音楽堂への外廊下。その柱の間に張られたロープから、洗濯ばさみで吊されていた小さな布切れを外して、手に持った籠へと移していく。一緒に作業していたハーマンはそのうちの一枚を眺めて、満足そうに頷いた。
「どう? ハーマン。今度はきれいに染まった?」
廊下の窓から身を乗り出して、ユーリヤがわくわくと問いかけた。その後ろにはルーリンツの姿もある。
夏至が過ぎてしばらく経つとはいえ、まだまだ日は長い。日が傾きはじめて山の端に隠れるまでに、夕ごはんを食べたり、寝るための支度を整えたり、こうやって作業の後片づけができるほどだ。
淡い色の空に浮かぶ雲は光に染まり、まるで黄金色に燃えているようだった。雲だけじゃない。学校の壁も池の水面も、枝葉の先も、草のふちも。それからみんなのシャツや髪も、光に包まれて暖かな金色に輝いている。
「うん、一番のできだよ。色むらもないし、発色もいい。三人とも、手伝ってくれてありがとう」
ハーマンと一緒に、植込を傷つけないように窓枠越しに籠を差し出した。どれも濃さや深さは違えど、西日の中でも揺るがない、どっしりした緑だ。
下処理をした布を、たまねぎの皮を煮出した汁で煮た後、お酢にさびた釘を漬けて作った
染め物についてのテキストを探して、媒染液を仕込んで、それからハンターにもらったシャツの袖の部分を小さく切り分けて、テキストに書いてない部分を補うために時間の取れる時にテストして……と、いろいろあってのこの色だ。最初のころからお手伝いをしていたから、なんだかしみじみした気分になる。
ユーリヤは受け取った籠から、一番上の布切れを手に取った。
「うん、きれいなオリーブ色ね。この前のより、ずっと緑が強く出てる」
「本番もたまねぎの皮でやるのかい? それともノートにあったみたいに、ほかの草でも試す?」
「今回はたまねぎでやろうと思う。せっかくルーリンツに貯めておいてもらったんだし、なによりいい色だからね」
「分かった。じゃあまだ捨てないで取っておくよ。……あ、ニルス、ハンターさん。こっちこっち」
ルーリンツが廊下の奥へと呼びかける。二人が同じ窓から顔を覗かせた。
「今度のテストはうまくいった?」
「ああ。ニルスもハンターさんも、テキスト探しの時は手伝ってくれてありがとう。おかげで、いいものができそうだ」
ハーマンが言っているテキストとは、今もユーリヤが抱えている温かな字の手書きのノートだ。
「見て見て。不思議ね、あめ色のたまねぎの皮から、こんな深い緑が表れるなんて」
「たまねぎの皮が緑になるのか」
小首をかしげたハンターに、ハーマンが窓の下から説明を付け足した。
「媒染液にどの金属を使うかで、発色が変わるらしいんだ。ノートにはさびた銅板で媒染液を作った場合についても書いてあってさ」
「媒染液も色を決める要素になるのか」
ハンターの表情は目元によく表れる。動揺すると泳いだり、考え込むときは眉根が寄ったりと、目元を見ればだいたいどんな気持ちか分かる。今みたいに目を柔らかく細めてるのは、たとえば面白い本を見つけた時のような、わくわくと楽しい気持ちの時だ。
ユーリヤはノートを開いてぱらぱらとめくると、ある部分を指さした。
「ええと、ここかな。銅で媒染液を作った場合、素材の色に近い色味で染まるみたい。たまねぎの皮なら黄色から茶色にかけての色ね。その、これを書いた人も、実際にやることはなかったみたいなのだけど」
ニルスと一緒にノートをのぞき込むハンターには、ユーリヤへの配慮はあっても遠慮はない。まだ怖がっていたころの私に、ハンターはみんなとこんなに打ち解けたんだよ、って伝えたら、信じてくれるかな?
