スカボローフェアを聴きながら   作:Ghotiolo

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 学校の外について、ユーリヤ以外の子供たちはどこまで把握していたのだろう、と考えることがあります。
 「ニコラスと森の動物誌」を愛読していたニルス。古びた絵はがきを宝物にしていたマリー。外に繋がる扉の鍵を、お気に入りのがらくたとして所持していたハーマン。
 現状に対して疑念を抱かなかったのか、あるいは抱いていたもののプレイヤーに分かりやすい場所では表していなかったのか。抱いた上で、現状に納得していたのか。私はゲーム本編からは手掛かりを見つけられませんでした。
 確実に言えるのは、彼らは本当の事を知らされていなかった、という点に尽きるのでしょう。

 のんびりした話は一旦おやすみとなります。ちょっとストレス展開かも。
 文字数もなめくじ事件より多いです(約19,000字)。
 また、今後独自解釈や設定が増えます。ご了承ください。

 追伸:妖精のブローチすごい良かったです。毎日拝んでいます。

4/12:一部加筆
1/13:修正
9/27:修正


それは私と慈鳥(からす)は言った

「雨、止まないね」

 

 鳥かごの餌箱の中身を新しいものに取り替えながら、ニルスがそんなことを呟いた。

 それにつられて、ハーマンも窓の外を見る。

 

「そうだね。なんとなく雨足が弱くなってきた気もするけど」

 

 その言葉の通り、窓の外は雨模様だ。

 昨日までのからりと晴れた夏空はすっかり隠されて、薄曇りの空から雨がしとしと降り続いている。

 

 ハンターは読んでいた本から顔を上げて、二人と同じように窓の向こうを眺めた。

 

「……しばらく降りそうだな」

「どうして?」

「ハーマンから、雨が止む前兆として、向こうの山に掛かっている霧も晴れると聞いた」

「え? ああ、確かに言ったことあるけど」

 

 突然話題の中心になって、ハーマンは目をしばたいた。

 ニルスもハンターの言葉に頷く。

 

「それなら僕も聞いたことがあるよ。どの本に書いてあるのって尋ねたら、ただの観天望気(てんきうらない)だよって言われて驚いたな。ねえ、ハーマン。ほかにどんな法則があるの?」

 

 ハーマンは苦笑して首を振った。

 

「法則なんて、そんなはっきりしたものじゃない。それに僕も、ずっと前に誰かから教えてもらったんだ」

 

 雲が魚のうろこみたいに小さく切れて並んでいると、天気が崩れる前兆だとか。

 夕焼けが綺麗に見えたら、次の日は晴れだとか。

 

「あとは、雲の流れる方向である程度予測できるらしいけど、まずは自分で観察して考えてみてねって言われて、とうとう教えてもらえなかったなぁ」

 

 そんな三人の会話を聞きながら、私は窓の外へ視線を戻した。

 

 夏も半ばを過ぎ、雨水を受けた枝葉の緑は更に色を濃く深くしていた。光を含んだ雨は陰影をおだやかに打ち消して、しずくを受ける青葉や花びらを淡く輝かせている。

 遠くの山々は雨にけぶり霧に霞み、青野に真っ白なうすぎぬがはためいているようだ。

 

 ぼんやりとして、でも鮮やか。

 

 そんな風景が窓の向こうに広がっていた。

 

 

  あめは すき?

 

 

 左手のそばにいるエビーがそんなことを尋ねてきた。深くはっきりと頷いて、それからなんで? と首を傾げる。あえかな銀の光にのって、なんだか笑ったような雰囲気が伝わってきた。

 

 

  だって ずっと ながめてるもの

 

 

 そう言われて、はた、と気づく。校長先生が作ってくれたお手本は、最初の一文を写したところで止まっていた。

 いけない、と思って小さな黒板に向き直り、チョークを握る。でも外の様子が気になって集中できなくて、思い切って机に置いて、エビーを連れて窓辺にひじをつく。

 

 これが流れる時の中でのはじめての雨、というわけではない。でも、空から落ちてきた雨つぶがぱちんとはじける瞬間や、窓ガラスにかすめた水滴が少しずつ大きくなって、ふとした拍子に流れる姿。それから今は見えないけれど、水たまりにいくつも波紋が広がって重なる様は、何度見たって飽きない。もし叶うなら、雨を浴びたり空気の匂いをかいだりしてみたい、なんて思ってしまう。

 

 それくらい、雨は素敵なのだ。

 

 取り替え終えた餌箱を戻したニルスに向けて、小鳥は満足そうにちゅいっと鳴いた。ニルスは笑って手を振ると、椅子に座って本を広げる。視線をふと窓枠のエビーへと向けて、小さく首を傾げた。

 

「ぷよぷよしてるなめくじさんにとっては、雨が降ってる方が過ごしやすいのかな」

 

 問いかけというよりは、ひとりごとに近い。そのひとりごとを拾ったハンターも、本に目を落としたまま答える。

 

「どうだろう。あれは暑さに弱いのに日光浴をしたがる節がある」

 

 わたしのはなし? と角をひょっこりと伸ばすエビーを見て、ハーマンは優しく笑った。

 

「ハンターさんの手のひらとかも好きみたいだし、ちょうどいい暖かさが好きなのかもしれないな」

「それは手の上で餌をやっていた影響だろう」

 

 その様子を想像すると、なんだかほほえましい。ハーマンとニルスも、にこにこした顔をハンターに向けた。

 

「はは、ハンターさんらしいな」

「なめくじさんが葉っぱを食べてるところ、かわいいからね。気持ち、分かるよ」

「え? いや、そういう訳では……」

 

 三人の会話を背に、実際のところを目で尋ねると、エビーは銀沙の散った小さな体を私の左手にすりよせた。ひんやりとした感触と一緒に、やさしい気持ちが伝わってくる。

 

 

  いちばんふれあえるのが てのひらだもの

  いっしょにいられるのは うれしいものよ

  あれくしす あなたと おなじね

 

 

 うーん、そっちじゃなくて。

 首を傾げてみると、エビーにも伝わったみたいだ。

 

 

  ひなたぼっこの こと?

  しめってるほうが すごしやすいわ

  でも ひなたぼっこも したいの

  みすてられていても ともにあるのだとと かんじられるから

 

 

 ……うん?

 私の手にじゃれつきながら、エビーは静かに歌う。

 

 

  ときは はる

  ひは あした

  あしたは ななとき

  かたおかに つゆ みちて

  あげひばり なのりいで

  かたつむり えだをはい

  かみ そらにしろしめす

  すべて よは こともなし!

 

 

 ……、…………?

