スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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ムーンダスト-3

 お昼過ぎ、ユーリヤに連れられて来たのは屋根の上だった。

 

「足下、気をつけてね」

 

 時計塔の窓から外に出て、屋根の縁をすこし進んだ先。袋小路のようになっている場所に腰を下ろして、間に持ってきた小さな黒板を置く。

 

 私はユーリヤの横顔を見上げた。襟元の古びたブローチはいつものように鈍く柔らかに光を受け止めていて、けれど頬はいつもよりどこか白く見えた。

 何を訊かれるのかは、予想がついている。ユーリヤは指輪を得られなかった妖精がどうなるか、知っているだろうから。

 ……でも、それにどう答えればいいのか。どんな風に答えたら、納得してもらえるのだろう。

 ユーリヤが元気になって、みんなが冬の森で消える原因もなくなって、校長先生が川に身を投げることもない。それどころかハンターやエビー、それからこまどりの子が学校にやってきて、前よりずっと賑やかになった。

 みんな、欠けずに全員いる。それで充分だ。いいや、充分以上のはずだ。だからもう、何をする必要もない。

 

 俯いた視線の中で、ユーリヤの足下に積もった落ち葉の中にきらりと光るものが見えた。手を伸ばして拾い上げたのは、6と刻まれたコインだ。

 

 ……こんなところに、なんで?

 

「……え? アレクシス、それ……」

 

 ユーリヤもびっくりした様子で、差し出したコインを受け取ってまじまじと見つめた。風雨に晒されていたとは思えない、青さび一つない赤銅色が、陽の光を弾いて光っている。

 

「こんなところにもあったのね。先生、遊びにはいつも真剣で、あんまり手加減とかしてくれない人だったから……」

 

 

 “そうなの?”

 

 

 優しそうな人だって印象しかないからちょっと意外だ。ユーリヤはしっかりとうなずいて、コインのふちを指でなぞる。

 

「うん。ルーリンツがチェスの手ほどきを受けたときとかも、だいぶ容赦がなかったみたい」

 

 口元にうっすらと笑みが浮かびかけて、だけれどそれはすぐに消えてしまった。コインをポケットにしまって、また、気落ちした様子でそっと息をついた。

 やがて、ユーリヤは窺うように、私の顔のあたりを見つめた。

 

「アレクシス。あなたは……あの日、どうして私に指輪を返してくれたの?」

 

 訊かれると思っていた質問じゃなくて、私はすこしだけぽかんとした。指輪を、返した理由。ええと。

 

 

 “約束したから。”

 

 

「それは、誰と?」

 

 ……それは。

 みんなからユーリヤを助けてって、そしてユーリヤからみんなを助けてって頼まれたから。

 でも、それを伝えたら、どこまで伝えなくちゃいけなくなるんだろう。もう終わったことを、気にしてほしくないのに。

 

 手の中で、チョークの先が力のこもっていない線を引いた。それを見つめて、ユーリヤは唇を噛みしめた。

 

「最近、ずっと考えてたの。あなたが優しい、素直ないい子だって、分かってる。みんなのことをすごく大切に思ってくれてることも。だから不思議だった。そんな子が、きっと聞こえてたはずの聖母さまの言いつけを聞かないで、そのまま指輪を返すようなことがあるかしらって」

 

 聖母さま……って、もしかして、あの声のことだろうか。でも問いかける隙間もなく、ユーリヤの言葉は続く。

 

「もし、あの日。あなたがそのまま指輪を受け取って妖精になったとしたら、どうなるかしら。私はいなくなるけれど、みんなはあなたと友達になるわ。きっと椅子の場所を決めたり、いたずらして驚かせたり……それだけでは済まないって、妖精の力を知ったみんながどうするかなんて、心のどこかでは分かっていたはずなのに」

 

 膝の上に置かれた手が、ぎゅっと握りしめられた。

 

「最初から、黒板にみんなの絵を描いてくれたあの時から、ずっと答えは見えてたのね。……あなた、未来から戻ってきたのでしょう。私がいなくなってしまったせいで起きたことを、変えるために」

 

 私はなにも答えられなかった。ユーリヤも、それで確信したみたいだった。

 

「……ごめんなさい。指輪のない妖精さんは、いつか消えてしまう。なのに」

 

 ぽつり、と落ちた声は今にも消えてしまいそうだった。それはまるで、あの日、悪い妖精になってしまった時の声のようで。

 

 

 “違うよ、ユーリヤ”

