「ぬっ!ぐおおおお!!!」
ボードワンの戦斧と、敵の大剣が火花を散らす。討ち取れるような相手ではなかった。パルス人というのは人の皮をかぶった化け物の集まりかと毒づきながら、討ち取られないことだけを考えて斬撃を受け流す。
隻眼の相手である。攻撃は一切考えず、ひたすら防御に徹する。万騎長のクバード相手に粘れるのだから、ボードワンの剛勇もなかなかの物である、と言えた。
ボードワンにとって、ここが最後の一線である。役割は充分果たしたであろう。後は、死ぬより先に逃げ出すだけだ。
渾身の力で、相手の斬撃を弾き飛ばす。一瞬の隙ができた。
「覚えていろ!後で吠え面かかせてやる!!!」
まるで三下のような捨て台詞を投げつけ、ボードワンは一目散に逃げだした。左斜め後、パルス軍の突進を避けるように。
ボードワンの敗走を見て、最後まで抵抗していたルシタニア軍も逃げ散っていく。急に視界が開けた。少し間を開けて、ルシタニアの後軍3万。
「………なんだ?」
思わず、クバードは馬の手綱を引き絞ろうとした。何か変だ。最前列に槍衾、その陰に隠れるように弓兵。手本のような堅陣に、別におかしなところはない。……だが、それがおかしい。
(冷静過ぎではないか?)
これが緒戦なら解る。しかし中軍が断ち切られ、自分たちが最後の一線となっているのだ。それなのに、動揺も無く待ち構えている。予定通りと言うかのように、慌てる様子がまったくない。
だが逸った味方と、そんなことが解るはずもない後方からの圧力によって、クバードは前進するしかなくなった。それにここで馬の足を止めれば、ルシタニア軍に四方から取り囲まれて壊滅する。
手の力を抜き、馬を駆けさせる。弓兵が矢を射かけてきた。それを払いのけながら、クバードは違和感の正体に気付いた。草の中に、何かがある。
「立てろ!!!」
セドリウスの合図で、兵が綱を引く。夏場の茂った草の中から、いきなり柵が飛び出した。この柵は可動式で、繋げた綱を引くと斜めに立ち上がり、そこで固定される仕組みになっている。
「う、うわあああ!!!」
勢いあまって、パルス兵が柵に衝突する。慌てて手綱を引き絞り馬を止めた者も、後ろから来る状況が判らない者に追突された。かろうじて一列目を飛び越えても、二列目は助走が足りない。
「押すな!!!押すなぁ!!!」
誰かが叫び声をあげる。だが勢いづいた6万騎がそう簡単に止まれるわけがない。そこに、ルシタニア兵が矢を射かける。
柵と倒れた人馬が障害物となり、騎兵の足が止まった。ルシタニアの改良された弓は、そのパルス兵を容赦なく穿ち抜く。
「ちぃい!!!退け、退けー!!!」
クバードは大声で叫ぶが、後方からは6万騎が続いているのだ。引き返そうとする最前線と状況が解らない後方で、パルス軍同士の勢いがぶつかり合う。それは、アトロパテネの再現だった。
雨の様に降り注ぐ矢を、クバードは大剣で払い落とす。一本払い損ねて、右の太腿に突き立った。ぐらりと体が傾いたが、落馬は耐えた。続く矢を、再び払いのける。
「クバード将軍!!!」
近くにいた兵が、駆け寄ってくる。右隣に並ぼうとしたその時、兵の喉笛に矢が命中した。その体が、クバードの振るう大剣を邪魔するように崩れ落ちる。
悪運が重なる、というのは、こういうことなのであろう。クバードの身を案じた兵の行動は善意だったし、この時に矢が命中したのも落馬の方向も偶然である。
神の視点から言えば、クバードはその兵を断ち切ることになっても、大剣を振るうべきであった。だが彼は未来を見る事などできず、冷酷非情でもない。その兵の身を案じ、剣を振るう手が躊躇しても当然である。
左斜め前からの矢に、反応が遅れた。左目が見えず元から視界が狭い上、右の兵士を気にしてそちらを見てしまったのだ。クバードが隻眼でなければ、また違った結果となったかもしれない。