 とりあえず、私は指先でエビーの頭を撫でた。角の後ろが好きみたいなので、その辺を重点的にぷにぷにと。

 

 エビーの言葉は時に難解だ。なにを言っているのかわからないことも多い。エビー本人から、お話できることは他の人(学校のみんなはもちろん、なぜかハンターも)に伝えたらだめって言われているのもあって、だれかに質問するのも難しい。

 でも、こうやって言葉をふわふわこぼすのはなんだかとても楽しそうで、小鳥のさえずりみたいでいいな、と思う。

 

 ぽつぽつと続いた三人の会話もやがて自然に途切れ、部屋に響くのはページをめくる音や、紙にペンで書き付ける硬い音ばかりになった。

 

 ……ううん、それだけじゃない。

 

 小さな音が無数に連なる雨の音。屋根を叩く音に紛れ込む、さらさらとこぼれるようなささやかな雨音は、まるで内緒ばなしが漏れ聞こえてるみたいだ。

 それに乗せて歌う小鳥の声もどこかしっとりして、柔らかく部屋に響いている。そういえば、小鳥の歌声もすこし変わった。今までよりもっと抑揚がついて、即興で歌を作ってるみたいだ。

 

 おだやかで、優しい。そんな時間が静かに流れていた。

 

 澄ませている耳に、ノブを捻る音が届いた。扉を開けて顔をのぞかせたルーリンツは、不思議そうに目を瞬いた。

 

「あれ? みんな揃ってるのか。この時間帯だとなんだか珍しいな」

「今日は少し寒いから、自然に集まったのさ。ルーリンツこそ、今日はキッチンのストーブの覗き窓の煤掃除をするって言ってなかったか?」

「それが、ダニーがストーブから離れなくて、火を落とすに落とせなくてさ」

 

 食べ物や食器は片付けたし、ダニーは頭がいいから、いたずらの心配はない。なにより、熾火(おきび)のじんわりと染みるような暖かさが大好きなのだという。どかそうものなら、とても悲しそうな目で見つめられるとか。

 

「じゃあ、それも晴れてから……」

 

 ニルスの声はティアの低いうなり声にかき消された。

 

「わっ? ティア、どうしたんだい?」

 

 ルーリンツの足元を縫うように飛び込んできたティアは、一直線に私の元へと歩いてきた。いらいらと尻尾を揺らし、青い光を帯びた瞳が私を見据えた。

 

 こっちをまっすぐ見てくるダニーと違って、普段のティアは立ち止まる時は目を細めて伏せて、こちらにほとんど視線を向けない。これは私にだけじゃなくて、ユーリヤたちに甘える時もそうだ。

 校長先生によると、猫にとって目と目を合わせるのはけんかの合図なのだそうだ。寝起きにダニーに鼻先の距離で見つめられて、前足でべしべしと()()()しているところを毎朝見る。あれはお互い楽しそうだからいいけれど、今の雰囲気はとてもそんなことを言える状況じゃない。

 

 この時振計とは少しちがう青い光に見つめられると、足が前に進まなくなる。たとえるなら鍵の掛かった扉の前に立った時のように、()()()()()()()という気持ちが足を竦ませるのだ。

 

 そして、それとはまったく関係なく、今のティアは、怖い。

 

 だしん、と、丸めた尻尾でしたたかに叩かれた床が鳴る。耳をいからせ、のどの奥から、むぅ、と声を漏らす。私は慌てて縮こまるエビーを頭の上に避難させた。

 

 

  あれくしす わたし やっぱり

 

 

 頭の上から降ってきたさみしそうな言葉に、私はぶんぶんと首を振った。エビーが原因だとしても、エビーはなにも悪くない。

 ティアが怒ってる理由は分かってる。エビーと一緒にいるからだ。ティアはエビーのことがあまり好きじゃないみたいだし、特に私といるとものすごく怒る。

 

 ……でも、なんでエビーと一緒にいたらだめなの?

 

 納得できなくてにらみ返すと、ティアがむーっ、とうなった。頭の上のエビーと一緒に息をのんで一歩下がれば、ティアもむーむーとうなりながら一歩ぶん進む。どうにか逃げ出そうと扉の方へ行こうとすると、するりと回り込まれてまた怒られる。ぞわ、と背中に感覚がめり込んで、いつの間にか角に追いつめられたことを悟る。

 

 ……ど、どうしよう。

 

「ティア? いったいどうしたの? アレクシスも……」

 

 みんな困った顔でティアと私の立っている場所を眺める中で、ハンターだけは本をぱたんと閉じ、小さくため息をついて腰を上げた。

 

 ティアの横を何事もなく歩いて、エビーをつまみ上げた。あっ、と手を伸ばすと、なにか言いたそうに片目を細めて私の手の中にぽんと置いて、その場にしゃがみ込む。

 

「しっかり持っていろ」

 

 え……わあっ!?

 

 もし私が話せたら、そんなすっとんきょうな声を上げていたに違いない。ハンターは私の足を抱え、お腹を肩に乗せるように抱き上げて、方向転換して……そこで足を止めた。

 

「……あー、その……どいてくれないか」

 

 はじめて聞くような、ものすごく困った声だ。私はエビーをハンターの頭にいったん乗せて、反対側の肩に手をついて、体を反転させて肩の上に腰掛けた。

 

 後ろ足で立ちあがったティアが、爪を引っ込めた前足でハンターのひざを押さえていた。右足で左ひざを、左足で右ひざを。ハンターが足を持ち上げようとすると、ぎゅっと力を入れる。逆に引くと、合わせるように押し込む。

 

「な……」

 

 なぅ、とうなる声はさっきより弱いものの、ハンターをたじろがせるには充分だったみたいだ。的確に押してくるティアにあっという間に追い詰められて、壁に肩をぶつけてしまった。

 

「……、…………」

 

 ハンターはそっと顔をルーリンツたちの方へ向けた。心配そうにこちらを見ていた三人は、ちょっとだけ笑う。

 

「羊の毛を刈りに行って、逆に刈られてしまったね」

 

 ルーリンツがひょいとティアを持ち上げる。ティアはじたばたしていたものの、腕の中に抱きかかえられると、諦めたように大人しく丸くなった。ただ耳は不満げに寝たままだ。

 

「呆れて悪かった。猫は、怖い」

 

 私を肩から降ろして、ハンターは真剣そのものの顔でそんなことを言う。まったくもってそのとおり、ティアは怒るととっても怖い。

 

「ティアも雨が嫌で、少し気が立ってるのかもしれないな。でもだめだろ、ティア。アレクシスもハンターさんも、すごく困ってたじゃないか」

 

 喉元を撫でながらルーリンツがたしなめるけれど、ティアはつんとそっぽを向いている。やってきたニルスがおでこを撫でても、まだ機嫌は治らない。

 

「明日は晴れるといいけど。……それに、そろそろ鳥さんを学校の外に帰してあげたいからね」

 

 ……え?

