もし、あの人がここにいたら。
あんなものになり果てることもなく、人のままだったら。
今もみんなと一緒に笑っていたのだろうか。
日々の移ろいを見つけて、その幸せをみんなと分かち合って、笑って毎日を過ごしていたのだろうか。
あれからずっと、そんなことを考えている。
「あ、アレクシス」
杖をつく音が止まって、教室の入り口からニルスとロージャが顔を覗かせた。
私は物思いから浮かび上がって、ぼんやりと視線をそちらに向ける。頭の上のエビーが、代わりに触角を振って応えてくれた。
ロージャはニルスに付き添われながらゆっくりと歩いて、私の隣に腰を下ろした。それから正面を向いて、はにかんで笑う。
「また見てたのね。アレクシスが手伝ってくれたおかげで、今まででいちばんうまく描けた自信があるのよ」
第二教室の後ろの黒板には、ロージャが描いたみんなの似顔絵が飾ってある。ユーリヤ。ルーリンツ。ハーマン。マリー。ニルス。それから校長先生に、ハンター。それぞれの肖像画と、それからロージャが練習代わりに描いた自画像。絵を見たみんなはとても喜んでいて、数日が経つ今でも、よく誰かが絵を眺めに来るのを見かける。
“それならお手伝いしたかいがあったよ。でも、ほとんどロージャのがんばりの結果だよ。”
私が手伝ったことなんて、形を取ったり陰影をつけたり、絵を描く時のちょっとしたこつを教えただけだ。
“私ね、ロージャの絵がすごく好き。”
“見てると温かい気持ちになれるの。”
机に置きっぱなしだった小さな黒板にそう書くと、ロージャはくすぐったそうな笑顔を深めた。
「えへへ、ありがと。……うーん、でもなぁ……」
ロージャはにこにこ顔から一転、頬をぷくっとふくらませた。ロージャの隣に立ったままのニルスが、ちいさく首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「アレクシスのことも、描いてあげたかったのに」
ニルスは困ったように私のいるあたりを見た。もし私に体があったら、きっと顔を見合わせることになっていただろう。ニルスの目は少しさまよった後、頭の上のエビーに合わせられた。
「でも、アレクシスは幽霊みたいなもので、僕たちには見えないから……」
「分かってるけど、それでも描きたかったなって」
“気持ちだけで嬉しいよ。気にしないで。”
頬をしぼませて、ロージャは首を振った。
「そういうわけにはいかないわ。アレクシスにだっていつも助けてもらってるのに、私、なにも返せてないもの」
そこで
「それに私、アレクシスよりお姉さんなんだから。ね?」
ロージャが、お姉さんなんだから、と背伸びするようになったのは、実はここ一カ月くらいのことだ。
――ねえねえアレクシス。ユーリヤから聞いたのだけど、私より年下ってほんと?
――じゃあ私、アレクシスよりお姉さんなのね。……お姉さん、お姉さんかぁ……えへへ。
――よし、分からないことがあったらなんでも聞いてね。困ったことがあったらすぐに言って? 私、力になるから!
そんなことがあってから、すっかりお姉さんとして、私のことを気づかってくれている。
こうやって年下として扱われるのは、実はなんだか落ち着かない。私にとっては、むしろロージャの方が年下というか、守らなくちゃいけない存在だって印象が強いからだと思う。そんなことを言ったら、ロージャ以外のほかのみんなに対してもそうなのだけれど。
優しい笑顔でやりとりを眺めていたニルスを、ロージャはふと見上げた。
「そうだ。ねえニルス、メガネ貸して」
「え、どうして?」
「ちょっと実験」
受け取ったメガネを目の高さに掲げて、ロージャはむっと細めた目で私のいるあたりを見つめた。
「……うーん、見えない」
思わずといった様子でニルスが吹き出した。
「さすがにそれは無理だよ。メガネで見えるなら、僕にだって見えてるはずだからね」
「そっか……すこしざんねん」
少しどころじゃなくとっても残念そうに、ロージャはニルスにメガネを返した。
私の頭の上で、エビーがぺちぺちと尾を振った。
きいてみたら?
あのひとは えごころとかないから だめだけど
こうちょうせんせいか しろいかみのこ
ふたりは むかしのあなたを しってるのよね?
昔の……あ、それなら。
“それなら、校長室の上の物置に、私が赤ん坊だったころの写真があるよ。”
“ほんとに赤ん坊だから、あんまり参考にはならないかもしれないけれど。”
「ほんと!?」
「それって……」
ぱっと表情を輝かせたロージャの隣で、ニルスは目を伏せた。
“ニルス、なにか心配ごと?”
