呆然、という言葉がこれほど合致する状況を見ることは、生涯でもそうそうないと言い切れる。
「聞こえなんだか、大司教よ。異教徒とて、むやみに殺してはならぬ。真理を人に理解させるには時間がかかるものじゃ。……聞けぬとあらば是非もない。エクバターナの統治は、セイリオスに任す」
繰り返される国王の言葉にも、ボダンは何の反応も示さない。そのまま十数秒沈黙したのち、憎悪と憤怒の目をまずイノケンティスに、次いでセイリオスに向けた。
「………」
イノケンティスは手が震え杯の砂糖水をこぼしたが、あのボダンをやり込めたという満足感が表情に現れていた。それを見て、セイリオスはボダンに向けて冷笑を送る。
「あの三弟め!!!どこまで神をないがしろにする気なのか!!!!!!!」
セイリオスに言わせれば、軽蔑しているのは神ではなく神の威を借りてエゴの充足だけを求める聖職者である。ちなみに彼はルシタニア王室の三男なので、よく三弟という呼ばれ方をする。
私室に戻ったボダンは、手当たり次第に部屋の物を壊しまわった。物にしてみれば、ただの八つ当たりで壊されてはたまったものではない。
「聖堂騎士団長を呼べ!!!!」
ひとしきり壊し終えたところで、ボダンが叫ぶ。その剣幕に恐れをなした侍従が全速力で走り、聖堂騎士団長のヒルティゴはすぐやってきた。
「ヒルティゴ殿よ、不逞の輩に懲罰を加えねばならぬ」
ボダンの狂気の視線に、ヒルティゴは明らかにひるんだ。彼はボダンほど狂信的な信徒ではなく、権力を、金を、女を愛する、どこにでもいる俗物にすぎない。
「ボダンが冷たい石ならヒルティゴは火に当てたチーズだ。表面は堅いが、中身はだらしなく柔らかい」
とはギスカールの評である。だが俗物であるが故、ボダンよりは現実を見ている。
(あのアクターナ軍と、戦えるものか)
アクターナ軍は2万5千、聖堂騎士団は2万4千。規模はほぼ同じだが、戦闘力は桁2つほどの差がある。しかもアクターナ軍にだけは、神の威光も通用しない。戦えば、必ず負ける。
イノケンティス王が強気に出れたのは、その圧倒的な軍事力を持つアクターナ軍が到着したからだ。その程度のこともわからないのか、とヒルティゴは頭を抱える。
軍で勝てないなら、少人数で暗殺するか。ところがセイリオスの武芸は、ルシタニアでも屈指である。パルスに生まれていれば、まず
(しかも、あの剣は―)
セイリオスの佩剣のことである。黒い刀身の、幅広の長剣。一体何でできているのか、鋼鉄をたやすく両断する。襲ったりすれば、あれで頭蓋を断ち割られる光景しか想像できない。
考えを巡らせると、どうにも乗る船を間違えたように思う。しかし、聖堂騎士団の団長という立場でそれを言えば、敵と戦う前に味方に誅殺されてしまう。
「………」
まだまだ情勢は変化するはずだ。きっと、自分が助かる目も出てくるだろう。結論を出すには時期尚早。彼はそう考え、大司教の意を迎えるふりをしつつ、問題の先送りに全力を注いだ。
「……ここまで効くとは思ってませんでしたよ。いや、本当に」
やりすぎではないかとギスカールから窘められたセイリオスが、いたずらに失敗した少年ぽく言う。彼でも、長兄の純真さを測り損なっていたらしい。
「まあいい。ボダンの顔は見物だった。あの馬鹿をへこませただけでも、痛快極まりない」
パルスの統治はずいぶんやり易くなったはずだ。ギスカールは早速全軍に布告を出した。「異教徒である」という理由での殺害を禁止する内容である。
とはいえ、ただ布告を出しただけで万事解決する問題ではない。しばらくは、到着したアクターナ軍を巡回に加えるしかない。
「次いではボダン派の東方追放。もしかしたら、エクバターナも保持できるやもしれんな」
少し夢想に入りつつあるギスカールの願望を、セイリオスは窘めた。エクバターナはパルス王国の象徴である。これを保持できるのは、パルスの完全制圧が成功した場合だけだ。
「おっと、すまぬ、すまぬ。つい欲が出た。やはり、当初の計画通りマルヤムまでを開拓するか」
それにすぐ気づき、抑制することができるのがギスカールである。さて、そうなると、邪魔なものが一人いる。
「裏切り者のカーラーンだ。奴の領地は、アトロパテネの一帯。躓く恐れのある物は、退けておくに限る」
パルスの
「今は
