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本当なら、私は誰にも気付かれずに消えていくはずだった。
はじまりはあの誰もいない学校で、私は妖精に、そしてユーリヤは幽霊になったことだ。
ユーリヤの時間を奪って指輪を得た私と、命の時間を奪われて、幽霊として消えていったユーリヤ。そして最後に指輪を返して、ユーリヤは人間に戻り、私は幽霊とも呼べない妖精のなりそこないになった。
幽霊だったころのユーリヤは11月3日に消えてしまった。なら、指輪を得なかった私もきっと同じくらいはいられるのだろう。その間はずっとみんなといられる。誰にも気づいてもらえないとしても。私と友達になってくれた小さな日々が、永久に失われたとしても。その思い出は私だけが抱えたまま、あの日のユーリヤのように誰にも気付かれないまま、消える。
だって、なにも起きないのが一番の幸せなのだから。
指輪を返した次の日の朝、笑い合うみんなを見て、そう思った。
さみしい。さみしいけれど、仕方ない。それよりみんなが、ユーリヤが笑っているのを見られるのは、嬉しい。強がりだけど、本当の気持ちだ。それにさみしさにもすぐに慣れる。そう思っていたし、そういうものだって、受け入れていた。
だから、皆とまた友達になれた時は本当に嬉しかった。
私がいることに気づいてくれて、アレクシスと呼んでくれた。妖精さん、と呼び掛けてくれる声の優しさも好きだけれど、アレクシスと呼ぶ時の温かさも、今確かに一緒にいるんだって感じさせてくれるから好きだった。いつの間にか、私はほんとうにアレクシスになっていた。止まった時の世界にいた頃は、実感のない他人事のような名前だったのに。
体のない私を気遣って、いろんなことを一緒にやらせてくれた。ご飯の準備や、毎日の掃除や、本の虫干しとか服に空けてしまった穴を目立たずに繕うこつ。食べたり飲んだりできないし、匂いもさわり心地も分からない。ものを持つことすら、気を抜くと取り落としてしまう。そんな私でもできる仕事を与えてくれた。
みんなとすこしでもお話をしたくて、文字や言葉もずいぶん覚えた。伝えられることが増えるのはうれしくて、でも覚えれば覚えるほど伝えきれないことも同じくらいたくさん増えた。もどかしくなることも多いけれど、ありがとうと伝えられた時に返してくれる笑顔が大好きだから、いくらでもがんばれた。
それから、私に気付いて声を掛けてくれたあの人。校長先生よりずっと若くて、ルーリンツよりは歳かさな、大人の人。
最初はわたしをものすごく警戒していて、壁に押さえられたりもした。あの鳥のくちばしのような歪なナイフでざっくり傷付けられれば、きっと妖精だってひとたまりもない。過ぎたことだし、もう私を傷つけないと分かっている今は、こわくないけれど。
鋭いようでわりと鈍感で、教わったことはなんでもそつなくこなせるように見えて、不器用な性格で。たまに見栄を張りたがることもあるけれど、すごく頑張り屋で。
あの人が、ハンターが来てくれたから、私はまたみんなと知り合えた。それはどれほどの幸運だろう。もしハンターがいなかったら、私はひとりきりのまま、時の雪が降る暗闇に消えていくしかなかったのだろうから。
そう。分かっていたことだ。
私は、みんなとはずっと一緒にはいられない。
だって自分自身の命の時間をなくしてしまったのだから。このまま消えるのがいちばん正しいことだと分かってる。
だから。だけど。
今は幸せだ。止まった時の世界では考えられなかった毎日が、楽しくて、嬉しくて、苦しい。
残りの日々を、みんなと一緒に大切に過ごす。それがどれだけ贅沢なことなのか知っているはずだ。
これ以上を望んではいけない。望んでも絶対に手に入らないものをねだっても、仕方がない。
ユーリヤの命を留めて、みんなのことも助けられた。それはハンターが言ってくれた通り、私にとって一番に誇れることだ。それに誰かの命と引き換えの妖精の力なんて、私はいらない。みんなが笑ってくれていることの方がずっと大切なのだから。
分かっていたことだろう。
だから、納得しろ。
川面から顔を上げて、空を見た。
秋の日はどんどん短くなっていて、空の縁はもうだいだい色がにじんでいる。太陽は建物に隠れてしまって、裏庭にも、桟橋の上にも、うっすらと影が覆い被さっていた。
私は膝をかかえたまま、左手の小指を見つめた。感触はなくとも、小さな手編みの指輪は確かに指にはまっていた。
……もし、あの人が妖精と同じものになってしまっているなら。
ここで呼びかければ、応えてくれるだろうか。
すぐに自分の浅ましさに首を振った。そんなやくたいもないことを考えたところで、あの人が人間として帰ってくることはもうないのに。
今日は本当に疲れたな。
うれしいのかも、悲しいのかも、今はよく分からない。
ユーリヤとのことと、手編みの指輪を遺したあの人のこと。頭の中から考えてることが溢れそうで、でも考えないようにしても落ち着いてくれない。これ以上なにかあったら本当に零れてしまいそうな気さえした。
後ろで扉が開く音がして、草を踏む音が近づいてくる。それが誰のものかすぐに聞き分けられたけれど、振り向くことすら億劫だった。
「アレクシス」
呼びかけられて、ようやく私は顔をそちらに向ける。ハンターは私の隣に腰を下ろすと、ベストのポケットでぴょこぴょこと触角を振っていたエビーを私の頭に乗せた。
どこか心配そうな靄を吐き出したエビーを、安心させるために指先で数度つつく。それからハンターの手を取って、いつものように指を当てた。
“どうしたの?”
「お前に言わなければいけない事があるんだ」
うまく説明できるかは自信がないが、とハンターは前置きして、背筋を伸ばして私をまっすぐに見つめた。つられて、私も姿勢を正した。
「お前を、人間に戻せるかもしれない」
……、……えっと。
思わずぽかんとして、ぴんと伸ばしていた背中から力が抜けた。頭上ではエビーがぱたぱたと尾を振っている。
あのね だめよ とめたほうが いいわ
いまは うけとめきれないと おもう
指でつついてだいじょうぶだと伝えてから、さっきハンターが言っていたことを頭の中で繰り返す。
えっと。人間に戻せる、って。
“その、”
“ごめんなさい。なに言ってるの?”
