交渉は決裂した。どちらも妥協の余地はないのだから、当然ではある。アルスラーンがパルスの民を思うように、セイリオスはルシタニアの民を思っている。それだけは、認めざるを得ない。
逆に言えば、セイリオスもアルスラーンを認めたのだろう。民のために自分を棄てることの出来る為政者だと。それゆえ、利で釣るような和平は無駄である、と。
セイリオスとしては、もしアルスラーンが和議に応じていたら、そちらの方が失望したかもしれない。どういう男なのか測ってみた。和議など口実程度のものだったのだろう。
パルスもルシタニアも陣を敷き、打って出ようとはしない。にらみ合いは7日にわたって続いた。何故攻撃しないのかといぶかった諸将に、ナルサスは断言する。
「騎兵の突撃は柵に阻まれ、足が止まったところに矢の雨を受け多大な損害を出すだろう。諸将はアトロパテネの二の舞になりたいか」
そう言われると、諸将も反対できない。アトロパテネの戦場にいた者は少ないが、どんな戦だったのかは皆知っている。
だが、ダリューンが異議を唱えた。柵など歩兵を進ませ、綱を掛けて引き倒させればいい。そうすれば、騎馬隊を遮るものはなくなる。重装備の歩兵なら、矢も効果が薄い。
「……それが狙いとしか思えん。明らかに騎馬隊の突撃を誘っている。あの柵の裏に、もう一段罠があるに違いない」
そう言われると、ダリューンも黙り込んだ。だが、その罠が何か。それを探らせているが、荷は全て後方の4万が運び入れる。間諜が寄り付く隙が無い。
こうなると、どちらが先に動くか、つまり、主将が諸将の声を抑えきれなくなるのはどちらが先か、の勝負になっているとナルサスは思っている。そうなると、パルス軍の方が不利だ。
「正面突破が無理なら、後方の4万を攻めましょう。騎馬隊なら、敵が気付かぬうちに回り込めます」
進言してきたのはザラーヴァントとイスファーンである。危険だ、とナルサスは判断した。深入りしすぎ、連絡を絶たれれば全滅しかねない。だが、そろそろ諸将を抑えるのも危険になってきた。
ルシタニア軍18万。エクバターナ奪還の、最後の壁である。それを目の前にして滞陣しているだけでは、不満が貯まるのも当然だろう。まして、ナルサスは彼らの主君ではない。
「罠だ危険だというが、実はただの怯懦ではないのか。寵愛をいいことに自分の意見ばかり押し付けて、これでは王太子は軍師殿の傀儡ではないか」
口には出さないが、胸の奥でそういう不満が芽生えてないとは言い切れない。ナルサスの智謀は皆も認めるところであるから、まだ諸将も抑えているというところだろう。
「エラムよ、動かない物を動かす知恵はないか」
ナルサスでも、動かない敵はどうしようもない。策に嵌めようにも、策を廻らす余地がないのだ。
「……いっそ、全軍でエクバターナまで駆けてみるか」
自嘲を込めた冗談を呟いた。ルシタニア軍の主力はこのジュイマンドに集結している。エクバターナには、わずかな守兵がいるだけだ。落とせないはずはない。……のだが、その先どうなるか。
すでにイノケンティス王は避難している。おそらく、財宝どころか兵糧すらろくにないはずだ。エクバターナの住民を抱えた上でルシタニア軍20万に囲まれたら、短期決戦に訴えるしかなくなる。
より不利な状況で罠に嵌るくらいなら、今のままの方がまだいい。
「……アルスラーンも、なかなかやります」
ルシタニアの陣中でも、出撃を求める声は大きくなっていた。パルス軍はルシタニア軍の半分程度であり、鍛え直された我らなら、罠に嵌めずとも充分勝てる、と言うのだ。
「……で、どうする気だ」
後方の4万から、ギスカールが来ていた。この弟はパルス軍と正面衝突して、多大な犠牲を出すような馬鹿ではない。必ず、何か策を考えているはずだ。そのセイリオスが、いきなり頭を下げた。
「ん?」
「申し訳ありません、兄上は反対の事でしたが、無断で行いました」
その答えに、ギスカールは口を付けた葡萄酒を噴き出した。
翌日、パルスの陣地に、騎馬の一団が駆けてきた。ルシタニアの陣地からではない。エクバターナの方向から駆けてくるが、パルスの軍装をしている。
「
先頭の男を視て、誰かが叫んだ。その叫び声を聞いて、ナルサスの血が凍った。ルシタニアは、セイリオスは、これ以上ないほど悪辣な手を使ってきた。
「見慣れぬ顔が多い。名を名乗れ」
本営に入ったアンドラゴラス王は、アルスラーンには一言も告げず諸将を集めた。もちろんパルスの軍令上、国王は軍の最高司令官であるから、当然の行為である。問題は、何もない。
「………」
しかし、諸将の胸の内は複雑である。規則としては正しい。だが、囚われていたはずの王がいきなり現れ、これまで苦労してきた王太子の頭ごなしに命令を投げつけるとなると、どうにも納得できない。
「何をしておる!
