さて、この頃、アルスラーンはどうしていたかと言うと、オクサスから動けずにいた。サハルードの敗北は予想の内にあったものの、アトロパテネ以上の圧倒的な大敗北を喫したとなると、やはり気は沈む。
「………アンドラゴラス王が、ここまで惨敗するとはな」
ダリューンが唸った。報告したエラムはルシタニアがどう動いたのか、合戦の最初から最後までを逐一見届けた者の正確さで語る。馬止めの柵のことも語った。
自分の予見の正しさが証明されたナルサスだが、「先に予想できねば軍師たる意義がない」と吐き捨てた。とはいえ、木材が運び込まれただけで可動式の柵まで読み切るなど、誰にできたであろうか。
とにかく、ルシタニアは当初の目的を果たした。あとはエクバターナから撤退して、パルスの三王が争うのを高見の見物と決め込めばいい。敵でなければ見事と讃えるしかない勝ち逃げである。
「エクバターナから撤退した後、ここがルシタニアの第一防衛線となるでしょう」
パルス西部の地図を広げながらナルサスが言う。(筆を持った時にダリューンが渋い顔をしたが)赤い絵の具で、その地図にいくつかの点を加えた。その点を結べば、パルスの西部を切り離す線となる。
もちろんナルサスは、この連環を断ち切ることを考えた。要はザーブル城である。だがそこにマルヤム軍を率いたデューレン将軍が陣取っているとあっては、簡単に断ち切れるものではなかった。
さらに本隊まで到着すれば、防衛線は鉄壁となる。もはや、手の出しようがない。
サハルードの敗兵が続々とアルスラーンの元に集まり、兵力は騎兵7千、歩兵は5万に達した。しかし、現状では、アクターナ軍だけが相手でも勝ち目は薄い。
「騎兵戦力の劣勢が、特に痛い」
ダリューンがナルサスに言った。パルスが騎兵で劣勢となるなど、トゥラーン相手でもなければありえなかったことである。サハルードの大敗のせいで、落ち延びた騎兵自体が少なかったのが痛恨となっている。
ともあれ、アクターナ軍の騎馬隊は4隊編成の1万騎。まず、同じ4隊編成にしたい。
問題は指揮官である。2人はすんなり決まった。ダリューンとファランギースだ。次の一人は多少ごねた。ギーヴである。能力は問題ないのだが、性格の方がそういうことに向いてないのだ。
「人に指図なんて、するのもされるのも嫌だ。……パルスが平和になったら、すぐ突き返すぞ」
嫌がったギーヴだが、最後には折れた。今、どれだけ人材不足なのかは充分わかっている。しかも、その状況に追い込んだ責任の一部は、間違いなく自分にある。飄々としている彼だが、無責任な男ではないのだ。
それでも、残る一人をどうするか。ナルサスとジャスワントはアルスラーンの傍を離れられない。エラムやアルフリードでは力不足だろう。その場しのぎのために千騎長から上げるのは博打過ぎた。
「そうなるとメルレイン殿を移動させて、ゾット族のまとめをアルフリードにやってもらうのが妥当ではあるのだが…。しかし、ギーヴ以上に難問だな」
ナルサスが悩んでいる中、急報が入った。三百ほどの騎兵隊が、ニームルーズ山脈を越えてくるというものである。それだけなら大したことではないが、その騎兵はトゥラーン兵だという。
「…どういうことだ、それは?トゥラーン兵がなぜこんなところをうろついている?」
ナルサスもダリューンも首を傾げた。侵略にしては数が少なすぎるし、略奪ならこんな深々とパルスの中に入ってくるはずがない。とはいえ、不穏な存在として、対応しないわけにはいかない。
状況の確認と対応を命じたファランギースの騎馬隊は、しかし、その三百のトゥラーン騎兵を丸々連れてオクサスに帰ってきた。
「ジムサというトゥラーン人じゃ。国を追われて、陛下に会いに来たという」
ジムサの話によると、ペシャワールの攻略に失敗したトゥラーンは内戦中だという。現王トクトミシュに対し、親王イルテリシュが反乱を起こしたのである。
トゥラーンにおいて、弱い王はその存在が罪となる。イルテリシュの行動に正義がないわけではなく、賛同したトゥラーン人も多い。しかしジムサは、どちらに付くのも気が進まなかった。
「……何か、どっちもどっちだと思えたのだ。ところが弟の奴が、『何故兄貴は傍観しているのか』と喚き出し、しまいには俺を追い出して、現王の元に奔って行った」
弟の名はブルハーンという。トゥラーン人にしては珍しく、筋目を重んじる性格であった。あまり仲のいい兄弟とは言えなかったが、それでも弟は弟だ。追い出されたジムサは、潔く別天地を探すことにした。
まず隣国のチュルクに向かおうとしたが、この国も内戦中、しかも盆地の只中にあるチュルクに入るには臨戦態勢にある国境の砦を避けることはできず、余所者が歓迎される状況ではなかった。
