一週間もすれば、あの人はゆっくりと歩き回れるようになった。
食事もだんだん固いものを増やして、今は主食のお粥以外はみんなと変わらない献立を食べている(ユーリヤのお薬をお粥に混ぜるという提案は、ルーリンツが頑張って説得して取り止めになった)。
量はまだお腹が受け付けてくれないらしくて、食べ終わった後もしばらく壁際の長椅子に座って休んでいることが多い。……どちらかといえば、ユーリヤのお薬の味がとても
ただ、この一週間、みんなとの会話はあまりなかった。
あの人の顔に浮かぶ表情はとても薄い。挨拶には返事をするだけだし、それ以外では最低限で会話を打ち切ってしまう。洗って返した元々の服にしっかりフードを被って、裏庭の木に背中を預けて座り込み、ぼんやりと川面を見ていることが多い。
「心が傷ついて、疲れ切ってしまっておるのだろう」
あの人のことを説明するためにみんなを集めた時、校長先生はそう言った。
「ハンターはずいぶんとつらい思いをしてきたようだ。時間が心を癒やしてくれるやも知れんが……」
とはいえ、みんなだってそれで遠慮するかといえば、そんなことはない。
晴れた空がすごくきれい、珍しく鳥が飛んでるのを見た、猫のティアが好きなおもちゃのこと、今日はみんな大好きキノコのシチュー、絶好のお昼寝日和に、面白い本の話題。そんな日々のすてきなできごとを挨拶と一緒に伝えて、良かったら見に行ってみてね、楽しんでみてね、と勧める。
まだまだ反応は薄いけれど、川面じゃなくて空を眺めていたり、ご飯の時間になると呼びに行かなくともきちんと食堂に来たり、おすすめされた本を読んでいたりと、伝わってないわけではないみたいだ。
私に対しても、あれから直接の接触はない。視線は感じるけれど、それだけ。
私自身、あの人にはなるべく近づかないようにしているけど、みんなが話し掛ける時には物陰に隠れてなにもしないか様子を窺っている。そんな私を見るあの人の目は、あの時の冷たさはすっかり形を潜めて、何とも言えない色をしていた。
……どうして私が見えるのか、とか、それだけじゃなくて触ってたのはどういうことなのか、とか、あの歪なナイフはどこから出してどこにしまったのか、とか、気になることはたくさんある。
けれど、
私だって
その気持ちは、痛いほど分かるから。
◆
この学校に教室は二つあるけれど、勉強を教える時に使うのはもっぱら第二教室の方だ。
一方、第一教室は調べ物をする時によく使われている。一番利用しているのは、たぶんニルスになると思う。私が流れる時間の中で過ごすようになって半月になるけれど、ほぼ毎日、ニルスはこの教室で本を積んでは読み解いていたから。
「え、わぁっ!?」
だけど、慌てた声と椅子の倒れる音、それと窓を何度も叩く音が廊下に響いた時、いつもの印象とはあまりにかけ離れすぎて、私はそれが誰かすぐには分からなかった。
……さっきの、ニルス? 長いとは言えない付き合いだけれど、あんな声、はじめて聞いた。
入り口から顔を覗かせれば、腰をさすって立ち上がるニルスと、ばんばんがたがたと鳴り続ける窓があった。
え、なに? どういうこと?