雷に打たれたように諸将が拝礼し、名を名乗る。それに倣い片膝を付けながら、ナルサスは暗澹としていた。アンドラゴラス王が総司令官となる。それは全く正しい。法としても、理としてもだ。
(……だが、それでパルスは負ける)
王と共に駆けてきた一団が、牢獄から助け出してきたという。最新の情報など何も聞いてないだろう。アンドラゴラス王の頭の中では、ルシタニアはいまだ遠方の蛮族に過ぎないはずだ。
「パルスにおいて、兵権は一人
冷厳な声が、拝跪する諸将の頭上からのしかかる。全員の背筋が冷えた。まさか、王は王太子を、この場で処刑するつもりではないか…。
「おそれながら…」
敢然と声を上げたダリューンを、アンドラゴラス王は手で制した。
「ダリューンよ、それ以上口を開くには及ばぬ。王が不在となれば、王太子が王権を代理するは当然の理。なにもアルスラーンを咎めようとするのではない」
諸将の間で、安堵の息が漏れた。さすがにルシタニアとの決戦を控えている今、アルスラーンを処罰するのは愚行である。その程度のことは、アンドラゴラスも理解している。
「しかし、以後、我が命に背く者は許さぬ。明日、決戦に及ぶ。これは王の決定である」
「……ダリューン、明日は殿下のお傍を、絶対に離れるな」
アトロパテネにも劣らぬ、凄惨な戦となる。ナルサスの眼にはすでに、惨敗するパルス軍の姿が見えていた。そして、それを止める力は、自分には無い。
「アンドラゴラス王を諫め、考えを変えさせることができたのは、ヴァフリーズ老だけだった。……俺の言葉は、届かぬ」
アンドラゴラス王は、自分に自信を持ち過ぎた。敗北や挫折といった言葉とは無縁であったが故、自分以外を必要としなかった。結果、他人の意見を入れることのない、狭量な王となってしまった。
大将軍ヴァフリーズが巧みにそこを補い、パルスが勝ち続けている間は、その欠点は目につくものとならなかった。だが今は、そのどちらもない。
「……せめて殿下だけは、何としても生かさねばならぬ」
ダリューンも暗澹とした声で答えた。パルス一の勇者も、手の打ちようがないのは同じである。
ナルサスは空を仰いだ。もはや、パルスを救うのは天祐だけではないだろうか。そして、その天祐と思えなくもないことが、この時起きたのである。
「トゥラーンが、だと?」
アンドラゴラス王が、眉をしかめた。明日は決戦と眠りに就こうとしたその時、ペシャワールからの使者が駆けこんできたのだ。
トゥラーン軍、ペシャワールへ向かい進軍中。規模は10万。早馬でも4、5日かかる道だから、今はもう包囲下にあると見て間違いない。アンドラゴラスは、すぐさま諸将を集めた。
「………」
夜中にたたき起こされた諸将は、固唾を呑んで次の王の言葉を待った。トゥラーンはパルス北東に接する、遊牧民の国である。その馬術と勇猛さは、パルスにとっても脅威であり続けた。
「すぐさま軍を返し、トゥラーンを叩く」
ルシタニア軍を打ち破ったとしても、エクバターナの城壁に拠られたのでは、攻略に時間がかかる。その間、ペシャワールが落城しない保証はどこにもない。王の判断は、諸将も納得できるものである。
ナルサスは内心、安堵の息を吐いた。ひとまず明日の破滅は回避された。だが、まだ油断はできない。必ず、この撤退には何かの意図がある。
何故なら、アンドラゴラス王が目の前の敵を放っておいて退却するなど、ありえないからだ。
「ルシタニアの蛮族など、1日あれば蹴散らして見せる。ペシャワールの救援は、それからでいい」
ナルサスの頭の中のアンドラゴラス王なら、こう言ったはずである。