“鍵は今はかかってないって聞いてるけど。”
危ないからと鍵がかかっていた物置も、ここ最近は開けっぱなしだ。ハーマンたちが空いた時間に、壊れた家具を少しずつ修理してる関係だと聞いている。もうみんな分別のつく年頃だから、大丈夫だろうってことになったらしい。
「……ううん。気にしないで。なんでもない。アレクシスこそ平気かい?」
“? うん。”
「なら、いいんだけど……」
「よいしょっ」
歯切れの悪いニルスを横目に、ロージャは杖をついて立ち上がる。
「ねえねえ、さっそく見にいかない?」
「え、でも、二階だよ?」
“なんだったら取ってくるけど。”
「だいじょうぶよ。痛いけど、でもだからって動かないと動けなくなるもの。二人とも、行こ?」
そう言って、ロージャはわくわくと教室を出て行く。
そのあとを追いかけようとニルスは足を浮かせ、だけど思い出したように私の方へと振り向いた。
「アレクシス。僕もね、君になにかお返しできないかなって、ずっと考えてるんだ」
“お返しなんて。してもらえるようなこと、私はなにもしてないよ。”
「そんなことない。食事の配膳も、掃除も、それから洗濯も、いつも手伝ってくれてるじゃないか。染め物の時だって率先して動いてくれたし、図書室の虫干しだって、アレクシスがいてくれたから、いつもよりずっと早く終わったんだ。ルーリンツたちとも相談して、いろいろ考えてるところなんだ。楽しみにしててほしい」
それだけ言って、ニルスは小走りでロージャのあとを追いかけていく。
……どうしよう。困ったな。本当に、お返ししてもらえるようなことなんて、できてないのに。
ニルスも私に優しい。それはたぶん、私のことを妖精じゃなくて幽霊だと思ってるからだ。ユーリヤが元気になったからなのか、あの時みたいにはっきりと妖精を嫌うことはないけれど、それでもロージャが妖精の出てくる本を読んでいるとあまりいい顔をしない。
もし私が妖精だったのだとニルスが知ったら、どうなるのだろう。変わらず優しくしてくれるのか、それとも。
――ああ、やめておきなよ、ロージャ。
――妖精は……――
どうしたの?
ふたりとも いってしまうわ
エビーに急かされて、私も書きかけた黒板とチョークを置いて廊下に出る。追いついた時には、二人は階段を昇り始めたところだった。
「すべりやすいから気をつけて」
「うん、だいじょうぶ」
ロージャはよいしょ、よいしょと掛け声をあげながら、手すりを掴んで一段一段ゆっくりと昇る。右足が軸になる時は少しよろめくこともあって、すぐにニルスが支えてあげていた。私はただ、それを見ているだけだ。
体がない私には、ロージャを支えてあげることはできない。
それだけじゃない。私にできることなんて本当に少なくて、お返ししたい、なんて言ってもらえるほど役に立ってなんてないのだ。
それに。
「……あ、ハンターさん。お疲れさま」
ニルスの声につられて顔を上げる。手すりに手を掛けて、ハンターがこちらを見下ろしていた。二階の図書室から来たのか、腕には本が抱えられている。
ハンターは引き結んだ唇をほどいて、いつもより幾分低い声を出した。
「手伝いは必要か」
「だいじょうぶよ、気にしないで」
ニルスが答えるより先に、ロージャが首を横に振った。頷いて、ハンターは足早にロージャとすれ違う。
「……? 調子、悪いのかな」
背中を見送ってひとりごちるニルスの横で、ロージャは急くように杖を踊り場について足を上げて――ついたはずの杖ががたんと滑った。
「きゃ……!」
ロージャの体がぐらりと傾ぐ。
「え?」
振り向くニルスの横をすり抜け、ロージャの体は階下へと落ちていく。
私はとっさに手を伸ばす。ロージャの手首に届いたはずの指先は、何も掴めないまますり抜ける。ロージャの体が落ちていくのを、ただ見ているしか――
「っ、ロージャ!!」
ニルスの叫びを追って重い音が響き、杖が転がる乾いた音が鳴った。
小さな呻き声で、私は我に返った。跳ぶように階段を降りるニルスを慌てて追いかけて、二人のところに駆け寄る。
「ロージャ、大丈夫!? ハンターさんも……!」
放り出した本に囲まれて、ロージャの下敷きになるように、ハンターが倒れていた。ハンターは手を伸ばして、びっくりして固まったままのロージャの肩に添える。
「
「え、えっと、う、うん」
ゆっくりと、ハンターはロージャを抱えて上体を起こす。隣にひざをついていたニルスが、ばたばたとロージャの体を検めた。