 “謝ることなんてなにもないの。私はしたいことをしたのだから”

 

 

 慌ててチョークを黒板に走らせた。そんなつもりじゃないのに、ユーリヤを傷つけるつもりなんてなかったのに。

 

 

 “私は、ユーリヤのことも、みんなのことも大切だよ。だから助けたいって強く思ったんだ。それで、ちゃんと取り戻せたんだよ。それ以上のうれしいことなんてないよ。”

 “だいじょうぶ。後悔なんてしてないから。そんな風に思い詰めないで。”

 

 

 伝えたいことはたくさんあるのに、書ききれない黒板の小ささが、気持ちと思いを言い表すには少なすぎる言葉の持ち合わせがもどかしかった。

 ユーリヤの顔は変わらず、沈んだままだ。

 

「ねえ。あなた、未来でロビンには会った?」

 

 聞いたことのない名前だった。

 

「私の知ってる妖精は、あなたを含めて三人だけ。ロッブの森に古くから棲む、あなたを妖精にした聖母さま。それから、お父さんたちの大切な友達の、ロビン。だから、あなたがもしほかの妖精に出会ったなら。それはきっとロビンよ。新しい妖精は、妖精の助けがなければぜったいに現れないから」

 

 ほかの、妖精。

 私の知ってる妖精は、私を入れて三人だけだ。一人は私のせいで悪い妖精になってしまったユーリヤ。それから、もうひとりは。

 黒板にチョークを当てる手の震えを、止めることはできなかった。

 

 

 “知り合い なの?”

 

 

「うん。私にとっては、すごく優しいお兄さんだった」

 

 

 “だって でも”

 “あのひとは  森に行ったみんなの命の時間を、”

 

 

 その続きを、どうしても書くことができなかった。

 それにきっと別人だ。ユーリヤにとってすごく優しいお兄さんだったひとが、あんなことするはずない。

 

 するはずないのに、ユーリヤは、ああ、やっぱり、と、ため息のような声を漏らした。

 

「……私、ずっと考えないようにしてた」

 

 うつむいた拍子に、灰のような髪がさらりと流れて横顔を覆った。

 

「どうしてこんなことになったのか。この先、どうなっていくのか。ずっと考えないようにして、思い出だけを見てた。このままじゃいられないって、いつか壊れてしまう日が来るって、分かってたのに」

 

 鼻をすする音がして、声が湿り気を帯びる。

 

「あの人のことだって、そう。いつも自分のことは後回しにしてるのに、私にはもっとわがままを言っていいんだよって、心配してくれてた。そのことだけ、思い出にして。ロビンが、あんなに優しかった妖精さんが、悪い妖精になってしまったなんて……信じたく、なくて……」

 

 ユーリヤは力なく首を振った。

 

「ごめんなさい。あなただけに背負わせて、本当にごめんなさい。背負わせて、傷つけて、なのに、なにも、返せなくて……」

 

 ぽた、と、しずくがエプロンに落ちる音がした。それを聞いた瞬間、腹の底からなにかがこみ上げてくる。

 

 ……だめだ。

 このままなんて、絶対にだめだ。

 ユーリヤをこんな風に苦しませたまま、消えるなんてできない。そんなの、絶対にいやだ。

 

 黒板に押しつけたチョークが軋んだ。

 

 考えろ。違うと伝えるだけではユーリヤには届かなかった。

 それは何が違うのかさえ、ユーリヤは知らないからだ。私が未来から戻ってきたことと、指輪を返したこと。それから遠くないうちに消えてしまうことしか知らないから。

 

 私はチョークを握り直した。

 伝えなくちゃいけないこと。ユーリヤがきっと知りたいこと。私が、妖精だったころのことをどう思っているのか。

 心の中でひとつひとつ確かめて、黒板に先を当てる。

 

 

 “ユーリヤ。私ね、最初はなんだかよく分かってなかったんだ。”

 

 

 チョークが黒板を叩く音に、ユーリヤはよろよろと顔を上げた。

 

 

 “あなたはこれから妖精になるの、なんて声が聞こえて、気づいたら二階の倉庫にぼんやり立ってた。”

 “廊下に出て、窓の向こうに白い粒がちらほら浮いてるのが見えた。それが雪だってことも、あの時はよく分からなかった。”

 

 

 ユーリヤは赤くなった目を瞬いて、黒板を見つめている。

 

「……アレクシス?」

 

 

 “最初の頃は、手もにぎったり開いたり、後はものを掴むくらいしかできなかった。”