 今、なんて。

 

「――……、それは」

 

 私の動揺にかぶせるように、声を漏らしたのはハンターだった。

 ティア以外の、みんなの目がハンターへと向く。ハンターは視線を斜め下に落とした。

 

「いや、このまま、面倒を見るのかと」

「うん。それも考えたよ。でも、やっぱり鳥さんのことを考えると、帰してあげた方がいいんじゃないかなって思うんだ。狭い鳥かごに閉じ込めておくよりは、って」

 

 聞き間違いじゃない、のか。

 どうしよう。止めないと。外はだめだ。外に出したらいけない。でもどうやって止める? あの時はただがむしゃらに動いただけで――

 

 

  あれくしす?

 

 

 はっとして、手の中を見る。エビーは心配そうにこちらを見上げて、私の頬へ角を伸ばしていた。

 

 

  どうしたの?

 

 

 その問いかけに、頷くことも、首を振ることもできない。

 

 ハンターはなにかを言おうとした。でも、言葉はかたちにならなくて、ため息のような声だけがもれる。

 

「……そう、か」

「うん」

 

 ニルスのさみしそうな笑顔と、うつむいたハンターの顔。不思議そうなルーリンツの向こうで、ハーマンは静かにこちらを見ている。

 

 当の小鳥は私たちのことなんて気にしないで、ちゅりーちゅるるると、いつものように鳴いていた。

 

 

 

 学校の外には、命の時間を奪う悪い妖精がいる。

 そのことは、校長先生とユーリヤ、それからハンターだけしか知らない。

 

 

 

 

 

 

 夜、ひとりぼっちで起きていると、考えたくないことをいろいろと考えてしまう。

 

 たとえば、ずっと目を背けてきたこと。

 

 ロッブの森で、あの妖精はニルスを罠に掛けた。そういう痕跡があった。ニルスの命の時間を奪うためには注意を引く必要があると考えて、枯れた花に命を与えるという手段を取っていた。あの妖精は、恐らく我を忘れていない。

 それに時振計の青い指輪と金枝を持っていた。過去に戻るために必要なのは人間の命の時間だけ。ほかの動物や植物では意味がない。むしろ、必要ないのにたくさんの生き物を右手で触って命の時間を集めるなんてこと、するだろうか。あの妖精がなにかの目的のために過去に遡ろうとしていたとすれば、命を無差別に奪う理由はないはずだ。

 

 なのに、学校の外には、生き物の姿はほとんどない。

 

 どうしてだろう、と、確かめようのない疑問がぐるぐると頭の中をかき回して、その渦から不安が泡のように浮かんでは消える。

 

 みんな、生きている。命の時間を奪われることもなく、誰も欠けずに、笑っている。

 

 

 けれど、みんなを閉じ込める問題は、なにも解決していない。

 

 

 ニルスの決意は固い。

 昼のうちに、校長先生に呼び出されているのを見かけた。図書室で待ってたロージャにどうしたのって訊かれて、小鳥を帰すことについていろいろ話し合ったと答えているのも聞いた。最後には納得してくれた、とも。

 

 外のことを教えないで、どうやってニルスを止めればいいのか。考えても、答えは出ない。

 

 ……逆に、外のことを、教える?

 そうすれば、きっと思いとどまってくれる。小鳥は学校にいられるから、悪い妖精に命の時間を奪われないで済むはずだ。

 でも、それを選べば。

 

 

 ――ああ、こんなことって、あるのか……

 ――森だけじゃない。海も、街も、どこもかしこも、全部同じ、消失ばかりじゃないか……

 

 

 絶望で空っぽになった声は、今でも耳の奥にこびりついている。あんな思いをさせたのに、結局ハーマンたちを止められなかった。なんの解決にも、繋がらなくて。

 

 外のことを教えて、それで、また、あんな顔をさせるのか。それが本当にいちばん間違いのないことなのか。

 

 でも教えないと、小鳥を見捨てるのと同じだ。ハンターは命の時間を奪われずにここまでたどり着いた。小鳥も同じように。だからって、次も大丈夫なんて、言えるわけが。

 

 

 ……選択が、怖い。

 

 

 かつての私ならきっと迷わなかった。命の時間の重さを理解せず、いたずらに弄ぶ妖精(人でなし)だったころの私なら。できることをただ試して、その結果がどうなるかなんて、考えもしないで。

 

 なにを選んでもなにもできなかった時の記憶がフラッシュバックする。選んだ行動がもたらす未来を想像できなくて、取り返しがつかなくなる恐怖に、足が竦む。ずっと導いてくれた時振計も、今はどこかに消えてしまった。考えても考えても答えは見つからなくて、なのに時間はどんどん先へ進んでしまう。

 

 私は――

 

 うにゃあ、と隣でティアがぐうっと伸びをした。

 眠そうな目をぱちぱちして、すり寄せてきた顔が私の太ももに埋まる。だけどすぐに、こてんと頭が落ちてしまった。

 伸ばした手が触れる前に、ティアはごろごろと寝息を立て始めた。前足がパン生地をこねるみたいに、交互にぎゅっ、ぎゅっと動く。一緒に伸びる後ろ足でお腹を揉まれて、ダニーの耳がぱたりと動いた。

 

 ……えっと。

 

 ぽかんと、私はティアを見つめた。にゃごにゃごむにゃむにゃと寝ぼける様子は、昼の怒った姿からは想像もできない。

 

 どろどろした緊張は、まだ胸の奥でくすぶっている。でも、少しだけ、静かになったような気がした。

 

 左手に意識を込めて、ティアのおでこに伸ばす。感触はなくても、黒いつやつやした毛並みは指のかたちにへこんだ。エビーのことがあるから、少しぎくしゃくしているけれど、それでも夜はダニーと一緒に隣にいてくれる。それはすごく嬉しくて、でも最近は同じくらい寂しい。

 

 夜は静かで、みんなは寝ていて、私はひとりぼっちだ。それを、身にしみて知るから。

 

 時計を見る。いつの間にか、真夜中にほど近い時間になっていた。雨音はまだ聞こえているものの、昼にくらべて明らかに弱い。猶予は、あまりない。

 今の季節なら、夜明けまではあと五時間くらいだろうか。それまでに、どうするべきなのか、考えないと。

 

 ……ああ。ニルスの心を傷つけずに、小鳥のことも助けられるような、そんな方法があればいいのに。

 

 ティアのおでこを最後にひと撫でして、抱えた膝に顔を埋める。自然と澄ませた耳に、ばたん、と扉が閉まった音が聞こえた。

 

 どれほど気をつけて歩いても、音は夜のしじまによく響く。ぎし、ぎし、と、床が軋む音は頭の上を過ぎて、反対側へと渡っていく。

 

 誰か起きてきたみたいだ。降りてこないから、お手洗いというわけでもないらしい。図書室に向かったのかな。それに、この足音。もしかして。

 

 誘われるように立ち上がる。階段を上れば、廊下の奥に薄ぼんやりとした()()()()色の明かりが見えた。

 

