ルシタニアの大軍がエクバターナの近郊を通り、西に向かう。エクバターナの城壁からでも、その様子ははっきり見えただろう。
「奴ら、今頃、エクバターナの宮中に集まって、どんな顔をしていることやら」
ギスカールですら予想外の答えだったのだ。首謀者たちに予想できるはずがない。セイリオスを甘く見過ぎた報いを、存分に味わっているはずだ。
「兄上の身は大事ですが、それだけでルシタニアを危難に晒すわけにはいきません」
国王を人質に取られたとはいえ、脅迫者の意のままに動くようでは威信が丸つぶれである。ここは強烈なしっぺ返しを食らわせねばならない。
それで人質の身に危害が加えられるのではないかという懸念に対して、セイリオスはあっさり言い切った。
「その時はその時です。兄上の命運はここまでだったということでしょう」
それでもセイリオスは読んでいる。少しでも頭が回る相手なら、イノケンティスを殺す意義が全くないことに気付くはずだ。唯一の人質がいなくなれば、ルシタニア軍は完全に自由になる。
「となれば、条件を下げて再交渉を求めるほかありません」
ルシタニア軍がいなくなれば、フィトナの手勢はケルボガの数千だけだ。他の勢力に対抗できるようなものではない。そしてフィトナが組める相手はルシタニアしかない。彼女が悲鳴を上げるのは、すぐだろう。
問題は、裏切り者だけだ。フィトナを見限り、他と手を結ぼうと考える者が必ず出る。そうなったらイノケンティスがどうなるかは不明である。それはもう、兄の運を信じるしかない。
「……うむ」
ギスカールはあいまいに頷いた。セイリオスの言ったことは、ルシタニアの為政者であるならこの上なく正しいし、ギスカールもそうしただろう。それでもどこか、冷酷な印象を捨てきれない。
兄弟の情と為政者の判断を混同してはならない。ギスカールも重々承知だが、次兄としては、長兄のために苦悶する弟が見たかったという思いがある。
こいつはやはり、兄だからというだけで従うような甘い奴ではない。とんでもない弟を持ったものだと、今更ながら実感する。セイリオスが判断を誤る存在がいるとしたら、ただ一人だけだろう。
(拉致するならシルセスにするべきだったな)
魔導士たちのために思う。その場合、どんなことになるか想像できないが。
一方、エクバターナ宮中。
「ラヴァンはどこへ行ったのじゃ!!!この状況、どうするのであるか!!!」
フィトナが辺り構わず喚き散らしていた。タハミーネはそのフィトナをなだめようと、おろおろするばかり。恐懼しながらケルボガは、心の中がどんどん冷えていくのを感じていた。
名案など、誰にもない。ルシタニアに再度交渉の使者を送るべきだという声もあったが、フィトナはそれを渋った。要求を下げては、彼女にとって意味がなくなる。不毛な議論が続く中、機を見て宮中から引き下がる。
「………ケルボガ、おい、開けてくれ」
住処に帰ったケルボガに、窓の外から嘆願する声がある。誰かは確認するまでもない。
「ラヴァンよ、この不始末、どうするつもりだ」
「どうもこうもないわ。あの三弟を測り損ねた、大失敗よ。……こちらからも聞くが、お前はこの状況から逆転する見込みがあると思っているのか?」
逆に詰問されて、ケルボガが言葉に詰まる。彼の掌握する兵は多少増えたが、せいぜい3千に過ぎない。ルシタニアが動かなければ、絶望するしかない戦力である。
「わしは逃げる。あの女に貢いだ分が泡と消えるが、諦めるしかなかろう」
ラヴァンはフィトナを見捨てると断言した。ケルボガもそうしたいところである。しかし、ただ逃げれば念願だった万騎長への道は閉ざされ、苦労して手にした千騎長の座さえ失う。
「……そもそもの失敗は、あの女と組んだことだった」
サームが軍を募った時、応じていればよかったのかもしれない。何故そうしなかったかと言えば、サームに対するわだかまりがあったからだ。
エクバターナ防衛時にサームは消極的な防衛策を取り、幾度もガルシャースフと衝突していた。撃って出てルシタニア軍を蹴散らしていればエクバターナ陥落も、ガルシャースフの死もなかったかもしれない。
それがのうのうと生き延び、しかもルシタニアに降伏してその手先になったという。ヒルメスのことを知らなければ、そうとしか見えない。ケルボガがサームを恨んだとしても、無理のない話であろう。
