「………」
深緑にイアルダボートの紋章を描いた旗を、見ることはできなかった。アクターナ軍が大陸公路を東に向かうと聞いたが、途中で道を外れ南東に向かい、やがて去ったらしい。
名前だけは聖マヌエル城と立派だが、内実は廃墟と化していた砦に応急処置を施しただけである。人手だけはあるが、資金も資材もないのだから当然だ。アクターナ軍が攻めてくれば、1日で陥落した。
「………」
それがエステルにとっての希望だった。アクターナ軍なら、捕虜を見境なしに殺すことはないだろう。シルセスの名前を出せば、可能性はさらに上がる。
逃げ出すことは、さほど難しいことではない。自分一人ならば、だ。だがバルカシオン伯爵の夫人をはじめとする女子供の一団を助けなくてはならない。そう考えると、機を待つしかなかった。
「伯爵様…」
バルカシオン伯は、先日亡くなった。高齢に加えて、逃避行の最中に負傷したのだ。加えて薬も医療品もなく、食糧すら不足する状況である。エステルには、看取る事しかできなかった。
「すまない、エステル。お前まで巻き込んでしまって……」
伯爵は、最後までエステルに謝っていた。伯がボダンに味方したのは、彼の妻が特に敬虔なイアルダボート教の信者だったからだ。大司教の言葉は、彼女にとって絶対だった。
夫の死も今の苦難も「神が与えたもうた試練」という言葉を信じ、ただひたすらに耐えている。その姿は、美しいと言えるかもしれない。
だがエステルにとっては、そんなことはどうでもいい。考えているのは、何とかして皆生き延びることだけだ。シルセスの元にさえたどり着ければ、きっと力になってくれる。
しかし、見張りは厳しい。その上、自分一人が抜け出したら、ボダンはすぐさまバルカシオン伯の縁者を殺すだろう。そんな話は、もう聞き飽きるほど聞いた。
「何が背教者だ……」
絶望的な状況と疲労と空腹の連携の前に、エステルは小さく呟く。逃げ出した者をボダンはそう罵るが、こんな状況になっては逃げだしたくなるのも当然だ。そして、こうなったのは貴様の無能無策のせいではないか。
「……エステル殿か。今日の配給だ」
幸いなことなのか、食糧は生きていく程度には何とかなっている。外に出た部隊が狩猟や略奪をしてくるのだろう。外に出れるのはボダンが信頼する聖堂騎士団の者だけで、エステルは参加したことがなかった。
そんな中、一人の知己を得た。ドン・リカルドという。勇猛で高潔な騎士で、エステルが他の騎士と言い争いになっていた時、力になってくれた。今では、女であることを明かすほど信頼する相手だ。
「…ついにパルス軍が攻めてくる、との噂だ」
ドン・リカルドが囁く。彼にももちろん魂胆はある。エステルがアクターナ軍の幹部と親しいのなら、その伝手に自分も入りたいのだ。ただ降伏するだけでは、騎士の身分を失ってしまう。
「……その混乱は、むしろ好機だ」
肉の塊にかじりつきながら、エステルが言う。最近は穀物などほぼ出ない。略奪できる物は奪いつくしてしまったのだろう。肉だけは、よく出た。何の肉かは、考えたことがない。
パルス軍と戦闘になれば、皆を引き連れて逃げだす隙もできるかもしれない。問題は食料だ。エクバターナまでたどり着けなければ、脱出できても意味がない。
(そういえば…)
あの貴族の少年は、どうしたのだろうか。戦ができるとは思えなかったから、前線には出てこないだろう。それでいいと思った。あんな子供が、セイリオス殿下に勝てるはずがない。
そう思ってから、よくよく考えて違和感を覚える。自分は何故、異教徒の少年を心配しているのだろう。
「まず、第一の目標として、ルシタニア内の政争に敗れ、この地にあった廃城に拠った大司教ボダンの軍勢を排除します」
セイリオスに利用されているだけ、というのは判っている。ナルサスは聖マヌエル城の内情も把握している。この状況でボダンに従っている者の多くは、狂信者と考えておいたほうがいい。
「……殲滅戦になるか」
キシュワードが暗い表情で確認する。最も気が重くなる戦だ。セイリオスはそれをやりたくないから、ここまで無視を続けてパルスに押し付けたのだ。
「やらないわけにはいきません」
ナルサスは意思の籠った眼で断言する。生産力のないボダン軍を支えているのは略奪である。それを放置することは、パルスの統治者としてできない。