「ニルス? どうしたんだい……って」
騒ぎを聞きつけたのだろう、私をすり抜けてハーマンが教室に入った。
「これは、ええと、なにがあったんだい?」
いつものんびりしたハーマンもさすがにぽかんとして、騒がしい窓を眺める。
「ハーマンっ。その、なにか生き物が蔦に飛び込んで、引っかかってしまったみたいなんだ。なんの生き物かは分からない、けど……」
「生き物が?……うん、分かった。道具を持ってくるから、少し待ってて」
そう言ってすぐに剪定ばさみを持って戻ってきたハーマンは、棚の標本や本を床に下ろして、窓を開けた。途端に蔦が大暴れし始める。
「暴れないで、大丈夫だよ。君のこと、助けたいんだ」
そんなハーマンの説得が功を奏したのか、生き物はだんだん落ち着いて、やがてぴちちと喉を鳴らした。
「この子は鳥だね。僕もこんなに近くでは、はじめて見たよ。種類はなんだろう? ニルスにあげたしおりの鳥とは、ずいぶん違うみたいだよ」
ハーマンはまわりの蔦を切り、驚かせないようにゆっくりと小鳥を引き寄せる。引っ掛かった葉や枝を丁寧に外して、優しく抱き上げた。
「どう? ハーマン。鳥さん、大丈夫?」
ニルスの目には不安がにじんでいる。少し前にねずみのヌーのことがあったみたいだから、その時のことを思い出してしまったのかもしれない。
「うーん……右の翼を怪我してるな。でも骨は折れてないみたいだ。大丈夫。手当てをすれば、きっとまた飛べるようになるよ」
ひっくり返した帽子に小鳥を移し、ハーマンはニルスへと安心させるように微笑みかけた。ニルスはほっとした様子で胸をなでおろす。
「分かった、ユーリヤを呼んでくるよ。先に医務室に行ってて」
ぱたぱたと走って出て行くニルスを見送り、ハーマンは帽子の小鳥と顔を見合わせた。
「大丈夫かなぁ、ニルス。慌てすぎて、転ばないといいけど」
そんなことを言いながら窓を下ろして、黒板に「鳥命救助 片付けは後でします ハーマン」と書き置きを残し、ハーマンも教室を出て行く。残された私は首をひねった。
……とり? 鳥が、学校に?
生きている命が学校に来てくれた。それは、嬉しい。だけど、こんなに続くともやもやした疑問がその嬉しさを覆ってしまう。
あの人もそうだけれど、鳥だってこの時期には現れていないはずだ。特に、ニルスの前には。
……なんだろう。なにか、見落としていないか?
私は窓に向き直る。
切り取られた蔦の間から、さんさんと日差しが差し込んでいた。棚に上り、顔をガラスに触れないぎりぎりまで近づけて周囲を見回す。お祈りの川を挟んで春の野山が広がっているだけだ。変わったことは、なにもない。
大丈夫、なの、かな。
ただ巡り合わせが良かった、ってだけなのかな。
床に降りてそのまま座り込み、私はため息をついた。なんだかここ最近、心が休まらないことばかりだ。流れる時間の中では見逃したらそれきりだから、こんな時はどうしても不安になる。
また、間違えてしまったんじゃないか、って。
もう一度ため息をついて、ごろんと寝転がった。ハーマンたちが棚から下ろした本や標本が体と重なるけれど、ぞわぞわから逃げるのもなんだか億劫だった。
床を伝って聞こえてくる、遠い足音。急ぐ足音はないから、ニルスはユーリヤをすぐに見つけられたのかな。この杖の音はロージャかな。足が悪いままだから無理していないといいけれど。……ハーマンもニルスも、やっぱり私には気づかなかったな。当たり前だし、仕方ないことだけど。
……なんだか。すごく、寂しい。
私はぼんやりと息を深く吐いた。そして跳ね起きて首を振る。
だめだだめだ。
妖精にならなかった私が、誰かに気づいてもらえないのは仕方ないことだし、そんな中でもダニーとティアは気にかけてくれてる。なにより、あの時のユーリヤには同じ気持ちを感じさせてしまったはずだ。私だって、我慢しないと。
それに、みんなが笑ってるのを見るのは、本当に嬉しいから。
なかったことになってしまったけれど、みんなが友達になってくれた思い出は、ずっと覚えているから。
……よし。もう、大丈夫。
ニルスたちの様子を見に行こう。小鳥のことも、気になるし。
私は立ち上がろうとして、ふと体に埋まった標本に目を落とした。
ガラスの覆いをすり抜けた光がきゅっとすぼまって、白い点になって本の表紙に落ちている。
なんだろう、これ?
