スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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花の名前-2

「はい、お茶。一度に飲みきれなくても、ティーポットにカバーをかぶせておけば、しばらくは温かいままだから」

「助かる」

「ニルス。こっちのベッドも寝られるようにしておいたから、眠くなったら我慢せずにハンターさんに言うんだよ」

「うん」

「ハンターさん。夜食、本当に用意しなくてもいいのかい? なにか胃に入れておいた方がいいと思うんだ。夜、眠れてないならなおさらだよ」

「大丈夫だ。気持ちだけ受け取っておく。……あー、それより皆。その」

 

 そんな中、ひとりベッドに寝かされていたロージャが、ひょこりと布団から顔を出した。

 

「……もう。みんな、さっきから何度も同じことしてる」

 

 全員、気まずそうに、ごまかすように笑った。

 

 ロージャの()()が治らない原因を、どうにかできるかもしれない。ハンターはそう言って、ロージャはその提案を受け入れた。毎晩足に触れるものを取り除く算段が、ハンターにはあるのだという。

 

 ロージャは今日明日は医務室で眠り(ハンターが女子の寝室に入るのを嫌がったからだ)、私と、それから頑なに譲らなかったニルスが付きそう。そういうことに決まったけれど、さっきからみんな何かと理由をつけて医務室の様子を見にくる。

 ずっと治らなかったその原因が取り除かれるかもしれない期待と、ユーリヤとニルスがどれだけ手を尽くしてもどうしようもなかった怪我が、本当に治るようになるのかという不安。ないまぜになった気持ちに、みんなどこか浮き足立っているのだろう。

 

「じゃあ、僕たちはこれで。何かあったら遠慮せずに起こしてほしい」

 

 そう言い残してルーリンツとハーマンは男子の寝室に戻り、ユーリヤとマリーも席を立つ。出て行く直前、ユーリヤは(うれ)いを帯びた顔で振り返った。

 

「ハンターさん。ロージャのこと、お願いね」

「ああ」

 

 閉まる扉を見送ってハンターは数秒目をつむり、それからロージャへと声を掛けた。

 

「落ち着かないだろうが……」

「ううん、だいじょうぶ。……ごめんね、ハンターさん」

 

 ロージャは寝返りを打って、こちらに背を向けた。めくられた布団から覗く足がもぞもぞと動き、やがて落ち着いた。

 

 しばらくは、ただ静かな時間が過ぎた。

 

 皆の息の音や、ランプの油が焼けるかすかな音、それからハンターがページをめくる乾いた音。窓の向こうの風の音。そんな夜のしじまの中で、ぱたりと本を閉じる音さえ響いた。

 

「ニルス。大丈夫か」

「……え?」

「ずっと、暗い顔をしている」

 

 ハンターは手元の本を灰色のさざ波に隠した。もの思わしげな視線に、ニルスは上げた顔を再度うつむかせる。

 

「……たいしたことではないんだ。ただ……考えてしまって」

 

 震える声が、ぽつりぽつりと落ちる。

 

「ずっと、僕なりにがんばろうって思ってたんだ。ルーリンツやハーマンみたいにうまくできないけど、できることをしようって。……なのに、調べ物だってうまくいかなくて。ユーリヤに頼ってばかりで、ロージャにまで心配かけて、気を使わせて」

 

 ニルスは自分の手をじっと見つめた。細くて柔らかい手のひらを、関節が白く浮き上がるほど強く握りしめる。

 

「ごめん。ハンターさん、アレクシス。こんなこと言ったって仕方ないのは分かってる。でも、どうしても考えてしまうんだ。……僕じゃなくて、ルーリンツやハーマンだったら、もっとうまくやれてたのかなって……」

 

 ハンターは口を開いた。なにか言おうとして、それはベッドの方から聞こえた衣擦れの音に遮られた。

 

「ねえ、ニルス」

 

 びくり、とニルスの肩がこわばり、ハンターが目を見開いた。みんなの目がベッドに向く中で、もぞもぞと布団の山が動く。

 

「起きて、たの?」

「うん。ずっと」

 

 右足をかばいながら、ゆっくりとロージャがこちらを向いた。うなずいたその顔は薄暗いランプの橙に照らされて、濃い陰影が落ちている。

 

「ニルス。ニルスはなにも悪くないよ」

「だけど、ロージャがあの日、外に出たのは……」

「私のせいだよ」

 

 聞いたこともないくらい語気を強めて、ロージャはきっぱりと言い切った。

 

「私、ニルスが熱を出した時、なにもできなかった。ユーリヤみたいにお薬を作れないし、ルーリンツやマリーみたいに病気の時のごはんも作れない。ハーマンみたいに夜通し看病だってできない」

「でもそれは、ロージャは僕らの中でいちばん年下だから……」

「ニルスはそれで、納得できる? 年下だから、なにもできなくても仕方ないって」

 

 それは、と言葉に詰まって、ニルスは唇を噛んで下を向いた。

 

「うれしいことをしてもらったらお返しするんだって、みんなに教えて貰ったわ。でも、いつもみんなに助けてもらってるのに、私にできること、ほんとに少なくて。どれだけ背伸びしたって、みんなに追いつけない」

