スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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パセリ【勝利、祝祭、死の前兆】
再会-1


 あれ、と私は首を傾げた。

 

 顔が壁に半分めり込んでいるせいで、視界も半分灰色だ。埋まった部分にぞわぞわした嫌な感覚を覚えながら、埋まっていない方の目を動かして、私は喉元に突き付けられたナイフを見た。

 

「お前は何だ」

 

 低くて冷たい、氷のような声だ。

 

 ……え、えっと。

 私の喉はうんともすんとも言わないから答えられないのだけれど、しかしどう答えるのが適当だろう。もう指輪はないから、妖精とは名乗れない。ここはやっぱり裏のお墓の名前を名乗るべきなのだろうか。指差せば分かってくれるかな。

 

 そんなことを考えていたら、首筋をナイフの先端がちくりと掠めた。少しぴりぴりするような、不思議な感覚。なんだろう、これ。変なの。

 

 なにがなんだか皆目見当さっぱりな私と、拘束を緩めない後ろの人。医務室にいるのは二人だけで、風が素知らぬ顔でカーテンを揺らしていった。

 

 私は今、腕をねじり上げられて、壁に押し付けられている。

 

 喉元には鳥のくちばしのような、歪な形のナイフが突き付けられている。押さえつけてきているのは、門の向こうに倒れていたあの人だ。すごく弱っているように見えたのに、腕の力は強くて全く身動きできない。

 

「答えろ」

 

 えっと、その。ど、どうやって?

 

 

 

 

 医務室まで運び込んで、体を清拭して、汚れた服を取り替えて。その人が目を覚ましたのは、それから間もなくのことだ。

 

 その人は手をついて上体を起こし、堪えるように額を押さえる。体のどこにも傷や痣はなかったけれど、倒れた拍子にぶつけたのかもしれない。

 ルーリンツより年上で、だけど校長先生よりはずっと若い、大人の男の人。きっと満足にご飯も食べていなかったのだろう、無精ひげだらけの頬は痩けて頬骨が浮いている。ルーリンツのぶかぶかのシャツを着せているせいか、細い体はいっそう痩せて見えた。

 

「あ! 気づいた!」

 

 ロージャの弾んだ声に、医務室のみんなが一斉にベッドへと顔を向けた。校長先生の介助へ向かったハーマンと、お粥を作りに行ったルーリンツ以外は全員ここにいる。みんなそわそわしているのだ。だって、初めてのお客さんなのだから。

 

「だいじょうぶ? 痛いところ、ない?」

「今、ルーリンツ……僕らの中で一番の料理上手が押し麦のお粥を作ってます。お腹も空いてると思うけど、もう少しだけ待ってて」

「あなたのお洋服、洗って乾いたらすぐに返すわ。ペンダントとか懐中時計とか、あとポケットの中にあったものはサイドテーブルに置いてありますから」

 

 みんな口々に声を掛けるも、その人はぼんやりとした、起きたばかりの時の、夢か現実かあいまいな時の目で見返すばかりだ。

 

「もう、みんな。そんな風に一度に話し掛けられたら、その人だって困ってしまうわ。はい、お水をどうぞ」

 

 優しく笑いながらみんなをたしなめ、ユーリヤは水差しからコップに注いで差し出す。だけどその人は見つめるばかりで、コップを受け取ろうとしない。

 

「? どうかしましたか?」

 

 その質問にも、答えない。ユーリヤは宙ぶらりんになってしまったコップを困った顔で見た。

 

「えっと……」

 

 その時、校長先生を乗せた車椅子が軋んだ音を立てて入室した。

 ユーリヤは少しほっとした顔でベッドサイドから退き、車椅子を押すハーマンの邪魔にならないようにする。

 

「気が付いたのか。体調はどうかね?」

 

 その人の顔が、ゆっくりと校長先生へと向けられた。

 

「ここはローアンのはずれにある寄宿学校。君はここの門の外に倒れておったそうじゃ。……ふむ、言葉は分かるかね?」

 

 その人は小さく頷いた。ぼんやりしていた目も、少しずつはっきりしてきている。

 

「さて、みな。彼も無事目覚めた事だ。朝の仕事に向かいなさい。ユーリヤは彼のための薬の準備を」

 

 えー、とロージャが声を上げた。ユーリヤ以外のほかのみんなも、少し残念そう。

 