こんなのはじめて見る。不思議だ。手を差し出してみるけれどすり抜けてしまって、特に感じられるものはない。じゃあこれは私以外にも見えるものなのかな。でも、あの時のユーリヤだって私以外には見えてなかったけど、私だってさわれなかったしなぁ。
光が当たっているところからは、白っぽいなにかが立ち上っている。湯気みたいな……いや、煙?
次の瞬間、ぱっ、とだいだい色の火が小さく吹き上がった。
……え?
あっけに取られているうちに、火はぶすぶすと本の表紙に広がっていく。我に返って手で叩くけれど、火の勢いは変わらない。
ど、どうしよう!? どうすればいいんだ? 火ってどうやって消すの? キッチンのストーブならルーリンツはいつも吸気口を絞って、だめだ、本に吸気口なんてない!
誰か呼んで、ああでも、きっとみんな気づいてくれない。どうしよう、誰か……!
そこまで考えて気づく。
あの人。ハンター。
ハンターなら気づいてくれる。あの人は、怖いけど、でも、今は。
私は教室を飛び出して、裏口から外に出る。思った通り、ハンターはいつものように木に寄りかかっていた。
一目散に駆け寄ると、ハンターはフードの下で目を見開いた。
「お前は……」
私はマントの裾を掴んで引っ張る。けれどハンターの体はびくともしない。勢いをつけてもう一度引っ張ると、ハンターは私の手を掴んで止め、腰を上げた。
表情の薄い顔にはかすかだけど疑問の色が浮かんでいる。このあいだの目の冷たさもないし、あの歪なナイフを取り出す様子もない。私が引っ張るままについてきてくれている。これなら……!
裏口から学校の中に入った瞬間、ハンターの目が鋭くなった。
表紙を舐めていた火は弱まっていたけれど、それをしっかり掴むハンターの手から嫌な音と白い煙が漏れている。手のひらがどうなっているかなんて、見えなくたって分かる。
そんな、怪我なんてさせるつもりじゃ……!
「……なんだか焦げ臭いような……あれ、ハンターさ、って、どうしたんだいそれ!?」
驚き慌てたルーリンツを一瞥し、ハンターは来た道を引き返した。裏口から外に出ながら、燃え残った表紙の布をむしり取る。地面に落ちた布をにじって、焦げた厚紙を鋭い目で睨む。焦げた穴のふちはくすぶり、いまだに煙を上げていた。
ハンターは顔を川へと向ける。なんの躊躇いもなく桟橋へと走り、勢いよく本を川の中に突っ込んだ。
◆
陽の光は暖かいもの、ということは、私も一応知っている。
降りそそぐ分にはぽかぽかする程度だけれど、光を集めるとその分暖かさも集まって、熱くなるのだそうだ。それこそ、条件が揃えば火が燃え上がるくらいに。
今回のことは、いつもは蔦で遮られていた日差しが直接入ったことで起きたのだろう、と校長先生は結論付けていた。
本は燃えたのは表紙だけで、中身の方は無事だった。ハンターがしっかり閉じた状態で川に入れたお陰で水濡れもほとんどしていなかった。ふちが膨れないように乾かして、装丁し直せば大丈夫らしい。
ニルスとハーマンは落ち込んでいた。でも日差しが入るようになった原因は蔦に絡まった鳥を助けるためで、ほとんど事故のようなものだから、校長先生も二人を強く叱ることはなかった。
大事にはならなかったからと、標本のガラスの覆いが日光に当たらないよう移動させて、原因をみんなに伝えて、これからは注意するように約束して、この一件はおしまいになった。
それで終わりになったのは、燃えた本を掴んだハンターの右手が、少し赤くなっただけで済んだのも大きいのだと思う。
「今日は本当にありがとう、ハンターさん」
