陣地に漂う空気を表現するなら、「拍子抜けした」としか言いようがない。
「アルスラーン王太子に告げる。『同胞を救ってくれた礼として、今回は貴公に対して攻撃しない』と、セイリオス殿下からの通達である」
伝えてきた軍使がドン・リカルドとエステルの二人というのも、それを助長した。朝を迎えても一向に攻撃が来ず、いぶかしんでいたところに、これだ。気構えを、すっかり外された。
ルシタニア軍は撤収を開始していた。本当に、追撃する気はないのだろう。あくまで、「アルスラーンに対して」だが。
迂回して駆ける騎馬隊の存在は、偵騎が捉えている。それは歩兵ばかりのこの軍では、どうしようもないことだった。伝令は出したものの、間に合ったかはわからない。
「……しかし、ここにいる皆が生き残れるなら、良い事と考えよう」
セイリオスの言葉を、額面通りに受け取ることはできない。自分を生かしたのは、その方がルシタニアの利にしてみせる自信があるからだ。
それでもこの王太子は、皆の無事を喜んだ。
さて、差し当たってアルスラーンが決めねばならないのは、これからどうするかである。こういう時は、いつもナルサスが指針を与えてくれた。しかし今、彼はいない。
「道は大きく分けて2つでしょう。王命を待つか、自立するかですな。…俺としては、ぜひとも後者の道を選んでいただきたい」
言い出したのはギーヴだ。彼がここに留まっているのはただ一つ、アルスラーンとその周囲に集まる人間が面白いからである。他人の都合で無駄死にさせられるなんてつまらない結末を迎えるのは、真っ平御免だ。
ギーヴほど露骨ではないが、それは皆に共通する思いである。このまま王に従っても、次々と過酷な命令を与えられるだけであろう。
「………」
そのギーヴが、「そら来たぞ」という顔をした。パルス王の軍使であることを告げる旗をはためかせながら、一騎が駆けてきたのである。
「王太子殿下に、王よりの勅命にございます。『パルス王を僭称する逆徒ヒルメスを殲滅すべし。与える兵は1千とする。残余の兵は一将に率いさせ、本隊に合流させよ』。………以上となります」
ギーヴはふうと大きく息を吐き、ジャスワントは思わず剣の柄に手を掛けた。ふざけるなと言うほかない。ヒルメスはもはや10万を超える軍を擁している。たった1千で、何ができると言うのか。
「また、ナルサスとダリューンの両名が脱走しました。王太子殿下の元に現れた場合、どのような理由であろうが誅殺せよ、一切の弁明は聞かぬ、との仰せです」
「………」
場を沈黙が支配した。その一瞬に、ギーヴは音もなく剣を抜いていた。抜き打ちの一閃が、使者の首を刎ね飛ばす。
「………。ギーヴ?」
アルスラーンも、何が起きたのか理解できないようだった。顔に着いた血に手をやり、ようやく何が起きたのか理解する。
「殿下、申し訳ありませんが、つい手が滑りました。いやはや、そこにちょうど使者殿がおられるとは、何とも不幸な事故で」
道化めかして言っているが、王の使者を斬ったのである。言い逃れできるようなことではない。しかしギーヴは、そんなことを意に介していなかった。
「……もういい。
そう言い捨て、ギーヴは天幕の外に飛び出していった。あまりの急展開にしばらく呆然としていたが、我に返ったアルスラーン達が慌てて追うと、彼は今のいきさつを全て、兵士たちに暴露していた。
「俺はもう、アンドラゴラスをこの国の王と認めない。俺たちにふさわしい王は、今ここにいる」
反乱の扇動ではないか、と皆が理解した時には遅かった。兵たちも、ギーヴの行動に困惑する声はあっても、批難する者はいない。
「アルスラーンを我らが
誰かが叫んだ。それが呼び水となり、1万の軍に木霊した。仰天したアルスラーンは天幕に逃げ込んだが、兵たちはその天幕を囲んで座り込んだ。
その状況で日が落ち、夜を越えて朝を迎えた。ナルサス、ダリューン、エラムに、アルフリードとメルレインも含めたゾット族の一団が合流したのは、そんな時だったのである。
「…ダリューン、ナルサス、よく来てくれた」
一晩、一睡もせず、飲まず食わずで考え続けたのだろう。ナルサスとダリューンの眼には、少しやつれて見えた。
「すでに聞いたであろうが、兵たちが私をパルス王に擁立した。………私はこれを受け、パルスの
これで、パルスには三人の王が並び立つことになる。セイリオスにとっては望ましい展開だろう。だが、アルスラーンが生き残り、かつ自分の理想を実現させるための道は、もはやこれしかない。