「彼のことが気になるのは分かるが、日々の仕事をおろそかにしてはならんぞ。それに私はこれから彼と、大人同士の話をせねばならんからな」

「じゃあお話の前に、ご飯だけ先でもいいですか?」

 

 そう言いながら入ってきたのはルーリンツだ。手に持ったトレイには、ほかほかと湯気を立てる深皿が載っている。

 

「おお、ルーリンツ。そうじゃな、腹に何か入れた方が気分も落ち着くだろう」

 

 ルーリンツは頷いて、「はい、どうぞ」とその人へとトレイを差し出す。だけどやっぱり、ユーリヤの時と同じように受け取ろうとしない。

 

「あれ。もしかして、押し麦は嫌いでしたか?」

 

 少しの間を置いて、その人は首を振る。

 その人は細い腕でトレイを受け取って膝に載せ、スプーンを手に取った。

 

 みんなの見ている前で、少しだけすくって口に運び、咀嚼し、飲み込む。

 二口目は早かった。先ほどより多めにすくって食べる。喉に引っ掛かったのか、口の中で咳をして、ユーリヤが再度差し出したコップを受け取って飲み干した。

 ほっと微笑んでお代わりを注いだユーリヤには目もくれず、その人は淡々と食べ続ける。

 そうして皿とコップを空にして、スプーンを置いた時。

 

 その人のまなじりから、静かに涙がこぼれた。

 涙は次から次に溢れ、あごを伝って布団に落ちる。

 

 見かねたのか、マリーがハンカチを差し出した。

 

「どうぞ、使ってください」

「何、に」

 

 小さく、かすれた声だった。

 顔を向けた拍子に涙が手の上に落ちて、その人はようやく気づいたようだった。目元に触れ、呻く。

 

「……これ、は」

 

 マリーは腰をかがめて、その人の頬にそっとハンカチを当てる。その人はなされるがまま、目を閉じた。

 

 

 

 

 みんなは校長先生の再度の号令で朝の仕事に向かい、医務室には校長先生と、薬の準備をするユーリヤが残った。私は棚に掛かったはしごに座り、大人たちを眺める。

 

「改めて、私はグレイブズ。この寄宿学校の校長を務めておる。君の名前を、教えてくれるか」

 

 名前、とその人は繰り返した。太腿の上に置かれた手がぎゅっと握り締められる。

 

「……ない」

 

 校長先生は片眉を上げた。

 

「ふむ? 事情を訊いてもいいかね?」

「私は、ヤーナムという街に、いた。それ以前の、記憶はない。名前も……ない。逃げ出してきて、気付いたら、ここに」

 

 その人はぼそぼそと、時折息が喉に引っかかるのか、水を飲みながら答える。

 

「ヤーナム? はて、どこだったか……」

 

 校長先生はあごをさすり、しかしすぐに思案を止めた。

 

「まあ良かろう。ここは十年近く、外部との交流が絶えておってな。今、外がどうなっているのかは分からんが、君が生きてここに辿り着けたのは幸運と言うよりない」

 

 話の横で、ユーリヤは私のお腹をすり抜けて、棚からメモの束を取り出しパラパラとめくる。ぞわぞわした感覚に身震いしながら引き抜いた一枚を覗き込むと、どうやら大人用の薬のレシピのようだ。

 

「君の涙を信頼し、我々の現状を隠すことなく詳らかにするとしよう。無事であった以上、遭遇はしておらんのだろうが……今、この近辺では生きている者はほとんどおらんはずだ。人間に限らず、鳥や獣もめっきり姿を消しておる。それは妖精と呼ばれる存在の仕業じゃ」

 

 その人の目がすっと細まった。その鋭さは、いつか見たハーマンのナイフのようだ。

 

「妖精は止まった時の世界に棲まい、生きたものの命の時間を奪い、死したものに与えて生き返らせることもできる。常人には姿を見ることは叶わぬし、妖精の行動を防ぐこともできん」

「止まった時の世界、か」

 

 顔の向きはそのまま、その人の瞳がちらりとこちらに動いた。

 

 ……うん?