まるで冗談のような話だけれど、ハンターの顔は冗談を言っているようには決して思えなかったし、そもそも冗談自体言う人じゃない。たとえ冗談だとしても、なんでそんなことを言い出すのか、理由が分からない。
ハンターは困ったように眉根を寄せて、整理するようにゆっくりと話し始めた。
「お前自身の命の時間は、失われていない。指輪としてお前の母親がまだ持っている。だからそれを取り戻せれば、お前はユーリヤと同じように、人間として過ごせるようになる、はずだ」
ぽかんとしたままの頭で、どうにか整理していく。私の、母親。なら、あの人の指にある赤い指輪のことだろうか。
でもあの時のユーリヤと違って、私の体はどこにも残っていない。それにそんなことがうまくいくのだろうか。そんな都合のいい話があるなんて。
ぐるぐると考え込む間にも、ハンターの話は続く。
「ただ、彼女が現れる条件を待つだけの時間はない。そのために、ロッブの森に現れる老いた妖精に助力を請うつもりだ」
頭の中が真っ白になった。
まとめようとしていた事柄ぜんぶが消し飛んで、ただ、ロッブの森に行くという言葉だけが残る。
なんでそんなこと言うんだ。
胸の奥で気持ちがぐちゃぐちゃになって、その中からふつふつと何かが沸き上がってくる。
ユーリヤも同じことを言っていた。行って、あのひとに会うと。
なにが起きたのかも話したのに。二人とも知ってるはずなのに。
なんでそんなことを。
ユーリヤの時とは違うなにかが、喉元にこみ上げてくる。
「その事を皆に伝え……アレクシス?」
立ち上がった私を、ハンターは不思議そうに見上げた。その瞳の優しさが、なぜか、気持ちを更に苛立たせた。
右手を掴み上げ、手のひらに指を押しつける。
“私は”
“そんなことしてほしいなんて 一度も言ってない”
“なんで”
“やめてよ だって なにかあったら もう とりもどせないのに”
「な……」
息を呑む音が聞こえた。ハンターは大きく目を見開いて私のことを見つめている。
納得しようとしてるのに。お別れは仕方ないって。私はみんなを取り返した。それで充分だって。
なのに、なんで今更そんなことを言う。
気持ちがぐちゃぐちゃなのにとがって、そんなこと伝えたら傷つけるって分かってるはずなのに、胸の奥から飛び出すのを止められなかった。
“やめてよ ユーリヤも ハンターまで”
“そんなこと考えてなんになるんだ”
“私は そんなこと 望んで”
望んでいる。
お別れしたくない。まだみんなといたい。そう、思っている。
認めてしまえば、それはひどく簡単なことだった。
そうだ。泣いているのも、気持ちが落ち着かないのも、結局は別れが嫌だからだ。いなくなったら悲しんでくれる人たちだって分かってる。消えるのを黙っていたことを、怒ってくれる人たちだって。
だけど、私なんかのために誰かが苦労して、そのせいで深く傷つくくらいなら、失われてしまうなら、黙っていなくなった方がいい。同じくらい強く、そうも思っている。
わがままなんて言いたくない。
叶わない夢を無理にねだって、いったいなんの意味があるというんだ。
もう一緒にはいられない。なら、せめていい思い出にしてほしい。そう思い込もうとしていたのに。
なのに。なんで、そんなことを今更言うんだ。
ユーリヤも。ハンターまで。
“二度と そんな 勝手なこと”
書き終えるより前に、手のひらを見つめていたハンターの顔がかっと染まった。
「……なら、お前だってずっと黙ってただろ!」
勢いよく立ち上がり、そう荒げられた声は芯から震えて、変な風にうわずっていた。今まで見たこともないくらい顔を真っ赤にして、ハンターは叫ぶ。
「お前だって……お前だって! 本を隠したりして、勝手に皆に黙っていなくなろうとしただろ! この……馬鹿!」
ばか?……、…………ばか!?
ひどいこと言った! ばかだなんて、ハンターがすごくひどいこと言った!!
衝動のままに睨み付ける。ハンターは怒った顔をすぐに崩して、あからさまにうろたえ出した。
「え、あ、いや……」
その手をつかんで、手のひらに人差し指をぎゅっと押しつけた。
“そっちこそ ばかなことしないで 二度と だから”
だから私のことなんて気にしないで。
「あ、おい!」
引き留める声を無視して、私はその場から駆け出した。
ハンターに見つからない場所。追いつかれないところ。
どうしてこんなことになるんだろう。
学校の中に入って、がむしゃらに走る。
大切に思ってくれていることは分かっている。
だけど。
二階からばたばたと急いだ足音が聞こえてくる。誰とも顔を合わせたくなくて、とっさに私は伝言用の黒板が置いてある部屋に飛び込んだ。
後ろ手に鍵を掛けて、その場にずるずるとへたり込む。イーゼルに立てかけられた黒板には、みんなの字でコイン探しの
幼い字、丁寧な字、大人びた字。見つけた報告と、読んだチェックと、それからちょっとしたひと言。お互いを思いやってるのが見ただけで伝わってきて、だからこそ自分がどれだけひどいことを書いたのか、思い知らされる。
震える手で頭を抱える。そうでもしないと中身が溢れそうだった。
自分のしたことが信じられなくて、けれど指にはまだ書いた感触が残っている。
どうしよう。なんであんなこと。
それにどうしてハンターは私が消えることを知っていたんだ。本は校長先生に頼んで隠してもらっていたのに。ハンターは一度も読んでないはずだし、中身を知っているみんなは私が妖精だったってことをつい最近知ったばかりだから、結びつけるまでには終わると思っていたのに。
……ああ、でも。
これでハンターが私に幻滅してくれたなら、もう心配しなくていいのかな……
あれくしす あのね
こんなときに こんなこといって ごめんなさい
でも おちちゃう おちちゃうから
……エビー。
俯いていた頭を上げると、エビーはほっと安堵のため息のようにもやを吐いた。
足はおぼつかなかったけれど、それでも立ってチョークを手に取る。
“ごめん。”
それと。
“やめた方がいいって言ってくれてたのに。ごめんなさい。”
頭上に乗せたままだった小さな体を、手ですくって顔の前に連れてくる。
ううん きにしないで
エビーは触角をかしげ、私の手の中でもやを吐き出した。
あのね かおいろが すごくわるいわ
かんがえてるばかりじゃ きっとしずむだけだから
かんがえてること こくばんにかきだしてみて
いまのきもち すこしずつでいいから
手に意識を込めて書いてある文章を消していく。エビーが見つめる先で、白く汚れた黒板にチョークの先端を押し当てた。
今考えていること。
ぐちゃぐちゃのままの気持ちは喉の奥につまって、吐き出そうとすると苦しくなる。でも、それを言葉に直すなら。
“ 怖いんだと思う”
“消えることは怖い。だけどそれ以上に、”
“今が壊れてしまうのが怖い。”
チョークを走らせる音がどんどん大きくなる。
苦しいはずなのに堰を切ったようにあふれそうになる言葉に、手が追いつかない。
“よくないことが起こるんじゃないかって、不安が止まらないんだ。”
“今が、みんなが揃っていることが、特別なものだと知っているから。”
“それが私のせいで奪われてしまうことが 怖い”
“そんなこと許されるはずがない”
エビーは銀沙の散った透明な体で金色の涙を受け止めると、ぷるぷると体を震わせた。そうしてぱたりと触角を伏せる。
あれくしす わたしは あなたがたいせつよ
あなたがいなくなってしまったら かなしいわ
それだけじゃない こどもたちも こうちょうせんせいも それからあのひとも
あなたがいなくなったら いまがこわれてしまう
かっとまたなにかがこみ上げて、目頭が熱くなった。
“でも、そんなの、どうすればいいの”
“私だっていやだよ でも”
“そのために、ユーリヤやハンターが危険な目にあうなんていやだ”
“ならしかたないじゃないか 誰かが消えるなら 私でいい”
選べるわけない。選択肢なんてどこにもない。今更、考えてなんになる。
エビーはじっと黒板を見つめて、私へと振り向いた。
わたしね
ほんとうはね おしゃべりしては いけないの
つみをみとめなければ ゆるされない
うそをついたと みとめなければ かえれないの
……エビー?
