翌日、アクターナ軍は何事もなかったようにイスバニルの野に布陣した。両翼に騎兵隊。歩兵は1万ずつの横陣が3列。おかしなところがあるとすれば、後方に2千ほどの騎馬が纏まっていることである。
「ルシタニア軍から騎馬隊だけ抽出したのだろうな。各隊の補充に使うとは考えにくい。あれは、独立した部隊と考えるべきだろう」
どう思うとダリューンに聞き、その答えにナルサスも頷いた。質の劣る騎兵を混ぜれば、全体の力が落ちてしまう。損害が無視できなくなるまでは、ダリューンの言う通りだろう。
だから使うとすれば囮か、歩兵を切り崩すため。歩兵相手なら多少質が悪かろうが、かなりの効果を期待できる。
「止められるか?」
「アクターナ軍の騎兵隊でないならば、防げる。…と思っているが、そんな甘い敵か?」
今度はダリューンが頷く。実はその2千騎が、アクターナ軍の騎兵隊と入れ替わっていた。いかにもありそうなことだ。ただ、そうであれば、それを跳ね返すことができれば、戦局はずいぶん楽になる。
残念なことに、サハルードのルシタニア軍の様に、馬止めの柵を作ることはできない。機動力と隠密性を重視したため、輜重隊に大量の木材を積むことができなかったのだ。歩兵で槍を並べて追い返すしかないだろう。
「アクターナ軍なら、粘れるだけ粘ってやる。その間に、騎馬隊の方を何とかしてくれ。アクターナ軍でないなら、歩兵で何とかする。…次いで、騎兵が5部隊できた場合はどうする?」
パルス一の知将とパルス一の勇将の会話は、次の想定に移った。想定しなければならない事態は多岐にわたり、この時点でまず恐るべきは敵軍の質だった。ナルサスと言えど思いつけなかったのも、無理はない。
さて、この時のエクバターナ周辺を俯瞰してみると、実に奇妙な状況となっているのがこの『イスバニルの戦い』である。
まずヒルメスはエクバターナに籠城。キシュワードの2万が、そのエクバターナを包囲。ただし2万では完全封鎖などできるはずがなく、ヒルメス軍がイスバニルに向かうのを阻止するのが精一杯である。
アンドラゴラスの3万とモンフェラートの6万が対峙中。どちらも小手調べに終始して、決定打となるような打撃は与えられていない。
つまるところ、本気でぶつかる気でいるのはアクターナ軍4万とアルスラーン軍5万7千のみ。それを、皆で固唾を飲んで観戦していたようなものだった。
対峙したまま両軍とも合図を出さず、その日は何もなく終わった。アクターナ軍は後方で騎兵を駆けさせたぐらいしか動きを見せず、日の出とともに陣営地から出て、日が傾いてくると陣営地に戻っていった。
翌日も、変わらない。両軍とも日が昇ると陣営地を出て、夕暮れになる前に帰っていく。矢の一本も飛ばない状況に、アルスラーン軍の兵士も焦れてくる。それが過ぎれば、次は不安が襲う。
「…ナルサス、まだ起きていたのか」
夜遅くになってもナルサスの幕舎から光が漏れているのに気付き、アルスラーンが訪れてきた。一度は寝付いたものの、何となく目が覚めてしまったらしい。
「申し訳ありません。勝つための策を考えているうちに、つい…」
「…明日は、こちらから仕掛けるべきではないか?」
アルスラーンの提案と同じことは、ナルサスも考えていた。このまま対峙を続けるのは、こちらの士気を下げるだけだ。せっかく緒戦の勝利で得た優位を何もせず食いつぶすのは、下策だろう。
「…しかし、怖いのです。あのアクターナ軍が、緒戦の敗北に対し黙っているはずがない。次の戦では、必ずこちらの意表を突く奇策を取るはずです。……それが何か、まったく見えない」
それはアルスラーンも考えている。ダリューンやファランギースだけでなく、エラムやギーヴ、兵士たちとも語ってみた。結果は、「ナルサスの想定以上の答えは出てこなかった」である。