 

 ハンターは二人をただ黙って見ていた。いいや、なにか言葉を挟もうと唇を開いては、閉じることを繰り返している。なにを言えばいいのか、うまく考えつけないみたいだった。

 

「だからね、私はあの夜、外に出たの。あの光がほんとうに妖精さんなら、助けてもらえると思ったから。私にもニルスのためにできることがあるはずって、思ってたから。結局うまくいかなくて、それどころか、こんな風に怪我までしちゃって、もっとなにもできなくなって……」

 

 ロージャは布団を引っ張り上げて顔を隠した。内側からくぐもった声が漏れる。

 

「せめて、心配だけでもかけたくなかったの。ニルスの気に病んだ顔、見たくなかったから。……でも、最近ずっと考えてた。これで本当にいいのかなって。ニルス、どんどん表情が暗くなってきてて、私のしたこと、本当に間違ってなかったのかなって」

 

 どうしてこんなに難しいんだろう、と、そうつぶやく声が聞こえた。

 

「私にできること、がまんくらいなのにね。なのにニルスを傷つけちゃって……私、どうすればよかったのかなぁ……」

 

 私は何も言えなかった。

 ハンターも口を固く閉ざし、顔を伏せてしまった。

 

 耳が痛くなるような沈黙の中で、ニルスはゆっくりと顔を上げた。震える唇から、うわずりそうになるのをこらえているのが分かる声が、それでもはっきりとロージャに向けられる。

 

「ロージャ。……だってそれは、大切な人とその大切なものを、ないがしろにしているのと同じだから」

 

 ニルスはよろめくように椅子から立って、ベッドの横にひざをついた。目だけを出したロージャを、真横から真剣な目で見つめる。

 

「快方に向かうまでの我慢なら、それはいいんだ。薬がしみるとか、苦いとかなら、我慢するのは間違ってない。でも、ロージャの怪我は治りが普通よりずっと遅くて、その原因も分からなかった。僕もユーリヤも怪我を治したいのに、今まで通りの方法じゃうまくいかなかった。その間、ずっとロージャは痛いままで、歩くのもつらそうで、僕はそれが苦しかった。ユーリヤだって同じだ。ロージャが大切で、つらい思いなんて、してほしくないから」

「……うん」

「ロージャの気持ちだって分かる。それに夢の中で怪我を撫でる手なんて、僕たちにはきっとどうすることもできなかったと思う。それでも知ってたら、ハンターさんがアレクシスが見えるって分かった段階で相談できたかもしれないんだ。そうすればもっと早くに原因を取り除くことだって、できたかもしれない。だから、心配かけたくないって気持ちは分かるけど……黙ってたのは、あまり、良くなかった」

 

 ロージャは体をぎゅっとこわばらせた。

 恐る恐る見上げるロージャの頬に、ニルスはそっと手を当てた。

 

「それに、さっきのことも。ロージャは校長先生やアレクシスが苦しい思いをするなら、自分が我慢すればいいって言ってたけど。でも、そう言われたアレクシスがずっと首を振ってたの、気づいたかい?」

「え……で、でも、だって、そうしないと、アレクシスと校長先生が……」

 

 ロージャの目が困惑を浮かべ、私のいるあたりを見つめてさまよう。

 思わず身をすくませた私の手に、節ばった大きな手が重ねられた。ハンターは横目でこちらをちらりと見て、また二人へと視線を戻す。

 

「うん。でも、アレクシスにとっては、どっちを選んでも、大切な人を傷つけたり、苦しませたりすることになる。……そんなの、選べない。選べるわけないんだ」

 

 ニルスはひとつ息をついて、表情を引き締める。

 

「ロージャ。自分を大切にして。アレクシスに言ったみたいに、ロージャ自身も誰かのためにって、つらいことを飲み込んじゃ駄目だよ。ロージャがアレクシスや僕を大事に思ってくれてるのと同じように、僕たちだってロージャのことが大切なんだ。僕たちのためにロージャが苦しい思いをするなんて、絶対に嫌なんだ」

 

 それから真剣だった表情を緩め、声も柔らかなものに変わった。

 

「ロージャの絵を見て、みんな喜んでくれた。少しでも空いた時間があると、すごく優しい顔で絵を見てる。それを一緒に窓の外から眺めてると、こっちに気づいて、恥ずかしそうにして、それから笑ってくれた。ありがとうって、言ってくれた。……我慢しかできないなんて、そんなことない。ロージャがしてくれたことが、とても嬉しかったんだよ」

 

 ロージャの体から、だんだんと緊張が抜けていく。深く吸った息をゆっくりと吐き出して、じっと、ニルスを見上げた。

 

「……ねえ、ニルス。私、どうすればよかったのかな」

「やっぱり、手当てしてた側としては、怪我について気になったことは全部教えてほしかった。それから、つらいことがあるなら、抱え込まないで打ち明けてくれたら嬉しい。僕じゃ聞くだけしかできないかもしれないけど、それでもだよ。力になりたいんだ。僕は、ロージャのことが、大切だから」

 

 その声にはもう震えはない。頬に触れるニルスの手に手のひらを重ねて、ロージャはうなずいた。

 