また、戦略上の問題もある。ボダンとギスカールが急転直下で和解する可能性は極めて低いが、飢えた彼らが独自にパルス軍の輜重隊を狙う可能性は充分あった。
「…助けられるだけは、助けたい。降伏する者は殺してはならぬ。むしろ全員ルシタニアに送り返してやるのが、最上の策ではないか?」
ほう、とナルサスが小さく感嘆の息を吐いた。敵に対して甘すぎるというのは事実としても、その甘さを政略として活かそうというのである。
アルスラーンの成長は、ナルサスにしても予想外だった。バシュル山で初めて会った時は未熟で軟弱な凡々たる少年としか見えなかったものが、この半年ほどで若き王者としての風格を備えつつあった。
「いかなる城、いかなる人数であろうと、神の御加護ある限り、決して敗れぬ!」
陶酔するように、ボダンが叫ぶ。エステルは表情を変えないよう努力しつつ、瞑目しながら聞き流していた。ちらりと横目で見た限りでは、ドン・リカルドも同じようにしていた。
この男の頭の中は、一体どうなっているのだろう。いつしかエステルはそう考えるようになった。この半年ばかりボダンに従ってきたが、聖職者に対する敬意は薄れる一方である。
ペシャワールを進発したパルス軍、およそ10万。勝てるはずがない戦だ。ボダン軍2万が万全の状態で、聖マヌエル城が堅牢無比な要害であれば、あるいは耐えられるかもしれないが…。
「………」
エステルが解ることなのだから、ドン・リカルドも解っているに違いない。もうボダンは放っておいて、逃げ出せる準備だけはしておく。
残念ながら、食糧の貯えはない。贖うしかないのだが、私財は聖職者によって没収された。今の苦難を皆で助け合う、という名目であったが、拒否すれば背教者として断罪されて結局没収される。強奪と変わらない。
私物の箱の奥から、隠しておいた革袋を取り出した。中身は銀貨が数枚と、1枚だけパルスの金貨がある。金貨はシルセスがくれたものだ。大事に取っておくつもりだったが、今はこれを命綱とするしかない。
パルス軍の旗を見たのは、5月10日の事だった。
パルス軍は遠巻きに聖マヌエル城を包囲した。さすがにボダンも野戦で勝てるとは思えなかったらしく、城門を閉ざし、ひたすら籠城する気に見えた。
「…パルス軍に降伏するのも、手かもしれんな」
ドン・リカルドが呟く。パルス軍がこのまま遠巻きに城を囲み、兵糧攻めにしてきたら、城内は半月で餓死者の山ができるだろう。困るのは、逃げ出す隙が無くなることだ。そうなったら、降伏するしかない。
だがパルス軍から、一騎だけ駆けてきた。何だと思って見ていたら、ほどの良い距離で弓を構えた。慌ててエステルも弓を引く。だが、この距離では射程外だ。
ぶん、と弦が鳴り、放たれた矢は城壁を越えて城内に落ちた。それを見届けてパルスの騎兵は去って行った。地面に刺さった矢には、紙が結びつけられている。矢文であった。
『降伏せよ。さすればパルスの地から無事退去させる。それは契約の神ミスラ神と、貴公らの神イアルダボートに誓おう』
文意を要約すると大体そのようなものであった。それを読み、ボダンは大激怒した。アルスラーンたち、パルス人には全く理解できない理由によって。
「異教徒がイアルダボート神の名を語り、あまつさえ邪神と同列に扱うとは、何たる神への冒涜であるか!!!八つ裂きにして、地獄に叩き込むべし!!!」
その場にいたら、パルス人は呆然としたであろう。ナルサスですらも、ボダンの信仰心を見誤った。というより、根っから理知的な彼にとって、理性の箍がない相手は理解の範疇を斜め下に越えていたのだ。
「これは…、なんとも…」
さすがのセイリオスも、ここまでは想定していなかっただろう。現実逃避であると理解しながら、ナルサスはそう思った。
ボダン軍、全軍出撃。隊伍も何もない、ただの人の集まりに過ぎない。パルス軍なら、それこそ鎧袖一触で蹴散らせる。それはもはや戦闘ではなく、虐殺だ。
「地獄に叩き込むべし!!!」
ボダン軍の先鋒は聖堂騎士団の残党である。およそ6千。それが、策もなしに突っ込んできた。まさか、と思っていたパルス軍は、全くの無策に逆に虚を突かれた形になった。
聖堂騎士団はボダンの親衛隊となっていた。装備も(ボダン軍の中では)充実している。対するパルス軍の先鋒はトゥース将軍の4千騎と、シャガード将軍の歩兵1万5千。