「いつまでも臆しているわけにはいかぬ以上、ここは覚悟を決めるべきであろう。それに一当てしてみれば、何か見えるかもしれない」
アルスラーンの言う事は、全く正しい。相手がアクターナ軍でなければだ。それでも、ナルサスとしても名案がない以上、動くべき時であるとは感じていた。
「全軍に伝令、応戦準備」
にや、と口元が緩む。翌朝、アルスラーン軍の陣立てを見たセイリオスは、今日は戦いになると確信した。いきなり全力でのぶつかり合いをするつもりではないだろうが、向こうから来る。
別に、必須という訳ではない。ただ、パルス軍が前進してくれた方が効果的なのである。あとはもう、シルセスとデューレンに任せれば何の問題もない。
セイリオスは、四隊の騎馬隊を動かした。歩兵戦への介入を防ぐために、今度はパルスの騎兵隊も逃げ回るわけにはいかない。
機は熟した。
「前衛、1万5千前進!」
物見櫓の上からナルサスが指揮を下す。アクターナ軍の布陣は、変わらず1万ずつの横陣が3列。まずは1万5千を1万にぶつける。深入りはさせない。これで、敵がどう動くか見極める。
アクターナ軍の前衛1万の指揮官は、今度もグリモアルドだった。彼は全く動じず、小隊ごとに密集隊形を組ませて待ち受ける。1万5千では崩せないという自信か、後方には動きがない。
両軍が弓の射程に入ると、数千本になるであろう矢が日をも陰らす。盾を組み、耐えながらじりじり進む。肉薄するところまで至れば、今度は槍の出番だ。これまた千本単位の槍が、火花を散らす。
形勢は互角。というよりどちらも様子見に終始して、アルスラーン軍には敵陣を突破しようという気迫が欠けており、アクターナ軍はそれを打ち払っているだけで、動きがないのだ。
「両翼展開!包囲隊形!」
先に動いたのはアクターナ軍であった。シルセスの号令にアクターナ軍の中軍と後軍は2つに分かれた。5千ずつの4隊が左右の翼を形成しながら、1万ずつの2隊に編成されていく。
「1万ずつを左右に展開しろ。密集陣形を取り、隊伍を崩さずにだ」
その動きに舌打ちしながら、ナルサスも号令を出す。実戦の最中で隊を分割して編成し直すなどという芸当を、至極当たり前の様にやってのけた。明らかに練度では負けている。
この時点での投入戦力は、アクターナ軍3万に対しアルスラーン軍3万5千。だがアクターナ軍は全歩兵団を投入したのに対し、アルスラーン軍にはまだ1万5千の余力がある。つまり、まだ耐えられる。
「…さあ、どうする」
ナルサスは思わずつぶやいた。ここまでは、想定通り。気になっていた騎兵隊は、相変わらずアクターナ軍の後方に付いたままだ。
アクターナ軍の中央が割れた。ということは、そこから騎馬隊が噴出してくる。やはり、歩兵を切り崩すためだった。想定の内だ。それもどうやらアクターナ軍の騎兵隊ではない。凌げる。
次の瞬間、ナルサスの血が凍った。
セイリオスが、急激に方向を変えた。
「追え!」
一拍置いてダリューンが叫ぶ。セイリオスが相手だと、二手三手先を読んで隊を動かさねば、たちまちやられる。だが、今回は罠ではない。ダリューンの戦の勘は、そう告げた。
丘を駆け上がる。ダリューンもそれに続く。登り切る直前に、セイリオスの騎馬隊が左右に別れた。並の将軍なら反転しての逆落としと見る。それは間違いではないが、ダリューンは見落とさなかった。
「このまま突っ切れ!!!」
別れた敵の間に向かい、隊を進める。2つに分かれるふりをして、実は3つに分かれた。一部の騎兵が、丘を越えてダリューンの視界から消えたのである。おそらく、数百が離脱した。
何のためだと考えるより先に、追う。丘を駆け上がろうとするダリューンの騎馬隊に、セイリオスの2隊が突っ込む。構わずダリューンは前進する。2隊の役割は足止めだ。それ以上の動きはない。
だからセイリオスは、離脱した中にいる。
「なっ!!!」