 

 私は振り返る。だけど、あるのは薬棚だけだ。なんだろう、虫でもいたのかな。姿勢を直すと、その人の視線はもう校長先生に戻っていた。

 

「ああ。だが、安心するといい。この学校の中は安全じゃ。外に出なければ、命の時間を奪われるような事にはなるまい」

「外には出られない、のか」

「君に何を置いても向かうべき場所があるなら止めはせん。しかし行く宛てもないのであれば、無闇に命を危険に晒すことはない。だからこそ、君には説明させてもらったのじゃ。……どちらを選ぶにせよ、調子が戻ったら、子供たちの手伝いを頼む。あまり余裕のある生活ではないのでな」

「なら、なぜ追い出さない」

 

 その人の声が暗く淀んだ。

 

「よそ者など、ろくなものではない。外の事など説明せず、追い出せば、良かっただろう。そうすれば、後腐れなく、妖精とやらが、始末して、くれたはずだ」

「そのような事は、冗談でも言うものではないぞ」

 

 校長先生はいかめしく諭し、すぐに表情を和らげた。

 

「みな、優しい子じゃ。私にはもったいないほどのな。そんな子供たちが、倒れている者を見たらどうすると思う? それにそんな風に己を卑下する君は、君が考えるろくでなしよりはずっとマシな人柄じゃろうて」

 

 口を開いたその人を手で制して、校長先生は静かに言った。

 

「どうか、子供たちの優しさに報いてはくれんか。……ユーリヤ以外の子供たちには、学校の外がどうなっているか知らせておらん。だが、外にはまだ生きている者がいる。それだけで、孤立した我々にとっては何にも勝る福音なのじゃよ」

 

 その人は視線を落とし、あいまいに口を閉ざした。

 

「さて。名前がないという事だが、それではあまりに不便が過ぎる。何かこう呼ばれたい、という希望はあるかね?」

「……ハンターで、いい。ヤーナムでは、そう呼ばれていた」

「ハンターか、分かった。皆にも伝えておこう」

 

 それからいくつかやり取りしたあと、とりあえずの話は終わったらしい。ユーリヤに退室のためにルーリンツを呼ぶよう伝え、その後ろ姿を見送りながら、校長先生はそうじゃ、とその人に再度向き直った。

 

「妖精についても、ユーリヤ以外の子供たちには黙っておいてくれんか。今もいるかは分からんが、あの子が怖がられるのは、不憫でな」

「……妖精が、いたのか」

「ああ。だが、もう消えてしまったのやもしれん。たった一つの痕跡を残して、それきりだ。会えるものなら、会いたいのだがな……」

 

 校長先生は窓の向こう、どこか遠くを見た。

 でも、誰のことだろう。ユーリヤが命の時間をなくさなかった以上、妖精なんていないと思うけれど……

 

 悩んでいるうちにユーリヤとルーリンツが戻ってきて、校長先生は退室してしまった。

 

「じゃあ食後のお薬を……あら?」

 

 ユーリヤは首を傾げて水差しを揺らした。どうやら空だったようだ。

 

「おかわりを汲んでくるから、少し待っててくださいね」

 

 そう言って、ユーリヤは急ぎ足で部屋を出る。私もそろそろ出て行こう。今日はどうしよう、いつもみたいにユーリヤの後ろをついて回ろうか。ああでも、今日は天気もいいし、ダニーと一緒にデッキの椅子で空と雲を見てようかな。この人、はやく元気になって、みんなと仲良くなってくれたらいいな。

 

 そんなことを考えながら、はしごから腰を上げて、入口へ向かう。その時だった。

 

 腕にぐいっと衝撃が走った。

 

 え、と思う間もなく振り回されて、気づけば壁に押し付けられていた。半ばめり込むが、壁の中からぞわぞわ反発するような感覚があってそれ以上は埋まらない。

 

 視界の端に霞んだように光る銀色のナイフが見えた。腕には締め付けられるような感覚があって動かせない。まるで時の振が定まった時のような、あるいは赤い指輪に命の時間が留められた時のような断続的な震えが、そこから伝わってくる。

 

 ……えっと、これは。どうなってるの?

 

「お前は何だ」

 

 ぽかんと口を開けてる私の背後から、冷たい声が聞こえた。

 

 

 

 

「もう一度訊く。お前は何だ」

 

 ……というか、あれ?

 この人、私が見えてるの?

 

 どういうことだ? 見えてるだけじゃなくて、触ってもいる。犬のダニーと猫のティアしか気づいてなかった私に? じゃあこの人、犬か猫なの?