不意に変わった話題に虚を突かれた。見つめる先で、エビーはぽつぽつと銀のもやを吐き出し続ける。
わたしは とくべつなかたからの いいつけをやぶり
それを みとめないがゆえに みすてられた
つらいこと たくさん たくさんあったわ
それでも こわかった こわくて できなかった
つみを みとめることが こわかった
そして そのばつを うけることが おそろしくて たまらなかった
息をつくように意味を持たないもやをひとつ吐き出して、エビーは尾で私の指先に触れた。
だけど そのなかで ささやかなわたしのかけらを あのひとがみつけてくれた
そして あなたが こえをきいてくれたのよ
わたしのこえを つたえたいことを きいてくれた
ああ それに どれだけ すくわれたか
だから わたしは あなたにもすくいがあってほしい
そう いのってる
このわたしには いのるしかできなくても それでも
エビーは触角を上げて、私を見つめた。
しんじてあげて
あのひとと あのあわれなまがいもののこと
どこまでつたえていいのか わからないけれど
ほかのみんなになくて あのひとだけがもってるもの
それは あなたのふあんを きゆうにかえられる
“それは どういうこと”
まがいもの。それに、ハンターだけが持ってる、私の不安を杞憂に変えるもの。考えてみても、ハンターが言うところの手品くらいしか思い浮かばない。
尋ねてもエビーは触角を横に振った。小さな体を私の手にすり寄せて、ぽつりともやをこぼした。
かつてのみんなが あなたにたくしたように
こんどはあなたが あのひとに おもいをたくしてあげて
でも、大切な友達を危険だと分かりきっている場所に向かわせるなんてできない。そんなこと、できるわけがない。
私は、どうすればいい。
力が抜けた手からチョークが落ちて、床板に白く跡をつける。扉の向こうではハンターを気遣う声と、重い足音が聞こえていた。
「ハンターさん、足下気をつけてね」
「ほら、椅子。ゆっくり座って。すぐルーリンツがお茶を持ってきてくれるから」
玄関を挟んだ向かいの談話室に入ったみたいで、吹き抜け越しに声が漏れ聞こえた。
「……どうしよう……こんな、つもりでは……」
「大丈夫だよ。今は落ち着いて」
あのひとも もっときをみてくれたら よかったのに
ゆびわのことで あなたのきもちがいっぱいになってるって きづいてたら
エビーはそうひとりごちた。
キッチンの方からやってきた足音が扉の前を過ぎ、やがて吹き抜けの向こうからルーリンツの声も聞こえてきた。
「はい、お茶。熱いから気をつけて」
カップを置く音がして、それからしばらくは誰も話さなかった。重い沈黙を破るように、ハンターは弱々しい声をこぼした。
「ルーリンツ、私は……なんて事を……」
「大丈夫だよ。だってハンターさんは、こういう時にどうすればいいか、もう知ってるだろう?」
答える声は優しく、力強い。その後の沈黙は、さきほどよりもずっと短いものだった。
「……謝る。仲直り、する」
「うん」
「でも、だけど……!」
その声はいつかの明け方のように、ひどく幼く聞こえた。ロージャよりも、私よりも、もっとずっと小さな子供の声のようだった。ハンター自身もそれに気づいたのか、小さく息を呑む音がして、それから押し殺した声を漏らす。
「……あいつのした事は……嫌だった。許せなかった。黙って、隠したまま、消えようとするなんて。それを知ってから、ずっと納得できなくて……人の事を言える立場になんてないのに……」
その言葉に思わず、声の聞こえてくる吹き抜けを見上げた。
ハンターは最近、ずっとぴりぴりしていた。それは私が黙ってたことに怒ってたからなのか。
「……悲しかった。悔しかったんだ。あいつが、あれだけ苦しい思いをして、やっと取り戻せたのに、報われない立場にいて、いつか消えるしかなくて、なのにそれを誰にも話せなかったことが。もしかしたら、消えていくのを手をこまねいて見ているしかできなかったかもしれない自分の無力が」
あの少女の気持ちが今なら分かる、とハンターは小さな声で付け足した。
「いなくならないでほしいと、それだけなのに。なのに、あいつの方が、よほど苦しいはずなのに……怒らせて……」
今にも消えそうな声だった。そんな風になってほしくなかったのに、でもハンターを傷つけたのは私自身だ。
「どうすればよかったんだろう。どうしてこんなに、難しいんだろう……」
カップをソーサーに戻す音がやけに大きく響いた。
「……消える? アレクシスが、かい?」
「あ……」
ハンターの声も、ルーリンツの声も途切れた。みんな押し黙った中で、ハーマンの声がぽつりと落ちた。
「指輪を見つけられなかった妖精の話、か」
「……知って」
「見えない妖精たちは、昔は何度も読み返してたから。でも、たとえあの子が妖精だったとしても、そのことを言い出さないなら、きっと大丈夫なんだと勝手に思ってた。あれは単なるおとぎ話なんだと、そう思おうとしてたんだ」
いつもの穏やかな口調とは違う、沈んだ声だった。
「……違ったんだね。あの子はそれをずっと抱えてた。だから……」
また、静寂が満ちる。そこに、ニルスの声がためらいがちに割って入った。
「ハンターさん。お昼過ぎに、校長先生と相談して何も起きないようにしてるって言ってたのはこのこと? アレクシスは消えないで済むの?」
「それは……うまくいけば。自分自身の指輪さえあれば、あいつは人間に戻れるはずだ。だけどそれを言ったら怒って……理由が分からないんだ。あんな風に怒り出すのだってはじめて見たくらいなのに。そんなことしてほしいなんて一度も言ってない、と言われて……」
言いよどみ、ハンターはそれきり言葉を失った。
椅子を引く音がした。それから、息を深く吸って吐く音。
「ハンターさん。これからどうするんだい?」
ルーリンツは静かに問いかけた。
「アレクシスは、ハンターさんのやろうとした事を拒絶してる。それにはあの子なりの理由があると思う。あの子自身に訊かないと本当のところは分からないけれど、それこそ今まで怒ったところを見たことがないあの子が、怒るくらいのものが」
ルーリンツの言葉を聞きながら、私は自分の手のひらを見おろした。
どうして私はあの時、怒ったんだろう。
ハンターにはロッブの森での出来事を伝えてあった。話を聞いてもらえず、命の時間を奪われる可能性の方が高いのに。
だけどそれはユーリヤも同じはずで、なのにハンターの時だけあんな風に怒ったのは。
「……いやだ」
震える、でもはっきりとした声に思考が引き戻された。
「嫌われてもいい。本当は、嫌、だけど……あいつがいなくなったら、私は……」
言葉尻はしぼみ、どんどん聞き取れなくなる。ルーリンツは何度か相づちを繰り返して、それからひと言ひと言噛みしめるように、ゆっくりと話していく。
「その気持ちを、ちゃんとあの子に伝えてあげて。それから、アレクシスが黙っていることを選んだ理由も、受け止めてあげてほしい。あの子がどんな性格なのか、ハンターさんもよく知ってると思うから。……ごめんよ、こんな助言しかできなくて」
「……そんなことない。聞いてもらえて、助かった。ルーリンツはすごいよ。すごい」
少しだけ、笑ったような気配があった。
「とりあえず、今はゆっくりお茶を飲んで。ハンターさんもだけど、アレクシスもまだ混乱していて、受け入れるだけの余裕がないと思う。心を落ち着けて、気持ちを言葉に直して。僕たちも手伝うからさ。あと、ハーマン。ちょっと」
内緒話だったのか、その内容は聞こえなかった。しばらくして、ドアの開く音と遠ざかる足音が聞こえた。
私はチョークを拾って、音を立てないように黒板に当てた。
“私、ばかだ”
怒った理由が分からないなんて、そんなの当たり前だ。
あんなのただの八つ当たりだ。かんしゃくを起こして、その矛先がハンターに向いただけ。
あれくしす あなたにも ゆずれないものがあった
それだけなの どうか じぶんをせめないで
エビーは慰めてくれるけれど、私自身が納得できていない。
私が一番怖いのは、ユーリヤやハンターがいなくなってしまうことだ。なのに自分自身で傷つけた。
……ルーリンツが言っていた。仲直り、しなくちゃ。でもお互い譲れないのに、どうすればいいんだろう。
うつむいた先で、左手の手編みの指輪が目についた。
指輪。なんの力もない、けど大切な、みんなの絆を示すもの。
それなのに、ハンターのぶんはない。ハンターだって、大事な友達なのに。
もっとほかに考えるべきことはたくさんある。分かっているはずなのに、それを見過ごしたくはなかった。
談話室の鍵を開け、音を極力立てないように扉をそっと開く。周囲を見渡すと、マリーとロージャが階段の中ほどに立って、不安げな表情で談話室の様子を窺っているのが見えた。
二人に近づいて、服の裾を引っ張る。マリーはこちらを見て目を瞬かせた。つられて、ロージャもこちらを向く。
「……アレクシス? どうかしたの?」
裾を引っ張ってメッセージボードの方に誘導する。予め書いておいた文章に目を通すと、納得したように頷いた。
「さっきの大声、そういうことだったんだね。ルーリンツたちが一緒にいるならだいじょうぶかな」
「とりあえず、女子の寝室に行きましょう? 材料は棚に入ってるから」
それを聞いて、私は慌ててチョークを取った。
“その、実は、ユーリヤにも、ひどいこと言ってしまったの。だから、えっと、”
“今は会いたくなくて”
どこにいるかは分からなくても、いそうな場所に近づくのは怖い。
二人は顔を見合わせて、それから首をかしげてこちらを見た。
「あなたがひどいことを言うなんて、とても思えないけれど……」
“あのね。ユーリヤが、私のために危ないことをしようとしてて”
“でも、ほんとうに危ないことだから、してほしくなくて、やめてって。しなくていいって”
「そうなの? ユーリヤったら、無茶をしないといいけど」
「でも、危ないことって?」
普段の調子で尋ねられて、言葉につまった。
なるべくならその話は伝えたくない。知ったら、二人はきっと気に病むから。
でも、校長先生に隠して貰っていた本のことをハンターは知っていた。
ユーリヤも私が未来から来たとほとんど確信した上で、ああ切り出したのだと思う。
それにハンターがついさっき、ルーリンツたちのいる前で言ってしまっていた。
もう隠し通せないのだろう。それなら、いっそのこと全部打ち明けてしまった方がいいのかもしれない。
“長い話になるけれど、いい?”