「私もね、同じ。ニルスが大切なの。ニルスだけじゃない。ほかのみんなも……それから、ハンターさんも。だから……」

 

 小さな声で付け足して、それをかき消すように、少しだけ声が大きくなる。

 

「怪我のこと、黙っててごめんなさい。それから、いつもありがとう。治すためにいっぱい勉強してくれたこと。歩く時に支えてくれたこと。ニルスがしてくれたことぜんぶ、すごく嬉しかった。うまくやれてないなんてこと、ないんだから」

 

 ふあ、とロージャはあくびをこぼした。まぶたがうとうとと閉じかけて、声が伸びて揺れる。

 

「……怪我がよくなったら、約束。覚えてる? ニルスが熱を出す前に、約束したの」

「うん。一緒に、楽器の練習をしようって。今年の演奏会はロージャもトライアングルで参加するから、一緒にって……」

 

 ロージャの息は安らかで、もうすっかり眠りに落ちている。ニルスはじっと寝顔を見つめて、それから湿った声で首を横に振る。

 

「……ごめんね、ロージャ。僕が、しっかりしないといけないのに……」

 

 その時だった。

 

「――二人とも。目を閉じていろ」

「え?」

 

 肩を引かれたニルスは、きょとんとハンターを見上げた。

 

「ハンターさん、何が……」

「説明は後だ」

 

 かばうようにニルスを背中側に押しやるハンターの右手には、あの鳥のくちばしのような歪なナイフが握られていた。

 

 

 ぱたっ。

 

 

 そんな、かすかな音がした。

 

 ニルスは音の方を向いて、ハンターの瞳が鋭さを増す。その先にはロージャの右足と、シーツにできた小さなしみがあった。

 私は天井を見上げる。雨漏りしている様子はないし、そもそも雨は三日前に降ったきりだ。

 

 ぽたっ、ぱたっ、と。探している間にも、じわ、としみが広がった。けれど、落ちる水滴をまったく見つけられない。

 

 音がするたびに、しみが広がる。

 

 断続的だった音はだんだんとその間隔を狭めていく。いつしかまるで雨音のように連なり、みるみるうちにシーツはぐっしょりと濡れそぼっていく。

 布を叩く音は、やがて水を叩くそれへと変わった。

 

 シーツから滴る水が、床へ落ちる。

 

 弾かれるようにニルスが鼻と口を押さえた。それでもこらえきれずに、指の間から呻くような咳が洩れる。目を閉じろと言われていたのに、ニルスは驚愕に目を見開いたまま、その光景を眺め続けている。

 ハンターは動かない。つま先が水に浸かってもまったく動じることなく、瞳を開いてロージャの怪我を見つめている。

 

 そして、何かが、水の中から這い出した。

 

 細く衰え、爪も剥がれ落ちた、骨にふやけた肉がこびりついているだけの、人間の、手。

 

 にち、と粘つくような音を立てて、指が曲がる。その中指の赤い指輪は、あの時と同じつよい光を放っている。

 腐った指先が、ロージャの足に触れようとした。

 

 その、瞬間。

 

 ハンターが動いた。音もなく右腕が閃き、銀の光が走る。

 

 枯れた指がばらりと散った。

 

 その指がシーツに落ちるより早く、ハンターは振り抜いた右手の親指を弾いた。

 硬質な音を響かせて歪な刃が広がる。返す刀を左手が追い、手のひらは三つに断ち切られた。

 

 一瞬の出来事だった。

 いつの間にか、ハンターの左手にも刃が握られていた。

 

 ナイフがひるがえる。歪んだ切っ先が赤い指輪へ突き立てられるその直前、バラバラになった指はふっと溶けるように消えた。

 

「……ヘムウィックの狂気者。いや、あの檻頭の方が近いか」

 

 そんなことをつぶやきながら、ハンターは軽く手を振る。どんな仕掛けか二つに分かれていた刃がくるりと一つに戻り、灰色のさざ波に溶けるように消えた。

 

 それで終わりだった。

 濡れていたはずのシーツも、床も、乾いている。ロージャの足の包帯が断ち切られて、真っ赤な血をにじませた怪我の上にひと筋、細く浅い切り傷が走っているほかは、何の痕跡も残っていない。

 

 ハンターは肩を落としながら、シーツにさっくり空けてしまった穴を指でなぞる。ちょっと途方に暮れたその背中に、震える声が掛けられた。

 

「……さっきの、は」

 

 弾かれるように振り返り、苦虫をかみつぶしたような顔で呻く。

 

「見たのか」

 

 ニルスは暗がりでも分かるほど血の気が引いた顔で、何度も頷いた。

 ハンターは額を押さえた。手のひらの下で視線をさまよわせ、首を振った。

 

「知ってほしくない。皆やロージャには決して口外できない内容だ。ニルスが秘密として抱えるには、負担が大きすぎる。そうなれば皆が心配するだろう。グレイブズが大丈夫だと判断するまでは、そういうものだと納得してくれないか」

 

 言いながら、震えるニルスの両肩に手を置いた。

 