はっと振り向いたクバードの右目に、矢が突き立った。眼球から頭蓋を貫き、脳まで達する傷である。致命傷であることは疑いない。
「………」
落馬し、サハルードの野に仰向けになったクバードの唇が、わずかに動いた。彼が最期に何を言ったのか、聞き取った者はいなかった。
「何が起きている!!!」
6万騎の突撃が止まったのを受け、アンドラゴラス王が叫ぶ。隣にいたキシュワードは血の気が引いた。やはり、ナルサスが恐れた通り罠があったのだ。
(アンドラゴラス王をわざと脱走させたのも、騎兵の突撃を誘うため―)
敵の目的が何か悟り、キシュワードは己の見通しの甘さを悔いた。騎兵と歩兵が分断された時、騎兵を避け歩兵を叩く肚かと思ったのだ。
セイリオスは、そんな甘い敵ではなかった。彼はパルスの主戦力である騎兵隊を、根こそぎ殲滅するつもりでいた。
中央突破を狙ったパルス騎兵は、敵の袋の中に飛び込んだ形になっている。
「王よ、退却をお考え下さい」
何だと、と怒りの形相がキシュワードを睨みつけた。それに動じず、つとめて冷静を保ち、先鋒はきっと罠にかかったに違いないと自分の予想を告げる。
「罠など踏み越えてみせよ!!!」
喚き声の後に、ぎり、と歯が鳴る音が聞こえた。二度目の敗北は、パルス王として絶対に許されない事であった。負けを認めるくらいなら、このまま突撃して果てるべきではないか。
「王よ、我が軍で背後の敵を足止めします。あの軍とだけは、戦わぬように。斜め後方の敵陣を突破してお逃げください。………続け!!!」
キシュワードは冷たい声で言い放ち、旗下の騎兵1万を従えて疾駆する。アクターナ軍の歩兵隊に、勢いに任せて突っ込む。騎兵が歩兵を割っていく。それなのに、キシュワードの全身に悪寒が奔った。
何か、とても柔らかいものにぶつかったような感触だった。押し込んでいるのに、手ごたえがない。自慢の双剣を振ろうと、そこに敵がいない。
不意に、草の中から何かが現れた。柵だと気付いた瞬間、手綱を搾っていた。勢いを止められなかった部下たちが、柵や前方の味方に衝突する。キシュワードも棹立ちになったところに追突され、馬から投げ出された。
(こういうことか!!!)
ようやく、全てを理解した。馬から投げ出されても見事に受け身を取り、一回転して立ち上がった。この間も、双剣は手放さない。
「最前列の者は馬を捨て、徒歩になって柵を壊せ!!!」
馬を捨てろ、というのは、パルスの騎兵にとって死にも勝る屈辱と言える。それをキシュワードはあえて命令し、率先して柵に取り付いた。周囲の騎兵が一瞬の躊躇の後、やむなく馬から降りて柵を壊し始める。
さすがに何重にも柵を展開するのは無理だったようで、一列だけだ。敵の歩兵隊が壊させまいと、一斉に襲い掛かってくる。ここで死んでたまるか。それだけを考えて、キシュワードは双剣を振るった。
アクターナ軍の歩兵と言えど、もちろん一対一ならキシュワードに敵うはずもない。だが五対一なら、五十対一ならどうなるか。ましてや、キシュワードではない普通の兵では…。
パルス兵も奮戦するが、俄か仕立ての歩兵とアクターナ軍の歩兵では練度がまるで違う。かといって騎兵の威力を活かすには距離が足りない。騎兵の長所である機動力と突進力を、完全に封じられている。
「退け、退けー!!!」
敗退の合図を出すなど、人生で何度目か。運よく空馬を拾い、後方のまだ残っていた隙間で軍を纏め、右に向かって駆けアンドラゴラス王の部隊と合流する。これ以上アクターナ軍を相手にしても、損害が増すだけだ。
(ろくな時間稼ぎもできないとは)