「殿下、…いえ、陛下。このダリューンは、どこまでも陛下の剣となりましょう。陛下が、パルスの民を護るための」
「ダリューンの申した通りです。民を護る者、それが王なのです。陛下がそれにふさわしき方であるなら、このナルサスは、全力で陛下を支えましょう」
さて、ナルサスは王位を自称するのは時期尚早かと考えていたものの、アンドラゴラス王から独立することは考えていた。まずは、1万の兵を養うことが急務である。
「我らは拠って立つ地を無くしました。第一に、これを得なくてはなりません」
パルスは三分されていた。西部はルシタニア、南東部バダフシャーンはヒルメス、ペシャワールを起点に北東部がアルスラーンだったのだが、アンドラゴラスに塗り替えられた。
行く当てのなくなったアルスラーンだが、たった一つだけ空白に近い地方がある。南西部、オクサスからギランの港町にかけての、ヒルティゴが支配する地域だ。
「エクバターナを放棄すれば、オクサスやギランを保てない。それを理解しているルシタニアは、財貨だけ頂き、あとは捨て駒程度の存在と考えたヒルティゴに任せたのでしょう」
セイリオスが講和条件を出した時に、オクサスやギランも放棄すると言ったことがそれを証明している。ヒルティゴは数万の軍を擁しているが、隙は充分あるはずだ。
「セイリオスが我らを生かしたのであれば、我らがある程度の力を持つことを許容しているということです。この間に、できる限りの力を得なくては」
敵はもはやルシタニアだけではない。王位僭称を知ったアンドラゴラス王は怒り狂うだろう。その侵攻に対しても、防ぎえるだけの力が必要になる。
ここで、一つ大きな問題がある。
「パルスの民全てが納得するような大義名分がありません。現王アンドラゴラス、カイ・ホスローの正嫡を唱えるヒルメスと比較して、陛下はわずか1万の兵に擁立されただけですからな」
現状では、アルスラーンの行動はどこまでも反乱である。ここにいる者ならともかく、何も事情を知らない者からしたら、そうとしか見えない。
「しかも、扇動者は陛下の腹心だった男じゃ。このまま潰れたら、我らはルシタニア侵攻の混乱に乗じて王位を僭称した、悪逆の野心家として語られような」
ファランギースの視線が、ギーヴを射抜く。しかしその視線は、言葉ほど冷たくはない。むしろ、「よくやった」と称賛しているようである。
「………宝剣ルクナバード」
アルスラーンが、思いだしたようにぼそっと呟いた。ペシャワール城にいた頃、夢を見たという。ヒルメスの流した噂のことで、諸侯が味方してくれるか不安になっていた時だった。
「だれかに言われたような気がしたのだ。『ルクナバードを手に入れ、我が天命を継げ』と」
跳ね起きたが、誰もいなかった。扉の前で見張り番をしていたジャスワントも何も気づかなかったし、夢だったと思い誰にも言わずにいた。それに思いのほか諸侯が集まってくれたので、忘れてしまったのだ。
「成程、カイ・ホスロー王の遺志を継ぐ、パルスの守護者、ですか」
宝剣ルクナバードはカイ・ホスロー王と共に、デマヴァント山の山中に埋められたという。死しても蛇王ザッハークから、パルスを護る盾となる。その遺志の象徴が、ルクナバードと言っていい。
ただし、である。ルクナバードは確かに象徴であるが、それに頼ってアルスラーンが堕落してしまっては困る。ここは一つ釘を刺しておかねば、とナルサスが口を開きかけた瞬間―。
「わかっている。剣は道具にすぎない。それによって象徴されるものこそが大事なのだ」
アルスラーンがナルサスの表情を読み、先に言った。言われた方は内心で唸り、恥じた。釘など、まったく必要なかったではないか。
そうなると残る問題は、カイ・ホスロー王の御霊が、アルスラーンを認めるかということだが…。
「問題ないさ。今ここで、誰がパルスを護る存在か判らぬ英雄王ではない。もし判らぬとすれば、カイ・ホスローはその程度の王に過ぎなかったというだけだ」
そうなったら、もはやパルスも捨ててやる。アルスラーン王を頂く、別の国を建てるまでだ。以前ダリューンと二人、冗談半分で適当な国を征服してみせる言ったが、その国がパルスであっても何ら悪いことはない。
「よし、行こう」
デマヴァント山まで、数日で往復できるだろう。駆けだした一行をはるか遠くから見つめる黒い影のことなど、気付くはずもなかった。