「騎兵隊を先行させる」
ペシャワールまで、歩兵と進軍していたのでは1月はかかる。トゥラーン軍は騎兵主体で城攻めは苦手とするが、10万の人数である。救援は急いだほうがいい。
であるから、この判断も妥当だ。だがそれに続く言葉で、また諸将が凍りついた。
「ダリューン、クバードの両将は、騎兵2万を率いて先行せよ。ナルサスはすぐさま帷幕で策を立てよ。……アルスラーン、兵1万を率いて、後拒を成せ」
後拒、すなわち本隊が安全圏まで撤退するための、時間稼ぎのための軍である。ルシタニア軍18万に1万で立ち向かえと言うのだから、死ねと言うのと同義だ。それを王太子にやらせるというのだ。
しかも、勇猛無比のダリューンは騎兵隊の指揮で傍から遠ざける。ナルサスも参謀として自分の傍に置くと言う。両腕をもぎ取って、それで戦えと言う。
「…勅命、つつしんでお受けいたします」
機械的に言葉を紡ぎながら、アルスラーンは心の奥に氷塊を感じた。父と思ってきた男から、訣別の言葉を告げられたのだ。もう、この人にとって、自分は邪魔以外の何物でもないのだろうか…。
「………」
いや、そうではない、と思い直した。父は自分の力を認めたのだ。1万の軍を指揮するに充分で、後拒も見事に務め切れる能力があると判断したから任せたのではないか…。
それが現実逃避に過ぎないと自覚しながら、自分自身に言い聞かせた。幸いと言えることは、ダリューンとナルサス以外の彼の私臣、ギーヴやファランギースなどは取り上げられなかったことである。
「エラムは私と共に、アルフリードはやって欲しいことがある」
騎兵2万の先行隊の指揮をアルスラーンに任せる。ナルサスは何とかしてそう持っていきたかったのだが、王の決定に口出しすれば処刑されたであろう。王太子も自分も、憎まれていると考える方が妥当である。
「何という父親だ」
ギーヴなどは、悪態を隠さない。ファランギースも、表情は変わらなかったが言葉の端々で不快をあらわにしていた。
「ナルサス卿、ここは、殿下に亡命をお考えいただくべきではないでしょうか。サリーマ様からラジェンドラ王への口利きをお願いすれば、亡命は許されると思いますが…」
言い出したのはシンドゥラ人のジャスワントである。ラジェンドラ王は信用できない相手ではあるが、この際贅沢は言っていられない。
「………」
それも選択肢の一つとして考えぬでもなかったが、馬を駆ってシンドゥラまで逃げるのは難しい。大陸公路はアンドラゴラス王の軍が殺到するし、南のバダフシャーンはヒルメスの勢力下にある。
そして、シンドゥラにたどり着き、上手くラジェンドラ王に庇護されたとしても、パルスに帰り着くのはアンドラゴラス王が崩御し、内戦を勝ち抜いた末になるだろう。
第一、アルスラーンが、パルスの民を見捨てて自分だけ逃げることに賛同するかと考えれば、答えは否である。
ちなみに、誰にも言えることではないが、亡命して命を長らえるだけならシンドゥラ以上に楽で安全なところがある、とナルサスは考えている。ルシタニアの、セイリオスの元だ。
「まだ、策はある。とにかく、ここはひたすら防備を固め、危うくなったら早々に逃げ出してくれ。アルスラーン殿下さえ生存してくだされば、我々の道は続く」
容赦のないセイリオス殿下…。
なお、書いていくうちに「アンドラゴラスの器量を小さく書きすぎたかな?」と思わないでもなかったのですが、アルスラーンの扱いを見るにどうにも彼が名君とは思えませんでした。
要するに、パルスという超大国に生まれたため武勇だけで何とかなっていただけではないか、と。