 “思い描く動きと実際のとがなんだかずれてるような気がした。廊下に置いてあった鍵を取って、扉の鍵穴に差し込むのも大変だったよ。”

 

 

 どうか、否定しないで。悪いことだったなんて思わないで。

 確かに苦しかったし、つらいこともたくさんあった。けれど、それはたった一つの願いがあったからだ。

 知ってほしい。

 どれだけみんなが、ユーリヤにもう一度会いたかったのかを。

 

 

 “鍵を開けて部屋に入ったら、空のベッドが三つ並んでた。”

 “そのうちの一番奥のベッドの上に、金枝がぽつんと浮かんでた。”

 

 

「えっと。私たちは、いなかった、の……?」

 

 ためらいがちに、ユーリヤは首をかしげた。

 

 

 “うん。ティアだけは、きちんと見えたけれど。”

 “廊下にいた校長先生も、ベッドで寝ていたはずのマリーとロージャも、それから金枝を持っていたユーリヤも。”

 “どうしてか、あの時の私には見えてなかったんだ。”

 

 

 あれはどういうことだったんだろう。考え込みそうになる前に、首を振って疑問をはらった。

 

 

 “時間を跳んだ先は、九月十七日だった。なんでかな、年は分からなかったけど、日付は分かった。”

 “その時にね、はじめてユーリヤに会えた。”

 “お手紙をもらったんだ。私たちと友だちになってくれませんかって。この花を咲かせてくれたらきっとあなたに気づいて、それからずっと忘れないって。”

 

 

 ユーリヤは考え込むように、口元に手を当てた。

 

「去年の……。あの日は……あなたに呼び掛けて、でも、何も起きなかった。花は枯れたままだったし、あなたのために用意した葡萄もそのままで、夕ごはんにみんなで食べたの」

 

 妖精がいないのだから、あの日のことも、ユーリヤが笑いかけてくれたこともなくなったのか。当たり前のことなのに、胸の奥がちくりと痛んだ気がした。

 

 

 “食べることはできなかったけれど、ぶどうの命の時間を奪って、花を咲かせた。”

 “そうしたら時間が動き出して、ユーリヤは笑ってくれたんだ。はじめまして、応えてくれてありがとう、って。”

 “今でも覚えてる。すごくどきどきして、笑ってくれたのが本当にうれしかったな。”

 

 

「そう、だったの……だから、あなたがはじめて描いてくれたあの絵は、百合の花を持っていたのね」

 

 腑に落ちたようにユーリヤはうなずいた。

 ……今更だけれど、あの絵も消さないで残しておけばよかったな。あの時ユーリヤが残念がっていた理由が、今ならなんとなく分かる。

 

 

 “次にたどり着いたのはね、今年の十月二十日だった。今からすると、ほんの少しだけ未来だね。”

 “学校の中を見て回ってたら、ユーリヤがいたの。廊下のかどに隠れて、私宛の手紙を持って、キッチンを覗いてた。”

 

 

 ユーリヤは不思議そうに目をぱちぱちした。

 

「私? でも、あなたが妖精になったのなら、私は……」

 

 

 “いてくれたんだよ。命の時間をなくして、幽霊になって、みんなには見えなくなってた。”

 “それでも、待っててくれたんだ。いたずらしようって、誘ってくれた。”

 “みんなにあらかじめハーブの入ってた小瓶を渡して、思い思いの場所に隠してもらったから、それを探してお鍋にぜんぶ入れちゃってって。”

 “味見したルーリンツがひっくり返るくらい、強烈だったみたいだよ。仕掛けた本人が心配してたなぁ。”

 

 

「そのいたずらなら、ローリエよね? 確かに、あれだけ入れたらすごいことになるものね」

 

 

 “でも、よろこんでたよ。ユーリヤのシチューの味だって。”

 

 

 血の気の失せていたユーリヤの口元に、ちいさく、だけど確かな笑みが浮かんだ。

 

「そうなのね。すこし、うれしいな。……そうだ。久しぶりに、キッチンに入らせてもらおうかしら。ルーリンツもマリーもだめって言うけれど、でも私だってレシピ通りに作ることはできるもの」

 

 ルーリンツも言っていたけど、たぶんそのレシピが問題なんだろうな。「世界のハーブ料理」だったっけ。きっとみんな大騒ぎだし、ハンターなんてお薬と併せたらひっくり返ってしまうんじゃないだろうか。

