騎馬隊が、一直線に向かってくる。60騎ほど。300騎がそれを取り囲む。もはや敵総大将との相打ちを狙うしかないと思い定めた突撃は鋭かったが、カーラーンはそれをいなし、最後に先頭の男を落馬させた。
「まだまだだな、ザンデよ」
訓練用の棒を突き付けられ、ザンデがうなだれる。カーラーンが途中で隊を二つに分けた。それに対抗するため、ザンデも二つに分けた。父の部隊を追ったが僅かに振り切られ、分けた部隊が殲滅された。
「先まで読んで部隊を動かせ。それができぬうちは、万騎長などと口にするな」
ヘルマンドス城の、郊外である。ヒルメス軍は集まった諸侯の軍も合わせ、10万を超えた。バダフシャーンの防衛に3万を割くとしても、7万の外征軍を編成できる。
「アルスラーンはパルス王家の血を引いていない。タハミーネ王妃の子は女児で、アルスラーンと取り換えられたのだ。カイ・ホスローの正統は、このヒルメスにある」
この布告はなかなか効いた。諸侯もアンドラゴラスとアルスラーンの不仲は知っていたから、動揺は大きいものであった。とはいえ、皆がこぞってヒルメスを認める様になったわけではない。
「ヒルメスというのは銀仮面卿と名乗り、ルシタニア軍をパルスに引き込んだ張本人だ。ルシタニアの支援を受けてバダフシャーンを制圧したのが、何よりの証拠である」
アルスラーン側も、負けじと言い返している。ナルサスにとっては謀略とすらいえないレベルの罵り合いであろうが、こういうものは一方的に言われ続ければ、それで負けたとみなされる。
「数はそれなりとはいえ、練度と士気はルシタニアにも、アルスラーン軍にも劣るだろう」
ヒルメス、カーラーン、サームの間で、その認識は共有していた。この地がパルスのものとなってから、20年も経っていない。パルスの民という意識は、まだ希薄だ。
集まった諸侯の軍も、近隣の諸侯を力で従わせたか、アンドラゴラスに冷遇されていた者ばかりだ。アンドラゴラスは軍人としては有能だったから、冷遇はすなわち戦下手と考えても、大体あっている。
先の噂で、ペシャワールのパルス軍がこぞってヒルメスを奉戴するということもなかった。アルスラーンは、想像以上に軍を掌握しているようだ。ヒルメスとしては、憤懣やる方ない。
とにかく、今はまだ人材を掘り出し、国家としての態勢を整える段階であった。
「後方は、パルハームに任せれば問題ない」
ヒルメスは軍務卿の地位をパルハームに与えた。軍の編制、維持、管理の最高責任者である。要するに軍を支える裏方の仕事を任せたわけだ。パルハームの辣腕ぶりは水を得た魚の様であり、ヒルメスも驚いた。
アンドラゴラスは、やはり実戦での働きを評価の第一に置いていたのだろう。軍需物資の管理など、適当な文官に任せておけばいいと思っていたに違いない。実を言うと、ヒルメスも似たようなものだった。
(内情を把握し、敵の情勢を偵察し、その上で戦略を決定する―)
当然、ヒルメスは部隊を率いて戦った経験はある。だがそれは与えられた軍を指揮したというだけで、局地戦で戦術を試されるものであった。後方の苦労など、考える必要がなかったのだ。
軍を率いる最高司令官は、当然ながら王となったヒルメスである。それを
その下に、唯一の万騎長であるサームが立つ。名目上はカーラーンの下だが、ヒルメスは同格の存在として扱っている。カーラーンはむしろそれを歓迎し、サーム自身は一歩引くように振舞っていた。
カーラーン、サーム、パルハームの3人が、変わらずヒルメス軍の幹部を形成している。ダリューン、ナルサス、キシュワードを擁するアルスラーン軍と比較しても、そう遜色するものではないだろう。
問題は、その3人に続く存在である。