 図書室の入り口からそっと顔を覗かせる。ぐるりと壁に沿うような細い廊下の先で、背高(せいたか)な影が伸びて、明かりの中でゆらゆらと揺らいでいた。

 その根元にいるハンターも、影法師のような真っ黒なコートを肩に羽織っていた。腰のベルトに小さなランタンを吊して、本を開いてぱらぱらとめくっている。うつむいた顔がふと上がり、こちらを見て目をまるくした。

 

「起こしてしまったのか。悪い」

 

 視線を逸らしたハンターに駆け寄って、首を振る。私はそもそも眠らないから、気に病むことはなにもない。

 

 それに、少しだけ、ほっとできたから。

 ハンターの手を握ると、筋張った指の感触と温かさが伝わってくる。ハンターは私の手を振り払わずに、空いた片手で本を閉じて小脇に抱えた。

 

「……大丈夫か」

 

 どういう意味かと首を傾げると、ハンターは私の手を握り直した。

 

「震えている。調子が悪いのか」

 

 言われて、はじめて気づいた。止めようとしても止められなくて、でも心配を掛けたくなくて、首を横に振る。

 

「……扉の開閉音は聞こえなかった。どこにいた」

 

 ハンターの手のひらを開いて、“夜はいつもティアたちといっしょ”と書く。読み取って、眉間にしわの寄ったハンターの顔は、いつもの考えごとをしている時とはなんだか雰囲気がちがった。

 

「犬猫は揃って玄関で寝ているはずだが。ユーリヤは知っているのか」

 

 教えてないし、たぶん知らないと思う。あいまいに首を振ると、ハンターの眉間のしわはさらに深くなる。……なんだろう。なにか、だめだったのかな。

 

「起こしてしまったのかと訊いた時に否定したのは、眠れないから……いや、お前はまず眠る必要もないのか」

 

 頭の上から降ってくる声は低い。おそるおそる見上げると、ハンターは目を瞬かせたあと、あ、と小さく声を上げた。

 

「悪い。言い方がきつかった。責めるつもりはない」

 

 鼻から息をついたあと、私の顔を見つめて言った。

 

「……医務室に来てくれ。話しておきたい事がある」

 

 

 

 

 医務室に入ると、ハンターは腰のランタンを外して、机の真ん中に置かれた金属のゴブレットに引っかけた。だいだい色の明かりが、部屋の中をぼんやりと照ら……わあ。

 

 いつもは整頓されてきれいなはずの机の上は、ものが乱雑に散らかって木目が見えない。広げられたまま積み重なった本。くせの強い字でなにかを書き付けてある紙がたくさん。洗濯物のポケットの忘れ物常連だった、黒い輪っかのペンダント。それにこれは……なんだろう。見慣れない形だけれど、ガラスのビン、かな?

 長細い形と金属製の覆いが特徴的で、先端に鋭い針がついていた。ビン底にも金属の出っ張りがあって、これでは立てて置くことはできないだろう。なんとはなしに眺めていると、横合いからハンターの手がビンをさらって、手品で隠してしまった。

 

「座っていろ。少し片付ける」

 

 ハンターは本を閉じて机の端に積み、がさがさと紙束をまとめていく。積み上がっていく背表紙は、どれも妖精に関するものばかりだ。

 「妖精と命の時間」に、「特別なもの」の上下巻。「見えない妖精たち」は、第一巻だけが抜けている。「妖精と止まった時の考察」も、カルル・ウスペンスキーの「妖精研究概論」もある。

 

 最後にペンダントを首にかけてシャツの下に入れ、ハンターは椅子に腰を下ろした。机の角を挟んで、お互いに向かい合う。

 

「……あの時」

 

 そのまま言葉を続けようとして、小さく首を振って言い直した。

 

「最初の日、グレイブズが私にここの現状を教えた時、お前もユーリヤと同じように、驚くでもなく聞いていた。外に何がいるのか、お前も知っているのか」

 

 少し考えて、私は小さく頷いた。

 

「そうか」

 

 しばらく、無言だった。ハンターは考え込むように目を伏せ、机に肘をついて手で口元を覆う。

 

 やがてちいさく息をついて、姿勢を正した。その目は静かだった。訊きあぐねるように逸らすでもなく、ランタンのほの明かりの中で、じっと私を見ていた。

 

「先に言っておく。お前が気に病む事は、何もない」

 

 どういう意味なんだろう。それを尋ねる前に、ハンターは言葉をついだ。

 

「私は、ニルスの選択を黙って見送るつもりでいる」

 

 ……それは。

 

「昼のうちに、グレイブズには事のあらましを話してある。今後の消息など掴みようのない小鳥の命ではなく、まだ幼いニルスの心に瑕疵が残らない事を優先した。だから、お前にも黙っていてほしいと考えている」

 

 喉元までせり上がる感情を言葉に直そうとして、していないはずの息が詰まるような気がした。

 うつむいた頭の上で、沈んだ声は続く。

 

「現状に甘えているのは理解している。今後、ニルスが真実を知った時、(なじ)られるだろうという事もだ。だが一度知ってしまえば、知らなかった頃にはもう戻れない。そのせいで何か起こってからでは、取り返しが、つかない」

 

 噛み締めるような言葉は、重さをともなって肩にのしかかる。

 だって、状況は違えど、そのことは痛いほど知っている。命のやりとりをする妖精の力を知ったみんなは、鍵を捨てても、外の現状を知らせても、決して諦めなかったのだから。

 

「もっと早く理解するべきだった。ここが人ならぬ者によって孤立している事実の重さに。ここは温かで、まるで幸せな夢を見続けているようで……」

 

 ハンターは胸に手を当てて、服の下にあるものを握りしめた。そして、静かで、けれど力のこもった声ではっきりと言った。

 

「もう二度と、こんな事が起こらないようにする。時間は掛かるかも知れないが、どうにかしてみせる」

 

 ……それは、そんなの、どうやって?

 

 ハンターの表情は声と同じように真剣だった。それは記憶の中の、ロッブの森で見たハーマンの思いつめた目と似ていた。

 

 

 ――ありがとう。君も、来てくれてたんだね。

 

 

 胸騒ぎがした。

 今までのものとは別に、いやな予感が背筋を伝う。

 “なにをするつもりなの?”と手のひらに書いて尋ねても、ハンターは静かな顔で首を振るばかりだ。

 

「お前は知らなくていい。それに、私も無謀な行動を取るつもりはない。心配はいらない」

 

 その目が積まれた本へと向けられた。

 

「グレイブズはかつて妖精の研究者だったと聞く。グレイブズの師や朋友たちが残した資料も、それを読み解く時間もある」

 

 校長先生も、このことを知ってるの?