医務室は、今は臨時でハンターの寝室として割り当てられている。間仕切りを増やしたせいで少し手狭に感じる部屋の中、ユーリヤとハンターは作業机の横で向かい合って座っていた。
ハンターは手当ては必要ない、と言ったけれど、ユーリヤも譲らなかった。結局ハンターが折れて、ユーリヤの手当てを黙って受けている。練った軟膏をやけどに塗り、ガーゼを当てて包帯を巻く。
「はい、おしまい」
ユーリヤは包帯を巻き終えたハンターの手をそっと離した。
「……でもね、いくら火を消すためだからって、燃えているものを直接触るなんて、そんな危ないことはしてはだめよ。もし大怪我をしてしまったら、私には治せない。命の時間をなくしてしまったら、それきりだもの」
「問題ない。この怪我も大した事はなかった」
「そんなことないわ。それに……」
ユーリヤは眉尻を落とした。
その時、開け放たれたままの扉の横をノックする音がした。
「ユーリヤ、ハンターさん。今、大丈夫かな?」
二人がそちらを向けば、ハーマンとニルスが立っていた。ニルスは包帯が巻かれたハンターの手を見て、唇を引き結ぶ。
「どうしたの、二人とも?」
「今日のことで、きちんとお礼を言いたくて。ハンターさん。本当にありがとう。手は大丈夫なのかい?」
「その、ごめんなさい。見つけた僕が、気をつけるべきだったのに」
「気にするな」
「それは無理だよ、気にするさ! やけどは本当に大丈夫? ユーリヤ、どうなんだい?」
ハーマンの問いかけに、ユーリヤはさっきまでの不安な表情を隠すように笑った。
「水ぶくれにはなってなかったから、すぐに良くなるわ」
「そっか、良かった……」
「手が痛くて困ったら言って。出来る範囲だけど、手伝うから」
心の底からほっとした様子のハーマンの隣で、ニルスは決意に満ちた顔でハンターを見つめる。
ハンターの表情はいつもどおり薄いままだけれど、なんだか、少し困ってるみたいに見えた。なにか言おうとしてちいさく口を開いて、だけど首を振った。
「? どうしたの?」
「いや……、……鳥、は」
「え?」
「鳥は、大丈夫だったのか」
みんな、きょとんとしてハンターを見返した。やがてハーマンがくすりとこぼす。
「うん。今は鳥かごの中で、のんびりしているよ」
「そうか」
「男子の寝室で世話することになったから、後で見に来てよ。とてもきれいな声で歌ってくれるんだ」
ハンターは頷いた。三人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。
「ハンターさんの方から、僕たちに話し掛けてくれたね」
「はじめてだったから少し驚いたよ。うん、でも……やっぱり、嬉しいな」
みんなを見送って、私は医務室に入る。椅子に座って右手の包帯を見つめているハンターの前に立ち、頭を下げた。
冷静になって考えてみれば、私だって意識すればものは持てるのだ。ハンターに頼まなくても、なんとかできたはずなのに。ハンターにあんな怪我をさせずに済んだのに。
私は、ハンターが燃えていた部分をしっかり握っていたのを見た。手のひらがボロボロに赤くただれていたのも。だけど、みんながばたばたしているうちにいつの間にか怪我は消えて、名残だけになっていた。
傷が消えてしまった理由は分からないけれど、あんな大怪我、痛くないはずがない。
どうしよう。どうすればいいんだろう。助けてもらったのに、みんなと違って私にはお礼すら返せない。
「話せないのか」
……えっ、と。
脈絡のない言葉に顔を上げると、ハンターはフードの下からじっと私を見ていた。