きょとんとしてうなずいたマリーとロージャに、イーゼルの後ろのソファに座って貰ってから、なるべく簡潔に隠していたことを書いていく。打ち明けるのも四度目だから、うまく必要なところを拾っていけた。
私がかつて何であったか。何をして、何を手放したのか。
それから、指輪を持たない私は、遠からずいなくなること。ユーリヤとハンターが、それぞれ言ったこと。そしてそれに私がどんな反応をしたのか。
真っ白な顔で呆然とするロージャの手を握って、マリーはこわばっていた顔を伏せて、息を深くついた。
「……あなたに言いたいことが、たくさんあるわ」
そうして再び上げた顔には、どこかこらえるような微笑みが浮かんでいた。
「まず、話してくれてありがとう。まだ思い出すのもつらいでしょうに、打ち明けてくれて嬉しい」
こちらを見て、私を呼ぶように隣の空いたスペースを叩いた。二人掛けのソファだけれど、詰めれば三人座ることもできる。促されるままおずおずと座ると、マリーは私がいるあたりを見つめて微笑んだ。
「それにね。自分一人が我慢すれば、みんなが傷つかずに済むなら、って、思うのも分かるわ。……そう決めたとしても、お別れしたくないって思うことも」
“ごめんなさい。わがままだよね。”
「私はね、あなたのわがままが嬉しいわ。一緒にいたいって思ってくれてることが、何より嬉しい」
マリーは首を横に振り、胸元に手を当てた。
「私も同じよ。あなたと、みんなと一緒にいたい。あなたたちと過ごす毎日が、これからも続いてほしい。そう思ってる」
ちいさく息をついて、マリーはあらためて背筋を伸ばした。
「改めて、お礼を言わせてちょうだい。ユーリヤを助けてくれてありがとう。今の毎日があるのは、あなたが諦めないでいてくれたおかげよ。本当に、ありがとう」
お礼を言われるのは嬉しいことのはずなのに、今はどうしてか、気持ちが浮かんでこない。
マリーは黒板とチョークを見つめて、それからもう一度私に目を戻す。
「アレクシス。ユーリヤたちの言ったこと、今はどう思ってるか訊いてもいいかしら?」
“ ほんとうのことを言っていい?”
「ええ。もちろん」
優しい微笑みのまま、マリーはうなずいた。
“わからない”
“一緒にいられるなら、それはすごく嬉しいことだと思う”
“でも、それで何かあったら。”
“そう考えると動けなくなる”
「……うん」
“マリー。分からないんだ。”
“信じるって、どうすればいいんだろう。”
“私の命の時間がまだ消えてないとしても、それを取り戻すために何かがあったらって気持ちが、ずっと喉元を
“私のために、そんなことしなくていいって思ってしまうんだ。”
“みんなが私を大切にしてくれてるって、だからハンターだってユーリヤだって何かしようとしてくれてるって、分かってるはずなのにね。”
自分をもっと大切にして、と、ニルスはロージャに言っていた。
私のわがままが嬉しいと、マリーは言ってくれた。
まだ一緒にいたい、と、ユーリヤを泣かせてしまった。
でも。
うまく言葉に直せなくて、チョークの動きが止まる。
マリーは目を伏せる。膝の上に戻った手が握りしめられた。
「……私ね、ユーリヤが寝たきりだった時に、毎日お祈りしてたの。私はどうなってもいい、命と引き替えでも構わないから、ユーリヤを助けてください、って」
隣のロージャがびくりと肩をふるわせた。服の裾をつかむ手に、ぎゅっと力がこもる。なだめるようにそこに手を添えて、マリーは苦笑いを浮かべた。
「もし本当にそんなことになったら、ユーリヤは自分のせいでって悲しむことになる。ユーリヤだけじゃなくてほかのみんなにも、ずっと背負わせることになるわ。今でこそそう思えるけれど、そうなっても構わないって思い詰めるくらい、ユーリヤがいなくなるかもしれないことが怖かった。……みんなで過ごす毎日がもう二度と来ないなんて、怖かったの」
一瞬、マリーの目の奥に暗い影が
「アレクシス。私はあなたが怒った気持ちも、苦しんでいる理由も、少しは分かるつもり。自分のせいで大切な人がいなくなってしまうかもしれないなんて、考えるのもつらいことだから」
口を一度引き結んで、でも、と首を振る。
「同じくらい、ユーリヤたちの気持ちも分かるの。あなたにいなくなってほしくない。ユーリヤたちが危険なことをして、そのせいでいなくなってほしくないとあなたが思うように。だって、同じことだもの。大切な人に幸せでいてほしい気持ちは、変わらない。お互いのことを思ってるのに、ぶつかってしまって。だからこんなに切実で、苦しいことになってる」
“同じ、なのかな。同じだと思っていいのかな。”
考えるだけで苦しくなるようなこの感覚を、ユーリヤたちも感じているのだろうか。
マリーは深く頷いた。
「ユーリヤとハンターさんから、きちんと話を聞いてみて。二人とも、あなたのこれまでを聞いた上で、ロッブの森の妖精さんに会ってみようとしているのでしょう? ユーリヤはたまに、自分を省みないところがあるけれど……でも二人とも、考えなしに動く性格じゃないわ。賭けられる可能性を見つけたから、無茶をしようとしているのだと思う。……きっと、あなたの見たハーマンとルーリンツも、それからあなた自身も、そうだったのでしょう?」
冬の森で妖精に立ち向かおうとしたハーマン。いつ現れるとも知れない私に託してくれたルーリンツ。うまくいったことも、うまくいかなかったこともある。それでも二人とも、可能性があるからそうしたのだ。
ユーリヤも、ハンターも。同じなのだろうか。
「それを聞いて、いろんなことを話し合って、それから決めても遅くないわ。任せられると思ったのなら受け入れて、任せられないと思ったのなら、その時は……きちんと、気持ちを伝えたらいい。信じるって、ただ無条件で肯定することじゃないから」
“それでいいの? 私は、でも、”
マリーはやんわりと首を振った。
「いいの。アレクシス。受け入れても、断ってもいい。あなたは、あなた自身の好きなようにしていいのよ。あなたが納得できることが、大切だから」
私の、好きなように。
ぼんやりと、言葉を繰り返す。まるであの春の雪が降る学校で、ベッドで眠るユーリヤを前に独り立ち竦んでいた時のように、どうしようもない不安が足から昇ってくるような気がした。
どうすればいいのか、答えは見つけていた。だけどそれが本当に正しいのか、あの時の私には分からなかった。
違うことがあるなら、話をしてから決めていいと、許されていることなんだろう。
“わかった。聞いてみる。”
私はそう黒板に書いた。
“ハンターとユーリヤに。”
“私の気持ちは変わらない。二人に危ないことをしてほしくない。よほどのことがなければ、きっと任せられないって言うと思う。”
“でも、絶対に無事だと納得できるだけの理由を示してくれたなら、その時は。”
マリーはうなずいた。
「……アレクシス。私ね」
何かを言いかけて、口をつぐむ。何度かまばたきを繰り返して、黒板に書かれた字にそっと手を添えた。
「春のおわりにユーリヤが元気になって、ハンターさんが来て、それから黒板の絵を見つけて……あの絵を見た時、すごくどきどきしたのを今でも覚えてる。今までと違うなにかが、これから起こるんじゃないかって、そんな予感があったの」
思い出してみれば、あの日のことはずいぶん遠く感じられた。それでも、まだ心の中にある。