ギスカールの案には、いくつかの思惑が絡んでいる。まず第一が、危険因子の排除。第二がさらなる離反者を誘う餌。第三が、気骨あるパルス人の怨念を集める身代わりの人形である。
「……そしてもう一つ、銀仮面の狙いが何か、少しはあぶりだせるだろう」
アトロパテネ会戦の最大の功労者はあの銀仮面卿と断言できる。彼がカーラーンを寝返らせ、アトロパテネの大平原に濃霧が発生する日を言い当てたから、パルス軍を罠に嵌めることができた。
なのに、彼が欲した恩賞は「アンドラゴラスの身柄」だけであった。他は一切求めない代わりに、アンドラゴラスの身は好きにさせてほしいと言ってきたのである。
怨恨の深さがそれほどの物である、と言えばそれまでなのだが、いくら何でも釣り合いが悪すぎる。何か、狙いがあると見るべきだ。
「カーラーンを動かせば、繋がりのある奴もきっと動く。……そういえば、あの銀仮面、実はパルスの王族だなどという噂もあったな」
仮にそれが事実だとすれば、奴らの狙いはパルスを我が物にすることであろう。だがそれは、こちらの真の目的にはむしろ好都合でしかない。
「ほう、国一つを治める身となったか」
銀仮面の男の声は、わずかに皮肉を含んでいた。それを感じ取ったカーラーンが、体を小さくして恐縮する。ギスカールに告げられた時は喜色溢れるように振舞ったが、それは動揺を隠すための演技である。
一体、何を考えているのか。破格の恩賞を喜ぶより、疑念の方が先立った。
「バダフシャーンにまで、ルシタニアの勢力は及んでいない。それを、おぬしに制圧させたいのだろう」
現状、パルス最大の残存戦力は東の国境を守る、ペシャワール城にある。カーラーンがバダフシャーンに入ると、これと噛み合うことになるのは疑いない。
また、失敗してカーラーンが戦死でもすれば、恩賞を与えずに済む。ルシタニアにとってはどちらにしても望ましい展開なのである。
その程度は、わかる。破格の恩賞を受けた自分が恨まれるであろうことも、わかる。だがその程度なのか。
「で、ありますが、東方一帯を『殿下』のものとする、好機でもあります。ペシャワール城のバフマンとキシュワードも殿下の存在を知れば、きっと旗下に馳せ参じましょう」
カーラーンはあえて『殿下』と言った。バダフシャーン公など、ルシタニアが勝手に押し付けた称号にすぎない。自分はどこまでもあなたに仕える身である、と表明したのである。
ルシタニアの、誰も知らないことだ。パルスの王位に就くべき人は、目の前にいる。銀仮面卿こと、先王オスロエス5世の遺児ヒルメス。この御方こそ、パルスの『正統な』王なのである。
先々代、ゴタルゼス2世には男子が二人いた。オスロエスと、アンドラゴラスである。ゴタルゼス王が崩御した際、兄弟の仲はいたって良く、つつがなく兄オスロエスが王位を継いだ。
だが、わずか3年後、オスロエスは熱病で急死し、アンドラゴラスが王位を継いだ。この際には様々な噂が流れた。
「タハミーネの一件を恨んでいたアンドラゴラスが、兄を弑逆した」
「いや、逆に弟を殺そうとしたオスロエス王が、返り討ちに会ったのだ」
それに拍車をかけたのが、ほどなく起きた火災により、オスロエス王の王子が焼死したという話だ。
11歳だった王子は立太子の儀も済ませていなかったが、正統を訴える資格はある。成人すればなおさらだ。だから、アンドラゴラスが将来の禍根を断とうとして火を放ったのではないかと疑うのも当然のことである。
しかし、その疑念は声にまではならなかった。アンドラゴラスの剛勇に心寄せる者は多く、11歳の少年に王の責務は重すぎるというのも納得できることだったからだ。
それから16年。人々の記憶からその頃の記憶も薄れ、アンドラゴラス三世がパルス王であることに疑念を挟む者も消えていった。ただ一人、焼死したと思われていた、27歳に成長した王子を除いて。
「わかった。アンドラゴラスの小せがれの捜索は、俺がやる。カーラーンよ、おぬしはバダフシャーンを平定せよ。そこを拠点に、反ルシタニアの旗を揚げる」
仮面の下で、ヒルメスはわずかに恥じた。カーラーンが自分を棄てて自立するのではないかと疑う心がなかったと言えば嘘になる。その猜疑心を、王として恥じたのである。
「…つきましては、一つ聞き届けていただきたいことがございます」