「お前は、話せないのか」
私は面食らいながら、喉を押さえて頷く。
ハンターはあごを引いた。
「……その上で訊く。お前は、何だ?」
言葉は同じでも、あの時のような冷たさはない。ハンターの目はまっすぐに、私を見つめていた。
でも、私は何か、か。
……校長先生なら、うまく説明してくれるかな。なら、連れて行く前に教えた方がいいかな。
私は入り口に立ち、手招きをする。ハンターがついてきているのを確認しながら、階段を降りて裏口から外に出た。
いつもハンターが寄りかかっている木のそばに立ち、隠れるようにひっそりと据えられた墓石を指差す。
「アレクシス。根無し草のように消えた。……これはお前の墓だったのか」
たぶん、と心の中で付け足す。私がアレクシスだと示す証拠は見つけているけれど、覚えている限り、この名前で呼ばれた事は一度もないから。
「しかし、ならば……」
考え込みそうになったハンターのマントの裾を引っ張って校内に戻り、もう一度手招きする。廊下を抜け、図書室を通り、校長室の扉を指差した。
ハンターは少しだけ鋭い目つきになって、ドアノッカーを鳴らす。
「誰じゃ?」
「グレイブズ、私だ」
「おお、ハンターか。ちょうど呼ぼうと思っておったところだ」
入室すれば、校長先生は金枝を引き出しに入れたところだった。鍵を掛け、慣れた手つきで車椅子を切り返す。
「改めて礼を言わせてくれ。大事になる前に
「私が発見したのではない」
ハンターは私をちらりと見て、言葉を続けた。
「訊きたい事がある。
「……子供の、亡霊、か? それは……」
「小火を見つけたのはそれだ。私ではない。正体について尋ねたら、裏の墓を指した。あの、アレクシスと刻まれた墓だ」
虚を突かれたように、校長先生は目を丸くする。だんだんと、開いた口がわなわなと震え出し、喉の奥から喘ぐような声が漏れた。
「その、亡霊は……本当に、アレクシス、と?」
ハンターに向けて、私は左手の痣を指差して見せた。校長先生はきっと覚えているはずだ。
「左手の小指の下に、傷跡か痣のようなものがある」
「……っ、そこに、おるのか……!?」
視線の動きで気づいたのだろう、校長先生は車椅子から身を乗り出した。動いた拍子にずれたメガネもそのまま、私の方を凝視する。
「ユーリヤの指輪はやはり、お前だったのか、アレクシス……ああ、そうか。そこに、おるのか……」
校長先生の両目から、はらはらと涙が零れ落ちた。
「あの子の命を返してくれた事、感謝する。そして、すまない。すまない…………!」
うつむく校長先生の頬に手を伸ばす。だけれど、触れようと意識してもやっぱりすり抜けてしまう。この前のマリーみたいに涙を拭ってあげられたらいいのに。
気にしないで、って、伝えられたらいいのに。
しばらくして、校長先生はメガネを拭って掛け直した。
「取り乱してすまなかった。アレクシスが……その子が、学校にいるかも知れんと言っておった妖精だ。左手に痣があるなら、間違いないだろう」
ハンターは眉根を寄せた。
「話が違う。妖精は、止まった時の世界とやらにいるのではなかったのか」
「その子の指に、赤い石の指輪はあるかね?」
ハンターに両手を見せる。首を横に振ったハンターに、校長先生は頷いた。
「なら、今のアレクシスは妖精としての力は何も持たん。止まった時の世界に留まれず、触媒なくしては命の時間をやりとりする事もできん。だが……」
校長先生は思い詰めた顔で押し黙った。ハンターは口を開きかけて、だけどふと後ろを振り向いた。
「ユーリヤ」
……え?