「漏れ出ていたものの流れは止まった。もう普通の怪我と変わらない。……ニルスが今まで調べてきた知識が役に立つと思う」

 

 ニルスは顔を上げた。青ざめていた顔にだんだんと血の気が戻っていく。

 

「僕は……でも……」

「ロージャも言っていただろう。ニルスがしてくれた全部が嬉しかったと。先ほどだって、私は何も言えなかったのに、ニルスはロージャを諭していた。そういう事ができるのは、その……ニルスが、しっかりした、いいお兄さんだから、だと、思う」

 

 首の後ろを掻いて、それからハンターはまた真剣そうに表情を引き締めた。

 

「痕は残るだろうが、適切な処置で薄くできるだろう。後は頼む、ニルス」

 

 

 

 

 

 ほとんど気絶するように机に突っ伏したニルスを、もう片方のベッドに寝かせて、ハンターは私の肩を叩いた。

 

「少し、いいか」

 

 医務室から出て、階段を降り、裏庭の扉を開ける。

 

 空には星がまたたき、そよぐ風は優しく草木を揺らしていた。ほんの少し前にあんなことがあったとは思えないような穏やかさが満ちていた。

 ハンターは桟橋の上に腰を下ろした。隣に座ると、ひどく深刻な顔をして私を見つめる。

 

「謝罪をしなければならないと思った。結局追い払っただけになったとはいえ……グレイブズから、彼女はお前の母親だと、聞いた」

 

 なんだ。なにかあったのかと思ったけれど、そういうわけではないみたいだ。

 

 

 “大丈夫だよ。気にしないで。私はあの人のこと、大して知らないもの。”

 

 

 私が知っているあの人は、写真の中で微笑んでいる姿と、桟橋に打ち上げられて弱々しくもがく姿だけだ。

 あの人が残したノートやテキストから、温かくて優しい人だったんだろうなってことは窺える。でもそれだけなのだ。どうしたって他人事で、知らない人以上の関係にはなれない。

 

「だが……」

 

 なおも何か言い募ろうとするハンターに首を振ってみせた。

 

 

 “それにあの人だって、きっと、自分のこともみんなのことも、ぜんぶ忘れてなくしてしまっているから。”

 “むしろ、ありがとう。あの人を止めてくれて。”

 

 

 あの人はきっと指輪をはめて川に身を投げた。まだ自分の命の時間を持っているのに、他人の命の時間も持ってしまった。

 それがどんな結末に至るのか、実物を見た今でもその詳細は分からないままだ。けれど、あのレポートの通りなら、あの人も我を忘れてしまっているのだろう。私と違って、それからユーリヤと同じように、自分自身の思い出をきちんと持っていたはずだから。

 

 ……だから、それだけは少し安心しているのだ。妖精だったころに聞こえたあの優しくておぞましい声は、ユーリヤやマリーたちを淡々と切り捨てたあの声は、あの人のものじゃないはずだ。

 

 

 “ああなる前のあの人は、みんなのことが、大好きだったはずだから。”

 

 

「……、…………」

 

 ハンターは歯に筋が挟まったような、なんとも言えない顔で私を見つめていた。その手に再度人差し指を落として、ゆっくりと字を書く。

 

 

 “あのね。私、知ってたの。ロージャの足のこと。”

 “それだけじゃない。あの人のことも。”

 “この前ハンターが言ってた通り、未来から戻ってきたから、知ってたの。”

 “知ってたのに、もう何もできないからって言い訳して、ずっと目をそらしてた。”

 

 

「それは……」

 

 ロージャの怪我が治らなかった原因は取り去られた。

 外のことだってどうにかなる。

 私ができないと目を背けていたことは、いい方向に向かってくれるだろう。

 

 そうして、私は打ち明けた。

 

 あの春の雪の日に目覚めて、ふたつの指輪を得て、みんなと友達になって、傷つけて、指輪を返したこと。

 私の話を、ハンターはただ聞いてくれた。時折確認を挟みながら、手のひらに書かれる言葉を、じっと見つめていた。

 

 

 “ユーリヤに指輪を返したから、私はもう妖精じゃない。”

 “最初から妖精はいなかった。だから、私が起こしたことはぜんぶ、そもそも起きていなかった。”

 “嵐の夜にロージャを引き止めた事実はなくなった。ユーリヤが妖精に命の時間を奪われることも。ユーリヤとのいたずらや、椅子の場所決めや、みんなが開いてくれた演奏会も起こらない。”

 

 

 空はすっかり白んで星は去り、立ち込める川霧はほのかな光を抱いて流れていく。聞こえ始めた小鳥たちのさえずりの中に、あのこまどりの声も混じっているのだろうか。

 きっと今日も、いい一日になるんだろう。そんな予感を覚えるような、さわやかな朝だった。

 

 

 “私はずっと間違えてばかりだった。”

 “妖精の力があったところで、ありがとうなんて言われるようなこと、本当はひとつもできなかったの。”

 “だから、ユーリヤに指輪を返せばいいって分かったとき、ほっとしたんだ。”

 “私がいなければよかったんだって、それだけは正しいんだって、はっきりしたから。”

 

 

