ルシタニアの三弟   作:蘭陵

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30.大嵐の前

 パルス歴321年5月末、トゥラーン軍が大挙南進。その情報をいち早く入手したのはシンドゥラの国王ラジェンドラであり、彼はそれを知るや、直ちにペシャワール城のパルス軍に急使を発した。

「アルスラーン王太子に知らせてやれ。ペシャワールが落ちたら、あの王子も困るだろうからな」

 トゥラーン軍が矛先を変えてさらに南進してきたら、彼の身の方が危うい。それなのに「知らせてやれ」と恩を着せるような言い方をするのがこの男である。それどころか、内心ではもっと危ないことを考えている。

(ここで、ルシタニアやバダフシャーンのヒルメスとやらにも知らせたら、どうなるか)

 勿論、トゥラーン、ルシタニア、ヒルメスの3勢力に囲まれ、アルスラーンは滅亡するか、しなくても極めて苦しい状況に陥る。その隙に乗じれば、シンドゥラの版図を広げることもできるだろう。

「しかし、俺は心優しい男だからなあ…。盟友であるアルスラーン王太子を売るような真似は、したくない」

 アルスラーンの幕僚たちが聞けば、憤慨したでは済まなかったであろう。彼がそうしなかった理由は、その方がシンドゥラの利益になると踏んだからだ。しかも、「しない」ではなく「したくない」である。

 

 ともあれ、ラジェンドラ王の善意(?)によりトゥラーン軍の襲来を知ったパルス軍は、即座に籠城を決めた。ペシャワール城の留守はルーシャンが預かっており、彼は自分の実力をよくわきまえていた。

「我らの役目は武勇を誇って敵と戦うことではない。王太子殿下が後背の憂いなくルシタニアと戦えるよう、ペシャワール城を守り抜くことにある」

 ルーシャンを臆病者と謗る者はいなかった。主力不在の現状、ペシャワールの戦力だけで野戦を行い、トゥラーンを退けるのは不可能。一刻も早く、王太子の主力軍に知らせ、帰還まで粘るしかない。

 当然ながら、ラジェンドラもルーシャンも何も知らない。ルシタニアの策謀によってアンドラゴラス王が復活し、アルスラーン王太子が追放同然の扱いを受け、王を自称するしかなくなるということなど。

 

「ルーシャンもキシュワードも、皆苦労しているであろうな」

 オクサスの奪還で拠点を得て、ほっと一息ついたアルスラーンが言う。ギランの港もグラーゼの統治の元、アルスラーン支持のまま平穏を保っている。ルシタニアは、動きを止めていた。

「気が咎めないわけではないが、私たちはまだまだ力を養う以外にない」

 アルスラーンの軍は増えたが、それでも2万余である。騎兵は2千弱だ。調練もまだ不十分。アクターナ軍とぶつかったら、一撃で叩き潰される。

 

「銀仮面の君も、カシャーン城で足踏みとなりましょう。ルシタニア軍20万に8万で勝てると思うほど、愚かな御方ではありませんので」

 ナルサスはヒルメスを過大評価も過小評価もしているつもりはない。彼は軍人として極めて優れ、王としての器量も充分すぎるものを持っている。復讐心に目をくらませていたが、それも克服したようだ。

「かの御方も、バダフシャーンを制圧して一皮剥けましたな。…いや、元からあったものが出てきたと言うべきでしょうか」

 政治には熱心であり、軍は規律正しい。神官や貴族でも不正を許さぬ公平な王として、ヒルメスはバダフシャーンの民の心を掴んでいた。彼らにしてみれば自称であろうが何であろうが、善政を布く良き王である。

 ただ、ヒルメスの治世に今までのパルスからはみ出るところは一切ない。そこがアルスラーンとの決定的な差である、とナルサスは思っている。

 

「我らもこのオクサスを、善く治めねばならぬ」

 オクサス、ギランを手にしたアルスラーンは、すぐさま奴隷の解放を布告した。それどころではない状況なのは理解しているが、王として誓ったことは守らねばならない。おかげで財政は火の車だ。

 アルスラーンにとって幸いしていたことがある。ヒルティゴの政治はボダンほど酷くはなかったが、それでもとても善政とは言えるものではない。異国人の支配下に置かれ、民衆の不満は蓄積していた。

 その上、オクサスもギランも多くの有力者が処刑、追放の憂き目に遭い、主を失った奴隷たちは酷使されていた。奴隷解放を行っても、不満は最小限に抑えられる土壌があったのである。

 