「落ち着け!敵の主力は歩兵だ。一気に蹴散らすぞ!」
普段無口なトゥースが声を上げる。すぐさま秩序を取り戻したパルス軍は4千騎を2つに分け、正面を避けて両斜めから突っ込んだ。ボダン軍に馬がほとんどいないのは、死ぬか、食ってしまったからだ。
ボダン軍の足が止まる。さらにイスファーンとザラーヴァントの騎兵が横から揉み上げる。聖堂騎士団の後方にいた部隊が、あっという間に崩れた。正面からは、シャガード将軍の歩兵隊が押し込む。
「エステル殿、乗れ!」
ドン・リカルドが騎兵の一人を引きずり落とし、馬を奪った。すぐさま隣の一騎を切り捨てる。エステルは、空になった鞍に渾身の力で這い上がった。
「いくら何でも、馬鹿すぎるぞ」
ドン・リカルドが吐き捨てるように言う。戦っているのは聖堂騎士団と一部の狂信者だけだ。そもそも10万に2万で戦を挑むなど、狂気の沙汰である。これでは、自分たちが逃げることすら難しい。
ドン・リカルドの希望が潰えたのは、前方に黒衣黒馬の騎士が立ち塞がった時だった。ダリューンの騎馬隊が、後方に回り込んでいたのである。
「……これは駄目だ。エステル殿、大人しく降伏しよう」
ダリューンを見て、ドン・リカルドは諦めた。自分が逆立ちしようと勝てない相手。一目で、それがはっきり分かった。
「なっ!」
それは、エステルには理解できなかったようだ。彼の提案に驚き、睨みつけた後、ダリューンに向かって駆けた。
「ダリューン、殺すな!!!」
少年の声が響く。ダリューンも、相手が年端のいかない子供であることに気付いている。彼は勇者であって、殺戮を好むものではない。軽く、落馬させるだけに止めた。
落馬の衝撃で、兜が落ちた。シルセスに会ってから伸ばし始めた髪が零れ落ちた。それを見て、誰よりも驚いたのは殺すなと命じたアルスラーンであった。
「女!?」
ナルサスの絵を見た時に次ぐ衝撃だった、と後にアルスラーンは語る。ダリューンに向かってきたのが、何度か会ったあの少年兵であるとはすぐに気付いた。だが、少女であったとは、全く気付いてなかったのだ。
一時の動揺から覚めたダリューンは、槍でエステルの鎧の襟を貫き、持ち上げた。エステルは放せと喚き宙でもがいたが、どうなるものでもない。
ドン・リカルドは剣を捨て、両手を上げた。
「逃げたわけではないぞ。私たちは、恩義ある伯爵様の奥方と女子供の一団を助けるため、こんな馬鹿げた戦にさっさと見切りをつけただけだ」
鞍に縛り付けられながら、エステルが言う。パルス兵の誰かが真っ先に逃げ出したくせに威勢だけはいいと言ったことに、腹を立てたのである。
「それなら、君はその人たちを始め、皆が降伏するよう説得してほしい。降伏した者は皆、ルシタニアに送り届けよう」
すぐ隣には黄金の兜をかぶった少年がいた。エステルの視線は、ずっとその少年に注がれている。
「…………お前が、アルスラーンだったのか」
エステルも気付いた。アルスラーンは、正面からその視線を受け止めた。その中にあるのは敵に対する憎悪ではなく、どうしたらいいかわからないという困惑だ。
「その人たちが、大人しく降伏してくれればいいのだが…」
アルスラーンが沈んだ声で言う。シャフリスターンの野を血に染めた戦いは、激しくはあったが短く終わった。だが勝ったパルス人も、暗く沈み込むような凄惨な戦いだった。
聖堂騎士団6千は、この戦いで全滅した。どんな絶望的な状況になろうと、戦うことを止めようとしない。斬ろうが突こうが、息のある限り立ち上がってくる。気味の悪さに、パルス兵の方が怖気づくほどであった。
ボダン軍の死者は1万を超えた。パルス軍は1千にも満たない。だが兵たちの心には、大きな傷ができたであろう。
そしてアルスラーンを王太子ではなく一人の少年として見た場合、この戦いの意義は非常に大きなものとなる。
今回の話を読んで「ん?」と思った方へ。
エステルとドン・リカルドをパルスに関わらせるにはどうするか
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セイリオスの活躍のせいで聖マヌエル城しか思いつかん
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なら現実的に考えてこうなるだろうな…、と。
なお、第一次十字軍はこれをやったという記録があります。