 でも、その様子を想像するとちょっと楽しい。こっそり笑って、私は続きを黒板に書く。いざとなったらルーリンツががんばって説得してくれるだろう。

 

 

 “最初はね、ニルスは妖精のこと、よく思ってなかった。”

 “ロージャの足の()()のことがあったし、それに、ユーリヤのことも。”

 “今なら仕方ないって思うけれど、あの頃はちょっとさみしかったな。”

 

 

「それは……そうね。ニルスにとって、ロージャの怪我は……」

 

 

 “そんな時に、校長先生に呼ばれて、あの冬の夜にロージャが怪我をしないよう取りはからってくれって、頼まれた。”

 “その時がはじめてだった。そうと分かっていて、誰かの命の時間を奪うのは。”

 

 

 あの時の気持ちは、たぶんずっと忘れられないだろう。強い感情を抱いたわけじゃない。むしろ逆だ。

 なにも思わなかった。

 弛緩した校長先生を眺めて、動かなくなってしまったと、その程度しか思っていなかった。それよりも頼まれたことに意識が向いていて、校長先生のことは心配もしていなかった。

 止まった時の世界だから動かないことと、流れる時の世界でも動かなくなってしまうこと。その違いを、あの時の私は理解していなかった。

 

 

 “ロージャの怪我がなかったことになって、だから校長先生も、命の時間を捧げる理由がなくなった。”

 “ニルスも、妖精のことを受け入れてくれるようになってた。”

 “その時はそれでよかった、って思ってた。”

 “みんなが出してくれた椅子の位置を選んで、それから、歓迎もかねて演奏会を開いてくれることになった。”

 “今度の演奏会と同じ曲だった。オルゴールは、妖精の声だからって。”

 “でも、   ユーリヤも歌ってくれたら、きっともっと素敵だったのに、って。”

 

 

「……、…………うん」

 

 

 “その時に、オルゴールを直すために、私はヌーを生き返らせた。音楽堂の二階の窓辺にいた蛇の命の時間を奪って、ヌーに与えた。”

 “それで、みんなは気づいて、外に出たんだ。人間と同じくらい大きな生き物の命の時間があれば、またユーリヤに会えるかもしれないから。”

 

 

 私は一度、チョークを止めた。先ほどの微笑みはすっかり消えて、ユーリヤはじっと黙り込んだまま黒板に目を落としている。

 あの夜のことを、ぜんぶユーリヤに伝える必要はないはずだ。ユーリヤが何よりも知りたいのは、きっと。

 

 

 “ユーリヤ。私は、冬の森で妖精に会った。”

 “でも、そのひとは、ユーリヤの思っているような、外の生き物の命の時間をみんな奪うような、そういう悪い妖精じゃなかった。”

 “自分が何をやってるか、自覚してた。”

 “それは間違いないと思う。自覚して、人の命の時間を必要としてた。”

 

 

 短く息を吸い込む音がした。

 引き結ばれていた唇がわななきながら開いて、その端から細い声がこぼれ落ちる。

 

「そんな……どうして……」

 

 

 “そうしてでも、叶えたい願いがあったから。”

 

 

「……え?」

 

 ユーリヤは、静かに目を見開いた。

 

 

 “人の命の時間は、古い時間に囚われているがゆえに、過去への導きになる。”

 “あのひとは変えたい過去があるんだと思う。だから何度も繰り返しては、過去に戻ってる。”

 “たぶん、私が知ってるより、たくさん。”

 

 

 あのひとは、それこそ縫い目のないシャツを仕立てるような、あるいは1エーカーの土地にくまなく蒔いた一粒の胡椒を革の鎌で刈り取って、小鳥の羽で束ねるような、そんな到底叶えようもない願いに応えようとしているのだろう。

 

 

 “でも、妖精の力は、そんな都合のいいものじゃないから。過去を変えようとしてうまくいくことなんて、ほんとうに少ないんだ。”

 “それは分かる。私も、あのひとと同じことをしたから。”

 “私は運がよかっただけだ。ひとつ何かが足りなかったら、今でも妖精のままだったと思う。”

 

 

 はじまりのきっかけが、すべてを終わらせる鍵でもあった。だから私は今、こうして流れる時の中でユーリヤの隣にいる。もしそのボタンが掛け違っていたら、きっとあのひとと同じように、あの冬の日を繰り返してた。

 

 

 “私はあのひとがこわいよ。”

 “なにを考えてるのかとか、どんな願いに応えたいのかも、分からない。”

 “でも、ロージャの命の時間を奪った時に、目をそらしてたのは覚えてる。”