「とはいえ、奴隷がいなくなればこれまでの社会制度は維持できないでしょう。それによって生じる不満の抑制が、今後の課題ですな」

 社会制度が変化すれば、その波に呑まれて没落する者は当たり前に出る。その不満は必ず自分の無能力ではなく、波を起こしたアルスラーンに向く。

(ルシタニアは、さすがに狡猾だ)

 それが解っているルシタニアは、奴隷解放の道だけを作った。奴隷制度廃止などという急進を避け、だが奴隷たちに希望を見せた。どちらが良い結果となるかは、これから先の努力次第だろう。

 

 アルスラーンがオクサスを治めるようになってから10日ほどしたある日、珍客が来た。

「アルスラーン王に会いに来た。害意はない」

 エステルである。剣こそ佩いていたが、鎧は脱いで女性の装いとなっていた。その剣もあっさりエラムに渡してしまう。使者としてパルス王に会いに来た、と言う彼女に、アルスラーンは気軽に応えた。

「改めて礼を言わねばならぬ。聖マヌエル城の皆は無事保護され、ひとまずエクバターナに落ち着いた。近いうちに、マルヤムを経由して本国に帰ることになる」

 エステルは何気なく言ったが、アルスラーンには理解できる。ルシタニアのエクバターナ放棄計画は、まったく変わっていない。過分な欲を見せない相手。それが、最も厄介な敵だ。

「それで、ここからが本題だ。王を称したと聞いた。追い詰められてやむなく、というくらい、私でもわかる。そこで、今度こそ我らと講和する気はないか?」

 エステルの表情は真剣そのものである。セイリオスの許可は取ったらしい。相手が承諾するのであれば、許可しよう、と。

 

 アルスラーンは苦笑いした。話の内容がどうこうではなく、これはエステルなりの不器用な借りの返し方なのである。その心根は、優しいものだ。

「何を笑っている。セイリオス殿下に、勝てるはずないだろうが。……お前に死なれたら、私もドン・リカルド卿も、借りを返す相手を失ってしまう。おそらく、これが最後の機だ」

「勝てなくても、戦わねばならぬ時もある。パルスの王は、侵略者から民を護る義務がある。相手が何であろうが、パルスの民を苦しめるものは敵だ」

 セイリオスの正義がルシタニアの繁栄なら、アルスラーンの正義はパルスの安寧である。それが真っ向からぶつかるのであれば、戦うしかない。

 

「迷いのない言葉だな。……正直、私は何が正しいのか判らなくなった。いや、知ったと言うべきかな。この世界は信者と異教徒と、二つで分けられるほど単純ではないということに」

 エステルが自分たちを拒絶しなくなったというのは嬉しいことだが、アルスラーンは少し胸が苦しくなった。自分とて、ルシタニアは憎むべき侵略者としか考えていなかったのだ。

「……私だって、君たちの正義が何かなど、考えたこともなかった。私は未だ、パルスの王宮から見る景色しか知らないのかもしれぬ」

 他国の困窮を横目に、パルス人が豊かに安穏と暮らす。それは他国からは、自分たちを虐げているのと同じに見えるだろう。

 視点次第で、パルスも悪になる。セイリオスに、それを教えられた。絶対的に正しいことなど、この世には無いのかもしれない。ナルサスも言ったことがある、『正義とは星のようなものかもしれない』と。

 ただ、だからと言ってルシタニアのためにパルスが犠牲になるのを肯ずるかと聞かれれば、答えは断固として否である。セイリオスの言葉ではないが、アルスラーンはパルスの王だからだ。

「……生きろよ。死んだらお前たちは、お前たちの信じる神の元に行くのだろう。そうなったら返しようがないからな」

 エステルが去って行く。それを引き留めようとして手を伸ばしかけて、アルスラーンは思いとどまった。何故、そんなことをしようと思ったのだろう。そのまましばらく考えていると、どたどたと足音が響いた。

 

「おい、あの女の腕輪は何だ!?」

 エステルが駆け戻ってきたのである。今度は一人ではなく、連れがいた。ファランギースとアルフリード、それにもう一人の少女。

「レイラがどうかしたのか?」

 アルスラーンがきょとんとして答える。何故エステルがこんなに血相を変えて戻ってきたのか、まったくわからない。

 レイラはこのオクサスで神官見習いをしていた少女だが、変わった特技を持っていた。棒術をかなり使う。その縁で、最近ファランギースやアルフリードと昵懇していたのだ。

 

