ルシタニアの三弟   作:蘭陵

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36.変転に次ぐ変転

 ヒルメスとアンドラゴラスの決戦となった『第二次サハルード会戦』であるが、この戦いについて、戦術的には特筆することは何もない。

 8万のヒルメス軍に対し、アンドラゴラスは3万。だがこの戦いにおいてヒルメスの指揮はさっぱり冴えず、アンドラゴラス軍の猛攻に場当たり的な対処をしているだけで終わってしまったのだ。

 受けた衝撃の大きさで、完全に思考が停止していたと言える。ついでに言うとキシュワードも似たり寄ったりで、この戦いで彼がしたことはアンドラゴラスの命令を伝達するだけであった。

「おぬしも知りたかったであろう?予の死後、アルスラーンに伝える者がいなくなるのも困るのでな」

 キシュワードは悪寒を覚えた。サハルードの大敗で、どこかおかしくなってしまったのではないか。もはやアンドラゴラス王がパルスの存続を願っているのか滅亡を願っているのか、それすら判別できない。

 

 ともあれアンドラゴラス王はルシタニアに惨敗した第一次の鬱憤を全てぶつけるかの如くヒルメス軍を蹂躙し、大破した。あの会談はヒルメスの動揺を誘うための策謀としてだけと考えれば、大成功だったと言える。

「カーラーン、殿軍は俺がやる。何としても陛下をエクバターナに連れ戻せ」

 ここが死に所だ、とサームは決めた。思えば、エクバターナは守り切れず、ヒルメスに忠誠を尽くしたとも言えず、パルスという国家のために何ができたという訳でもない。それなら、死ぬしかないではないか。

 サームは殺到する敵軍に先頭で突っ込み、剣を振るう。その中でまずイスファーンを、次いでザラーヴァントを相手にしてそれを退けた。

(あのような若者がいるのであれば、きっとパルスも持ち直すであろう)

 その時のパルス王が誰であるかは、考えないようにした。後は最後の欲として、駆け出しの若造やそこらの兵に首を取られるのは御免である。雄敵を探し、サームは剣を振り続けた。

 

 

「陛下、このままエクバターナまで駆け通します。軍を再編し籠城すれば、まだまだ挽回は可能ですぞ」

 カーラーンの言葉に、ヒルメスは虚ろに頷く。アンドラゴラスとの会談から戻ってきて以来、ずっと生気が抜けたままである。それを、腹立たしく思う者がいた。

「………」

 ザンデが無言で馬を寄せた。カーラーンがそれに気付き視線を向けると、ヒルメスも視線を向ける。その顔に、ザンデは思い切り拳を叩き込んだ。

 

「………」

 ヒルメスが、無様に馬から転げ落ちる。時が止まったようだった。カーラーンも近習も、呆然として硬直している。殴られたヒルメスさえ、何が起きたのかわからないようにザンデを見るだけであった。

「剣を抜く気概さえ失いましたか。……情けない!俺は陛下こそパルスに正道を取り戻す人だと信じていたのだ。それが、こんな腑抜けだったとは!!!」

 ザンデがヒルメスを罵倒したことなど、初めてである。硬直の後、いち早く剣を抜こうとしたのはカーラーンであった。その父親をじろりと睨みつけ、ザンデはさらに大声を張り上げる。

「父よ、斬りたければ斬れ!だがその前に言わせてもらう!!!末裔がこの体たらくでは、英雄王も墓の下でさぞ嘆いておろう!!!だからアルスラーンなんぞにルクナバードを渡したに違いない!!!」

 

「ザンデ、貴様ぁ!!!!」

 英雄王の名が、弛緩しきったヒルメスの神経を刺激した。怒りに任せてザンデに斬りかかる。鋭くはあったが単純な振り下ろしに過ぎない一閃は、彼愛用の大剣で防がれた。

「少しはお目が覚められましたか。陛下が英雄王の名に恥じぬ気概を取り戻されたのであれば、言った甲斐があったと言うもの。しかし、万死に値する行いであることも判っております」