“実はね。あの時、教卓に隠れていたんだ。”
“マリーが絵に見とれてくれてたの、隣で見てたんだよ。”
そう書いてみせると、マリーはすこし目を見張って、それから照れたような笑顔を浮かべた。
「もう、言ってくれたらよかったのに。……これまでの毎日は、あなたにとっても宝物になったかしら?」
“うん。本当に、宝物だった。”
“黒板の絵、すぐに消さないで残しとけばよかったね。”
“思い出だけあればいいって、あの頃は思ってたから。ぜんぶ消してしまった。”
「今度は紙に描いたらいいわ。そうしたら、いつでも見返せるから」
“そうする。”
マリーはロージャの手を離して、ソファから腰を上げた。
「材料を用意してくるから待ってて。せっかくだし、みんなにも少しずつ編んでもらいましょう? ユーリヤには私から声を掛けておくわ。あっちの二人とハーマンにもね」
どこか急いた様子の背中を見送ると、部屋には私とエビー、それからロージャが残された。まだ血の気が戻らない顔でロージャは私のほうを見た。
「あのね、アレクシス。今話すことじゃないかもしれないけど……ハンターさんからオルゴールのことは聞いた?」
横に振った頭の動きに合わせて揺れるエビーを見てうなずいたあと、ロージャは話を続けた。
「音楽堂の壊れたオルゴールを、ハンターさんが直せるかもしれないんだって。そしたらアレクシスも演奏会に参加できるから、演奏側に誘ってやってくれって言ってたの」
“でも、あのオルゴールの歯車は、ヌーが、”
欠けた二つの歯車のうち、小さい方は今でもヌーののどに残っているはずだ。ロージャは特段気負いのない様子でうなずいた。
「そっか、アレクシスも知ってたのね。でもニルスがそのことを伝えても、だいじょうぶって言ってたの。歯車を新しく作るみたいなことを言ってたわ。手品で」
“手品で?”
まったくごまかせてないって、最初にごまかそうとした時にちゃんと伝えておくべきだったのかもしれない。
ロージャはこそりと笑って、でもすぐにその笑顔は消えてしまった。
「……アレクシス、あのね」
ぐす、と鼻をすする音が声に紛れた。
「私、手助けは、なにもできないけど……アレクシスがこの学校に来られてよかったって思えるように、いろいろなことをしたいの。たくさん思い出を作りたい」
声はどんどん湿り気を帯びて、目元には涙が盛り上がっていく。
「もし、アレクシスが……い、いなく、なっ…………」
湛えていた涙がこぼれる。目を押さえ、肩をふるわせて
“ロージャ、ごめん。”
“ごめんね”
ロージャは涙を拭い、黒板を見て首を振る。
「あのね、謝らないで。苦しい、けど、それはアレクシスが大好きだから、苦しいのだもの。あなたがここにいることが、すごく特別なことだって、分かったからだもの」
頬を涙で濡らしたまま、ロージャは口の両端を引き上げてみせた。
「悲しくて、苦しいけど、でも、この気持ちをいけないものとか、悪いものにしたくないよ。私、アレクシスが来てくれたこと、本当にうれしかったから」
ほっとするような笑顔を見て、こわばっていた肩から力が抜けるような感覚があった。
ユーリヤに伝えた気持ちは、決して強がりばかりではなかった。今苦しいのは確かでも、出会えたことを後悔したくなかったから。
私のことも同じように思ってもらえている。苦しい思いをさせたことの罪悪感に押しつぶされそうで、でも悪いものにしたくないと言ってくれたことがうれしい。
“なら、ありがとう。”
“私のこと、来てくれてうれしかったって言ってくれて。本当にありがとう。”
“それに、ロージャは強いね。”
私の気持ちをユーリヤに伝えていた時は、笑顔を作ることはできなかった。
袖で顔を拭って、ロージャはまた笑う。
「喜んでもらえたならうれしい。それに私はアレクシスよりお姉さんだもの。下の子のことなら、なんだってがんばれるわ」
お姉さんじゃなかった時から、ロージャは強かった。でもそれを今伝えるのはなんだか違う気がした。代わりに、伝えるべきことを黒板に書く。
“あのね。私、絵を描きたい。みんなの絵を、たくさん。”
“だからロージャ、手伝ってくれる?”
「うん。まかせて。学校中の壁が、ぜんぶアレクシスの絵で埋まるくらい、お手伝いする。このまま、なにも変わらないで済んだら、きっと笑いながら話せる思い出になるから」
“ありがとう。”
“でも、壁全部を埋めるのはちょっとはずかしいよ。”
そう書くと、ロージャはくすくすと笑ってくれた。
扉が開いて、小さな
「お待たせ。それと……」
「良かった、ここにいたんだね」
後ろからハーマンが顔を覗かせた。私の頭に乗ったエビーを見て、ほっと表情を緩めた。
「アレクシスのこと、探してたんだ。ロージャたちが一緒にいてくれたんだね。それに、ここからだと……聞いてた?」
吹き抜けを指さすハーマンに向けて、うなずく。……そういえば、さっきまでの話も聞かれてしまってたんだろうか。
“その、盗み聞きしてごめんなさい。”
「むしろ、アレクシスは聞いてて大丈夫だったのかい? 君のことなのに、当事者に隠れて話していたから……」
“私は大丈夫。ごめんなさい、心配かけて。”
「筆跡は落ち着いてるみたいだね。けど、無理はしないで」
見上げた吹き抜けの向こうから声は聞こえてこない。でも扉の音はしなかったから、まだいるとは思う。
「仲直りは早い方がいいわ。ユーリヤにはもう最初の部分を編んでもらってあるから、あとはここにいるみんなと、隣の二人ね。ハーマン、それとなく呼んできてくれるかしら?」
そう言って、マリーは抱えていた籠をソファに置いた。その目元は部屋を出て行く前より赤くなっていた。それから、左袖の内側に残った濡れた跡も。
「最後に作ったのは、ハーマンが木のささくれに引っかけて切ってしまった時かしら」
「そうだね。そういえば、サイズは分かるのかい? 調べてきた方がいいかな?」
「大丈夫。手袋を編む用に、両手の寸法は測ってあるの。アレクシス、こっちにいらっしゃい。編み方、教えてあげる」
その時、がたがたと椅子を引く音が吹き抜け越しに聞こえた。
「私は、裏庭にいるから。用事が、あったら……」
「え、大丈夫かい?」
「ああ。……待ってる、から」
ハンターは心なし声を張り上げて、そんなことを言った。扉の開く音がして、硬い革靴の音が遠ざかっていく。マリーとハーマンは顔を見合わせて、お互いに仕方ないというように笑う。
「気を使わせてしまったね」
「もう、ハンターさんったら」
マリーは口元に手を添え、吹き抜けに向かって声を掛けた。
「ルーリンツ、ニルス。ちょっとこっちに来てくれる?」
六人でちょっとずつ編んで、わっかにして端を編み込んで整える。
出来上がった手編みの指輪を、手に意識を込めて持ち上げた。私の指にあるものよりだいぶ大きくて、あと少しだけ太さが不格好なところがある。私がうまく編めなくて不揃いになってしまったのだけれど、マリーたちは笑って大丈夫だと言ってくれた。
飛び跳ねるようにソファから下りて、ロージャは振り返って私を見つめた。
「まずはハンターさんとの仲直り、がんばってね。応援してる」
私はみんなの顔を一人ずつ見つめていく。ルーリンツ。ハーマン。マリー。ニルス。ロージャ。みんな、背中を押すような、優しい笑みで私を見ていた。
“うん。がんばる。”