 指輪を返した次の日の朝、笑い合うみんなを見て、そう実感した。だってみんな、私の知るものとは比べられないくらい、喜びにあふれた笑顔を浮かべていたから。

 

 あれからずっと、夜になるたび考えていることがある。

 もし、私がいなかったら。

 妖精としてだけじゃなくて、そもそも、生まれたという事実さえなかったら。

 あの人は今もここにいたのだろうか。ここにいて、人のままで、あんなものになり果てることも、ロージャを傷つけることもなく、みんなと一緒に笑っていたのだろうか。

 もう遠く過ぎ去って、誰にも取り返しなんてつけられない今、考えても仕方ないことだと分かっているけれど。

 

 

 “話はこれでおしまい。聞いてくれてありがとう。”

 “それから、ごめんなさい。時間、とらせて。”

 

 

 大きな手のひらから指を離す。指先に感じていた温かさは、()(ごり)もなくすぐに消えていった。

 ハンターはその手をゆっくりと握りしめた。それからひとつまばたきをして、淡く光る空と暗い稜線のそのあいだへと瞳を向ける。

 

「……アレクシス。ユーリヤがお前と再会できたあの日、何と言ったか、覚えているか」

 

 なにを言いたいのか分からなくて、私はハンターの顔を見た。

 

「寝たきりで心も弱り、お前に命を奪われていいとすら思っていたユーリヤが、今のように元気になったのは、お前がいたからだろう」

 

 ぽつぽつと、一つ一つ言葉を選ぶように、ハンターは途切れ途切れに言う。

 

「もしお前が本当にいなかったとしてもだ。お前に命の時間を預かられることもなく、ただ弱っていくだけのユーリヤのために、ここにはない解決の糸口を探して、皆が外を目指す事は充分に有り得たと思う」

 

 ……それは。まさか、と思うと同時に、絶対にない、とは言い切れなかった。

 

 空の境を見ていた顔がこちらに向いて、その瞳が私をまっすぐに見つめる。

 

「アレクシス。決して、お前は何もしなかったのでも、できなかったのでもない。お前にできる事をやり遂げて、皆が誰ひとり欠けていない状態まで取り返した。そして、後に繋いだんだ。……お前は、とてもすごい事を成し遂げたんだよ」

 

 言葉を噛み締めるように、ハンターは言う。眩しそうに目を細めて、節ばった温かい手で、私の手を握りしめて。

 

 

 “すごいこと  なのかな”

 

 

「すごいよ。とても、すごい。守ろうとした人を守りきるなんて、誰にでもできることじゃない」

 

 私にはできなかった、とつぶやくハンターの顔に、苦しそうな色が(よぎ)った。首を振ってそれを払うと、ハンターはまた、私へと向き直る。

 

「お前がいなければよかったなんて、絶対に、そんなことない。(おれ)は……いいや、寄宿学校にいる皆が、お前に会えてよかったと、そう思っている」

 

 その声は、ハンターのいつもの話し方より、なんだかずっと幼いように聞こえた。

 

「皆、お前が大切だよ。お前がいてくれて良かった。お前が皆を取り返してくれたからこそ、こうして穏やかな毎日があるんだ。自信を持っていい。ここにいていいのだと」

 

 ……いいの、かなぁ。

 私の座っていい椅子なんて、どこにもないって、思ってた、けれど。

 

 あなたは生まれなければよかったのだと、誰かが言ってくれるなら、私は楽になれるだろう。その言葉は私の選んだことを――自分自身を捨ててみんなを取ったことを、それでよかったのだと肯定してくれる。

 同時に、分かっているのだ。私のことを大切に思ってくれているみんなは、決して、そんなことは言わないのだということは。

 

 本当に、ここにいてもいいのだろうか。そう願っていいのだろうか。

 私はまだ、みんなと一緒に――

 

 

 顔を上げた瞬間、ほの青いひとひらの光が、目の前を過った。

 

 

 直後、山あいから差し込んだ朝の日差しが、視界を白く()(つぶ)す。

 だんだんと光に慣れていく視界の中には、もう時の雪はどこにも見当たらない。ともすればまぼろしのように思えても、あり得ない未来を望んではならないのだと(いまし)めるのには、それだけで充分だった。

 

 分かってたことだ。覚悟だってしていた。

 私は、指輪を見つけられなかった妖精は、いつか消える。みんなと一緒にはいられない。

 

 それをいやだと思ってしまうのは、とても贅沢なことだ。

 だって誰にでも必ず来るもので、本当なら、私はずっと昔に迎えていたはずのものなのだから。

 今だって充分奇跡みたいなものなのに、これ以上を望むのは、だめだ。

 

 きっと、黙っていたことを怒られるだろう。どうにかできないかと知恵を絞ってくれるだろう。ニルスがロージャに言っていたように、話して欲しかったと言ってくれるだろう。

 でも、どうしようもないことは、私自身がよく分かっている。

 

「……アレクシス?」

 

 覗き込んでくるハンターの目は、ただ、優しい。

 

 言えない。

 言いたくないよ。

 ここにいていいって言ってくれた人に、もうすぐお別れだ、なんて。

 

 

 “ハンター。ありがとう。”

 “ごめんなさい”

 

 

 そう書いた手のひらが持ち上がって、ハンターは私を自分の方に引き寄せた。胸に寄りかかる私の頭を、節ばった大きな手がぐしゃぐしゃとかき回す。

 

「謝る事なんてない。皆を助けてくれてありがとう。……あの時、手を引いてくれて、ありがとう」

 

 ごめんなさい、と動かしたつもりの口から、声が出ることはなかった。

 

 お別れなんていやだ。

 まだ、みんなと一緒にいたいよ。

 

 

 

 

 さよならの準備をしなくちゃ。

 

 

 “あのね、校長先生。ひとつだけわがまま言ってもいい?”