 

「神秘の側の存在が、何の目的で――」

 

 その人はふいに言葉を切る。喉元からナイフが離れ、掴んでいた手が外れた。私はバランスを崩して膝をつく。うえ、なんなんだ、もう。

 

 座ったまま振り向く。瞬間、混乱は一気に吹っ飛んで、胸の奥がぎゅうと凍りついた。

 

 

 その人は私を見下ろしている。

 あのロッブの森の雪のような、冷たく氷った瞳。

 握っている歪なナイフが、あの大きな金の手に握られた金枝と重なった。

 

 

 まずい。まずい、まずいまずい!

 

 今更になって危機感が背筋を駆ける。

 

 私はいい。けれどみんなはだめだ。もしあんなナイフで刺されたら。もう助けられない。どう切り抜ければいい? できることなんてもう何もないのに。

 

 思考はぐるぐると回るばかりで答えは出ない。

 

 廊下に響く足音が聞こえた。はっとそちらを見れば、水差しを抱えたユーリヤが医務室に戻ってくる。

 

「お待たせし……あら、どうしたの?」

 

 その人はゆっくりとユーリヤへと顔を向けた。私は咄嗟に立ち上がってユーリヤの前に立つ。盾になれるかは分からないけれど、でも。

 腕を広げて見据えれば、その人は目を見開く。握っていたあのナイフはいつの間にか消えていた。そうしてユーリヤへと視線を戻し、首を横に振る。

 

「……()が、いたように、見えただけだ」

「虫? 本当? どのあたりに?」

 

 私とその人との間の緊張なんて一切感知できないユーリヤは、目を輝かせてその人に近づく。だめ、危ない、と制止しようとしても、私の手はユーリヤの服の裾を揺らすだけだ。

 

 しかし、その人は勢いに押されたように数歩後ろに下がった。ユーリヤははっとして、それから照れたようにはにかんだ。

 

「その、ね。私たち、あまり生き物を見たことがないの。校長先生がおっしゃっていたでしょう? 学校の外には悪い妖精さんがいるから、生き物はみんな命の時間を奪われてしまったって」

 

 ユーリヤは水差しを作業台に置いた。小分けにしてあった薬包紙の束を揃え、一つを残して引き出しに片づける。

 

「あなたが門の外で倒れてるのを見つけた時も、すごく驚いたけど、本当に、本当に嬉しかったのよ。私たち、もうずっと私たちだけだったから……。それに、いつかお客さんをこの学校に迎えてみたいって夢が叶ったのだもの」

 

 その人はユーリヤから目を逸らした。もうすっかり、私を見下ろしていた時の冷たさは消えていた。そんな彼に、ユーリヤは微笑んで薬包紙を差し出す。

 

「はい、お薬。はやく元気になって、どうかみんなと仲良くしてくださいね」

 

 惨劇はその直後に起きた。

 

 渡された薬包紙の中身を一気に口に注ぎ込んだその人の悲鳴にも似たうめき声。慌ただしくコップに水を注ぎ、勢いよく飲む音。そして堪えきれずに噴き出した後の、苦しそうな咳の音。着替えて掃除をして、ちゃんと飲めなかったのでもう一度と言われた時の顔。

 

 医務室から出てきたユーリヤは汚れたシャツと布巾を抱え、頬を押さえてため息をついた。

 

「……やっぱり少し苦いのかしら。でも量を飲まないと、大人の人には効き目がないし……」

 

 そうだわ、お粥に混ぜたら、きっと苦いのも和らぐのではないかしら? そんなことを呟きつつ、医務室の中から聞こえるつらそうな咳を置き去りにして、ユーリヤは洗濯場へと歩き出した。

 後を追いかけながら、私は掴まれた腕をさする。あの冷たい目が焼き付いて離れない。心の中で怖さの名残がひりひりしていた。

 

 でも、あの人、ユーリヤにはなにもしなかった。お薬だって何も言わずにきちんと飲み直した。白かった顔が更に血の気をなくして土気色になってたけど。

 

 ……あの人が言っていた神秘の側の存在、というのは、人には見えない、人ではないものを指しているのだろうか。それなら当てはまるのは私だけだ。

 

 大丈夫、なのかな。人でないものが嫌いなだけで、ユーリヤには、みんなにはなにもしないって、思っていいのかな。

 

 振り返った先では、まだ咳の音がしていた。……大丈夫かなぁ、あの人。

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