 物知りな校長先生が知恵を貸してくれるなら、これほど心強いこともない。それでも胸騒ぎは弱くなりはすれど、まだざわざわして治まらなかった。

 

「可能な限り急ぐが、もう夢を見ない以上、慎重に、こと、を……」

 

 声が詰まるように途切れた。まるでろうそくの火が消えるように顔から表情が消えて、ただ目だけがゆっくりと見開かれていった。

 

「……夢」

 

 夢? それに、もう見ないって……

 

 戸惑う私の前で、ハンターは瞳を自身の右手に落とした。手のひらに小さく灰色のさざ波が広がって、あのガラスのビンらしきものが現れる。さっきと違って、中は黒っぽい液体で満たされていた。

 

 ただの、いつもの手品だ。なにもおかしいことはない。けれど、ハンターの顔に浮かんだのは動揺だった。

 小刻みに揺れる目が、私とかち合う。はっとしたようにまばたきして、いつかのように、なにかをこらえるように歪んだ。

 

「……いや。何でも、ない」

 

 手の中のビンが灰色のさざ波に消えた。

 

「やる事に、変わりはない」

 

 噛み締めるように、ハンターはつぶやく。

 

「……話は終わりだ。お前は何も気にしなくていいし、心配する必要もない。それだけだ」

 

 もうなにも話すことはないというように、ハンターは体の向きを机に戻した。本を取ろうと伸ばされた手を、横合いから強く握る。

 

「どうした。ニルスの事なら、これ以上は……」

 

 首を横に振る。怪訝そうに眉をひそめたハンターの手を、ぎゅっと握る。

 

 本当は、嫌だ。小鳥のことを見捨てないでほしかった。でも、私はハンターも納得できるような方法を見つけられていない。ただ嫌だって言っても、きっとハンターは決断を覆してくれはしない。

 

 でも、もう一つの胸騒ぎの方なら。

 校長先生は妖精のことに詳しくて、ハンターは私を見つけられる瞳と、私に触れることのできる手を持っている。もし、ハンターが校長先生と力を合わせて、みんなを閉じ込める問題を解決できるなら、それは本当に素晴らしいことだ。

 けれど。

 

 ハンターの手を開いて、指を当てる。

 

 

 “心配しないなんて、無理だ。”

 

 

 どうすれば外の妖精を止められるかも知らない。

 ニルスと小鳥のどちらも、いちばんいいようにする方法も知らない。

 ハンターがさっき動揺した理由も、知らない。

 私が知っていることなんて本当にちっぽけで、知らないことを知る時間も、残されていない。

 

 

 “妖精のことは校長先生よりぜんぜん知らないけれど、その恐ろしさはよく知っている。”

 “命の時間を奪われたものや、自分のものではない命の時間を与えられたものが、いったいどうなるのかも。”

 

 

 白くしなびたぶどうや蛇。その場に崩れ落ちた服の山。目の前で干からびていった校長先生とルーリンツ。

 奇妙にねじれて枯れ果てた花。我を忘れてみんなの時間を奪ってしまったユーリヤ。どこかに消えてしまったヌーだって、きっと元のねずみには戻れなかっただろう。

 

 それから。

 触り心地が分からないのに、ユーリヤのブローチの柔らかい手触りを思い浮かべることができた。

 匂いを感じ取れないのに、マリーのハンカチはハーブのいい匂いがすると知っていた。

 触れたこともないのに、鍵盤打楽器用の楽譜を見た時、練習したのにうまくならなかった、と思った。

 

 止まりそうになった手を、無理矢理動かす。私のことはどうでもいい。今は、ハンターに気持ちを伝えなくちゃ。

 

 

 “外のことを、本当にどうにかできるなら、私は嬉しい。”

 “でも、妖精は不幸を運んでくるんだ。”

 

 

 妖精の力は都合のいいものじゃない。私にとっても、ロッブの森の妖精にとっても。そうでなければ何度も過去に遡ることなんてないのだから。

 だからこそ、ロッブの森の妖精は諦めないだろう。あのひとに過去に戻る理由より、もっと大切なものができないかぎりは。

 

 

 “ハンターがいなくなってしまうようなことになったら、みんな悲しいから。”

 “私は役には立てないけれど、せめて、心配する必要はないなんて、言わないで。”

 

 

 指を、手のひらから離した。

 

 ハンターは手のひらを見つめたまま、口を開く。

 

「私が、心配か」

 

 ゆっくりと、右手を握りしめる。くすぶっていた動揺は消えていた。

 

「成し遂げるだけの力量があるのかという意味ではなく、私自身の事が」

 

 そんなの当たり前だ。大きく頷くと、ハンターの口の端が少しだけ吊り上がった。

 

「……お前には、甘えてばかりだな」

 

 見間違いかと目を瞬いた瞬間にそれは消えて、いつも通りの静かな表情に戻っていた。

 

「それでも、私はお前より年長者で、汚い事、醜い事の何たるかを知っている。それを成す容易さも、骨身に染みている。だからこそ、ここが人ならぬ者によって喪われるような事があってはならないと、強く思う」

 

 ランタンのほの明かりの中で、目を閉じて、そして開く。

 

「無理はしない。皆を悲しませるような真似も。私に、任せてほしい」

 

 私はもう一度、ハンターの手のひらに指を当てた。

 

 

 “ひとつだけ約束して。”

 “どうか、ずっとここにいて。”

 

 

 妖精だったころ、玄関に置いてもらった私のための椅子に、ユーリヤはそんな言霊を残してくれた。

 私にはもう守れない約束だけれど、自分の命の時間をちゃんと持っているハンターなら、大丈夫なはずだから。

 

 息をのむ音がした。ハンターは唇を引き結んで、それから長く息をつく。

 

「……ああ。それが、許される限りは」

 

 確かな答えに、ひどく安心する。その安心の中から、同じだけの悲しさもそっと顔を出した。

 

 こんな風に、小鳥にも、行かないでって気持ちが伝えられたら、なんの心配もいらないのに。

 

 

 

 そして、夜が明ける。

 

 

 

 

 

 

「おはよう、ねずみのヌー」

 

 ニルスはそっとヌーのおなかを撫でた。

 こうやって毎朝ヌーにあいさつをするのは、ニルスの日課だった。昨日あったこと。今日の予定。それから、たくさんの思い出。

 

「今日も雨だよ。昨日より雨足も弱くなったし、向こうの山にかかっていた霧が晴れたから、もうじき止むと思うけど。鳥さんを外に帰すのは、明日以降になりそうなんだ」

 

 ニルスは言葉を切る。うつむいて、弱々しい声をこぼした。

 

「……でも、少しだけ、安心してもいるんだよ。まだ鳥さんと、一緒にいられるから」

 

 ヌーと違って、小鳥には名前をとうとう付けなかった。最初から学校の外に帰すつもりだったから、なのかな。

 

「鳥さんを外に帰すこと、校長先生にはすごく止められたんだ。外は危ないから、ここで面倒を見てあげようって。でも、あの本に書いてあっただろう? 優しいだけが命じゃないって。小さな命を大きな命が食べて、その命をさらに大きな命が食べて、そして命が生をまっとうした時は、大地にかえってまた小さな命の糧になる……そうやって、命は巡り続けてるんだって」

 