「……その、…なんだ。王妃の本当の子の話は、お前も聞いているだろう。その少女が見つかって、王妃と一緒に暮らしているという話も」

 勿論、アルスラーンも知っている。心に冷たい隙間風が吹いた気がしたが、一方で「ああ、やっぱり」と納得もしていた。背反する感情を避け、あまり考えないでいたことだ。

 エステルは先日、その少女―フィトナを知ることになった。シルセスの供の一人として、向こうは眼中になかったであろう。礼儀正しくはあったが、どこか余裕がなさそうに見えた。

「レイラの腕輪は、その少女と同じものだぞ」

 

「成程、謎ですな」

 エステルの爆弾投下をぽかんとして聞いた一同は、「謎ならナルサスだ」ということで彼を呼んだ。その彼は、しばらく考え込んだ末に推論を展開した。

「元々不可解だったのは、『銀の腕輪を持った女児が現れた』という点でした。王妃の希望を繋ぐためであれば、噂だけでいい。本当に腕輪を持たせる必要など、どこにもありません」

 言われてみれば、その通りだ。一度捨てた子が現れれば、紛糾の元である。「腕輪と共に捨てた」という話だけを作り、女児はしかるべき人に渡せば、タハミーネには探しようがない。

 しかし、現実として腕輪を持った女児は存在する。しかもエステルの言葉を信じれば、二人もである。その点について、ナルサスは続ける。

 

「…女児を探したとして、複数現れれば誰でも作り話と思います。そこでもっと衝撃的な話をする。王妃はそれを真実と信じ込み、追及を止めるでしょう。実は、真相は全く違う所にあり、全てはそれを隠すためだった」

「回りくどい手だねぇ………」

 アルフリードが呆れて言う。回りくどい上、一見筋が通っているようで滅茶苦茶である。仮に、腕輪を持たせた女児が一人しか生き延びなかったら、それで話の筋は破綻する。

「真相を知るのはアンドラゴラス王だけでしょうな。まあ、我らが陛下には、『あまり深く考えるな』とだけ申し上げておきましょう。……もしかしたら、そこの女騎士殿が本当の子という可能性もあり得るわけで」

 王妃の子を託された者ははるばる西の果てまで行き、とある騎士の家にその子を託して息絶えた。年齢だけを考えれば、辻褄が合わないことはない。

 ナルサスの冗談に、エステルを除いた一同が笑う。タハミーネの本当の子がどうであれ、アルスラーンはアルスラーンである。ナルサスが常々言っていることだ。

 それでも、フィトナには悪いが、アルスラーンの心は幾分軽くなった。

 

「……さてさて、報告がございまして、ペシャワールの重囲が解けたとのことです」

 トゥラーンも相手がアンドラゴラス王だと知って仰天したであろう。幾度かの激突の末、ついにパルス軍が押し切った。アンドラゴラス王の執念が勝ったのである。

 こののち、一度軍を引くべきと考えるトクトミシュ王と攻撃続行を主張する親王イルテリシュの間で対立が生じ、トゥラーンは再びの内戦となる。だがそこまでの情報は、まだナルサスの元には入っていない。

「そうなると、アンドラゴラスが再び大陸公路を西に進むわけだな。私はエクバターナに戻る。気が変わったら、私に伝えろ。シルセス様に取り次ぐくらいはできる。もう一度言う、生きろよ」

 まるで味方のようなことを言って、今度こそ本当にエステルは去って行った。不思議な少女である。彼女は必ず、アルスラーンの心に何かを残して去って行く。

 

 

 ―帰りの道中、その事件は起きた。

「止まれ」

 エステルが、部下の騎兵を止めた。部下と言ってもエステルよりはるかに経験豊富で、腕も立つ男たちである。シルセスが付けてくれた、護衛と隊長としての心構えを学ぶための教官たち、というべきであろう。

「どうされました、エステル卿」

 岩陰に人影が見えた、とエステルは少し離れた岩を指さした。パルスの旅人がルシタニア兵を見て慌てて隠れたのだろうか。それならいいが、何か不穏なものを感じる。

「貴様、何をして―」

 馬を寄せたエステルは絶句した。反射的に剣を抜き、男の首を刎ね飛ばした。その横には別の男の死体。切り裂かれ―、一部が、ない。

 

「おい、貴様。今、何を隠した?」

 男の持ち物を探っていた部下が、観念したように差し出した。聖堂騎士団の紋章である。ボダンに従い聖マヌエル城に籠城した一人であろう。生き延びた者がいたとしても、何らおかしいことではない。

 だが、その男が何をしていたか。理解できない方がエステルには幸せだった。同じものを見た部下たちが、エステルの視線を避けようとする。態度があまりにもよそよそしい。それは、どういうことなのか―。