同時に、アルスラーンの所にも行きたくなかった。ペシャワールの軍に擁立されたという話で、それなら連中が主導権を握り大きな顔をすることは目に見えている。アルスラーンにそれを抑える器量はないと見たのだ。
(何故エクバターナの攻防で苦労した俺が、何もしていなかったペシャワールの奴らの下風に立たねばならないのか)
アルスラーンの真価を知っていれば、ケルボガも違ったことを考えただろう。だがそれが見え始めたのはアトロパテネ以降のことであり、彼が全く気付けずにいたのも批難できることではない。
好機を逃し続けた彼は、結局余りもの同士と言う感じでフィトナと組んだ。これ以上部下を養うにはそうするしかなかった。パルス王妃、すなわちタハミーネに仕えるという名目で、自分と部下を納得させたのだ。
「……まあ、愚痴はそのくらいにしておけ。それより、お前もあの女はもう終わりと見ているのだな」
露骨に言われケルボガは不快に思ったが、否定はしなかった。それを見て、ラヴァンはにやりと笑う。狡猾とも陰険とも取れる、嫌な表情だ。
「それがお前の本心なら、もう一仕事できる。実は、ヒルメス王の所にちょっと伝手があってな。それを頼ろうと思っていたが、手土産の一つぐらい欲しい所だったのだ」
ケルボガが息を呑んだ。ラヴァンが何を言っているかくらい、すぐわかる。ヒルメスに内通して、このエクバターナを明け渡せ、ということだ。
「あの王は王位に非常に執着している。そして正統な王と示すには、エクバターナは必須だ。城門を開ける代わりに我らの立場の保証を願えば、十中八九乗ってくる」
ケルボガが考え込んだ。確かに、寝返るとしたらヒルメスの所が最も安全だ。他と比べた場合に比較的、としか言えないが。
ルシタニアは国王誘拐の片棒を担いだ自分たちを決して許さないだろう。アンドラゴラスに降伏した場合はと言えば、自分以外の存在を担いだとして大逆罪に問われ、即刻刑場行きになる。
アルスラーンはどうも筋目を通すところがあり、裏切り者が歓迎されるとは思えない。このままフィトナと組み続けるのは、自殺行為でしかない。
「…………やるか」
ケルボガが決断した。ヒルメス軍8万はエクバターナのすぐ近くまで迫っていた。
ルシタニアがアンドラゴラス軍に大勝利を収めたと聞き、ヒルメスは愕然とした。ルシタニアが勝つにしても、ここまで一方的な勝負になるとは夢にも思ってなかったのだ。
「一度カシャーン城まで撤退するべきではないでしょうか?」
サハルードで両軍が激突している頃、ヒルメス軍はエクバターナに向けて進軍していた。彼の予想では両軍が激突しているうちに、アンドラゴラスに先んじてエクバターナに乗り込むはずだった。
それが、たった2日で勝負は決した。勝ち誇ったルシタニア軍20万が反転してくるとなると、ヒルメスの8万では手も足も出ない。ひとまずニームルーズ山脈の険路に防衛陣を布き、様子を伺う。
そのルシタニア軍がエクバターナを素通りして西に撤退中、と聞いて、ヒルメスは耳を疑った。真偽を確認していたところに、ケルボガの使者がやってきたのだ。
「どういうことなのだ?まさか、奴ら―」
本気でエクバターナを放棄するつもりなのか、と言おうとして、ヒルメスの全身に悪寒が奔った。そんな馬鹿な、と慌てて否定する。エクバターナを捨てるなど、ヒルメスの常識では考えられない。
だが、ルシタニア軍が西に去ったのは事実である。フィトナの一党に占拠されたから、というのも、理由として薄い。数千の部隊を蹴散らして奪還するなど訳が無いことだ。
(国王の身を案じて―。…いや、ありえない)
王弟二人が健在なら、ルシタニアは微塵も揺るがない。ルシタニアの宮中を知っているヒルメスは、それを充分承知している。それにそうだとしたら、脅迫者の言う事を無視するはずがない。
「陛下、何であれ、これはエクバターナ奪還の好機ではありませんか!迷うことなく、軍を進めるべきでございます!」
威勢のいい大声を上げたのはザンデだ。カーラーンとサームも、不安を残しながらも賛同した。エクバターナ奪取は当初からの目的である。遅巡して誰かに先を越されたら、全てが水の泡となる。