 ニルスは小さく首を傾げて、それからステンドグラスを見上げた。

 

「外には命が溢れてる。小さなものも、大きなものも。きっと鳥さんの友達だっているんだろうな。それに狭い鳥かごより、広い大空を飛んでる方が、ずっといいことのはず、だから」

 

 だんだん落ち込んでいく声に、ニルス自身もだめだって思ったみたいだ。頭を振って、明るく語りかける。

 

「ただね、それだけじゃないんだよ。ハーマンが、巣箱を木に掛けておこう、って。餌台も用意するつもりなんだ。もしかしたら、友達を連れてきてくれるかもしれないからね」

 

 しばらく、ニルスは黙ってヌーを見ていた。けれどヌーが反応を見せることはない。命の時間をなくしてしまったヌーがもう二度と動かないこと、ニルスだって分かってる。それでも願ってしまうのだろう。ユーリヤが私にそう想ってくれたように。あの時のみんなが、ユーリヤのために外を目指したように。

 

「……それじゃあ、また明日。なんでもかじって、聖母さまに怒られないようにね」

 

 最後におなかをひと撫でして、聞こえてきた杖の音に振り返った。

 

「ロージャ? どうしたんだい?」

「ニルス、あのね、鳥さんにちゃんとさよならをしたいの。まだ大丈夫かな。鳥さん、学校にいる?」

 

 礼拝堂に入ってきたロージャに駆け寄って、ニルスはやさしく笑いかける。

 

「大丈夫、まだいるよ。一緒に会いにいこう。鳥さんもきっと喜ぶよ」

 

 ロージャの手を引いて付き添いながら、ニルスは礼拝堂から出ていった。私は二階の手すりから降りて、玄関に向かう。男子の寝室へ行く二人の背中を、廊下から見送って。

 

 玄関を開けると、空を覆う雨雲はだいぶ薄くなっていた。見て取れるほどの速さで流れていく雲間から、かすかに漏れた光によって、霧雨がきらりと光っている。じきに雨は止むだろう。でも。それは。

 

 静かに降り続ける霧雨の中、門の前に背高な人影を見つけて、胸の奥がいやな感じに痛んだ。久しぶりに見た丈の短いマントとフードは、細く降る雨をよけるためだろうか。

 

 ……約束したのだから、ここから出ていくつもりなんかじゃないはずだ。でも。

 

 近づくと、足音もしないはずなのにハンターは振り返って、フードの下の瞳をじっと私に向けた。私はそのまま隣に並んで、手を握る。ハンターはきょとんとして、それから手を握り返してくれた。

 ハンターは瞳を向ける先を、門の向こうに戻した。門を握る右手に力を込めたのか、静かな雨音に軋んだ音が混ざる。

 

「何か、見えるか」

 

 言われて、目をハンターと同じ方へ向けた。特になにも変わったところはない、いつもの風景があるだけだ。首を小さく横に振ると、ぎし、とまた門が軋んだ。

 

「そうか」

 

 足元から続く石畳の道は、門をへだてた丘の向こうまで続いている。この道を歩いていけば、今は廃墟になっているというローアンや、ハンターがいたというヤーナムの街にたどり着くのだろうか。

 

 

 ……この向こうに、生きているものはどれだけ残っているのだろう。

 

 

 濡れた石を踏む音がした。

 

「二人とも。雨が弱くなったからって、外にいたら体が冷える。風邪をひいてしまうよ」

「ハーマン」

 

 振り返った先にいたハーマンだって、この前ハンターがくれた丈夫な革のコートを羽織っているだけだ。

 ハーマンもハンターの隣に立って、門の外に視線をやる。そして、ぽつりとつぶやくように言った。

 

「昨日はありがとう。外のこと、言わないでくれて」

 

 耳を疑った。

 

「……まさか、知って」

 

 目を見開いてうめくハンターに、ハーマンは苦笑して首を横に振った。

 

「詳しいことは全然知らないよ。でもハンターさんは外から来たし、アレクシスもきっと、ユーリヤと同じくらいには知ってるんだろうなと思ってたから。昨日の今日でこうやって二人で並んでるところを見ると、それで合ってたみたいだね」

 

 苦笑いを浮かべたまま、長く長く息をつく。

 

「校長先生はなにも教えてくださらない。だけど、いつもの場所で空を眺めてると、鳥を見かける頻度が数年前よりずっと少なくなったことくらいは分かるんだ。その原因までは分からないけど……きっと、外は危険だと、出てはいけないとおっしゃるようになった理由と同じなんだろうね」

 

 ……あの時、ハーマンは校長先生のナイフを持ち出した。なにがいるのかまでは分からなくても、なにかがあったことだけは把握していたんだ。それが、想像を大きく裏切るようなものだっただけで。

 

「ここに来たばかりのころは、もともと暮らしてた街にもよく出掛けてたんだ。校長先生や、大切だったはずの()()に連れられてね。今は使ってない倉庫の奥に駅があって、そこから汽車に乗って……」

 

 懐かしむように細められた目に、悲しみがにじんだ。

 

「いつだったかな、夜なのに街の方の空が真っ赤に明るくなって、それからは街のことは話題にも出せない。何度か校長先生たちを訪ねる人がいたけど、それももうずっと前のことだ。今は、どうなってるんだろう……」

 

 しばらく、二人とも黙り込んだままだった。強い風が霧のような雨を巻き上げながら、二人の服や髪を揺らし、私の体をすり抜けていく。

 

「真実を、黙っている事にした」

 

 ふいに、ハンターが口を開いた。

 門扉に掛けていた右手を離して、濡れた錆で赤茶けた手のひらを見つめる。

 

「沈黙を選んだ責は私にある。ニルスが真実を知った時に、責められるのは私だけだ。そういう事になった。だから……」

 

 フードに隠れた顔から視線をそらして、ハーマンは目を伏せた。

 

「ニルスと、それからロージャは、ここが閉じた時にはまだ小さくて、なにがあったのか覚えてないんだ。だから二人は学校の外のことを、本や絵でしか知らない」

 

 そういう僕も、忘れてしまったことばかりだけど。そう付け足して、ハーマンは空を見上げた。雨はもう、ほとんど止んでいた。

 

「外のことを二人にどう伝えればいいんだろう。校長先生がなにもおっしゃらないのに、ユーリヤもルーリンツも触れないのに、勝手に教えていいんだろうか。だいたい、僕だって本当はなにがあったのか知らないのに。……そんなことを考える時があって、いつも答えの代わりに不安だけが残るんだ。思い出せない大切だったはずの()()みたいに、みんながどこかに消えてしまったら、って」

 

 こちらに向いた透き通った色の目が、くしゃりと笑みのかたちに歪んだ。

 

「あまり気に病まないで。言えない理由があることの重さは、少しは分かってるつもりだから。それに、みんなに悲しい思いをさせないように、って考えてくれてるのは、嬉しいよ」

 