“行ってくるね。”
廊下に出て裏庭に向かう途中で、それまで静かにしていたエビーがぽつりともやをこぼした。
わたしも あなたのこと みならわなくちゃね
どういう意味だろう。落ちない程度に首をかしげると、さざめくような笑い声がこぼれた。
あなたは ううん あなたたちみんな すごいってこと
◆
裏口から外に出ると、ハンターはいつかのように木の幹にもたれかかって川面を眺めていた。私が近づくと、慌てて立ち上がる。
手を伸ばすと、ハンターも右手を差し出してくれた。いつの間にか当たり前になっていたそれが、胸の奥をひどく揺さぶってくる。
手のひらに当てる指が震える。それでも、一文字ずつ書いていく。
“ごめんなさい。ひどいこと言った。”
“それに、頭ごなしに否定した。”
“ずっと黙ってた。”
“ごめんなさい。”
私の書く文字を目で追いながら、ハンターは口を引き結んでいた。
「私も、済まなかった。勢いに任せて、ひどい事を言った。お前を傷つけて、怒らせた。ただそれで、ええと……聞いてほしい事があるんだ」
ハンターはシャツ越しにペンダントを握り、息を吸って深く吐き出した。
「……最初の頃は、私は本当にどうしようもなかったと自分でも思う。食事の作法も知らない。洗濯についても、道具の扱いについても、よく知らなかった。今から思えばあんな状態で、記憶を失う前はどういう暮らしをしていたのかも想像できない。言葉だって、日常で使うようなものについては奇妙な欠落があった。態度もひどいもので、礼を言う事は知識としてあっても、皆のように気軽に、ありがとう、なんて言えなかった」
人間として歪だった。そう苦しそうに付け足す。
「あの頃からその自覚だけはあったから、私はここにはふさわしくないと、そればかり考えていた。そんな時にあの小火騒ぎがあって、お前が助けを求めて手を引いてくれた。もしかしたら、こんな私でも報いる事ができるんじゃないかと思うようになった。それからなんだ。皆に向き合うようになったのは」
まだ全然返せてないが、とハンターの口元が苦く緩んだ。
「本当に、色々な事を教えてもらった。譲ってもらった時にどうするのか。他の人と過ごす時に、何に気をつけるといいのか。もし大切な相手を傷つけてしまった時に、どうするべきなのか。そういうものすべてここで学んだんだ。もしここに連れてこられなかったら、私は恐らくどこかで折れて諦めて、いたずらに他人を害していただろう。あの街を滅茶苦茶にした連中と同じように、力に任せ、自身の欲求ばかり優先して、他人が傷つくのも顧みずに……そんなもの、たとえ蒙を啓いていたところで、獣と何ら変わらないと思ったはずなのにな」
言いながら、右手を関節が白く浮き出すほど強く握りしめた。
「それくらい得難いものだったのに、いつの間にか当たり前になっていた。ルーリンツが作ってくれた食事を食べて、ユーリヤが処方してくれた薬を何とか飲み下して、マリーと一緒にあちこちを掃除して、ハーマンと家具を直して、ニルスの調べ物を手伝って、ロージャには迷惑を掛けてしまっていたが、その分これから何かしていけたらいいと思っている。それから、お前と皆の仲立ちをする。そんな毎日がこれからもずっと続くのだと、理由も根拠もなく思い込んでいたんだ」
この毎日が続くなんて、まるで夢みたいだと思った。私は夢を見ることはないけれど、幸せな夢とはそういうものを指すんだろうなとも。
それくらい、ハンターはこの寄宿学校のことを、特別なものだと思ってくれているのだろう。
「……ロージャの
ハンターは伏せていた顔を上げる。
「たとえ、お前に、き……嫌われたと、しても」
裏返りそうになる声を、一度深呼吸して落ち着けた。
「己は、お前に消えないでほしい。生きてほしいんだ。これからも、皆と一緒に」
まっすぐに瞳を私に向けて、ハンターは一言一言、声を張り上げる。
「自分の命と引き替えにするつもりなんてない。誰も、もう奪わせない。この寄宿学校に暮らす全員で、演奏会を楽しんで、次の日を迎える。その次の日も、皆で。来年の演奏会も、その更に先の演奏会も。だからお前も、まだ、生きてほしい。生きて、続けていってほしい。皆と、思い出を積み重ねていく事を」
私はもう一度ハンターの手を取る。その願いを受け入れるために。あるいは、できないと伝えるために。
“私は”
“自分のせいで、誰かが傷つくところなんて、もう見たくない。”
“だから 黙ってた。”
“考えてもどうしようもないと思ってた。あらかじめ伝えてその日を待つのと、黙ったまま消えるのと。どちらかしかなくて、黙ってる方を選んだ。”
“消えてしまうこと自体も、そう。”
“みんなの命の時間を奪ってまで妖精に戻るのと、妖精に戻らずに消えるの。それしかなかったから、選ぶまでもなかった。”
“あきらめてた。仕方ないって、夜が来るたびに自分に言い聞かせてた。”
“だからあの時は、ハンターが言ってたこと、うまく受け止められなかった。どちらかしかなかったところにもう一つ選択肢が増えるなんて、そんな都合のいいこと起こるはずないって。”
“怒ったのは、ロッブの森がどれほど危ないか伝えたのに行くなんて言ったから。でも同じくらい、ずっとあきらめてたことがどうにかなるかもって言われて、自分でも自分がよく分からなくなってたんだと思う。”
“気持ちがぐちゃぐちゃになって、あんな風に噴き出してしまうのは初めてだったから、うまく説明できないけど。”
“八つ当たりだったんだ。だから、ハンターが悪いとか、そういうのはあんまり理由じゃない。”
「……今は、どうだ」
“今は、諭されたから。話を聞いてみてって。きっと可能性があるから、賭けようとしてるのだろうからって。”
“同じ気持ちがぶつかって苦しい。それを教えてもらった。”
“それでもハンターのことが心配なんだ。”
“聞かせて。ロッブの森の妖精に、どうやって頼み事をするつもりなの?”
「説得の材料についてはグレイブズと相談している。ロッブの森に現れる妖精は、ほぼ間違いなくあいつの友人だそうだ。それと……今は説明しづらいんだが、協力を得られるのではないかという証拠がある。無論気を抜く事はできないが、可能性自体は間違いなくあると、私もグレイブズも判断した」
“私はあのひとが説得で止まるとは思えない。”
“命の危険がある場所に行ってほしくない。”
「それは承知しているし、対策も一応考えてある。妖精が人の命の時間を奪うには、金枝という短杖が不可欠だと聞いた。協力の取り付けが目的だから極力会話での説得を行うが、いざとなればそれを奪う。お前にこうやって触れられるのだから、ロッブの森の妖精も同じだろう。荒事には多少の心得があるから」
ハンターはそこで言葉を切った。
「それに、手品だとずっと嘘をついてきたが……あれは本当は、手品ではないんだ」
言いたいことをいくつか飲み込んで、私は続きを促した。
「あの力は生まれついてのものではなく、貸してくれている存在がいる。彼女の力は妖精のそれとは異なるが、同じくらい人智が及ばないようなものだ。死すら、まるで白昼夢の出来事だったかのようにやり直せる」
死をやり直す。その意味がうまく理解できなくて、私は思わずハンターの顔を見た。
“それは たとえば、指輪を取り戻したユーリヤみたいに、ってこと? 奪われてしまっても、すぐに取り戻す手段があるの?”