「大丈夫? 本当に痛いところはない? 足も……!」
「えっと、ほんとにだいじょうぶよ。ハンターさんが、受け止めてくれたから……」
「……その、怪我は」
低い声が二人の間に割って入った。
ハンターの瞳はじっとロージャの右足に注がれていた。裾がめくれて露わになったすねには、包帯が巻かれている。朝には取り替えているはずなのに、もううっすらと鮮やかな血がにじみ始めていた。
「あ、えっと、気にしないで。元からこうなの」
言いながら、ロージャはハンターから降りて、スカートの裾を直した。その隣でニルスが口を開く。
「ロージャの足の怪我は、ずっと血が止まらなくてさ。ユーリヤが元気になってからは、僕よりずっと上手く手当てしてくれるから、だんだん小さくなってきてはいるんだけど……」
「でも、血が止まらないっていっても、ほんとにほんの少しだけよ。たいしたことないから気にしないで」
二人の説明を聞いても、ハンターは眉根を寄せて、じっと包帯が巻かれている部分を見つめている。目を伏せ、悩むように唇を噛みしめて、やがてロージャの目を見つめて言った。
「それは、
「なに、って……」
「普通の怪我ではないはずだ」
息をのむ音は、はたして誰がこぼしたものだっただろう。
「心当たりがあるんだな?」
みるみるうちに顔から血の気が引いていくロージャの隣で、ニルスは落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
「何にって……誰かがロージャに怪我をさせたって、こと、なら……」
「違う。誰かのせいだと言いたいのではないんだ。……メンシスの悪夢の外縁と同じだ。あれは遺志だったが……」
ひそめられた声はかろうじて聞こえたものの、その意味はよく分からない。
「……ハンターさんは、あれが、なにか知ってるの?」
絞り出すような声は、普段のロージャとはまるで違う。
ハンターは立ち上がり、飛んでしまった杖を拾ってロージャへと差し出した。
「似たようなものを知っているが、それだけでは確かな事は言えない。だから詳しく話を聞かせてほしい」
騒ぎに集まってきたみんなに何が起きたのかを説明して、ハンターの背中の手当て(本人はいらないって言ってたけれど、ユーリヤに押し負けて打ち身の薬を塗ってもらっていた)を受けたあと。
「……今年の冬にね、ニルスが熱を出したことがあったの。何日もずっと熱が下がらなくて、うなされてて、私、すごく心配だった。そんな時にね、窓の外、桟橋に、赤い光を見つけたの」
応接間に場所を移し、ソファに浅く座ったロージャは、ぽつぽつと、言葉を選んでいく。
隣に座ったニルスは心配そうな表情を崩さないまま、ずっとロージャの手を握って離さない。その目に悔しさが滲んでいるのは、見間違いではないのだろう。
「赤い光は妖精さんの指輪の光よ。本に書いてあったもの。だから私、妖精さんにお願いしようと思ったの。ニルスの病気を治してくださいって。それで、裏口から出て、お祈りの川のところまで行ったの。冬の嵐で、すごい雨と風だった。そしたら……」
ロージャはうつむく。やがて細い声が、唇の端から漏れた。
「……私、よくないものを見たわ。だからきっと、足がずっと痛いままなの。夜になると、夢の中で誰かが怪我をなでて、それが痛くて……」
がたんと音を立てて、ニルスが立ち上がった。
「そんな、そんなこと、一つも言ってなかったじゃないか。どうして……」
「だって、ニルスに、心配かけたく、なくて……」
ロージャの声はどんどん湿り気を帯びていく。唇を噛んだニルスの肩を軽く叩いてなだめ、ハンターは静かに問う。
「その、よくないものの姿は分かるか」
「……わからないの。どう言えば伝わるのか、分からない。うまく言えないの」
うつむいたロージャは、首を横に振った。
「すごくこわいものだった。それしか、分からないの……」
ハンターは目を閉じて、しばらくなにか考えているようだった。じきにまぶたを開けて、私たちの顔を順々に見渡す。
「悪かった。嫌な事を思い出させた。……グレイブズに少し話を聞いてくる。ここで待っていてくれ」
そう言い残して、ハンターは足早に応接室から出て行く。私もまた、ソファから立ち上がって部屋を出た。
「……アレクシス? どこに……」
背中越しに聞こえたニルスの声に、応えられないことを心の中で謝って、ハンターとは反対の方へ向かう。
まってなくて いいの?