 

 

 指輪をユーリヤに返すまでのことをぜんぶ伝えて、最後に恐る恐るそう切り出すと、校長先生はただぼんやりとうなずいた。

 

「……ああ。いいとも。私に、叶えられるものなら」

 

 

 “演奏会が見たいの。”

 “みんなが全員、ちゃんと揃った演奏会。”

 

 

 本当は十二月の行事らしいから、難しいなら仕方ない。そう覚悟していたけれど、校長先生はすぐに頷いてくれた。

 

「分かった。皆に話しておこう。十月の最後の日に、演奏会をしよう」

 

 私はほっと、胸をなで下ろす。あの時のユーリヤが消えてしまったのは11月3日だった。きっと、それまでなら保つだろう。

 思い出の中の演奏会もとても素敵だったけれど、ユーリヤの歌があったら、もっと素敵なはずだ。

 

 校長室を後にしようとした私の背中に、校長先生の声が掛かった。

 

「アレクシス。ハンターを呼んできてくれるか。大事な話があると」

 

 

 

 

 

 ハンターの姿はすぐに見つかった。

 

 二階の廊下でぼんやりと空を眺めていたハンターに手を振って、伝言を手のひらに書く。頷いて歩き出そうとした足が、扉の開く音に遮られた。

 

 真後ろの女子の寝室から出てきたロージャは、こっちを見て動きを止めた。あ、と小さな声が口から漏れる。

 二人はしばらく見合っていた。やがて、そろそろとロージャが歩き出す。その様子を目で追いながら、ハンターは引き結んでいた唇をわずかに開いた。

 

「ロージャ。足は」

「えっ?」

 

 ロージャは驚いた顔でハンターを見上げた。声を掛けられるとは思ってなかったのか、その視線はどこか落ち着かない。

 

「あ、えっと、へいきよ。びっくりするくらい調子がいいの」

 

 言いながら、手に持っていた杖を片手で持ち上げた。両足に均等に体重をかけて、その場に立ってみせる。あれから三日が経つ今、もう包帯がにじんだ血で染まることはないという。

 

「歩くのはまだちょっと痛いけど、これくらいならもうだいじょうぶ。杖も念のために持ってるだけよ。ハンターさんのおかげね」

「……礼はニルスとユーリヤに。私は横から少し手を貸したに過ぎないから」

 

 それだけ言って、ハンターはロージャの脇をすり抜けた。

 

 何歩か歩いた瞬間、その動きがぴたりと止まる。ベストの裾を掴んだ小さな手を、その腕を目で追って、ロージャの顔をまじまじと見つめた。当のロージャも目を瞬かせて、ぱっと手を離した。

 

「えっと……ちょっと待ってて!」

 

 ロージャは急ぎ足で女子の寝室に飛び込んで、さほど間を置かずに飛び出してくる。

 

「まだ無理は……」

 

 ハンターのたしなめる声は、ずいっと差し出された人形に遮られた。

 

「あのね、この子、フィオナって言うの。私の好きな本に出てくる子で、石でできた女の子で、悪い夢に迷い込んだ人の手を引いて助けてくれるのよ。夜眠れない時に、ずっとそばにいてくれたの。それで、えっと、だから……」

 

 ハンターはきょとんと目を丸くして、口ごもるロージャを見つめている。ロージャは一度深呼吸をして、ハンターを見上げた。

 

「……ハンターさん、夜、眠れてないって言ってたから。私ね、うなされて真夜中に目が覚めた時、隣にこの子がいたから、心細くなかったの。私はもう大丈夫だから、今度はハンターさんが夜、少しでもさみしくないように」

 

 ハンターは恐る恐る、手を人形へ伸ばした。壊れ物を扱うように、慎重に受け取って、服の裾を整えてやる。

 

「ああ。……ありがとう」

 

 そうして、ハンターはかすかに微笑んだ。

 ロージャのぽかんと開いた口から、え、とちいさく声がこぼれる。

 

「? どうかしたか」

 

「え、えっと……なんでもないの! ちょっととってもすてきなものが見えただけ! 用事はそれだけだから!」

 

 ロージャはスカートを翻して、廊下を急いで歩いて行く。階段を上がってきたユーリヤをくるりと避けて、そのままとんとんと降りていった。

 

「あ……ハンターさん。アレクシスも」

 

 びっくりしていたユーリヤが、こちらに気づいて歩いてくる。

 

「あら? そのお人形、ロージャの……」

「あ、ああ。その、夜に起きていても寂しくないようにと貸してくれた」

 