校長先生も私も、あっけに取られて入口を見つめた。扉を開けて、おずおずとユーリヤが姿を現す。
「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんです。ハンターさんのことで、相談したいことがあって、それで」
「どこから聞いておったのだ……」
「その、アレクシスに妖精の力はないってところから、です。赤い石の指輪を持ってないって。それって、この指輪のこと、ですよね」
ユーリヤは右手の中指にはめられた指輪を、そっと撫でた。
「あの日の夜のことは夢じゃなくて、確かに、アレクシスが私の命の時間を奪ってくれて、そして返してくれた、ってこと、ですよね」
ハンターの瞳がじっと私を捉えた。
きっと、私の行動の意味を知りたいのだと思う。だけど私には説明する手段がなにもなくて、ただ頷くことしかできない。
「妖精さん……ううん、アレクシス。そこに、いるのね」
ユーリヤは視線を彷徨わせた。
私は胸を押さえる。奥の方がきりきりと痛い。ユーリヤのことは大切で大好きで、なのに、なんだかすごく、怖い。
「あなたが私の命の時間を奪ってくれた時、私、嬉しかったの。あなたは根無し草のように消えてしまったのではなくて、ちゃんとここにいるんだって分かって。消えてなくなってしまいそうだった私の命の時間が、あなたのためになるならって、そう、思っていたから」
そんなこと言わないで。叫びたいのに、私の喉は声にならない微かな音を出すばかりだ。それだってユーリヤには届かない。
奥歯を噛みしめる私の前で、ユーリヤは言葉を続けた。
「でも、すぐに返してくれたでしょう? 私のものだった命の時間は、とっても温かくて……大事にしなきゃって気づけたのも、少し前まで寝たきりだったのがこんなに元気になれたのも、あなたのおかげなのよ」
ふと、ユーリヤの目がこちらへと向けられた。見えてないはずなのに、焦点は確かに私に結ばれていて。
「ありがとう、アレクシス」
微笑んだ顔が、今は消えてしまったはじまりのあの日と重なった。
胸の痛みは消えて、だけど、苦しい。
熱が込み上げて、鼻の奥がつんとして、視界がぼやけた。目から何かが溢れて頬を伝う。目元を擦ってもそれは止まらない。
……ああ、人でないものでも涙は流せるんだ。
「泣いているのか」
ハンターの言葉に、ユーリヤは慌てたようだった。
「ご、ごめんなさい……! そうよね、だって指輪を見つけられなかった妖精さんは……」
違う。
私は首を強く振る。腕を伸ばして、ユーリヤの体にぎゅっと回した。
抱きしめても匂いも温度も分からない。ただユーリヤの体に埋まった部分にぞわぞわした感覚があるだけだ。だけど、それでも。
ユーリヤが生きてる。
生きてくれている。
ルーリンツの覚悟も、ニルスとロージャの後悔も、ハーマンとマリーの想いも、私と友達になってくれたあの日々も。全部なかったことになったけれど、みんなを助けてってお願いは、叶えられたのかな。
……私のしたことは、間違って、なかった、のかな。
そっと、頭の後ろをぞわぞわした感覚が撫でた。
「本当に、ありがとうね」
涙ぐんだ声でユーリヤがささやく。
寂しさも、不安も、みんな溶けて消えていくような、そんな優しい声だった。
だんだん気持ちが落ち着いて、ユーリヤから体を離す。同時に、頭の後ろを撫でていたぞわぞわが離れた。ユーリヤの手が、そっと私の頬に当たる。
「あのね。見えないけれど、あなたが首を振って、抱き付いてきたのは、なんとなく分かったの。……不思議ね、同じ時間の中にいるからかしら」
ユーリヤは目元を指先で拭った。さっきから、みんな泣いてばかりだ。
「ハンターさんもありがとう。この子の事を教えてくれて。あなたがいなかったら、きっと誰もこの子に気づけなかったわ」
「……そうか」
ハンターはフードを下ろして顔を隠した。ユーリヤはくすりと笑って、校長先生へと向き直る。
「校長先生。アレクシスのことをみんなに伝えてもいいですか? みんなにも、この子のことを知ってほしいんです。だってせっかく、こうやって会えたのだもの」
私は思わずユーリヤを見上げた。
それって、つまり、もう一度、みんなと友達になれるってこと?
また涙がこぼれそうになって、私はうつむいて目をこする。
妖精ではなくなった私には、もうみんなを手助けすることも、お願いを叶えることもできないけれど、本当にいいのかな。ああでも、すごく、嬉しい。
振り向いた先の校長先生はとても悲しそうな顔をしていたけれど、すぐに笑顔を浮かべる。それでも、眉尻は下がったままだった。
「……ああ、そうじゃな。できる限り、思い出を作ろう。もう二度と、忘れないように」
ハンターは何も言わずに、静かな瞳で私たちのことをじっと見つめていた。
表情はいつも通り薄いのに、なんだか、なにかをこらえているように見えた。