 “私に言えることは、それくらいだけれど。”

 

 ユーリヤはなにも言わなかった。ぎゅっと結ばれた口元はかすかに震えていた。

 知りたいことは伝えられただろうか。それとも、ぜんぜん足りていないのだろうか。ユーリヤを見ても、私には分からなかった。

 

 私は再度チョークを握り直す。

 うまく伝えられるか、自信はないけれど。

 

 

 “ユーリヤ。”

 “私は、みんなの気持ちを受け取った。”

 “どんなに危険でも、みんな、もう一度会いたかったんだ。ユーリヤに会いたくて、がんばって、うまくいかなくて、あんなことになっても、それでも諦めずに私に託してくれた。”

 “ルーリンツの覚悟も、ニルスとロージャの後悔も、ハーマンとマリーの想いも、私と友達になってくれたあの日々も。全部なかったことになったとしても。私の中に今もある。確かにあるんだ。”

 “みんなの気持ちは、想いの欠片は、ぜんぶ、私が背負って、連れてきた。”

 

 

 再会したあの日。ユーリヤは、返ってきた指輪はとっても温かかったと話していた。それはきっと、私の中に残っていたみんなの想いが、指輪を通して伝わったからだ。

 

 

 “苦しかったよ。もう一度同じ事をしろなんて言われても、もうできないかもしれない。それくらい、かなしくて、つらかった。”

 “だけど、歩いてきた道のり全部を悪かった思い出にして、心の底に押し込めたくない。だって、うれしかった思い出も、ちゃんとあるから。”

 “ユーリヤと一緒にしかけたいたずらのことも。”

 “私のための椅子の場所を決めてくれたことも。”

 “みんなが私のために開いてくれた演奏会のことも。”

 “大切なんだ。私の生きてきた時間なんてほんのちっぽけで、それもほとんどなかったことになってしまったけれど、それがあるから、私は今こうしてユーリヤの隣にいる。”

 “ユーリヤが背負わせてくれたからこそ、私はここにいるんだ。”

 

 

 奇跡みたいな時間だった。

 別れが避けられないと分かっていても、みんなに会えたことを、それから一緒に過ごせたことを、後悔なんてしない。

 

 

 “ユーリヤ。私はね、幸せだよ。”

 “あなたが笑顔でいてくれること。一緒にいてくれること。それが本当に特別なものだと知っているから。”

 “だから、謝らないで。謝ることなんて何もない。”

 “大切な人たちを、全員、取り戻したんだ。こんな私でも、できたんだ。”

 “きっとこれが誇らしいってことでしょう?”

 

 

 ハンターがあの時言ってくれた言葉は、どれだけ私を救い上げてくれただろう。なにもできなかったわけじゃない。みんなを取り返して、後に繋いだ。それはすごいことだって。

 ひとでなしの私でも、ここにいてもいいんだと認めて、受け入れてくれた。たとえそれが叶わない夢だとしても。

 私自身はもういられないけれど、それでも、みんなが許してくれるなら。

 

 

 ”だから、”

 “どうか、忘れないで。”

 “たまにでいい。私を思ってくれたら、私がいた日々をいいものだったって思ってくれるなら、うれしい。”

 

 

 いやだ。

 まだ、みんなと、一緒にいたい。

 

 

 ユーリヤに、私の姿が見えてなくて、ほんとうによかった。

 だって、わがままを言って、困らせたくない。

 無理だと、叶わないと分かってる願いを伝えて、余計に悲しませたくないんだ。

 

 ユーリヤの手が、チョークを握る私の手に重なる。

 

「……あなたの涙を、拭ってあげられたらいいのに」

 

 その声はどうしようもないくらい優しくて、目からぼろぼろとこぼれていた涙の勢いは弱まるどころかどんどん強くなっていく。

 

 

 “見えてないでしょ”

 

 

「うん。でも、あなたが泣いてるのはわかるの。……同じ時間の中に、いるから」

 

 頬のあたりを、ユーリヤの白い指がなぞった。かすかにぞわぞわした感触がして、でも涙がその指先に残ることはない。

 

 私は人間じゃない。だから、一緒にはいられない。仕方ないことだ。

 そんなの分かってる。でも、そう自分に言い聞かせるたびに、また新しい涙がこみ上げてくる。

 早く泣きやまなくちゃ。ユーリヤに気にしてほしくない。それにハンターに見られたら、きっと心配させてしまう。

 

「……ううん。あげられたら、じゃないわ。あなたやみんなが私にしてくれたように。今度は私が、あなたを」

 

 ……ユーリヤ?