シンドゥラは、はっきり言って気が進まない。略奪の対象としてなら魅力的だが、温暖湿潤なシンドゥラはトゥラーン人にとって永住したいと思わせる国ではない。
とりあえずパルスで略奪でもして糊口を凌ぐ、それからはそれからだと考えていたが、うろうろしていたところをペシャワールの偵騎に見つかったようで、留守を守るルーシャンから使者が来たのだ。
「ルーシャンが?」
行く当てがないのなら、アルスラーン殿下の元に行ってほしい。そう言われ幾何かの金を貰ったジムサは、居付くかどうかは先のこととして、傭兵ということでオクサスに向かうことを決めた。
「………ルーシャン殿も、ささやかな反抗をしたくなったようだな」
アンドラゴラス王の偏重は相変わらずで、イスファーン、トゥース、ザラーヴァントらが(彼らの内心は別として)変わらず重用されているのに対し、文官である彼は軽視されている。
人格者であるルーシャンと言えど、不満に思っても不思議はない。それにアルスラーンに対する同情もあったかもしれない。トゥラーン騎兵といえど三百程度の敵なら、打ち払えないはずないのだから。
とにかく、騎兵が不足しているアルスラーン陣営にとっては、三百だろうとありがたい戦力である。それ以上に、ジムサという指揮官は拾い物だった。万騎長も充分務まる力がある。
「これで4人目が決まった」
最も喜んだのはナルサスであろう。あとは、この軍をどこまで精強にできるか。
―それから十日もせず、フィトナの王位僭称、ヒルメスのエクバターナ奪取、アンドラゴラス王の援軍要請と、立て続けに報告が入ったのである。
「応じるべきではないでしょう。……第一、アクターナ軍相手に勝てるとは思えない」
口火を切ったのはギーヴである。反アンドラゴラスという点では、彼が最も率直だ。「あんな王のため何故俺が苦労せねばならないのかね」と公言して憚らぬ男である。
アンドラゴラスが出した条件は、王太子の立場の復帰、王太子府の設立許可、王太子領の封建、奴隷解放を3年後を目途に実施、その他改革についてアルスラーンの意見を容れる、というものである。
要約すると、王位を取り下げて軍を出せば正式にパルスの後継者と認め、独自の領地を与え、意見を聞くようにする、ということである。彼の部下も罪を問わず、王太子府の臣下としてそのまま仕えることになる。
アンドラゴラス王にしたら、かなり思い切ったものだ。王太子府と王太子領はアルスラーンが独自の軍事力を持つことであり、奴隷解放を始めとする改革を受け入れると言うのだから。
「それだけ切羽詰まってるってだけの話だな。そして俺たちとルシタニアが共倒れしてくれれば万々歳ってとこさ」
ギーヴの毒舌が続く。しかし言っていることは間違いではないだろう。ここにそろった全員に、その思いは共通していた。もちろん、アルスラーンにも。
「父上からの命を受ける受けないということではない。どちらであろうと、ここは戦うべきだ」
だから、断固として言った。エクバターナの争奪には加わらず、オクサスに籠りルシタニアが去るまで待つのが最も安全であろう。しかしそれは、パルス王としての気概を失った退嬰策だ。
「準備が不足していることは明白である。しかし断れば、誰もが臆したと見るであろう。戦うべき時に戦わぬ王など、無用の存在である」
その言葉に、ギーヴはにやりと笑う。ファランギースは無表情で頷いた。ジャスワントは感激したようであり、ジムサは呆れたようであった。
…ナルサスは、無言で目を閉じた。
「ナルサス、お前、何も言わなかったな」
二人だけになったところで、ダリューンが咎めるように言う。ナルサスが反対したなら、アルスラーンも考え直したかもしれない。それに対してナルサスは冷静に、無表情に答えた。
「ここは逃げられん。逃げたら、パルスの民は俺たちを見限るだろう。陛下の判断は正しい」
そのくらい、ダリューンとて理解している。だがアクターナ軍と激突するとなると、ここにいる全員が野に屍を晒すぐらいは覚悟する必要があるだろう。はたして、勝てる見込みはあるのか。
「……これは他言するなよ。ない。万に一つ勝てたとしても、こちらの被害も甚大なものとなる。だから、この戦は、可能な限り『上手く負ける』しかない」
「………」
『上手く負ける』と言われて、ダリューンが苦虫を噛みつぶしたような表情になった。武人として軍人として、敗北を目指して戦うなど、受け入れられることではない。