 ザンデは馬から降り、剣をわきに置いて拝跪した。言いたいことを言い終えた後の、清々しさすら感じさせる姿である。

 

「………」

 ヒルメスは、無言で荒い呼吸を繰り返した。剣を納めるわけではなく、かといって再度振りかぶろうとするわけでもない。

「……………俺は、俺が信じていたような存在ではなかったのかもしれない」

 ようやく、絞り出すように言った。アンドラゴラスの言ったことなど、信じられるはずがない。そう自分に言い聞かせても、「もし本当だったら」という疑念が消えないでいる。

 そして本当だったら、自分は間抜けな道化でしかない。これまで、何のために戦っていたのか。そして、これから何のために戦えばいいのか。

 

「………」

 ヒルメスが、こんな弱気な物言いをしたことなど、かつてない。傲岸なところはあれど、それは自信によって王にふさわしい覇気へと昇華されていた。カーラーンでさえ、かける言葉が見つからないでいる。

「……アンドラゴラスが何を言ったかなど知りませぬが、どうせろくでもないことで、しかも陛下には何ら責がないことでしょう。であれば、それを正すのは、陛下しかおられぬではありませんか」

 呆然としたヒルメスが、しばらくして周囲を見渡す。ヒルメスに劣らずきょとんとしたカーラーンも、表情に自慢を覗かせながら頷いた。他の者も、不安が晴れたような顔をしている。

 その部下たちを見て、ヒルメスの中で何かが切れた。

 

「……そうだな。本当に、こんな情けない末裔では、カイ・ホスロー王も見限るというものだ」

 こんなにさわやかな気分で自嘲するなど、これまでの人生でありえなかったことである。血統に自分の価値を求めてきたヒルメスは、ここで初めて自分という存在に自分の価値を見たのだ。

 そうすると、見えてきた。アンドラゴラスの言ったことが嘘ならば、これまで通りにしかならない。ヒルメスはオスロエス王の嫡子であり、正統性という観点からは彼の主張に理がある。

 逆に本当だったとすると、アンドラゴラスは父王殺しの大逆犯だ。王族だろうが、王を、父親を殺していいはずがない。それを正すことができるのは、カイ・ホスローの血を受け継ぐ自分しかいないではないか。

 結局、どちらに転ぼうが、自分がパルスに正道を取り戻すことは変わらない。いや、パルスの王家に溜まった澱みの浄化こそが、自分の使命ではないのか。

 

「………ザンデ、これから先、死ぬまで俺のために尽くせ。俺が何者であろうと、お前だけはどこまでもついてきて、俺の行く末を見届けろ。逃げることは、決して許さぬ。それが今回の罰だ」

 その言葉に、ザンデは「ははっ!」と平伏した。この瞬間、ヒルメスは本当の意味で無二の臣を得た。そしてザンデもそれを裏切ることなく、生涯をヒルメスのために使い尽くすことになるのである。

 声音に力が戻ったヒルメスは、馬上に戻るとすっと馬首を返した。エクバターナとは逆の向きだ。どこに行くつもりかといぶかしんだカーラーンに、ヒルメスが宣言する。

 

「サームを救う。あやつも、腑抜けた主君のために命を落とすのは不本意であろう。……怖気づいた者は付いて来ずとも好い」

 ヒルメスの言葉に、いつもの覇気が戻ってきた。感涙を流しながら馬上に戻り、真っ先に「行くぞ!」と叫んだのはザンデであった。彼の麾下が、「おう!!!」と歓声を上げる。

 先頭を走るヒルメスは、後ろを顧みてふっと微笑んだ。

 

 

 殿軍を買って出たサームは、ついに望みの相手を見つけた。『双刀将軍(ターヒール)』キシュワードである。

「サーム卿、剣を引き、改めて陛下に忠誠を誓え。僭越だが、お主の罪が赦されるよう、俺も口添えさせてもらう」

 ヒルメスと同等に呆然自失だったキシュワードも、サームの動きを知って現実に立ち戻った。明らかに死にたがっている。軍の動かし方を見れば、そうとしか思えない。

「キシュワード卿、俺はひとたび、仕える主君を変えた。それは運命に強いられたと弁解できようが、再び変えるのは、単なる変節に過ぎぬ」

 情けをかけるなら、双刀将軍の全力をもってきれいさっぱり殺してくれ。言外にそう言ったサームの声を、キシュワードも聞き取った。

 