空中に“うん”とだけ書いて、私は階段を上がる。女子の寝室の前に置かれた写真立てを、手に意識を込めて持ち上げた。
重さも何も感じられないはずなのに、手にずしりと負荷がかかったような気がした。
ロージャの怪我のこと、ハンターはどうにかできるのだろうか。
似たようなものに心当たりがある、とは言っていた。それはたぶん、怪我そのものじゃなくて、毎晩ロージャを苦しめているものについてなのだろう。
あれくしす だいじょうぶ?
さっきから すごくつらそうよ
ぺち、とエビーの尾が私の頭を軽く叩いた。そのちいさな刺激で、私は我に返る。
とにかく考えるのは後だ。今は知ってることをハンターに伝えなくちゃ。
重い足を引きずるようにしてたどり着いた校長室の扉は、開けっ放しになっていた。扉の陰に隠れて、そっと中の様子を窺う。
「……以上が、ロージャから聞いた話だ」
うなだれた校長先生に向けられるハンターの声は低い。
「かつてお前は、妖精は止まった時間に棲まい、命の時間を奪うと言っていたな。ごく
校長先生の枯れた指の隙間から、細く息の音が漏れた。それはだんだん引きつり、そして笑い声に変った。
「……ああ。これが、愚か者への、罰か」
からからに乾いた声で、校長先生は笑う。
「ロージャとアレクシスを救う手段も知っている。後を託せる誠実な若者もいる。だというのに、先送りにしてきた。……まだ、もう少し、あの子たちの先を見たい、などと」
「何を……」
顔を覆っていた校長先生の手が、ぼとりと膝の上に落ちる。あらわになった白く濁った目は、ぼんやりと私のいる場所を見つめていた。
「アレクシス。こちらに来なさい」
弾かれるようにハンターは振り向き、私を見て目を見開いた。
「お前、聞いて……!」
校長先生は引き出しに鍵を差し込んだ。震える手で開けて、中に入っていたものを胸の高さに掲げる。
それを見た瞬間、頭が真っ白になった。
足元でがたんと大きな音がして、写真立てを落としてしまったことを知る。写真の中のあの人は、ただ微笑んでこちらを見つめている。
おちついて
どうしたの
「ユーリヤに指輪を返したお前に、このような頼みをすることがどれほど残酷な真似か、分かっておるつもりじゃ。だがこれ以外にないのだ。あの娘を救う方法も、私が罪を償う手段も」
いつかのように壊れてしまっていればいいのに、どこも欠けたところのない輪が、じっと私を見つめていた。
金枝。
生きている命に根を張って、命の時間を奪い、枯らすもの。
「アレクシス。……いいや、金枝を持たぬ妖精よ。私の命の時間を奪い、指輪として妖精へと戻り、そしてどうかロージャを助けておくれ。あの嵐の夜に、あの娘がひどい怪我などしないように」
そう吐き出す校長先生の姿を、私は知っている。
だって、見たことがあるから。一度じゃない。何度も。
――そうだ、妖精よ、命の時間を喰らうがよい……そしてどうか、計らっておくれ。あの娘が、ロージャが、傷つかぬように。
ぐるぐると視界が揺れる。
校長先生の命の時間を奪う、なんて。
でもロージャはずっと苦しんでいる。それを解決する力がすぐ目の前にあるのに、見て見ぬふりをするのは正しいのか。
そんなことをすれば校長先生は、あの時のユーリヤみたいになってしまう。そしたらまた、みんなは外に出てしまうんじゃないのか。外に出て、また、命の時間を、あの金色の手が。
――あなた、動いてはだめよ。
――そのまま見ているの。
――あの娘たちの命の時間は、もう、あなたのものではないのよ。
「頼む……!」
弾かれるように私はその場から飛び出した。ハンターの呼び止める声が聞こえても足は止められない。
どうすればいい。
どうするのがいちばん正しい。
ロージャの足のことから、ずっと目を背けてきた。私はもう妖精じゃない、できることはなにもないって。
けれど校長先生の望む通りに、妖精に戻れば、外に出ようとしたロージャを止められる。二回、違う手段で止めたのだ。また同じことをすればいい。
それで、また、繰り返すのか?