「………申し訳ありませんが、ここまで情勢が動くのは計算外でした」
弟が頭を下げる。それに対しギスカールは、「………ふうむ」と一つ息を吐いただけで、何も喋らない。この状況はルシタニアにとって良いと悪いのどちらに転がったのか、容易く判断できないでいた。
「アルスラーンはおそらく、ヒルティゴの支配下にある南西部を奪取しようとするでしょう」
ナルサスがかつて領していたダイラムという可能性もあるが、こちらはアンドラゴラスと直接境を接することになる。いきなり現王との対決というのは、避けるはずだ。
それはギスカールも同感である。というより、起つならこの地方しかない。さて、ルシタニアとしては、どう出るべきか。
「…問題は、ヒルティゴを救援すべきか、どうするかだ」
ギスカールがようやく口を開いた。正直に言って、今のアルスラーンに大した利用価値はない。他と噛み合わせるには弱すぎるし、それならここで叩き潰しておくのも手だ。
しかしセイリオスは、それにはあまり乗り気でないようである。
「ここはヒルティゴに任せましょう。奴が勝てばよし、負けてもまたよし、ということで」
エクバターナの主力はいつやってくるかわからないアンドラゴラス、ヒルメスに対する備えである。それにアルスラーン軍は1万に過ぎない。そのくらい自分で何とかしろと言っても、そこまで理不尽ではない。
「……お前、ヒルティゴが負けると見てるな」
アルスラーンが南西部に入っても、エクバターナを放棄する当初の戦略に大した影響はない。だから問題ないと言えばそれまでなのだが、セイリオスはやけにアルスラーンに甘い。
かつてはボダンたちの処刑役という役割があったが、それはもう終わったことだ。そういえば結局ボダンの生死は判らずじまいである。どこかで野垂れ死んだのだろう。
「………」
ボダンのことはともかくとして、ギスカールの指摘は図星を突いたようで、セイリオスが杯を持つ手を止めた。そう、セイリオスは、アルスラーンがある程度の勢力となることを望んでいる。
「正直に言いましょう。アルスラーン王太子を、私は気に入ってしまいました。あの小僧がこの窮地をどう乗り切るか、楽しんでいる。…そしてオクサスを得れば、数万の軍は集まる。アクターナ軍と、同規模です」
10万規模では、こちらもルシタニア軍を使い、国家の命運をかけた戦いとならざるを得ない。数万なら、アクターナ軍だけでぶつかれる。自分が育て上げた軍で、思うままに。
ギスカールは思わずぞっとした。これは、理性の箍が外れかかっているときの眼だ。同等の戦力でぶつかってみたいなどと言い出すのは軍人、あるいは武人の発想であって、政治家の発想ではない。
「………」
それにしても、自分はアルスラーンを軽視し過ぎていたのだろうか。この弟を燃え上がらせる敵が、まだ14歳の少年になるとは思いもしなかった。
「……ビードから連絡があった。アルスラーンがルクナバードを求め、デマヴァント山に旅立ったそうじゃ。ガズダハムに連絡せよ。アルスラーンがザッハーク様の眷属に襲われて、命を落としては敵わぬからの」
黒いローブの中で、『尊師』は満足そうな笑みを浮かべた。小細工もしておくものだと口の中で呟いた。
「思いのほか、封印が強かった。カイ・ホスローの死体とルクナバードを切り離さなくては、ザッハーク様の再臨はかなわぬ」
英雄王カイ・ホスローによって彼らが仕える蛇王ザッハークが封印されて、はや320年。封印を施した20枚の岩盤は崩され、ザッハークの復活は目前に迫っている。
ところが、計算違いは最後の壁というべきカイ・ホスローの霊と宝剣ルクナバードの存在である。この2つが結びついている限り、その霊力が蛇王を縛る。何とかして、剣を取り出さねばならない。
困ったことに、何としても取り除かねばならない存在であるのにもかかわらず、彼らはルクナバードを取り除くことができないのだ。カイ・ホスローの霊力は、彼らの力も縛る。
「そこで『ルクナバードを手に入れ、パルスの王となれ』とアルスラーンめを唆したのだが、夢枕ではやはり押しが弱かった。次の一手をどうすべきかと考えていたところ、思いがけず良い方に転がってくれたわ」
エクバターナの地下に、哄笑が響き渡った。
ある意味ザッハーク以上の最強にして最凶の敵に、完全にロックオンされてしまったアルスラーン。即位はしたものの、前途多難です。
なお、アルスラーンの言葉と『尊師』の言葉が違うことに注目。笑っていられるのも今の内だけ…。