「考え直せ。……シンドゥラでバフマンが、サハルードでクバードまで死んだ。もう生き残っている万騎長は俺とお主、ダリューンとカーラーンの4人だけだ。お主の力は、パルスのために必要なのだ」

 クバードの名が出て、サームも少し動揺したようだ。まさか、あいつが。何が起ころうと、誰が相手だろうと死ぬはずがないと思わせる男の一人だった。

「……俺たちは、ルシタニアを甘く見過ぎていた。アトロパテネで負けても、なお、だ。…わかっていよう?パルスを分裂させるために、ヒルメス殿下を利用したことも」

 間違いなく、このルシタニアとの戦争はパルスにとって蛇王以来の災厄として語られるだろう。しかも、これで終わりではない。西に超大国が出現するのに、パルスの国力は激減したのだ。

 

「………」

 サームは無言で首を振った。その表情は、苦渋と諦念と虚無感が入り混じったような、語り掛ける者が悲しみを覚えるものである。

「………」

 もはや、キシュワードも無言で双剣を構えるしかなかった。シャプールやガルシャースフのように、死に場所を得れた奴らがうらやましい。それを翻意させることは、できそうもない。

 しかし、やはり惜しい。戦友としても、パルスという国のためにも。一方で、歴戦の戦士として、そんな思いを抱きながら、サームほどの勇士を切れるか、とも思う。

 

 踏み込む機を見いだせず、対峙が続く。傍の兵は、万騎長同士の向かい合いを固唾を呑んで見守っている。わずかな間、その一角だけは静寂に包まれた。それが、急に破られる。

「サーム!!!!!」

 ヒルメスが、騎馬隊の先頭に立って突っ込んできたのだ。前を遮るものはすべて斬り捨てるような猛気に、キシュワードも一瞬ぎょっとした。感覚としては、竜巻が突っ込んできたようなものだ。

 その竜巻はサームと彼の部下たちを呑み込むと、反転して同じ道を消え去った。「追撃しろ!!!」というキシュワードの号令に、呆然としていた周囲の兵がようやく動き出す。

 

「へ、陛下…。何故…」

「サームよ。お前が呵責に苦しみ、死にたがっているのを、ようやく理解した。……愚かな王よ。だが、それを許すわけには行かぬ。俺には、お前が必要なのだ」

 え、とサームの頭の中が真っ白になった。つい先ほどまでのヒルメスとは、まるで別人である。覇気を取り戻したというのは違う。その上に、人としての情が加わっている。

「………頼む。これからも、俺を支えてくれ」

 サームの心の中で、何かが響いた。少年のころの憧憬だと、しばらくして気付いた。理想の王に仕える立派な騎士の姿。アンドラゴラス王に見ながら見いだせず、所詮夢でしかないと目を背け続けた思い。

 涙をこぼすのは必死でこらえたが、目頭が熱くなるのは止められない。この時、サームも初めてヒルメスという個人を見たのである。正統も何もなく、ただの人として。

 

「カーラーンよ、残る兵は何人だ?」

 エクバターナにたどり着くなり、ヒルメスが叫んだ。3万ほどという答えに顔をしかめたが、誰を批難できることでも無かった。批難するなら、自分自身を、であろう。

「………どうすべきか」

 ケルボガはあっさり死んだ。ナセリは殿軍を務めたサームに従い、討ち取られたという。シャハールやイドリースの姿も見えない。中核は健在だが、それを支える中堅が崩壊したのである。

 一方、アンドラゴラス軍はヒルメスの降兵を吸収し、サハルードで散った兵も戻ってこようとするだろうから、5万は超えるだろう。普通なら、3万の兵が籠るエクバターナの攻略は難しい。

 だが、アンドラゴラスに負けたという事実は大きい。やはり正統の王はアンドラゴラスで、ヒルメスは僭称者に過ぎないというイメージを与えてしまった。このままでは、間違いなく内通者が現れる。

