がはじめてハンターを見たのは、指輪をユーリヤに返してからだよ。門の外に倒れてるのを見つけたの。”

 “たぶん、ロッブの森の妖精が過去を変えた、その影響なのだと思う。”

 “そのあたりはよく分からない。ごめんなさい。”

 

 

 あなたは絶句したまま、アレクシスの書く言葉を見つめていた。

 

 この医務室で目覚める前のことは、あなたもよく覚えている。疎らな林の中で倒れたことも、気絶する間際に、この子と同じ色の光を見たことも。

 あなたは、あの時見た黄金色を、アレクシスだと思っていた。この子が見つけて、ここまで運んできたのだと。

 だからこそ理解ができない。

 

 

 あれは、アレクシスではないのか?

 なら誰が己をこの寄宿学校まで運んだ?

 そもそもいなかったというのはどういう事だ。妖精が過去を変えた影響というなら、ここに辿り着けなかったそれまでと、辿り着く事ができた今回とで、何が変ったというのだ。

 この子以外の別の妖精が、己を助ける理由は、何だ。

 

 

 手のひらを軽くつつかれて、あなたは我に返った。

 アレクシスは心配そうにあなたを見上げている。

 

「あ、いや、ええと……」

 

 言い訳も思いつけないあなたの手を、アレクシスは弱々しく握りしめた。

 

 

 “ごめんなさい。変なこと言って。”

 “気にしないで。今、ハンターがいてくれるのがうれしいもの。”

 “どこにもいかないでね。みんなのこと、よろしくね。”

 

 

 あなたは息を呑み、そして目を伏せた。

 

 あなたは嘘をついている。隠し事をしている。そしてそれを、打ち明けることができないでいる。

 遠くないうちに、あの雨の日に交わした約束を破るのだと。それだけのことが、言えずにいる。

 

 答えられない代わりに手を握り返すと、アレクシスは目元を緩めた。

 

 夜は少しずつ深まり、時は決して止まらない。

 そして、また朝が来る。

 

 


 

 

 ()は見ていた。だから知っている。

 

 だが同時に、あれが意味するところなど、どうでもよいと思っていた。いいや、今でこそあなたに少しばかりの融通をきかせているが、当時はそもそも外界にさして興味を持っていなかった。

 たとえあなたがヤーナムの外に出たとしても、死ねば夢に引き込んでまた悪夢へといざない、狩りの全うを促す。かつてのあなたが月の上位者へ呼び掛けた通りに処理するつもりしかなかったのだ。

 

 だから、私が知っているのは何が起きたのかだけ。どのような意志の元に為されたのかは、ほんのひとかけらの手掛かりのほかは何も判明していない。

 

「……詳しく教えてくれ」

 

 あの日。あなたが林の中で倒れた時、その近くには白い亡霊がいた。

 曖昧な輪郭を大気に滲ませたその亡霊は、ヤーナムの地下遺跡をさまよう巡礼者のようにも見えた。胸の高さに掲げられた手には奇妙に捻れた金の短杖を携え、硬く閉ざされた目元は紺青の光に覆われていた。

 亡霊はおぼつかない足取りで、しかし確実にあなたを目指して歩いていた。その足に触れた下草はみるみるうちに白く枯れ、足跡を転々と残していく。

 

 だが唐突に、まるであなたを(かば)うように、黄金色の人影が現れたのだ。

 

 それは倒れたあなたを一瞥すると、亡霊へと右手を伸ばし、金の短杖に触れた。

 途端、目を見開いた亡霊は光となって散り、それの右手へと収束する。中指の付け根で赤い光が不安定に揺らめき、震え、そしてそれの右手ごと破裂した。

 

 砕けた右手をかばいながら、それは親しげにあなたの頭を小突いた。それから落ちていた輸血液を拾い、慣れない手つきであなたの太腿に打ち込む。

 

 呼吸が落ち着いたあなたを背負い、それは歩き始めた。途中何度も崩れ落ちそうになり、そのたびにあなたを背負い直す。右手の損傷は少しずつ広がりを見せ、日が暮れる頃には肘から先が、夜が明ける頃には肩の付け根までが崩れてなくなっていた。

 

 やがてこの寄宿学校に辿り着き、あなたを門のそばに転がし、塀にもたれて座り込んだ。その時にはもう、右半身は失われていた。最期に門を軽く揺すり、そのまま春の陽射しのなかで、淡雪が溶けるように消えてしまった。

 アレクシスが門の前に立ったのは、それが消えた後のことだ。

 

 ただ、消える直前に、それはあなたの手のひらに言葉を残した。残った左手で、おぼつかない手つきで、しかしどこか慣れた様子で。

 

 ――“後は任せたよ、ハンター。”と。

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