「そうじゃない。何と言えばいいのか……取られたチェスの駒を自陣に再度置くようなものだ。置ける場所は決まっているが、何度取られてもその分だけ補充を繰り返せる。少々過激なたとえになるが、今ここで私が突然弾け飛んで死んだとしても、ほとんど間を置かず無傷の私が医務室に現れる。また死んでも、更に死んでも、同じように。死ぬまでの記憶もそのままで」
想像もしたくないくらい過激なたとえだ。でもそれで、ハンターの借りている力がどれほど道理を外れたものなのかがよく分かる。にわかには信じがたいけれど、ハンターの表情は嘘を言っているようには見えなかった。
エビーが言っていたのはこのことなんだろうか。私の不安を杞憂に変えるもの、というのは。確かにそういうことなら、ハンターがいなくなってしまうかもしれない、という心配はいらなくなるのだろう。
だけど。
「死の記憶自体は残るが、その代償は一切ない。だからたとえ命の時間を奪われたとしても、私自身が消える事は……」
淡々と話すハンターの手を掴んだ。
“そういうことじゃない”
“私は ハンターに つらい思いをしてほしくない”
え、とハンターはきょとんとした。
“記憶は残るんでしょう? 痛くて苦しかったことは残ってしまうんでしょう?”
“そういう思いをしてほしくない”
“自分を大切にしてよ。 人のこと言えた立場じゃないけど、でも”
書き募ろうとした私の指を、ハンターはやんわりと握って止めた。
「……慣れてしまったんだ。もう、大した事じゃない」
ハンターはうっすらと笑う。でも目はひどく悲しそうで、私は唇を噛みしめた。
慣れたからって、つらくないわけじゃないんだろう。それでも、とハンターは笑みを消して真剣に見つめてくる。
「そのおかげで、こうやって立ち向かえる。私が知る中で最も悲惨だった死に方より、何もできずにお前を見送り生き続ける事の方が、遥かに苦しいし、つらい。危険だとしても立ち向かう事の方が耐えられるんだ。勝ち取るために、
もう一度シャツ越しにペンダントを握って、ハンターはひとつひとつ、私に言葉を伝えていく。
「どれほどの困難があろうと、その先にお前を生かせる可能性があるなら手を伸ばしたい。無理も無茶もする。危ないと分かっていても正面から突っ込む。その上で、どんな結末になったとしても必ず帰ってくる。それは絶対に約束できる事だ。だから、やらせてほしい」
私はハンターの手を額に当てた。温もりがじんわりと、温度のない体に伝わる。
説得できる材料がある。金枝をどうにかする算段もある。必ず帰ってくると、約束してくれた。
それだけの信頼できる理由を揃えてくれているのに、私がみんなと一緒にいようとするなんて許されるはずがないと、未だに心のどこかが叫んでいる。
奥歯を噛み締めた。
あの日。金枝を捧げ持っていたユーリヤも、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。
救いなんてどこにもないと思っていた。あるいは本当にないのかもしれない。私はずっと失敗し続けてきた。楽観的にはなれない。
それでも選ばなければいけない。誰に言われてでもなく、私の好きなようにする。ハンターが納得できるだけの理由をきちんと示してくれたなら、送り出す。そう決めていたのだから。
額を離して、指を当てた。心の底に沈めていたことを、書いていく。
“本当はね。”
“私、一度でいいからユーリヤの作ったシチューを食べてみたいと思ってた。”
「……、…………いや。それは」
ハンターは目を見開いた後に、ものすごく言いづらそうな顔で呻く。私は少し笑ってしまった。
“すごい味なのは知ってるよ。みんなの反応、見たことあるから。”
“でも、うらやましかったんだ。みんな楽しそうだった。笑ってた。”
“ 私は、あの輪の中には入れなかった。”
「……そうか」
“仕方ないって、いろんなことを諦めてた。そうじゃないとつらかった。うらやましがっても叶わないことばかりだった。なら、最初から諦めたほうが楽だった。”
“今だってその気持ちは消えてくれない。ハンターがさっき言ってたのと同じだよ。私も慣れてしまったから、諦めた方がずっと楽なんだ。”
“だけど。”
あらためて、私はハンターを見上げた。頭ふたつぶんよりもっと高い位置にある瞳と、まっすぐに目を合わせる。
“ハンター。信じていい?”
“何があっても、帰ってくるって。”
「必ず」
はっきりと、ハンターは言い切ってくれた。
不安は消えない。まだ胸の奥では罪悪感が悲鳴を上げ続けている。それでも私は信じて送り出すと決めた。
節ばった親指が私のひたいをそっと撫でる。
「がんばるよ。だから、待っててくれ」
“うん。”
そう書いた手を、ハンターは大切そうに握りしめた。
「あと、それから。ユーリヤに頼んでおこう。うまくいったら料理を作ってくれと。私も、付き合う」
“いいの? 苦いの苦手でしょ?”
「いや、そんな事は……」
ハンターは言いかけた言葉を切って、ちいさく笑った。
「……いいや。そうだな。すごく苦手だ。だけどお前一人じゃ食べきれないと思う。シチューではなく薬だが、私自身の実体験として。だから付き合うよ。もしかしたら、コモンマロウの茶の方と同じで口に合うかもしれないから」
ハンターの半分あきれたような微笑みにつられて、私も笑った。
“うん、分かった。”
“あとね、それでね。ちょっと話が変わるんだけれど。”
“渡したいものがあるの。みんなに作るの、手伝ってもらったんだよ。”
手を引いて、第二教室へとハンターを連れて行く。机の上に置いておいたものを、ハンターに見せた。
「これ……そうか、マリーたちが言っていたのは」
指輪を手にとって、私はハンターへと向き直る。
“みんなでちょっとずつ編んだの。”
“左手出して。”
差し出された小指に指輪を通すと、ちょうどいい具合に納まった。大きすぎることも、きつすぎることもなかったみたいだ。
ハンターは手編みの指輪を確かめるように右手でなぞり、それからぎゅっと握り締めた。
“あのね。オルゴールのこと、ありがとう。”
“演奏会、楽しみだね。”
「ああ。私もすごく、楽しみにしている」
ハンターはぎこちない、でもほっと安心するような笑顔でうなずいた。
◆
すこし一人になりたい、とエビーを預けて伝えると、ハンターは返されたエビーを私の頭に乗せて学校へと戻っていった。
……一人になりたい、って言ったんだけどなぁ。
ごめんなさいね
でも わたしも しんぱいなの
エビーはぺたりと触角を垂らしている。気にしないで、と口元のあたりを指でつついて、私はまた川面に視線を戻した。
つい数時間前にも同じようなことをしたけれど、気持ちはずいぶん変わった。あの時ほど沈んではいないけれど、でも、落ち着いてはいないのもたしかだった。
ハンターとは話し合いができた。次は、ユーリヤとしなくちゃ。
「……ユーリヤ? どうした」
後ろから聞こえた声に、私は思わず振り返った。
第二教室のカーテン越しに、ハンターの姿が見える。それから窓の影に、まだ温かさの残る灰のような白い髪も。
ユーリヤだ。どうしよう、まだ何も考えてない。
「アレクシスのこと。校長先生に相談したら、教えてくれたの。あの子を助けるために、ハンターさんがもう動いてくれてるって」
隠れるために立ち上がろうとして、ユーリヤの言葉に思わず動きが止まった。
「私も手伝いたい。あの子のためにできることをさせて」
窓から見えるユーリヤの顔は硬かった。声だって、普段の柔らかさは影を潜めていた。
「それに……これ以上、ロビンに誰かを傷つけさせたくない。もう二度と、みんなを傷つけてほしくないの。たとえ時間を戻ればなかったことになるとしても、どんな理由があったとしても、私の大切な人たちを、これ以上、傷つけないでほしい」
胸元で手をぎゅっと握りしめ、ユーリヤはハンターを見上げた。
「私、友達を助けたい。アレクシスのことも、ロビンのことも。もう私のことなんて覚えてないかもしれない。声を聞いてくれないかもしれない。約束も、もう忘れてしまったかもしれない。……それでも、大切な人が苦しんでるのを、見過ごすなんてできない」
ユーリヤが見つめる先で、ハンターははっきりと首を振った。
「駄目だ」
氷のように冷たい、低い声だった。
「ハンターさん、でも――」
「この事はグレイブズにも伝える。決して、馬鹿な真似はしないでくれ」
ユーリヤの言葉を遮ると、ハンターはきびすを返して教室から出て行く。硬い革靴の音が遠ざかり、教室に一人残されたユーリヤは肩を落として、それからふとこっちを見た。
慌てて木の陰に隠れても、もう遅い。
「……アレクシス?」
窓から身を乗り出して、ユーリヤは首をかしげた。観念して、私は裏口を通って教室に入る。
“もう、だいじょうぶなの?”