 

「こうなれば、手段は一つしかありません」

 吹っ切れたような表情をしたサームが言う。言いたいことはヒルメスにも解る。この急場で、交渉に脈があり、アンドラゴラスに勝てる存在となれば、一つしかない。

 ただ、それにすがるというのは、誇りも何もかなぐり捨てるに等しい。ヒルメスがこれまで唱えた大義名分を裏切る行為である。パルス王として許されることではないが、情勢をひっくり返すにはそれしかない。

「ここで滅びれば、残るのは悪名だけですぞ。ルシタニアに、援軍を求めるのです」

 

 

「……兄上の悪運も、なかなかの物ですな」

 フィトナがあっさりと退場してしまい、ヒルメスがエクバターナの主になって、イノケンティスの身はかなり危うかった。それがアンドラゴラスの大勝で一変した。長兄にとって、良い方に。

 セイリオスとしては、もはやヒルメスと戦うつもりでいたのだ。カーラーンやサーム辺りを捕らえれば、交換に応じないわけにもいかないだろう。

 その目算は大きく狂った。アンドラゴラスが勝ったというのが、計算外の事態である。あの状況から逃げず、勝利によって挽回するというのは、アンドラゴラスの底力を侮っていたということなのか。

 サハルード以降、予想外の展開が続いている。ヒルメスの救援要請を受けたセイリオスは、ギスカールにそう言った。ただ、ルシタニアにとって致命的なことは何もない。

 

 ヒルメスが出した条件は、イノケンティス王の返還及びパルス西部の割譲、賠償の放棄、さらにイリーナ内親王の持つマルヤム正統の放棄であった。ギスカールには、少々不満である。

「しかし、兄者の解放を除けば、どれも現状の追認ではないか。もう少し粘って譲歩を取りたいところではあるが……、まあ、兄者の身のためだ。仕方ない」

 セイリオスの眼が、一瞬冷えた。そう感じたギスカールは、慌てて前の言葉を打ち消した。ルシタニアのためとなれば兄王でも捨てる奴だが、今の状況でごねるほど情の薄い奴でもないのだ。

「とはいえ、全軍を出すことはないでしょう。アクターナ軍4万と、ルシタニア軍から6万。兄上はこの城で、西の固めをお願いします」

 おいおい、とギスカールは窘めた。アクターナ軍を使うまでもないだろう。10万をボードワンかモンフェラート、ゴドフロワ辺りに率いさせれば充分ではないか。弟以外の将軍を育てるためにも、そうしたい。

「いえ、必ずアルスラーンが出てきます。真の敵は、そちらですから」

 

 ルシタニア軍、進発。その知らせを受け、アンドラゴラス軍の将兵は色を失った。その上ルシタニアの帥将がセイリオスだと知り、もはや恐慌に至る寸前である。

 常勝不敗、泣く子も黙ると謳われ恐れられたパルス軍の面影は、もはやない。キシュワードは怒りと情けなさで泣きたくなった。とはいえ、それより優先すべきことは、これからどうするかである。

「撤退なさいますか、陛下」

 アンドラゴラス王は不機嫌そうに唇を引き結んだが、キシュワードに対して何か言う事はなかった。撤退しパルス北東部の防衛に努め、軍を再建する。最も安全な策はそれだろう。

 

 しかし、一時的にしろエクバターナを諦めるということは、ヒルメスに対して政略的に非常に大きなアドバンテージを与えるということである。サハルードで勝利した意義も、水の泡と消える。

 …かといって、ルシタニア軍10万と戦ってこれを退け、エクバターナを攻略しヒルメスを討ち取るなど、現状では全くの絵空事でしかない。

「………やむを得ん。アルスラーンの罪を許す代わりに、軍を出すように伝えよ」

 




ヒルメス覚醒。それを受けてサームも変わりました。

そしてアルスラーンが何を考え、どう出るかは次回。

ちなみにこの作品を書いてきて、作者は個人戦より政略や謀略の方が書いていて楽しいということがよく解りました。
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