 涙でぼやけた視界では、ユーリヤがどんな表情なのか、うまく見えない。でも聞こえてくる声はひどく真剣で、何だか胸が騒いだ。

 

「あなた自身の命の時間は、聖母さまが指輪に変えて、それをマルガレータ先生が持っていってしまった。その指輪はまだ、先生が持ってる。冬の嵐の夜には、赤い指輪の光は今でも桟橋に現れる。……待つだけの時間が残っていないとしても、ロビンなら」

 

 確かめるように、ユーリヤはひとつひとつの言葉を噛みしめる。涙を拭って見上げた先には、今まで見たこともないくらい真剣な顔をしたユーリヤがいた。

 

「手伝ってもらえたら、先生の持っている指輪を、あなたに返せる。ロビンが、私の話を聞いてくれたなら」

 

 ……なに、言ってるの。

 まるで、あのひとに会いに行く、みたいなことを。

 

「お母さんとの約束もあるもの。ロビンに会って、話をしなくちゃ」

 

 ないはずの心臓が軋んだ。

 

 

 “ユーリヤ やめて”

 “だめだよ あのひとは止まらないよ”

 

 

 目的そのものは分からないけれど、何があったとしても止まらないことは分かる。たとえユーリヤがあのひとの知り合いだとしても、止まるはずがない。

 

 だけれど、涙が途切れた向こうで、ユーリヤは真剣な表情を崩さない。

 

「心配しないで。校長先生ときちんと相談するわ。みんなとあなたが繋いでくれたこの命の時間を、気安くなげうったりはしない」

 

 右手の赤い指輪をぎゅっと握りしめて、雲間から覗く冬空のような青い目が私をまっすぐに見つめた。

 

「でもね。私は、あなたが思ってるよりずっと意気地なしだけれど……ここであなたのことさえ仕方ないなんて諦めたら、二度と自分を許せなくなる」

 

 こらえるように震えていた目尻が、口元が、くしゃりとゆがんだ。

 

「あなたが言ってたのとおなじ。みんな、どんなに苦しくても、もう一度私に会いたいって思ってくれてたって。私だってそうなの。あなたが、大切だから」

 

 私の肩に額を預けるように俯いて、ささやき声で叫ぶ。

 

「アレクシス。私は、あなたとまだ一緒にいたい……!」

 

 心の中に、なにかが落ち込んで、沈んでいく。

 ぐるぐるとまとまらない頭の中に浮かび上がってきたのは、誰もいなくなってしまった学校の中で崩れ落ちたみんなの服と、それから。

 

 

 ――私、命を失くしたくせに、それでも、みんなと一緒にいたくて。

 ――だからきっと罰があたって、悪い妖精になっちゃったの……

 

 

 だめだ。

 それを選んでは、いけない。

 

 私はチョークを黒板に押し付けた。

 

 

 “そう言ってもらえるだけで、私は幸せだよ。”

 “ありがとう。今まで、本当に楽しかった。それで充分だ。”

 

 

「アレクシス、だけど……」

 

 なおも言い募ろうとするユーリヤを遮るように、私はチョークを動かした。

 

 

 “ユーリヤ。私はもう、ずっと昔に命の時間をなくしたんだ。”

 “これ以上望むなんて、罰があたるよ。”

 

 

 息を呑み、唇を引き結んで、ユーリヤは黙り込んでしまった。

 その顔を見ていられなくて俯く。

 だめだな、私は。心配、かけたくなかったのに。

 

「……ハーマン、マリー! あのね、さっきルーリンツにも伝えたけど、メモのヒントにあったコイン、見つかったよ!……」

「……僕たちも、挑戦状にあった中庭のコインを見つけられたんだ。あと、図書館にも一枚あったよ。……」

「……これで合わせて六枚ね。残りはどこにあるのかしら?……」

 

 足下からみんなの声が聞こえてくる。楽しそうな声がどこか遠く思えた。

 視界の端で、握りしめられていたユーリヤの手が緩むのが見えた。

 

「……戻りましょう。つきあってくれて、ありがとう。今は、聞きたいことは、全部聞けたから」

 

 

 “わかった”

 

 

 そう書いた黒板を、ユーリヤは手に持って立ち上がった。どんな顔をしてるのかを見られないまま、私はユーリヤのかかとを追う。

 どうすれば良かったんだろう。

 気に病んでほしくなくて、でも、本当のことを伝えたら、今度はこんなことになってしまった。

 ……私は、結局……――

 

 かちゃん、と、上の方で響いた音に、私は足を止めて振り返った。

 

 そろそろと階段を上がって、時計台を覗き込む。飴色の床板の上で、きらりと赤銅色が光っている。5と刻まれたコインを拾い上げて、私は首をかしげた。

 ……どこから?