「カーラーン、ザンデは新しく入った2千騎の指揮に回す。報告はその部隊が戦えるようになってからでよい」
有無を言わさず、ヒルメスが言葉を叩きつける。この2千騎はつい先日ラヴァンという商人から馬を購入したばかりで、ようやく部隊としての調練に入ったところだ。単純に考えれば、降格に見える。
しかも、報告をしなくていいというのは、側近からも外すということである。ザンデは沈んだ声で拝命した。その姿を見てもカーラーンは、何も口に出さなかった。
(ザンデが部隊をどう育てるか、だな)
ザンデは一から部隊を育てた経験がない。ヒルメスの命は失望ではなく、期待を込めた試練なのだ。ザンデがこの2千騎を一流の部隊として育て上げれば、彼も大きく育つ。その時こそ、万騎長の座も見えてくるだろう。
ヘルマンドス城はエクバターナとギランの港町に次いで富が集まる場所として知られていた。軍事要塞であるペシャワールとは、そもそもの成り立ちから違う。
その潤沢な軍資金を使い、騎馬隊を2万5千まで拡張した。馬の値が高騰していたが、構わずに買い集めた。どうせこの混乱が収まるまでは、値が下がることはない。
もっとも、精鋭と言えるのはかつてカーラーンとサームの軍に所属していた数千騎だけだ。ようやく、ヘルマンドス城攻略前からの部隊が、それに追いついてきたという所である。
「ナセリ、シャハール、ルスタムも、万騎長と言うには力不足か」
ナセリがサーム麾下の千騎長だったことは前に述べた。35歳になり、経験も豊富な指揮官である。だが、全体的に物足りない。千騎長として一隊を任せれば優秀だが、一軍を任せるとなるとどうだろうか。
シャハールは騎兵の小隊長だったのを、抜擢してみた。24歳の若者だが、馬術に見るべきものがあったからだ。しかし、いきなり千騎を与えられては、戸惑うのも無理はない。一応、今後の成長に期待はできる。
ルスタムはバダフシャーン人で、ヘルマンドス城攻略の時に降伏した一人だ。30歳。父親がバダフシャーン滅亡時に戦死し、内心アンドラゴラスを恨んでいた。それを買ってみたが、逸材とは言い難い。
やはり、最も期待できる将校となると、ザンデという答えになってしまう。
「王よ、大変でございます!」
郊外の原野で閲兵していたヒルメスの下に、小柄な男が駆け付けてきた。アンドラゴラス王の下で宰相を務めていた、フスラブである。エクバターナ陥落の際にヒルメスに降伏し、以後付き従っている。
フスラブについて、ヒルメスは特に期待していたわけではない。曲がりになりも宰相を務めていたということで、とりあえず宰相の座に置いてみた。駄目ならすぐ辞めさせるだけのことだ。
ところが、意外に働く。このまま民政を任せてもいいと思えてきた。元々ヒルメスは政治に関しては保守的で、フスラブのような旧例に則って物事を処理するだけの事務屋が合っていたのかもしれない。
それはいいのだが、フスラブが自ら来たというのは大事である。彼の場合政治的に重要な判断を仰ぐというより、「これは王様に伝えた方がいいぞ」と嗅ぎ分ける能力が、異常に高いのである。
「マルヤムの内親王と名乗る一行が、謁見を求めてまいりました。どうやら嘘はないようで、ひとまず宮殿の一室に御通ししました」
マルヤムの内親王、と聞いて、ヒルメスの表情が固まった。名はイリーナ、生まれつき目が見えないという。全てが過去の記憶と、一致する。
「あ……」
口が動かない。会おうとも、会わないとも言えなくなった。王位は確かに得た。が、自称にすぎない。エクバターナを落とした後なら、胸を張って会えたのだが。
「あの、それで、イリーナ内親王でございますが、高熱を発し、医師に診せているところでございます」