なんて軍だ、と内心で毒づいた。ナルサスやダリューンがあれだけ恐れていた理由が、骨の髄まで理解できた。心のどこかで、いくら何でも買いかぶりすぎではないかと侮っていた自分を、呪いたくなってくる。
幸いと言えるものではないが、この時アクターナ軍の騎馬隊はパルス歩兵隊を追い、そちらを散々に蹴散らしていた。駆ける土地さえあれば、歩兵が騎兵に追いつける道理はない。
前方に、2千ほどの騎馬隊。アクターナ軍とは動きがまるで違う。キシュワード隊の行動を敗走と見て、功を挙げる機会と思ったのだろう。その勘違いの代償は大きいものとなる。
「この『
一直線に敵将に向かって駆け、一閃でその首を刎ね飛ばした。ルシタニア騎馬隊のブラマンテ将軍であったが、キシュワードはその相手に興味を示さず、先を駆ける。
ブラマンテの戦死で、包囲網の一角が混乱している。キシュワードとアンドラゴラス王はそこに力を集中させ、重囲を突破した。続く味方は、5千もいない。
「お前は王を守り、戦場を脱せ!!!」
千騎長の一人に命令し、すぐさま反転してルシタニア軍に突っ込んだ。ブラマンテの死で生じた混乱も、たちまち繕われようとしている。それが終われば、包囲網の中に残されたパルス騎兵隊は全滅する。
外からの攻撃により、ルシタニア軍が乱れる。中の武将もそれに気付き、そこに攻撃を集中する。まず最初にザラーヴァントが飛び出してきた。彼とまだ戦える騎兵を従え、キシュワードは再び敵に突っ込む。
キシュワードの奮戦は、この戦いの中で讃えられるに足るものである。だが彼は、怒りすら見せてそれを嫌った。サハルードの大敗は自分の無能のせいだと、常に言ったという。
もっとも、それは後の話だ。この時はとにかく、一人でも多くの味方を救うことしか頭になかった。跳ね返されようが、ひたすら攻撃を繰り返す。
「死兵と化している。あの男は、相手にするな」
無駄死にするだけだ、と、エスターシュは命令した。包囲網の一角が開く。逃げられる、と感じたパルス兵がそこに殺到する。瓶の首に詰まった敵を、斜め後ろから攻めかけた。
(パルスの騎兵も、こうなっては脆いものよ)
中の騎兵隊の戦意は、生き延びる選択肢を示された途端に消え去ってしまった。もはやパルス騎兵は逃げ惑う羊の群れと変わりない。アクターナ軍の歩兵はそれを、容赦なく討ち取っていく。
キシュワード隊も逃げ惑う味方の援護が最優先となり、動きが大きく制約される。だがその奮戦は無駄ではなかった。そうでなければイスファーン、トゥースの両隊は全滅していたところだ。
彼らを救出し、ルシタニア軍が一団となってこちらに向かってくるに及んで、キシュワードも退却した。もはやルシタニア陣の中に、パルスの軍旗は見えなくなっていた。
一方、パルスの歩兵は、アクターナ軍の騎馬隊とパテルヌスの
元々、パルス軍が精強であったのは騎兵の力であって、歩兵はそこまで強くない。悪く言えば騎兵の後を付いていっていただけだ。騎兵隊が止められたとなれば、士気もがくんと落ちる。
「進め、進め!腰の砕けた敵を討つだけだ!功績は立て放題だぞ!!!」
威勢のいいことを言っているのは、プレージアン伯というルシタニアの貴族である。思慮は浅いが剛勇で知られた男で、典型的な猪武者と言っていいが、こういう場合にはうってつけの存在であった。
「進め!!!我が部隊に後退の文字はない!!!前進、前進、前進だ!!!」
プレージアン伯の部隊は錐のようにパルス軍に食い込んでいく。突出しすぎた敵を討とうとしたパルスの部隊は、動き出したところをアクターナ軍の騎兵隊に蹴散らされた。そこからまた、さらに崩されていく。
シャガード将軍は必死で軍を纏めて退却しようとしたが、彼方から飛んできた矢に胸を射抜かれて即死した。指揮官としての行動が、アクターナ軍のアーレンスの目に留まったのが運の尽きとなった。