 立ち上がって、見上げる。太い梁と、屋根の裏が見えるだけだ。

 

 まさか梁の上にあったのだろうか。それがたまたま落ちてきた、とか。……そんなことがありえるのかな。

 

 でも、さっき聞こえてきたみんなの話を合わせると、これでぜんぶ揃ったことになる。

 これで、あの人が遺したものを、みんなに渡すことができる。

 きっと喜ぶべきなのに、心は重く沈んだまま動くことはなかった。

 

 マルガレータ。これでせめて、あなたへの罪滅ぼしになればいいのだけど。

 

 

 

 

「いち、に、さん、し、ご……」

「ろく、なな、それからはち。これで全部だね」

 

 八枚のコインを並べて、ロージャとハーマンは顔を見合わせて笑った。その後ろで、ルーリンツたちはメモホルダーを囲んでいた。

 

「それにしても、隠し場所を書き出してみると……よく今日中に全部見つけられたよなぁ」

「庭のはわかりやすかったけれど、図書室のはまさかこんなところに、ってびっくりしちゃった。それからユーリヤたちが持ってきてくれた二枚も」

「梁の上のは、アレクシスが気づかなかったら掃除の時に隙間に掃き込んじゃってたかもね。……そのまま落ちてこなかったとしても、だいぶ難しいけど」

 

 話すみんなの中に、ユーリヤの姿はない。屋根の上にあったコインを渡して、揃ったのを見届けたら、止める間もなく足早にどこかへ行ってしまった。

 

「よし、じゃあ入れてみようか。ほら、アレクシス」

 

 促されて、私はコインを一枚手に取った。投入口に入れると、きりきりと音がして小窓の数字が1に変わる。後ろにいるみんなの口から、おー、と感嘆の声が上がった。

 みんなで一枚ずつ入れていって、最後にハンターが断ってから残りを放り込む。仕掛けが動く音がして、きい、と軋みながら前蓋が開いていく。

 

「……やっぱりうまく見えないな。ハンターさんとアレクシスは?」

「見えている。取るぞ」

 

 ぽつんと納められていたものを、ハンターは手を伸ばしてつまみ上げ、まじまじと見つめた。

 

「これは……皆の小指の指輪、か?」

 

 隣にいたルーリンツが、その横に左手を並べて見せた。サイズは違うけれど、素材や編み方は同じものみたいだ。

 

「ユーリヤがとてもいいものって言ってたのは、これだったのね」

「新しく学校に来たあなたに、って挑戦状には書いてあったから、新しい子が来た時に、宝探しをしながら学校に慣れてもらうつもりだったのかもね」

「うーん、でも、それにしてもやっぱり難しいよ。材料だって普通にあるし、見つける前に僕たちで作ってあげてたかも」

「ははは……先生、遊びについては真剣で、手加減とかぜんぜんしてくれない人だったからなあ……」

 

 みんなの輪からはずれて、私は壁にもたれ掛かる。埋まったその奥にぞわぞわした反発を感じながら、必要のない息を深く吐き出した。

 

 あの人が残したものを、せめてみんなに渡したいと思っていたのだけれど。これならみんな持ってるものだから、意味、あんまりなかったかも。

 なんだか今日はつかれたな。

 私は、どうするべきだったんだろう。

 そんなことがぐるぐると頭の中で巡っていて、答えを掴もうとしても形を捉える前にするりと逃げていってしまう。

 

 ……どこを間違えたのかな。そもそもぜんぶ、間違ってたのかな……

 

「……なあ、これ。多分、あいつでも着けられると思うんだが」

「そうなのかい? でも、うん。すごくいいアイディアだと思う」

 

 革靴の硬い足音がして、頭の上から影が差した。顔を上げると、ハンターが指輪を手にこちらを見ていた。

 

「アレクシス。左手を」

 

 ……えっと。

 きょとんとして、見つめ返す。ハンターはもう片方の手を差し出した。

 

「ほかにつける者もいないんだ。ほら」

 

 もしかして、私に指輪をつけようとしてるの?