何かが、切れた。容体は、と勢い込んで聞く。フスラブはそこまで知らなかった。診察中に、まず知らせるべきだと抜け出してきたらしい。
馬腹を蹴った。馬が疾走する。カーラーンが慌てて近習に「追え」と命ずるが、待つことなど頭の片隅にもなかった。
ヘルマンドス城の城門を越え、街路を駆け抜ける。人が慌てて避ける。放置された荷駄は飛び越えた。怪我人が出なかったのは幸いだっただろう。宮殿まで、矢のように駆け抜けた。
エクバターナには遠く及ばないものの、ヘルマンドス城は一国の都であっただけあり、王の住まいとして恥ずかしくないと思える宮殿が整っている。仮の首都ということなら、ヒルメスも満足できた。
「イリーナ殿の容体は、どうだ?」
殺気を込めた視線で、医師に問う。何としてでも治せ、という絶対者の恫喝に、医師は自分に責任がないことをまくしたてる。
内臓がかなり弱っている。病というより疲労で、特効薬はないが、ゆっくり休養して滋養のある食べ物を食べていれば、やがて回復するはずである。とにかく、今は安静にさせ、眠らせることが一番の薬になる。
「………」
命に別状はない、と聞いて、ヒルメスの表情から気が抜ける。イリーナ王女の容体には、ヒルメスにも責任の一端がある。マルヤム滅亡を傍目にルシタニア軍に加わり、パルス侵攻を助けたのは自分なのだ。
もはやマルヤムは滅亡寸前であり、ヒルメス一人の力ではどうしようもなかった状況であったのは事実だが、ルシタニア軍ではなくアクレイアの城に駆け込んでいれば、少なくともイリーナ王女への義は貫き通せた。
「……イリーナ殿、および連れの皆の安全は、このヒルメスが保証しよう」
今からでも、果たして見せる。その第一歩として、王女の代理として一行を宰領する女官長のジョヴァンナにそう告げる。いつかはマルヤムまで征し、イリーナ殿を故国に返してみせる。
ちなみにメルレインは、ヘルマンドス城の城門前で去った。ここまでで充分、王様なんて自称する奴に会っても面倒が増えるだけだ、と彼は言った。
とりあえず、彼はゾット族の集落に帰ることにした。ヘルマンドス城からなら遠くなく、妹探しの旅も一族の様子を見た後仕切り直しとしようとしたのだ。そこで彼は妹の行方と、父の死の真相を知ることになる。
「失礼します。イリーナ様が、ヒルメス王と話をしたいと」
眠っていたイリーナ王女が、目を覚ましたという。彼女はヘルマンドス城の客室に入ったところで倒れたのである。安心したことで、押し隠していたものが一気に出たのだろう。
二人きりで、と言われ、ヒルメスは部屋に入った。
「………」
遠い昔の記憶だ。パルスに居場所を無くしたヒルメスは、まずマルヤムに亡命した。ひとまず滞在を許された離宮では、盲目の王女が花を摘んでいた。泡沫の夢のように、消え去った安息だった。
「……イリーナ殿」
「……ヒルメス様、ですね」
話をしたかったはずなのに、しばらく言葉が出なかった。何を言えばいいのだろう。体調の事か、故国の事か、それともあの時の離宮の事か。
王になっても、ヒルメスの傍に女の影はなかった。縁談がなかったわけではないが、パルスを再統一するまではと断ってきたのである。だがその裏で、頭の中にちらつく姿があったことは否定できない。
「………王位を回復なさったそうですね。おめでとうございます」
「………いまだ正式な王とは程遠い。自称の王に過ぎない立場だ」
アルスラーンを討ち、ルシタニアを叩き返し、アンドラゴラスを謀反人としてエクバターナの城頭で処刑する。そこまで行って、初めて自分が認めることの出来る『王』なのである。
「パルスの再統一は夢ではなくなった。その次は、マルヤムを解放する。……イリーナ殿は安心して、この城で養生するがいい」