しかし一方で、ナルサスの苦悩も理解できる。どうしても勝つ術が見いだせなかった、戦わねばならない敵。どうしたらいいかと考えて考えて考え抜き、それで達した結論だということは、ダリューンも解る。
「……とはいえ、あのアクターナ軍が『上手く負ける』など、許すはずもない。正直に言って、俺は今、どうすれば全滅しないで済むか、そればかりを考えている」
ナルサスがここまで悲観的なことを言ったことなど、かつてない。いつも余裕綽々な態度が鼻につきながら、しかし結果はその通りになる。皆、ナルサスがいれば勝てる、と心のどこかでは思っていたのだ。
「………狙うべきは無茶な勝利より、良き負け、か」
「嗤ってくれ。バシュル山で懇望されて、散々大口を叩いておいてこの様だ。勝つため策を考えるのが役目の軍師であるのに、ジュイマンドも今も何もできない役立たずでしかなかった」
それは違う、とダリューンは思う。アトロパテネで被った損害とそれを利用し尽くしたルシタニアの狡猾さ、そしてアクターナ軍の戦闘力が、ナルサスをもってしても挽回を許さなかったのだ。
しかし、ここでいくら慰めの言葉を口にしようと、取って付けたような軽いものにしかならない。そんなものは望まれていないと感じたダリューンは、一言だけ言った。
「………セイリオスの首は、俺が取る」
アルスラーン軍5万7千が進発したころ、ルシタニア軍10万はすでにエクバターナの近郊、『イスバニルの野』に陣していた。
「ううう…、セイリオスよ、我が愛する弟よ…」
「遅くなり申し訳ありません、兄上」
周囲が内心どう考えているかは脇に置き、セイリオスはだいぶやつれた長兄を優しく迎え入れた。牢に放り込まれていたのは十日ほどであったが、彼にとっては人生最大の苦難であっただろう。
「タハミーネは予を愛してくれなかった…。フィトナにいい思いをさせたいだけで、話を合わせておっただけじゃった…。予の、何が悪かったのじゃろう…」
なだめる言葉に困るセイリオスの脇で、「あの女に心を傾けたことだ」という内心の声を、シルセスは呑み込んだ。同じ女として、外面はともかく内面は荒涼とした砂漠のような女だと見抜いていたからだ。
「……予は疲れた。ルシタニアに帰ろう。帰って、また皆で仲良く暮らすのじゃ」
これは、イノケンティスの偽らざる本心である。戦略も政略も何もない、子供が無邪気に自分の望みを言うようなものだが、セイリオスもギスカールも、最後の最後ではこれに弱い。
「そうですね、兄上。この戦いが最後です。これに勝って、ルシタニアに帰るとしましょう」
イノケンティスが、感涙に咽びながら頷いた。結局、セイリオスもギスカールも狡猾ではあっても、悪人にはなり切れなかったということであろう。
「さて、アルスラーンはどう出るかな」
このままのこのことやってくるようなら、間抜けとしか言いようがない。事実、オクサスを見張らせていた密偵からは、早々にアルスラーン軍を見失ったと報告が来ている。夜間にひっそりと移動したようだ。
「……ままならぬものだ」
地図を睨みながら、セイリオスは一つ息を吐いた。オクサスが見張られていることは見抜かれていた。事ここに至っては、向こうもアクターナ軍との決戦を覚悟しているだろう。
計算外は、アルスラーンが短期間で6万近い軍を擁してしまったこと。サハルードで散ったパルス兵がこぞってアルスラーンの元に行ってしまったことで、大きく膨れた。
アルスラーンと戦うなら、今しかない。これ以上大きくすれば、アクターナ軍だけで戦うのは危険となる。パルスの分断は、ヒルメスとアンドラゴラスを残せばいい。
しかし、アルスラーンとの決戦と考えるなら、決して望んだ状況ではない。練度に圧倒的な差がある。勝敗はアルスラーンが兵力差を活かしてその差を挽回できるか、ということになってしまった。
一方で、アンドラゴラスにはモンフェラート指揮下の6万を当てただけだ。アンドラゴラスは軍を二つに分け、3万余の軍でルシタニアと向かい合っているが、緒戦のぶつかり合いはルシタニアの優勢で終わっている。
それ以降はひたすら守りを固め、仕掛けようとしない。その状況に歯ぎしりしているだろうが、もはや彼にできることはただルシタニア軍をやり過ごすしかない。
キシュワードは2万の軍で、エクバターナ城内のヒルメスを牽制。2万ではエクバターナを包囲することなどできず、出撃を阻止するので精一杯という苦しい状況に置かれている。
「モンフェラートには、適当に戦えと言っておけ」
そちらをまったく気にしていないわけではないが、セイリオスの関心は専らアルスラーンに向いていた。
アルスラーン軍の置かれた状況は、「三方ヶ原に向かう徳川軍」と考えてください。