 そこから先、エステルの記憶は飛んでいる。エクバターナまで馬を飛ばし、セイリオスの執務室の元に駆け込んだ。あっけにとられるシルセスの胸に飛び込み、泣きじゃくる。

 セイリオスは何も批難せず、シルセスに彼女の相手をするようにだけ命じ、自分から部屋を出た。

 

 さて、この間、ルシタニアの中枢である王家は何をしていたか。もちろん日々の政務や軍の調練は欠かさない。だが、それ以外に目立った動きはしていない。端的に言えば、暇をつぶしていた。

「ギスカールよ、これはどうであろうか?」

 悪くない出来である。イアルダボート教の教義に関わること以外何もできないと思っていた兄に、できることがあったのだな、とギスカールは失礼極まりない感心をした。もちろん、声には出さない。

 大したことではない。本国からマルヤム、パルスの西方までを領する巨大国家となったルシタニアは、王を越え皇帝を名乗っていいだろう。その帝国の、新たな紋章を考えていたのである。

 兄者の暇つぶしにはちょうどいいか、と思い、ギスカールはイノケンティスに担当させてみた。何かさせておけばうるさく言われることもないだろうという程度の狙いだったが、意外に芸術の才はあったようだ。

 

 その中に、十二宮騎士団の隊旗もあった。もちろん各星座の紋章が旗の中央にあるが、旗竿の先に大鷲の像が鎮座している。全隊にだ。となると、意味のない飾りではない。

「セイリオスから聞いたのじゃ。大鷲はかつてルシタニアのある西方を統一したという大帝国の軍の象徴であった。我が国がそれを継ぐ意思を示すためにも、これは外せぬ」

 なるほど、イアルダボート教から解放されたルシタニア帝国のモデルは、失われた古の大帝国か。記録と各地に残された遺跡の数々は、その国がパルスにも勝る繁栄を謳歌していたことを物語る。

 パルスの民は知らないだろう。彼らが『西の外海』と呼んでいるマルヤムとミスルの間に広がる海は、実は西の端でほとんど閉じている。狭い海峡で、南(ミスル側)と北(マルヤム側)が向かい合っているのだ。

 古の大帝国は、己の領土でその海をすっぽりと包み込んだ。イアルダボート教の発祥より前の話である。その帝国もやがて衰退して、いくつもの国に分裂した。その欠片の一つが、のちにルシタニアとなった。

 

 一方、その頃のパルスは、蛇王とかいう化け物に支配されたという。ちょうど大帝国が分裂した後の混乱の最中で、パルスにまで関心を持つ余裕のなかった西側の記録には何も残ってない。

 蛇王とその眷属。お伽噺として笑い飛ばせばいいのだが、ギスカールには一つ気になる記述があった。蛇王が、その大帝国の皇帝が持っていたとされる、黒い刀身の剣を欲しがっていた、と言うものだ。

 パルスの王立図書館にあった古文書によると『星々の欠片を鍛えた剣』で、ルクナバードに対抗できる唯一の存在と考えられていたらしい。結局、混乱の中で見つからなかったというが。

 

 黒い刀身の剣、と言えば、ギスカールに思い当たる節は一つしかない。セイリオスの佩剣『アステリア』である。星の女神の名を冠した剣、というのも、伝承と符合する。

 ついでに言うと、その剣には対になる指輪があり、指輪が統治の、剣が軍事の象徴であったという。ちなみにかの大帝国にて指輪はただの装飾品ではなく、印璽の役割も持っていた。

「そうだとすると、何やら因縁めいたものを感じるな」

 アルスラーンと、セイリオス。ルクナバードとアステリアに選ばれた二人が、この時代に激突する。さて、結果はどうなることやら。

 だがその前に、相手をせねばならない者がいる。

「アンドラゴラスが、いよいよ来るか。豪語した通り、勝ってもらうぞ」




アルスラーン戦記でどうしても上手く解釈できなかったのがアンドラゴラス王の子とパルス以外の国に蛇王とその眷属の化物に関する情報が全くない事です。

アンドラゴラス王の子については作中で書いた通り、意味不明。アンドラゴラスが動転してろくなことを思いつけなかったのでしょうか?

蛇王はルシタニアはともかくトゥラーンとかシンドゥラとか(統一国家形成前としても)、1000年続きパルスであれだけ知られていることの情報が全くないのは不自然すぎます。
こちらはあり得そうな解釈が全く思いつきません。

話は変わり『アステリア』はルクナバードが『太陽の欠片を鍛えた』と謳われていたため対比で『星=隕石を魔導を使って鍛えた』という設定になりました。
『セイリオス』という名前や『十二宮騎士団』など星に関係しているのはそのためです。
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