ルーリンツとは言わずもがな。ユーリヤのことは、口数が少ないなりによく気づかっている。ハーマンには日々のお仕事を教わっていて、マリーにもお手伝いを頼まれている。ロージャとはあまり接点ができないみたいで、まだ少しぎこちないけれど、きっと心配はいらない。校長先生も、自分以外の大人がいる、ということがずいぶん心強いみたいだ。
そして、ニルスとは面白い本を紹介してもらったり、その感想を話し合ったりする仲になっている。今も二人とも本を抱えているのを見るに、きっと図書室で一緒に本を見繕っていたのだろう。
ニルスも、自分の好きなものを一緒に楽しんでくれる友達ができて楽しそうにしている。専門書でしか使われないような難しい単語は知っているのに、子供向けの本に書かれた平易な言葉や言い回しは知らないハンターのために、調べ物の合間にメモを作ったりしている。
元々ぼや騒ぎで手に怪我をさせてしまったことを気にしていたけれど、今はその気負いもなりをひそめて、本をおすすめするのもメモを作るのも、純粋に友達のためだ。そっちの方が、ずっといい。
「なんだか楽しそうだね。今度端切れが出たら、いろいろ試してみようよ」
「でも銅の錆って、あの青かびみたいなのだろう? 危険じゃないのかなぁ」
ルーリンツがうーん、と心配そうに首をひねった。なら、と私は手をあげて振る。危ないものなら任せてほしい。私の手なら、普通の人が素手でさわったら危険なものでも大丈夫だ。ハンターにこの場で伝えてもらえば……あれ、おかしいな、視界には入ってると思うのだけれど。
もう一度勢いよく振ると、ハンターはやっとこっちに気づいた。
「どうした」
本を小脇に抱えて、窓枠に手をかけてこちらをのぞき込んだ。私はその手を取って、手のひらに指で言葉を書く。けれどハンターは手のひらではなく私の顔を見つめたままで、少しだけ寄った眉の隙間に、どこか困ったような色がにじんでいる。
「読めない」
……えっ。
思わず目を見返すと、ハンターは頷く。
「夕日の中だと、似たような色のお前は見づらい。感触だけでは何を書いたか判別できない」
ええっ。
振り返って自分の体の中で一番はっきりしている両手を西日に透かすと、確かに金色の日差しに溶けて見えなくなってしまった。どうしよう。あとで連絡ボードに書いておこうかな。それにしても、みんなの話をさえぎるだけで終わってしまったなぁ……
「でも、アレクシスはさっきの話題でなにか言いたいことがあったのだから……銅媒染もやってみたい?」
……えっと、私はみんなの役に立ちたいだけだ。それに、やってみたいなんて、そんなこと言える立場じゃない。
ハーマンが私の方をちらりと見て、廊下にいるみんなに声をかけた。
「うん、やろうよ。たまねぎの皮と銅の組み合わせは、確か黄色にもなるんだったね」
ニルスとルーリンツも頷く。
「今度は僕も作業、手伝うよ。できる範囲だけど、がんばるから」
「染めた布でなにを作るかも、あらかじめ決めてから取り掛かろう。マリーとロージャにも話をしておくよ。校長先生にも」
……うん? ルーリンツはさっきまで乗り気じゃなさそうだったのに、今はむしろ張り切っている。どうしたんだろう?
ユーリヤはぱたんとノートを閉じて、大切そうに抱きしめた。ハンターと入れ替わるように窓から身を乗り出して、窓枠にかかったままの私の手に、細くて白い手を重ねる。
「ねえ、ハンターさん。アレクシスは、夏の夕焼けの色なのね」
「……ああ。ちょうど、今の雲の色に似ている」
私のいる場所を見ながら、ユーリヤが笑う。すこしだけ、さみしそうに。
「ねえ、アレクシス。きっとすてきな色になるわ。冬の吹雪に押し込められても、このあたたかな夏の光を思い出せるような、そんな色。……とっても楽しみね」
私は手に意識を込めて、ユーリヤの手に触れる。やっぱりすり抜けて、さわることはできない。でも。
私が頷いたことをハンターから聞いたユーリヤは、ふわりと顔をほころばせた。
いつまでも ながれをただよいくだり――
こんじきのひかりのうちを たゆたう――
いのちとは 夢 でなくてどうする?
Ever drifting down the stream—
Lingering in the golden gleam—
Life, what is it but a dream?
ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」より(訳文・矢川澄子 新潮文庫)
※銅錆(緑青)については、昭和59年に厚生省(現在の厚生労働省)がほぼ無害だという認定を出しています。