 ハンターはうつむき、唇を固く引き結んだままだった。ハーマンは眉尻を落として、前を向く。

 

「……野鳥の寿命って、どれくらいだと思う?」

 

 脈絡のない問いかけに、ハンターは軽く目を見開いた。少し考えるように視線を落として、首を横に振る。ちらりと私を見て、分からないらしいとハーマンに伝えてくれた。

 

「長生きはできない。小鳥なら、一年と少しくらいだと言われてる。大きくなって、つがいを見つけて、次の世代に命を繋いだら、ほとんどは命をなくしてしまう」

 

 ……そんな。

 私も、ハンターも。言葉もないまま、ただハーマンを見つめている。その視線をまっすぐに受け止めて、ハーマンは少しだけ表情を緩めた。

 

「もう一つ。図鑑で調べた時、本当に驚いたんだ。こまどりは四月の終わりから五月のはじめに卵を産んで、半月ほどで孵る。ひなや幼鳥のうちは全身地味な色をしていて、二、三か月かけて成鳥になってはじめて、あのだいだい色の胸飾りが少しずつ現れるようになるんだそうだ」

「……どういう事だ?」

「数えてみて。あの子はハンターさんと同じ時期に来てる」

 

 ? ええと……

 私が指を折っている横で、あ、とハンターが声を上げた。

 

「既に成鳥の特徴を得ていた。今年産まれた個体ではない」

「うん。そんな子が、ここに来てくれたんだよ。怪我だってすぐに治ってしまうくらい、元気な姿で。……それが、とても嬉しかったんだ」

 

 ようやく、私もハーマンの言いたいことに気づいた。

 

 あの子は学校の外で、一年間生きてきた。妖精に命の時間を奪われることなく、生きてきたんだ。

 

 重く沈んでいた気持ちの中でなにかが動く。あまりにかすかで、でも気のせいなんて思えないくらいには確かに。

 

「こまどりの生態については、最初のころにニルスにも教えたよ。ニルスは考えて悩んだ上で、やっぱり帰すべきだって選んだんだ。……外になにがあるのかは分からないけど、その中でたくさんの生き物の命が巡ってる。あの子たちの命の時間は短くて儚いけど、だからこそ、途切れてないことの証になる」

 

 ハーマンはそっと笑う。ユーリヤが私によく向けてくれるのとよく似た、やさしい笑顔だった。

 

「それに、あの子だけじゃない。ハンターさんも外から来たんだ。ずっと音沙汰のなかった学校の外から、ここに来てくれた。これ以上の希望はないさ。そうだろう?」

 

 

 当たり前になってしまって、すっかり忘れていたことがある。

 私が妖精だったころ。ハンターも、小鳥も、学校に現れた様子はなかった。行き倒れていた誰かがいた痕跡はなく、ニルスは鳥を見たことがなかった。

 ロッブの森の妖精が、過去を変えた結果の整合によるものなのだろうか。それとももっと別の原因があるのだろうか。

 ……分からない。本当の理由も、あの妖精が過去に戻ろうとする目的も、なにも分からない。ハンターと小鳥のほかは、生き物の姿だってないままだ。けれど。

 

 

 南に流れていた雲が割れる。

 そうして現れた空は、寒気立つように()めていた。まるで果てなどないように、ただ、深い。

 雲はどんどんほどけて、青空は広がっていく。さえぎるものがなくなった太陽は、白々と光を投げかける。

 

「……晴れてしまったね」

 

 門に背を預け、そんな冷たい空を見上げて、ハーマンはぽつりと言った。ハンターもフードを払って、同じように上を向く。

 

 ハーマンは口をすぼめて、そっと甲高く優しい音を鳴らした。何度か確かめるように吹いてから、調子をつけて吹き始める。

 ……ああ、演奏会でみんなが合奏してくれた曲だ。

 伸びやかで細い口笛の音が、晴れたばかりの空に響いた。透き通った、どこか寂し気なあのメロディーが、風に乗って渡っていく。

 一節を吹き終えて、演奏は終わった。ハンターは詰めていた息をついた。

 

「……上手いな」

「ありがとう。この曲、スカボローフェアっていうんだ。スカボローの街の(いち)に向かう旅人に、そこに暮らす大切な人への言伝を頼む歌なんだよ。叶えられないような願いごとを、それでも成してみてくれないか、って」

 

 ハーマンは目を閉じる。

 

「あの子に頼んだら、届けてくれないかなぁ……みんな元気でやってるって」

 

 ざあっ、と風が吹く。雨の名残を吹き飛ばして、やがて静かになる。

 

「いつか、自分で伝えに行くといい」

「え、でも……」

 

 戸惑うハーマンを、ハンターはまっすぐに見つめていた。

 

「そのうち、できるようになる。外から私が来たように」

 

 ハーマンの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。笑っているのに、どこかもの悲しい笑顔だった。

 

「……そうだね。いつか、それができたら、いいな」

 

 

 

 

 

 

 次の日。

 

 まだ露が残る庭で、ニルスが鳥かごを開ける。

 小鳥は一度ニルスの顔を見上げて、跳ねて入り口に足を掛けた。右の翼をつくろって、そしてさっと飛び立った。

 

「あ……」

 

 ニルスの声に、小鳥が振り返ることはない。翼をひらめかせ、すぐに門の向こうへと消えた。

 

 ニルスは鳥かごに残った灰色の羽を、そっとつまみ上げた。指先で撫でて、慌てて空を見上げる。

 

「……さようなら、鳥さん」

 

 名残を惜しむように、ニルスはしばらく、その場にじっと佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 晴れた夏空の下に、釘を打つ小気味のいい音が響いていた。

 

 慣れない手つきで、ニルスがかなづちを振るう。とんとんと釘をまっすぐ打ち込んで、あと少しになったら板の切れ端を当て、その上から更に叩く。釘の頭がしっかり埋まったのを確かめて、ニルスはふう、とひたいの汗を拭った。

 

「……できた。ハーマン、見てもらっていい?」

 

 隣で様子を見ていたハーマンが、ニルスの差し出した巣箱を受け取る。ひっくり返して眺めたり、軽く叩いて強度を確かめてみたりして、満足そうに頷いた。

 

「はじめてなのに、きれいにできてる。これなら小鳥も、ゆっくり暮らせると思うよ」

「うん。僕なりにがんばってみたから、そう言ってもらえるのは嬉しいな」

 

 口ぶりはいつもどおり澄ましたものだけれど、目元の嬉しさは隠せていない。図面を引いたりとか、出入口の丸い穴を空けたりとかの難しい部分はハーマンがやったけど、それ以外はニルスが頑張った。板をノコギリで切って、断面をヤスリでみがいて、それから釘穴や水抜き用の穴を錐で開けて、釘を打つ。どれもこれもニルスにははじめての経験で、ハーマンの力も借りながら、難しそうに、でも楽しそうに作業している。

 