後ろの黒板に書いた文字を見て、ユーリヤは頷いた。
「うん、大丈夫。……本当はあんまり大丈夫じゃないかもしれないけど、でも今は、くよくよなんてしてられないから」
傷つけたこと、謝らなくちゃ。
自分の気持ちを押し込めて、うそを言ったことも。
逡巡している間に、ユーリヤは長椅子に腰掛けた。隣を軽く叩いて呼びながら、私のいるあたりに優しい笑顔を向ける。隣に座って見上げた顔は、少なくともお昼過ぎの時よりいくらか血色が戻ってきているように思えた。
「ね。あなたがここに帰ってきて半年が経つけれど、どうだった?」
少し悩んで、私は先に質問に答えることにした。机の上にあった小さな黒板にチョークを当てる。
“楽しかったよ。それにすごく嬉しかった。”
“だって、こんな風にユーリヤとお話できるなんて、思ってなかったから。”
「私もね、楽しかった。それにとても嬉しかったのも同じ。あなたとお喋りするのがずっと夢だったから。それが叶って、ほんとうに、ほんとうに嬉しかった」
まっすぐに私を見つめてそんなことを言うものだから、なんだか恥ずかしくなって、私は思わず目をそらした。ユーリヤはくすりと笑って、私の顔のあたりを覗き込んだ。
「でも、不思議ね。夢が叶って満足だと思ってたのに、もう新しい夢ができたの」
“どんな夢?”
「今はね、あなたの顔が見たい。どんな風に笑って、どんな風にすねて、どんな風に喜ぶのか。それを知りたい」
白い手が、私の頬のあたりに添えられた。
「アレクシス。やっぱり、私の気持ちは変わらないわ。まだ、あなたと一緒にいたい」
その気持ちにどう答えるかは、もう決まっている。
“私も いたい”
“ここにいることが許されるなら”
“許してもらえるなら”
“だけど同じくらい、ユーリヤに危ないこと、してほしくないんだ”
「でも、それじゃ、あなたが」
ユーリヤに向かって首を振る。
“お願いだよ。”
“ユーリヤがあのひとのこと、とても大事に思ってるのは分かってるよ。”
“でも、あのひとはその気持ちさえ振り切って、託された願いを叶えようとするかもしれない。”
「それは……」
“ハンターが言ってくれたんだ。どんな結末になっても必ず帰ってくるって。”
“それを信じられるだけの理由も打ち明けてくれた。 無断で他の人に話していい内容じゃないから、今教えることはできないけど。”
“だから、待つことにした。”
“ユーリヤも一緒に待っててほしい。”
ハンターへの心配だって晴れないのに、ユーリヤは不思議な力なんて何一つ持たない、ただの女の子だ。どんなことが起きるか予測すら立てられない現状、ロッブの森には行ってほしくない。
“私、ユーリヤが隣にいてくれるだけで幸せだよ。”
“お願い。無茶はしないで。”
ユーリヤは目を伏せた。
「……ごめんなさい。でも、……のままじゃいられないから」
謝ることなんてない。そう黒板に書く前に、ユーリヤは首を振って顔を上げる。見ているだけでほっと安心するような笑顔を、私に向けてくれた。
「アレクシス。演奏会、楽しみね。きっと思い出に残る日になる。五年、十年経った頃に、あなたやみんなと、こんなことがあったねって笑いあえるような日に」
未来の話なんて考えないようにしていた。そこに私はいないから、考えても仕方ないと思っていた。
でも、もしハンターのやろうとしていることがうまくいったのなら。たとえば五年後、ここはどうなってるんだろう。
私の知っていることはほんとうにちっぽけで、うまく想像なんてできない。
でも、みんな大人になっていくのだろう。ニルスとロージャはもっと背が伸びるかな。ニルスは声とかも、ハンターや校長先生みたいに固くて重い感じになるのかもしれない。
その日々の中に、私もいて、一緒に笑ったり、喜んだり、できるのだろうか。思い出を、これからも作っていけるのだろうか。
実感は湧かない。でもそうだとしたら、うれしい。
まだこれからもたくさん作れるかもしれないと思うと、すごくわくわくして、私は目尻を拭ってユーリヤに向けて小さく笑った。
みんなとまだ一緒にいたい。
もしもその気持ちを許してもらえるなら、きっとなにがあっても大丈夫だ。
「なあ、マルガレータ。そのカーネーション、売られているというなら品種として確立しているのだろう? なんという名前なんだ?」
「あのね、やさしい月の光をイメージしてつけられたそうなのだけど……」
内緒話のようにこっそりと耳打ちされたその言葉に、私は思わず目を丸くした。私の顔を見て、彼女は口元を押さえてちいさく笑う。
「月塵とは、少し意外というか……月明かり、ではないんだな」
「ほかにも戯曲の青い鳥とか、永遠の幸福とかのイメージもあるらしいの。青は聖母マリアのアトリビュートのひとつだから、そういう意味も含んでるのかもしれないわね」
「結局取り逃がした青い鳥に、次代を残せないよう細工された、いつかは枯れる永遠の幸福、か」
どこか皮肉を感じてしまうのは、穿ち過ぎた見方だろうか。そんなことを漏らせば、彼女は首を振った。
「私はね、ルイス。その花をつくり出した人たちの、祈りだと思ってるの」
「祈り?」
「ええ。青い鳥が決してかごに捕らえられなかったように、何もかも手元には留めておけない。いつかこぼれ落ちて消えてしまう。お茶を飲みながら交わした他愛もないお喋りも、贈られた花の色と香りも、一緒に見たきれいな空も。……大切な友だちのことも」
睫の先がかすかに震えた。私も彼女も、二人を失った時の傷は、未だ血をにじませている。それでも、彼女は前を向いた。慈愛に満ちた眼差しが、庭で遊ぶ子供たちへと向く。
「でも、思い出はなくならない。たとえ忘れて追憶すらできなくなったとしても、その時の気持ちの残響は心の中にいつまでも残る。そんな祈りが込められてるんじゃないかって思ってる」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「それがきっと、今手元にある特別なものを守る力になる。私はそう信じてるわ」
その温かい笑みを見て、私の口元も柔らかく緩んだ。
「ローズマリー【追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる】」了。
ここまでのお付き合い、ありがとうございます。
次章「タイム【勇気、活動力、あなたを忘れない】」とエピローグの掲載まで今しばらくお待ちください。