カーラーンには息子がいる。ザンデといい、親の目から見てもその剛勇は嘱望に値する。まだ若く少し思慮に欠けるところもあるが、ヒルメスの側近として恥じぬ男と見ている。
「王家に対する忠誠心も厚く、きっとお役に立ちましょう。殿下の下で使ってやってはいただけぬでしょうか?」
ヒルメスは軽く承諾した。ルシタニアの客将である彼には、カーラーン以外に信頼できる腹心などいない。有能な家臣が増えるのは王の喜びとするところであるし、使えなければそれはその時考えればいい。
「………」
カーラーンが、下げた頭の裏でほっとした表情を見せる。見方を変えれば、これは人質を出したということである。その上でザンデが信頼を得れば、自分も安泰になるはずだ。
その程度の期待には応えてくれる息子だと、信じていた。
その日、エクバターナの街路は、ルシタニアによる包囲が始まって以来の、パルス人による明るい声が響いていた。声の主は、奴隷たちである。
「マルヤムに行くってのは躊躇ったけど、これで俺も
マルヤムへの入植というのは、前々から説明されていた。それをようやく実現できるようになった。ザーブル城が陥落し、大陸公路の安全が確保されたのだ。
ただし、不安もある。本当に、ルシタニアは約束を守ってくれるのだろうか。マルヤムまでは遠い。途中で皆殺しにされても、早々には解らない。
「パルスはいまだ混迷の中にあり、危険だ。マルヤムであれば、諸君らも安心して農耕に励めるであろう」
それがルシタニア側の主張である。腑に落ちないが一応は理が通っている。輸送隊には食料、衣類は当然のこと、大量の農具まで積まれているのだから、騙すのなら手が込みすぎているのではないか。
「殺すのなら、ここでやるだろうよ。わざわざどっかに連れて行って俺たちを皆殺しにしたって、何の得にもなりゃしねえ」
その声が、何とか集団をまとめた。もっともな意見だと納得したわけでなく、やはり奴隷身分からの解放と土地の分配の魅力に抗しきれず不承不承、と言うべきであるが。
「………あの、これは何の騒ぎでしょうか」
その奴隷の行列を眺めていた一人の少女が、近くにいたルシタニアの少年兵に尋ねた。同年代の少年だから話しかけやすいと思ったのだろうが、少女が「あ」と平凡な失敗をした時に出す声を上げた。
少女はパルス語で話しかけたのである。パルス語は大陸公路の公用語であり、近隣諸国ならパルス語が話せれば意思疎通は何とかなる。だがルシタニアは遠く、パルス語を話せない者も多い。
「ん?……ああ、あれなら、
しかし、この少年はパルス語で返してくれた。しかも、なかなか堪能である。
「………ふうん」
少女は探るような目つきをして、路地へと消えていった。少年は日常の一コマとしてそれを片付け、任務の巡回を終えて上官の元に戻った。セイリオスが統治責任者になってからは、もめ事もずいぶん減った。
「戻ったか、エトワールよ。……さて、今日から頑張らなくてはな」
う、とエトワールが小さな呻きを上げた。上官の名はバルカシオン伯爵といい、60歳に近い老人である。温厚篤実、敬虔なイアルダボート教の信徒で、エトワールの祖父とは身分を越えた友人でもあった。
エトワールからすれば、もう一人の祖父と思える人だ。もちろん尊敬している。…のだが、その彼が与えられた任務が問題なのである。
「異教の書物だろうと、知識と情報は力となる。それが三弟殿下のお考えだ。……まあ、わしとしても、貴重な本が燃やされるのは心が痛むのでな」
バルカシオン伯はルシタニアで王立図書館長を務めていたことがある。そのため、パルスの王立図書館の管理を命じられたのだ。異教の書とはいえ、本に対する愛着から、この仕事を引き受けた。
そしてパルス語を知る者は、彼の下でパルス語の書物をルシタニア語に翻訳する作業を命じられたのである。三弟殿下直々の命は名誉なのだが、エトワールにしてみれば「何でこんな事を」である。
(今日からずっと、書物を読み漁るのか)
パルス語を学んだことを、今日ほど後悔した日はない。盛大なため息をついて、とりあえず割り与えられた書物を手に取った。
それは、蛇王ザッハークを倒しパルスに平和と安寧をもたらした英雄王、カイ・ホスローの伝記であった。
カーラーンの運命が大きく変わりました。