俺は何を言っているのだと思いながら、そういう言葉が次々と出てくる。違う。言いたいことは、他にあるだろう。
「…………生きていてくれて、………また会えて、………良かった」
搾り出すような声で、唐突に言った。イリーナ王女が驚いたように顔を上げる。その見えない視線に居た堪れなくなり、ヒルメスは逃げ出すように部屋を後にした。
数日間、ヒルメスは郊外で過ごした。もちろん軍の調練であり、兵たちと野営したのだ。
「玉座に踏ん反り返っているだけでは兵は付いて来ないし、体も鈍るからな」
アクターナ軍を見ていて、学んだことである。共に笑い、共に泣き、共に耐え、共に喜ぶ。兵士が心を預ける指揮官は、ただ富をばら撒いたりや王の権威を振りかざすだけでなれるものではない。
とはいえ、内心は別だ。なんとなくイリーナ王女と顔を合わせるのが気恥ずかしかったのである。そのくせ、何もしていないとつい彼女のことを考えてしまう。
「……イリーナ殿は、また花でも愛でているのだろうか」
ひとまず熱は下がったし、ベッドから起き出して庭園にいることもあるという。いまだ食欲がないらしいが、これもその内回復するだろう。
眼下ではザンデの2千騎が、目まぐるしく動く。しかしそれと相対した歩兵隊はどっしりと構え、槍を突き出した。突っ込んだザンデが一角を蹴散らすが、その穴はすぐ埋められる。
「………」
ヒルメスが、馬腹を蹴った。3百騎がそれに続く。パルス王の親衛隊である「
歩兵は5千。調練不足のザンデの2千騎では崩しきれないのは明らかである。ヒルメスが参戦するということは、どちらの部隊にも言っていない。
歩兵は素早く、ヒルメスに対しても迎撃の槍衾を並べた。しかし、わずかに緩い。ヒルメスはそこに向かい、3百騎で強引に前線を突破した。
「反転」
すぐさま、前線の後ろから攻めかかる。正面から受けることしか考えていなかった歩兵隊は、内側からの攻撃までは支えきれなかった。歩兵が崩れたところで、演習を終える。
「クラテス将軍、見事であった」
演習の終了後、ヒルメスが褒めたのは歩兵の指揮官であった。クラテスはつい先日ヒルメス軍に加わったばかりの男だ。というのも、イリーナ王女を護衛してきたマルヤムの騎士なのである。
「奇襲を受けた時の判断力を視たかったのだ。即応は見事であったが、我が3百騎を侮ったのは失敗だった」
クラテスはヒルメスの部隊をザンデ隊の一部と見た。ザンデ隊の練度を基準に、3百程度の相手なら充分と思える防備を布いた。パルス騎兵の力を、本当には理解していなかったということだ。
「卿は歩兵を指揮する将軍とする。ホルミズド、イドリースらと、連携についてはよく話し合っておいてもらいたい」
ヒルメスも歩兵隊の充実には気を配っていた。しかし、今まで軽視されてきた歩兵を指揮できる将校の数は少ない。カーラーンやサームでさえ、どこかで補助戦力という考えが抜け切れていない。
だから、パルス西部で反乱が起き、ルシタニアが後方を気にして遠征に出てこない状況は、時間が必要なヒルメス軍にとってはありがたかった。
ほどなくして、アルスラーン軍がエクバターナへ向けて進軍を開始したと報告が入る。ヒルメスは動くべきではないと判断した。先を越されたという思いはあるが、今のルシタニア軍なら容易く負けはしない。
「…アルスラーンとルシタニアがぶつかる。どちらが勝っても、相当な被害は出るだろう。その時こそ、我が軍が立つ時だ」
ヒルメス陣営の説明回。
現状では
軍事力 アルスラーン>ヒルメス
経済力 ヒルメス>アルスラーン
となります。
またヒルメス自身もザーブル城ではなく領民の多いバダフシャーン一円を手に入れたことにより、王として成長しました。