 私は玄関ポーチのすみでひざを抱えて、そんな二人の様子をぼんやりと見ていた。

 

 近くではダニーが地面に伏せて、ぱたり、ぱたり、と尻尾を振っていた。ティアもさっきまで私をじとっと監視していたけれど、通りがかったロージャから摘んだばかりのキャットニップを分けてもらって、今は幸せそうにごろごろしている。

 じゅうたんみたいにべろんと伸びたティアから目をそらして、私は二人に視線を戻した。

 

 いつもみたいに、手伝う、って伝えられなかった。

 

 手伝わなくちゃ、と思うのに、足は重い。今の私がみんなのためにできることは、お手伝いだけなのに。

 でも、気づけばあの子のことを考えていて、そのたびに足は止まる。そうして結局、ぼんやりと時間を過ごしてしまっていた。

 

 ……あの子は今、元気、なのかな。

 

「アレクシス」

 

 名前を呼ばれて、振り返る。歩いてきたユーリヤは、すとんと隣に腰を下ろした。ティアは名残惜しそうに口をキャットニップから離し、ユーリヤのひざに飛び乗った。甘えてくるティアを優しく撫でて、静かな目をニルスたちに向けた。

 

「二人とも、元気そうね」

 

 でも、と、私はティアがじゃれていたキャットニップを持って、足元の石畳に茎を当てて字を書く。元気だけれど、ふとした瞬間に、やっぱりさみしそう、って。

 

 ニルスだけじゃない。ハーマンも、時折空を見上げては、首を横に振って作業に戻ることを繰り返している。最初に小鳥と出会ったのは、二人だったから。きっと思い出もたくさん持っているのだろう。

 

「ええ。けれど、だから大丈夫よ。元気を出そうって思ってちゃんと出せるのは、本当にすごいことなの。最初は()()元気でも、そんな()()元気に引っ張られて、少しずつ本当に元気が湧いてくるのよ。そんなすごいことを続けると心が疲れてしまうから、無理をしないよう、ちゃんと見ててあげないとね」

 

 “わかった”と書いて、私はユーリヤの方に体を傾けた。なかばめり込むような状態になって、視界が半分灰色になる。体があれば、寄りかかることができるのだろうけれど。

 ユーリヤの体と重なったところに、ぞわぞわとした感覚が走る。手に意識を込めて、肩掛けの裾をつまむ。引っ張られて布地がぴんと伸びて、感触はなくてもちゃんと触れてるんだって分かって、ほっとする。

 

「……ねえ、アレクシス」

 

 消え入りそうな声で、ユーリヤはぽつりと言う。

 

「あなたは……」

 

 玄関の奥から聞こえた扉の音に、ユーリヤは顔を上げた。硬い足音が近づいて、ハンターが姿を見せた。こちらの視線に気づいて、足を止める。

 

「どうかしたのか」

「なんでもないの。お別れがさみしいねって、話してただけ」

 

 ハンターは目を見張って、それから伏せる。

 

「……悪い」

「ううん、ハンターさんが謝ることなんてないわ。いつか、必ず来ることだもの」

 

 ユーリヤの返事を聞いても、ハンターの顔は晴れない。

 

 ……あれ?

 ハンターの靴が泥でべったりと汚れている。靴だけじゃなくて、ズボンの裾も泥だらけだ。まだ黒く湿っていて、汚れて間もないのが窺えた。どこで汚してきたんだろう?

 

「あ、ハンターさん」

 

 こっちに気づいたニルスが手を振っている。ハンターはポーチの階段を飛ばして降りて、二人に合流する。

 

「遅れた。巣箱は作り終わったのか」

「うん。次は餌台を作るんだ。ハーマンが板に線を引いてくれてるから、それに合わせて切り出すところから」

「そうか。手伝う」

 

 ハーマンは持っていた巣箱を作業台のすみに置いて、帽子の下からハンターを見上げた。

 

「……その、大丈夫だった?」

「詳しい事は後だ。その時に返す」

 

 端的に返して、手渡されたノコギリに眉根を寄せた。

 

「これは……どう使うんだ」

「ハンターさん、ノコギリを使うのはじめてなんだね。ここを握って、押すときに力を入れるんだ」

 

 ニルスの説明を受けて、ハンターはよし、と板に向き直った。横で見ていたハーマンが、あ、と慌てて付け足す。

 

「無理矢理力を掛けると刃が折れてしまうから、それだけは気をつけて。ハンターさんの腕力なら、軽く当てて押すくらいで切れると思う」

「……善処する」

 

 ちょっとだけ肩を落としたハンターだけれど、元々器用な質だ。こつを掴むのも早くて、すぐにパンを切るみたいに、さくさくと板を切り分けていく。

 

 私はそっと、隣に座るユーリヤの横顔を見上げた。ティアを撫でながら、見るともなく、三人の作業風景を眺めていた。もう、途切れた言葉の続きを言うつもりはないみたいだった。

 肩掛けの裾をつまんだ手に、ユーリヤの細い手が重ねられる。ぎゅっと握りしめられても、ユーリヤの手は私をすり抜けてしまう。震えている手を握ってあげられたらいいのに。あの夜、ハンターが私にしてくれたように。

 

 

 ふと、思う。

 私は、おいていくみんなに、なにを残せるのだろう。

 

 

「みんな、お茶が入ったわ。ひと息入れましょう?」

 

 窓から掛けられたマリーの声に、めいめいが返事をして、道具を置く。

 

 隣のユーリヤが、静かに息をついた。ひざからティアを降ろして、いつもの笑顔で私に微笑みかける。

 

「……私たちも行きましょう」

 

 そうして、学校に戻ろうとした時だった。

 

 ちいさな羽ばたきの音。それから、ちゅり、と聞き慣れた声が聞こえた。

 

 みんなの顔が一斉にそちらを向く。

 

 作業台の上で、ひょこひょこと跳ねる小さな影があった。

 曇り空のような灰色の体と、頭から胸元にかけての夕暮れ色。みんなが見ている前で、集めておいたおがくずに頭を突っ込んで、ぷるぷると体を震わせて吹き飛ばしてしまった。

 そうしてくちばしの先におがくずを乗せたまま、こちらを見て、首を傾げて、いつもの声でちゅり、と鳴く。

 

 ハンターも、ハーマンも、ぽかんとしていた。私だってきっと同じような顔をしていたに違いない。

 

 私たちの思い悩みも心配も、それから学校と外とをへだてる門のことも。

 

 なんてことのないように軽々と飛び越えて、小鳥はそこにいた。

 

 ちゅ、とひとつ鳴いて、小鳥は飛び立つ。巣箱の上に留まり、ニルスに向けてちゅいちゅいと鳴いた。

 ニルスは少し俯き、それから笑って、湿った声でそっとささやく。

 

「……おかえりなさい。でも帰ってくるの、少し早すぎるよ」

 

 答えるように、小鳥はちゅりり、とさえずった。


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