「よし、エクバターナを解放する」
ヒルメスも決断した。不安は消えるどころか、より強くなっている。それでもエクバターナは必要なのだ。そう自分に言い聞かせて不安を押し隠したヒルメスの軍は、エクバターナに迫る。
ヒルメス軍がエクバターナに迫っていると聞いて、当然フィトナはケルボガに各城門の守備を命じた。ケルボガはそれを、一切の抗弁をせず受けた。
エクバターナの城門は9つ。ケルボガの手勢は3千程度。城門以外にも守兵は必要だから、各門にせいぜい百数十しか配備できない計算になる。
「よい。考えがある。死にたくなければ、黙って従うことだ」
不安を口にした部下に、ケルボガは表情を変えずに答えた。このあたりで、部下も薄々自分たちの隊長が何を考えているのか感づいたであろう。
「開門せよ!我こそは正統なる第18代
ヒルメスの軍は、ついに城門下まで迫っていた。城内から見れば二十数倍の大軍である。損害度外視で力攻めすれば、いくらエクバターナが堅固な要塞と言えども落とせないはずがない。
「開門せよ。あの御方はオスロエス王の嫡子であるぞ。このエクバターナの正統な主である」
ヒルメスの宣言を受け、ケルボガは何ら動揺するそぶりも見せず部下に命じた。部下も唖然としたり憤激する者は少なく、「やっぱりか」と納得したように門を開ける。
ヒルメスは何の妨害もなくエクバターナに入城した。唖然とし呆然とし、次いで憤激した者はフィトナだけであった。それも収まると、次に来たのは恐慌である。
「………」
もう、自分が何をしているのかさえ解らない。逃げなくては。だがどこに?とにかく、王座の間にいるのはまずい。タハミーネの声がしたような気がしたが、それも耳に入らない。
結局、彼女は地下の倉庫に転がっていた空き箱に隠れ込んだ。ヒルメスの兵が虱潰しに捜索すれば隠れ通せるものではないのは明らかなのに、何故そうしようと思ったかもよくわからない。
さほどの時もかからずかくれんぼは終わりとなり、彼女はヒルメスの前に牽きたてられた。
「ぎ、銀仮面卿……」
懐かしい呼び名だ、とヒルメスは思った。ヘルマンドス城攻略以後、初めて呼ばれたと思う。
「我が名はヒルメス。パルスの正統なる第18代
喉元に、剣先を突き付ける。逃げようとする意思すら無くし、ただがくがく震えて怯えるだけだったフィトナだったが、ヒルメスが動かずにいると次第に目が据わってきた。
「……愚かな男よ。私を愚かな女と蔑んでいるのであろうが、そなたはそれ以上に愚かじゃ。ルシタニアが何を考えておるのか知りもせず、ただ踊らされているだけ―」
ヒルメスの剣が一閃し、その声を永遠に遮った。転がった首を見て、タハミーネが発狂したように叫ぶ。その狂女に対しては、ヒルメスは斬る価値を見出さなかったようだ。
「牢に放り込んでおけ」
短く、そう言っただけである。しかし内心にて、彼の感じていた不安はさらに大きくなっていた。
フィトナの処分を付けたヒルメスは、まず兵糧庫と宝物庫の確認に向かった。ナルサスほどではないが、彼とて食料がなければ人は生きられず、軍資金がなければ軍も政治も動かないことは知っている。
「こ、これは……」
兵糧は8万の軍なら半月分もなく、宝物庫はほぼ空である。『ほぼ』というのは、持ち運べるものは根こそぎなくなっていたからだ。
残っていたのは運ぶことの出来ない大型の財宝(それも装飾などは可能な限り剥ぎ取られていたが)と、持ち運べるにもかかわらずそのままになっていた一つの宝、それに多少の金銀貨だけである。
「パルスの王冠…」
これが残ってないのなら、まだいい。ルシタニアがあらゆるものを略奪して去って行ったというだけだ。これだけはあえて残した。何らかの意図と、それだけの余裕があったということだ。
これは、追い詰められて逃げ去ったのではない。そう思い至り、ヒルメスの全身から冷や汗が噴き出した。ルシタニアが何を考えていたのか、この時彼もはっきりと悟ったのである。
「ルシタニアは、エクバターナの放棄を前提に動いていた……」
利用されていたのは自分だけだった。こちらとて奴らを利用していると思っていたが、最初から今に至るまで、奴らの掌の上で踊っているだけの道化でしかなかった。
フィトナ退場。そしてヒルメスは真実に気付く―。