あの時、ユーリヤにみんなを止めてとお願いされたのに、私は医務室に寝かされた動かないユーリヤがショックで、同時に、私にならどうにかできるかも、なんて思い上がった。みんながユーリヤのための大きな命を探しているなら、私もきっと役に立てる、なんて。
私は、なにも理解していなかった。
なくして困ってるみたいだから、眼鏡を探して返した。それがニルスを奥に進ませた。
――大丈夫、すぐに戻るから。それに、帰り道に迷ったら大変だからね。ロージャにはここで呼びかけてほしいんだ。
ハーマンならきっと何とかしてくれる。なにも考えずに人任せにして、松明に火を着けた。
――おおい、こっちだ! 悪い妖精! ここにいるぞ! 持っていけ、僕の命の時間を!
マリーの髪を撫で、ロージャのかじかんだ両手を包む手のひらの優しさはあまりにおぞましかった。なのに私は動けなかった。友達が、目の前で、命の時間を奪われていったというのに。
――ああ、だめ……ロージャ、逃げて……
――寒くて、痛いよ……助けて、マリー……妖精さん……
そして、ルーリンツに全てを背負わせてしまった。私がなにもしなければ。いいや、私がいなければ、みんなが外に出ることはなかったのに。
――……ごめんよ、ユーリヤ……いいお兄さんになれなかったよ……
考えて、考えて、何度も何度も考えた。鍵を捨てるだけじゃ足りなかった。ニルスに外のことが書いてある本を渡して、ヌーをお祈りの川に流した。
どれほど考えても、状況は変らずにただ繰り返すばかりだった。
なにを選んでもなにもできなかった。取り返しがついたところで打開なんてできなかった。
打開するどころか、もっとひどいことにしか、ならなくて。
――ありがとう、妖精さん。みんなをよろしくね。……あなたみたいな、いい妖精さんになりたかったな……
ぜんぶ、私のせいだ。
私がユーリヤの時間を奪ったせいだった。
そのせいでみんなを苦しませてしまった。何度も、何度も。なかったことになったとしても、全部、私が。
だから私がいなくなればいいんだって分かった時は、心の底から安心した。ユーリヤから奪ってしまった命の時間を、あるべき場所に返せばいいんだって。
それで話は終わりだった。終わりだったはずだ。再会した時、ユーリヤだってお礼を言ってくれた。もう二度と、
ユーリヤが元気になって、誰も欠けることなくみんなで笑い合っていて、それで良かったはずなんだ。
ロージャの足のことも、あの人のことも、外のことも。
なにも解決できていないことから目をそらしたまま、そう信じようとした。
飛び出した裏庭はただ静かだった。
よろめく足で桟橋の先まで歩く。ひざを折って覗き込んだ川面は陽射しにきらめいて、山間から谷の向こうへと、ずっと流れ続けていた。
頭の上で、載せたままのエビーが身じろぎをした。なにか伝えようと銀の靄が揺れて、それは言葉のかたちを取れずに消えていく。ただそれでも、私を案じてくれていることは分かった。
その気持ちが、どうしようもなく、ただ、苦しい。
選択が、怖い。
何かを自分で考えて選ぶことが。
そのせいで、みんなをまた苦しませることが。
考えはどろどろとまとまらなくて、のどの奥から今にもあふれてしまいそうだった。
分からない。
どうすればいいのか。何が正解なのか。何を選べば、みんなのためになるのか。
何度も何度も繰り返した中で、私が選びとれた正解はたったひとつだけだ。また間違えて、みんなを傷つけたら。
「……見つけた」
背後で軽い足音と、杖が地面を突く音がした。それだけで胸に鋭い痛みが走って、じわりと視界がにじむ。
「アレクシス。ここにいたのね」
振り返った先にいたニルスとロージャは、ゆっくりと歩いてくる。そのまま動けない私の隣に腰を下ろし、持っていた小さな黒板とチョークを私の前に置いた。
ニルスは唇を引き結んで、まっすぐに私がいる当たりを見つめた。
「あのさ。僕たち、聞いていたんだ。アレクシスはこっちに気づかなかったみたいだけど、図書室の棚に隠れてハンターさんたちの話を聞いてたんだよ。ロージャの怪我のことも……アレクシスが妖精だってことも。校長先生の命の時間があれば、ロージャの怪我をなかったことにできるってことも」
頭を殴られるのは、こんな衝撃なのだろうか。