 どこかおさまりが悪そうな顔をして、ハンターは手品で人形を隠した。

 

「ロージャ! そんなに急いだら危ないよ!」

「ご、ごめんなさい。でもすごく調子がいいの!」

 

 階段の下からそんなやり取りが聞こえてきて、ユーリヤは静かに笑った。

 

「ロージャのこと、ほんとうにありがとう。あんなに元気なあの子を見るのは久しぶり。……ずっと、我慢させてしまっていたのね」

 

 首を横に振って私たちの横を通り過ぎ、ユーリヤは医務室の扉に手を掛ける。ノブを回そうとしたその時だった。

 

「ロージャの怪我の事は」

 

 声を張り上げたことに、振り向いたユーリヤ以上にハンター自身がひどく驚いた顔をしていた。目をさまよわせ、それから意を決したように表情を引き締める。

 

「溺れた者が藁にも縋るようなものだと思う。苦しい中で何かに触れれば無意識に掴んでしまうように、彼女にはロージャを苦しめていたという意識も自覚もない……はずだ」

 

 どうしてハンターは、面識もないはずのあの人のことをこんなにかばうんだろう?

 そんなことを訊ける雰囲気でもなくて、私はただ二人の姿を見ていた。

 

 ユーリヤは視線をハンターの脇へと向ける。元の場所に戻された写真立ての中では、あの人が変わることのない笑みを浮かべていた。

 

「……本当にね、優しい人、だったの」

「ああ」

「お母さんを看取って、私のことも、めんどうを見てくれて。いつも笑ってて、素敵な人で、私ずっと、先生みたいなおとなになりたいって、憧れてたの」

 

 ユーリヤのまつげが震え、冬空のような青い目に涙が浮かぶ。やがて光るしずくが、静かにまなじりからこぼれ落ちた。

 

「ロージャのことだって、すごく大切に思って、くれてたの。あの人が、ロージャを苦しめてる、なんて、考えたく、なく、て……」

 

 しゃくりあげながら崩れ落ちそうになったユーリヤを、駆け寄ったハンターが腕を伸ばして支える。

 

「マルガレータ、せんせ……わた、し、は……」

 

 ()(えつ)が落ち着くまで、ハンターはずっと、すがりつくユーリヤの背中を優しくたたいていた。

 

 


 

 

 あなたが校長室を訪れた時、部屋の主は先日以上の憔悴を顔に浮かべていた。

 

「……ああ、ハンター。遅かったじゃあないか」

「用件は」

 

 単刀直入に切り出せば、校長はひざの上に置いていた本をあなたに差し出す。

 

「これを、君に渡したくてな」

 

 受け取った本の題名を見て、あなたは目を見張った。

 

 深緑の表紙には箔押しで、三色菫(ハーツイーズ)に囲まれたひとりの子供が描かれている。

 その体は半ば崩れて粒子に変わり、俯いた顔は背を向けているために窺えない。描き込まれた足跡は、迷うように蛇行を繰り返していた。

 

 「見えない妖精たち」。その、第一巻。

 

「……お前が持っていたのか」

 

 道理で探しても見つからないはずだ、と呟くあなたに、校長は首を横に振る。

 

「私は頼まれただけじゃ。その時が来るまで、誰にも読ませないように隠しておいてくれと」

 

 あなたは()(けん)にしわを寄せた。

 嫌な予感を覚えながら、目次を開く。ひとつひとつ確認し、そしてある章題に瞠目した。

 

 

 指輪を見つけられなかった妖精の話。

 その妖精は、止まった時に留まれず、誰に気付かれることもなく、ただ儚く消えていったという。

 時の雪が降る暗闇に。

 

 

「……何だ。これは」

 

 読み終えた時、かろうじてあなたが口にできたのはそれだけだった。

 校長は、答えない。ただ沈痛な面もちであなたを見つめているのみだ。

 

「アレクシスは……あの子は、消えると。そう言いたいのか」

 

 悪質な冗談だと、あなたは笑おうとする。しかし引きつる口を笑みの形に歪めるより早く、校長は呻くように言った。

 

「私にその本を渡したのは、ほかでもないあの子だ」

 

 震える声は湿り気を帯び、やがて嗚咽へと変わる。

 

「私は、もう、どうすればいいのか分からない……」

 

 膝掛けに透明なしずくがひとつ落ち、しみを作った。

 

「笑ってくれて構わない。情けない男だと。大切な友人たちを止めることもできない、妻も息子も救えない愚か者だと。だが……何が正しいのかも、どうすればよかったのかも、私には……」

 

 マリヤ。ニコラス。サイモン。ロビン。マルガレータ。校長はうなだれ、絞り出すように誰かの名前を吐き出した。

 

「もう、何も見えないんだ……」

 

 すすり泣く校長を見下ろして、あなたは奥歯を噛み締めた。

 

 

 考えろ。

 

 

 ともすれば悲しみと自身の不甲斐なさへの怒りで錯乱しそうになる感情を宥め、蠢く脳髄の奥をねじ伏せる。頬の裏を噛み千切って溢れた血が口の端から一筋垂れたことにも気づかず、あなたはただ、思考を走らせる。

 

 

