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「……あなた、無事だったのね。よかったわ。でも、何度来てもらっても、変わらないわ。扉は開けられない」
「いや、そうではない。貴女に礼を、と」
「礼?」
「あの輸血液のおかげで、どうにか死なずに済んだ」
「そう、お役に立てたみたいね。……ねえ、外は今、どうなっているのかしら?」
「……市街はもう駄目だ。どこもかしこも、瞳の蕩けた群衆が徘徊している。獣狩りの狩人とやらも、生きて会えたのはたった一人だ。後は皆死んでいた」
「そんな……」
「私はこれから大橋へ向かう。聖堂街は医療教会のお膝元だと聞いた。可能であれば、助力を乞うてくる。生きて戻れれば、また報告に来る」
「……待って。どうか、これを」
「これは……また、いいのか? 貴重なものだろう」
「ええ。私にできるのはこれくらいだもの。少しでもあなたの助けになるといいのだけれど。……狩りの成就を、願っています」
「ヨセフカはどうした?」
「……ヨセフカは奥にいるわ。手を離せない用事があるの」
軋む扉は、押せば呆気なく開いた。
あなたが部屋に踏み込んだ瞬間、階段の上から女の声が降ってくる。
「あら、月の香り……」
女は熱が籠もった息を吐き、どうやって入り込んだのかしら、と呟いた。
「でも残念ね。私たち、良い関係を築けると思ったのだけど」
女は宣う。
ここで見たものの意義が理解できるなら引き返せ、そして今までどおりの関係に戻ろう、と。
「もし引き返す気がないなら……ああでも、狩人の治験も得難いものかしら……?」
笑い声がさざめきのように降り注ぐ中で、あなたは灰色の血に塗れた右手を強く握り締めた。
「……ヨセフカは、どうした」
「あら、ヨセフカなら、あなたと取引していた部屋にいるはずよ? おばあさんなら、反対側の奥の部屋。そうそう、話していた女の子はどうなっていたのかしら? 治療の準備をして待っていたのに……」
心底残念そうな声であった。
あなたは夢からノコギリ鉈を引き出し、階段を上がる。足を載せるごとに床板は軋んだ。あの女にも聞こえていることだろう。
だが。そんなもの、知ったことか。あなたは頭の中で吐き捨てた。
階段を上り終えた先、短い廊下の奥、見通せる場所に女はいない。あなたは部屋に入る前に、連装銃に水銀弾と骨髄の灰を詰める。
そうして何気なさを装って足を踏み入れ、壁に隠れて何かを振りかぶった女に向けて躊躇なく引き金を引いた。
「……そう。大橋でそんなことが……」
「あの獣は上の街から飛び降りて来た。聖堂街も無事ではないのかも知れないが……下水橋を通るルートがあると聞いた。今度はそちらから向かってみる」
「あの辺りはヤーナムでも治安が悪いわ。どうか気をつけて。それと、これを。私にできるのは、これくらい」
「いつも済まない」
「……今度の夜は長いけれど、明けない夜もないはずよ。まして、あなたのような方が、頑張っているのだから」
「……買い被り過ぎだ。私など、所詮は……」
「そんな風におっしゃらないで。……狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話すこともない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら」
「見えたところで面白いものでもないだろう」
「あら、そんなことないわ。不謹慎かもしれないけれど、フフッ、なんだか楽しみ。……どうか、無事でいてくださいね」
姿勢を崩した女の腹に右腕を突き刺す。
熱く軟らかな肉に深く深く腕をねじ込んでいく。お互いの吐息が頬を撫で合うほどに密着する。逃がさぬように指を絡め、握り締める。女から余裕は消え失せ、醜く顔を歪めながら血と呪詛を吐いた。
「何も、知らない、愚か者、め、が……!」
そうして力任せに引き千切った
踏み潰す。
踏み潰す。
踏み潰す。
執拗に。
何度も、何度も。
やがて、あなたは足を止めた。床には原型を留めぬ肉片が飛び散り、倒れた女の目に光はなかった。
血と臓物の臭いが部屋に充満していた。聞こえるのはあなたの荒い息と家鳴り、そして遠く響く鐘の音ばかりだ。
あなたは覚束ない足取りでその部屋を後にする。
右足は血と汚物に塗れ、歩く度に滑った。階段を下り、緩やかなカーブを描く荒れた廊下を進み、やがて小部屋へと辿り着く。
この悪夢のはじまりに、あなたが目覚めた部屋である。隅には青白く光る人ならぬ何かが、背中から灰色の血とはらわたを撒き散らして転がっていた。
そう。人ならぬ何かが侵入している、と思った。
目も耳も悪いようで、簡単に背後を取ることができた。
その何かの肉びらからヨセフカが手渡してくれた輸血液が転がり落ちた時でさえ、気付かなかった。
あなたが気付いたのは、反対側の部屋にいた人ならぬ何かを殺した後、診察台に寝かされた
「……、……」
喉の奥が鳴った。
診療所の中で動く者はあなた以外にない。ヨセフカも、ここを避難先として教えた老婆も。
あなたが、殺した。
――今度の夜は長いけれど、明けない夜もないはずよ。まして、あなたのような方が、頑張っているのだから。
「……っう゛、ェえ゛ッ」
込み上げた吐瀉物が服を、床を汚す。あなたは診察台に縋り付き、折れそうになる膝を必死で支えた。
見た目は人ではなかった。だが、心は?
獣と化した者たちのように理性を失っていたと、誰が断言できる。
いや、そもそも狂っているのは己ではないのか。己の正気を保証してくれる者など、どこにもいないではないか。
あなたの頭の中では、そんな思考ばかりが巡る。
しかしどれほど悔やんだところで、過去が正されることなどありはしない。
――狩りの夜が終われば、こんな風に扉越しに話すこともない。もしかして、あなたの顔も見られるのかしら。
――見えたところで面白いものでもないだろう。
――あら、そんなことないわ。不謹慎かもしれないけれど、フフッ、なんだか楽しみ。
ささやかな約束は、もはや永遠に、叶うことはない。