「もう駄目だ、逃げろ!!!」
誰かが叫んだ。形勢は圧倒的不利と言えど、パルス兵が「逃げろ!」などと叫んだことは、これまでにない。アトロパテネですら、まさしく玉砕と言える、果敢に戦った末の敗北だったのだ。
「貴様ら、パルス兵の誇りを忘れたか!!!」
小隊長が怒鳴りつける。だがそれに対し、別のところから声が飛んだ。
「俺はアルスラーン殿下のところに行くぞ!こんなところで死んでたまるか!!!」
その声が波紋のように広がり、全軍を震わせた。「アルスラーン殿下のところへ!」と誰かが叫び、それを聞いた者もまた叫ぶ。雪崩のように、パルス歩兵隊は崩れ去った。
戦いは、日が大きく傾き、夕暮れまでもう少し、という時刻に終わった。パルス軍の損害は騎兵4万1千、歩兵3万と言われる。騎兵より歩兵の損害が少なかったのは、彼らが逃げ散ってしまったからである。
パルスが受けた傷の大きさで言えば、『サハルード会戦』はアトロパテネに匹敵する。だが両者には、決定的に違うものがあった。ルシタニア軍の損失である。
アトロパテネでの戦死5万に対し、サハルードでは僅か6千。ルシタニアとしては歴史的な完勝、パルスからしたらアトロパテネを越える大惨敗、と評されるのもそこに理由がある。
「アンドラゴラス王までのパルスの栄光はアトロパテネで崩れ、サハルードで潰えた」
後世、ある歴史家はそう記述した。この大敗で、アンドラゴラスの名望は地に落ちた。彼の元に残った兵は、騎兵1万と歩兵3万余しかいなかったという。生き延びた者も、逃げ散ってしまったのだ。
代わって、ルシタニア軍と、それを指揮した『軍神帝』セイリオスの名は世界に響き渡ることになる。その瞬間を間近で見て、ルクールは呆然とした。この瞬間、セイリオスは彼の神になった。
同じとき、エステルは大勝利の昂揚の一方で安堵していた。アルスラーンがこの戦場に居なくてよかった。何故か判らないが、その気持ちが消えない。
「兄上、終わりました」
何事もなかったかのように報告する弟に、ギスカールは「お、おう」とぎこちなく頷いた。こいつが敵になったら、と想像すると、背筋が寒くなる。「終わりました」とは、想定通りでしかないから出る言葉だ。
だが、セイリオスは当たり前のようにアクターナ軍を除く全軍の指揮権をギスカールに返上してしまった。それを見て、ギスカールは大きく息を吐く。
(何を考えているのだ、俺は)
セイリオスが敵意を示すのは、自分を害する存在と、ルシタニアかアクターナにとって有害な存在だけである。ギスカールが兄弟の絆を信じ、堕落しない限り、弟が裏切ることなどありえないではないか。
それより、あのアンドラゴラス王とパルス軍を一蹴した男と軍を、自分は口先一つで動かせるのである。為政者にとってこれほど甘美で、これほど愉悦なことはない。
(セイリオスに軍を率いさせれば、地の果てまで征服できる)
つい、想像してしまう。だがそれは現実を無視した暴挙であり、それを自覚しなくては、あの兄者より有害な為政者となるであろう。それこそ弟と戦うことになってしまう。
「…正直、ここまで大勝するとは思っていなかったぞ。ルシタニアのために、よくやってくれた。諸将も、兵士も、感謝に堪えぬ。このギスカール、ルシタニアの王族として歴代の諸王に代わり、皆に礼を言う」
ギスカールは全軍に対し頭を下げた。それを見て、合図も何もなく、喚声が上がる。その声は、サハルードの野に響き渡り、しばらく消えなかった。
ルシタニア軍は日暮れまで遺体の回収と生存者の捜索を行い、サハルードから撤退した。パルス兵の遺体が多すぎて、ルシタニア兵の埋葬までで精一杯だったのだ。死体が転がる草原で寝たいとは、誰も思わない。
―その夜、事件が起きた。
ルシタニアの勝利、確定―。