 でも、この指輪は私に宛てたものではないはずだ。挑戦状には、新しく学校に来たあなたに、って書いてあったのだから。それに私は人じゃないから、きっとつけても落としてしまう。

 だから、私がはめるなんて、そんなのは。

 

 返事をする前にハンターは私の左手をさっとつかんで、小指に指輪を通してしまった。

 小さな指輪はすり抜けることなく、まるで当たり前のようにぴったりと指に留まっている。手のひらを握りしめ、開いても、落ちたりしない。

 

「指輪、また消えちゃった……?」

「いや。アレクシスの指にちゃんとある。消えたように見えたのか?」

「う、うん。ふしぎね、ほかのものは渡しても、見えづらくなるだけで見えるのに……」

 

 不思議そうに小首を傾げながら、ロージャは私の隣に並んだ。左手を開いて前に掲げ、ぱっと笑う。

 

「でも、これでおそろいね。うれしいな」

 

 みんなと、おそろい。

 親も故郷も違う。それでも、ここにいるみんなは絆で結ばれている。それを()した贈り物だと、聞いている。あの人の日記にも書いてあった。学校をあの子たちの家にしよう、私たちはあの子たちの親になろう、って。

 じわじわとおなかの底から気持ちがわき上がってきて、私はぎゅっと手を握りしめた。

 

 ……ああ、でも。

 ここにあの人がいたら。許してくれたのかな。

 

 ぽた、と、手の上に金色のつぶが落ちた。

 すぐに溶けてなくなるそれを、私はぼんやりと見つめた。

 たくさん泣いたばかりなのに、いったいどこから溢れてくるんだろう。

 

「……アレクシス? どうしたの?」

「おい、具合が悪いのか?」

 

 慌てたようなハンターの問いかけに、首を何度も振る。

 

 胸が苦しい。

 さっきユーリヤと話していた時とは違う苦しさが、喉の奥深くに詰まる。

 こみあげるものを我慢しようとして、耐えきれずにその場にしゃがみ込んだ。

 

 私はあの人のこと、なにも知らない。

 会ったこともない。声だって分からない。今感じているこれは、きっと私の中に残ったユーリヤの気持ちだ。

 そう自分に言い聞かせても、胸を締め付けるような苦しさはいっこうに消えてくれない。

 

 どうしてあなたはここにいないんだろう。

 たとえ私のことを恨んでいるとしても、あなたから話を聞いてみたかった。あなたと顔を合わせて、言葉をやり取りしてみたかった。

 どんな声なんだろう。どんな風に笑うのだろう。私が生まれた時、どんなことを思ったんだろう。

 今ここにいる私のことを、アレクシスとして認めてくれたんだろうか。

 そんなことさえ、もう知るすべはないのだ。

 

 節ばった温かい手が、私の肩に触れた。

 

「本当に、大丈夫、か?」

 

 覗き込むハンターの手を取って、人差し指をそっと当てる。

 

 

 “なんでもないの 気にしないで”

 “おかしいよね、私はあの人とお話したこともないのに”

 

 

「え、あ……」

 

 ハンターはなぜか、とても苦しそうにうめいた。その後ろでみんなも心配そうにこちらを見ている。早く、落ち着けないと。

 ロージャがハンターの隣にしゃがんで、私のいるあたりを見つめた。

 

「……アレクシス。指輪、いやだった?」

 

 

 “違うんだ”

 “おそろいはうれしいよ”

 “でも私が持ってていいのかな”

 “隠した人は許してくれるのかな”

 “私にあてたものじゃないのに”

 

 

 ハンターの通訳を聞いて、ロージャはそっと息をついた。

 

「あのね。挑戦状を残した人のことは、私はなにも知らない……ううん、たぶん、覚えてない、けれど。でも、きっと探して見つけてもらえるのを、楽しみにして隠したと思う。それは挑戦状の字を見るだけで伝わってくるもの」

 

 すごく温かい字だった、とロージャは小さく微笑んだ。

 

「私たちだけじゃずっと見えない、見つけられないままだったけど、だからアレクシスが言い出してくれて、なめくじさんたちの力を借りて、こうやってみんなで探せて、隠した人もほっとできたんじゃないかなって。だから、持ってていいと思う。私は、そう思うよ」

 

 そうかな。そうだと、いいな。

 

 私は指輪を人差し指でなぞった。指先に感触はないけれど。確かにそこにある。

 

 あなたはどうして、いなくなってしまったんだろう。

 もし、あなたがここにいたら。私のことを、どう思ってくれていたんだろう。

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