 どうすればアレクシスを救えるのか。どうすれば、あの子は消えずに済むのか。

 あるはずだ。ないわけがない。ユーリヤという前例がある。命の時間を奪われ、しかし指輪を返されてまた人として目覚めた少女が。

 あの子だって。

 だって、そんな、馬鹿な話が、あるか。

 

 

 いつかここを離れる。

 あなたはそのつもりで今まで過ごしてきた。返しきれない恩を少しでも返して、それから皆を閉じ込める原因を(つぶ)す。それさえ済めば、あなたはこの寄宿学校を出て、皆の目の届かない場所で自ら命を絶つつもりでいた。

 

 だから、その後のことなど考えていなかった。

 

 たとえ自分がここを離れたとしても、ユーリヤが、ルーリンツが、ハーマンが、マリーが、ニルスが、ロージャが、校長が、ティアとダニーが、そしてアレクシスが、いつまでも健やかであると、穏やかで幸福な日々を送ることは絶対に変わらないのだと、疑いもせず信じていたのだ。

 

 

 アレクシスは指輪を持っていない。あの子自身の命の時間は、母親が持ったまま川に身を投げたという。同時にあの子は妖精になることを忌避している。他人()の命の時間を受け入れることはないだろう。

 ユーリヤは指輪を持っている。それは彼女自身の命の時間そのものである。ユーリヤは指輪を得てから三カ月が経とうとする今でも、ほかの子供たちと変わらずに元気にしている。アレクシスが母親の持っていた指輪をユーリヤに渡した時、彼女は悪い妖精になり果ててしまった。

 ならアレクシスの、あの子自身の命の時間さえあればいい。母親から指輪を回収し、あの子へ返せばいい。

 だが。

 

 

 あなたはほぞを噛んだ。

 

 

 あまりにも、時期が悪すぎる。

 彼女は冬の嵐、増水した川に現れるという。今は秋だ。今まで嵐と呼べるほどの悪天候は何度かあれど、桟橋に赤い光が現れた事は一度たりともなかった。挙げ句に唯一の接点になりうるロージャの怪我は、己が斬り払ってしまった。

 母親が出現するまでアレクシスが保つ事に賭けるか?

 希望的観測だ。賭けるには分が悪すぎる。

 救う手段は見えているのに、己の手ではあの子の未来を掴み取れない。それこそ、時間を手繰り寄せでもしない限りは。――なら、時間を跳ぶ事のできる妖精の助力を得られたら?

 

「――――……」

 

 息が短く音を立てた。

 その思い付きはあまりにも荒唐無稽だった。

 できるのか。あなたはそう自問する。

 

 

 そもそも彼はこちらの声に応じるだけの理性を残しているのか。

 仮に理性が残っていたとして、彼の目的も知らぬまま説得など、果たして己に可能なのか。己の命の時間と引き換えにするのは何ら問題ではないが、彼が説得に応じたふりをして、(さかのぼ)った先で皆を害さないと断言できるだろうか。

 一度逃がせば、取り返しがつかないのだ。

 狩るつもりだった相手に頼るのか。グレイブズに過去を変えるつもりはないと言い放ってからさして時も経ってないというのに、もう反故にするつもりか。

 狩人に獣を狩る以外の能などない。あの街で身の程を弁えずに行動に移しては、最悪の結末に至るばかりだったではないか。

 

 

 思考は冷え切った泥沼に沈んでいく。その中に、何かが急速に浮かび上がり弾けた。

 

 

 それで、諦めるのか。

 できないと言い訳して、あの子を見捨てるのか。

 

 

 噛み締めた奥歯が音を立てた。

 ねじ伏せていた激情に再び火が点り、脳髄の奥がその蠢きを激しくする。

 

 

 皆を救うために自ら手放したあの子とは違う。

 己は何も失っていない。夢に依る異能も借り受けたままだ。

 このままあの子が消えるのを、ただ見ているだけなど、できるものか。

 

 ――後は任せたよ、ハンター。

 

 己をここまで運んで消えた、誰とも知れぬ妖精。

 脳髄の奥の蠢きがもたらした確信が、正しいならば。

 

 

 シャツの上から握りしめた首元の狩人証は、硬く重い感触をあなたの手のひらに返した。

 

 あなたは深く息をついた。肺腑からできうるかぎり吐き出して、それから空気を勢いよく吸い込む。

 

「……グレイブズ。ローアンの妖精について、知っている事をすべて教えてくれるか」

 

 校長は涙でぬれた顔を緩慢に上げ、あなたを訝しげに見つめる。

 自分の手に余る時は、誰かの力を借りる。それはこの寄宿学校で教えてもらったことの一つだった。

 

「アレクシスを助けたい。知恵を借してくれ」

 

 目を見開き唇をわななかせる校長を見つめ、あなたは力強く頷いてみせた。

 

 遺志を継ぐ者(狩人)としてのあなたには、かつてのあなたがそう望んだ通りに、獣を狩る以外の能などないのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、諦めることなどできはしない。

 

 ならば、皆があなたに呼び掛ける名前以外の意味を持たない、ただの“ハンター”として。

 友を助ける。ただ、それだけのことなのだ。

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