ないはずの心臓が割れそうなほど跳ねて、頭の中が真っ白になる。細く潰れるような奇妙な音が耳に届いて、しばらくしてから口の端から漏れだした声とも呼べないような音だと悟る。
ロージャはそっと、右足の怪我に手を重ねた。
「アレクシスって、妖精さんだったのね。ユーリヤは違うって言ってたから、幽霊とか、そういうものだと思ってた」
「ユーリヤがぼかしたのは、僕が妖精のことを良く思ってないからだと思う。……もし最初に知ってたら、きっとアレクシスにつらく当たってしまってた。君がすごく優しい子だって、誰かを傷つけるような人じゃないって、知ろうともしなかっただろうから。ごめん」
謝ることなんてない。
それだけが頭に浮かんで、伝えることもできずに消えていく。
「……私ね、ずっと、妖精さんがいたらって思ってた。ユーリヤがよく話してくれる、いたずら好きで友達思いの、とっても優しい妖精さんがいたら、きっと毎日がもっと楽しくなるんだろうなって。……それに、あの本にあったみたいに、もしみんなになにかあっても、助けてくれたらいいなって」
ロージャは深く深く息を吐いた。そうして、私の目をまっすぐに見つめる。
「でもね。私は、私を助けるために、校長先生がいなくなるのも、アレクシスが苦しい思いをするのも、いやなの」
その言葉の意味が分からなくて、私はぽかんとロージャを見つめ返した。
布に落ちた水滴が広がるように、じわじわと、その意味が染みこんでくる。
だって、でも、それって。
「ハンターさん、校長先生に怒ってたわ。飛び出す直前、アレクシスが泣いてたって。あの子が泣き出すくらいつらいことを、どうしてさせようとするんだって。……いいのよ。つらいことを、無理にしようとしなくていいの」
手を伸ばし、意識を込めて、チョークを取る。震える手で書いた字はがたがたと奇妙にゆがんでいた。
“だけど、それじゃ ロージャの足が”
「大丈夫。私、がまんできるわ。痛いけど、でも、命にかかわることではないもの。校長先生やアレクシスがいなくなったり、苦しい思いをすることにくらべたら、ずっといい」
嘘だ。
毎晩痛いはずだ。杖をつかないと歩けないほどのはずだ。なかったことになった時間の中で、校長先生に宛てられた手紙にはそう書いてあった。
なのにロージャはまるでそんなことないっていうような、ほっとするような優しい笑顔で、私のことを見つめている。
「それに私、ニルスと約束してるもの。ニルスは私の足を絶対に治してみせるって、言ってたもの」
ニルスの目元が、どこか苦しそうに歪んだ。それでも笑顔を作って、うなずいてみせる。
ロージャの腕が私の胴に回され、ぞわりとした感触が体に、そして重なった頬に走った。顔を離し、ロージャは優しく笑う。
「だからね、私はだいじょうぶ。どうか、ほかの誰かのためにって、つらい気持ちを飲み込まないで」
つらい、なんて、こと。
だいじょうぶって伝えなくちゃ。私のことなんて気にしないでって。
私はみんなの役に立たなくちゃ。置いていくみんなに遺せるものなんてそれしかないのに。
わがままなんて言ってはだめだ。もう、時間だって、あまり残ってないのに。
でも。だけど。
妖精に戻って、それで。
――ああ、やめておきなよ、ロージャ。
――妖精は、不幸を運んでくるんだ。
“ロージャ”
“私 どうしたらいいの?”
手の中でチョークが折れた。
真っ二つになった半分は、ころころと転がって桟橋から落ちた。せせらぎの中に小さな水音が響いて、そして消える。
「だいじょうぶよ。アレクシス、だいじょうぶ……」
エビーがいるから首を振っているのは伝わっているはずなのに、ロージャはそう繰り返すばかりだ。そんなことないって分かってるのに、何を言えばロージャを止められるのか、分からない。
結局、私は、なにも――
慌ただしく廊下を走る足音が裏口から飛び出した。
私たちの目がそっちを向く中で、走ってきたハンターはひざに手をついて息を落ち着かせてから、ロージャの顔を見つめた。
「ロージャ。その怪我が治らないのは、毎晩何かに触られているからだと。間違いないか」
ロージャは面食らったように頷いて、ハンターは表情を引き締めた。
「試したいことがある。うまくいけば、治療を阻害している要因を排除できるかも知れない」