そのダリューンが、丘を登り切ったところで愕然とした。反対側の尾根を駆け上る、別の騎兵隊。隊長の鎧に見覚えがある。ヘルマンドス城で戦った、ルキアの隊だ。
「全力で駆けろ!!!」
しまった、とダリューンは悟る。セイリオスの目的は、確かに離脱。だがそれだけでなく、同時にダリューンを罠に嵌めようとしたのだ。
ダリューンが凡庸な指揮官であれば、敵の薄いところを突破しようとしただろう。しかし彼は、あえてルキアの騎馬隊と正対した。自ら先頭に立ち、逆落としでの正面突破に打って出たのだ。
そのダリューンを、ルキアは隊を2つに分けてかわす。丘を登る騎兵と下る騎兵の速度の差が、ダリューンの騎兵を分断し、隊の厚さに差を生む。最も薄い個所に、左右からルキアの騎馬隊が突っ込む。
突撃をかわされたダリューンも、すぐさま反転。ルキア隊の後ろから取り残された味方を援護しようとするが、断ち切れない。そのルキアとセイリオスの騎馬隊が、何かに気付いて流れる様に撤収していく。
「すまん、振り切られた」
味方、ギーヴの騎馬隊が駆け寄ってきたのだ。ルキアの騎馬隊を追っていたが、起伏を利用されて見失った。山勘で駆けた先が、まさにダリューンが襲われているところだった。
「まったく、顔はなかなかだったが、可愛らしくない女だ。こんな時でもなければ、じっくり語り明かしたいところではあったが」
ギーヴの軽口に、ダリューンも大きく息を吐いた。今回は幸運に恵まれた。ギーヴの山勘が当たらなければ、ダリューン隊は半壊していたところだ。
しかし、セイリオスには振り切られた。どこへ行ったのか、と丘の上から周囲を見渡す。喚声が聞こえる。歩兵隊が激突しているのであろう。不意に、ダリューンの全身に悪寒が奔った。
「…?どうした?」
「ギーヴ、すまないが俺の騎馬隊をしばらく頼む。話している時間も惜しい」
あっけにとられるギーヴを置き去りにして、
「馬鹿…な…」
何故、今これを見ているのか。中央から、敵の騎馬隊。横一列に、三十騎。馬が通常より密着しているのに、隊列が乱れない。鎖で繋がれているからと、書物で読んだ。だがこれは、『
「全軍、散れーーーーー!!!決してあの前に立つなーーーーー!!!!」
もう遅いと思いながら、ナルサスは叫んでいた。見抜かれた。たとえこの軍法の知識があろうと、使ってくるとは予想できない。ルシタニア人がこれを知っているはずがない。そう思うことまで、見抜かれた。
連環馬。三十騎を横一列に鎖で繋げ、その密集突撃により敵を蹂躙する。まさにその文字通りに、先鋒の歩兵隊は馬の蹄にかけられ、蹂躙され粉砕された。
「退却だ!合図を早く…」
連環馬にも、もちろん弱点はある。対策を施してあれば、破るのは難しくない。だが今は、何の備えもないところに受けたのだ。アルスラーンの中央前衛1万5千は、あっという間に崩れた。
退却するより先に、逃げ惑う味方と連環馬が津波の様にアルスラーンの本陣にまで流れ込んできた。もはや指揮も隊伍も何もなく、できることはひたすら自分の身を守って逃げるだけだ。
「陛下、早くお逃げを!!!エラム、決して陛下から離れるな!!!」
ナルサスの声がしたような気がして振り返ったアルスラーンだが、姿を見ることはできなかった。アルスラーンもナルサスも、濁流に呑み込まれる。気が付いた時には、エラムの姿も消えていた。
ちょうど連環馬の隙間に入ったため、轢き殺されるのは免れた。そこを核に、生き残った味方が集まってくる。ナルサスやエラムは、と辺りを見回す。次の瞬間、人を割って旋風が飛び込んできた。
「……!!!」
黒い刀身の剣。とっさに、ルクナバードで防いだ。ルクナバードとその剣が火花を散らし、しかし馬の勢いまで乗せた一撃を捌ききることはアルスラーンにはできなかった。
黄金造りの兜と、鮮血が飛んだ。セイリオスの一撃はアルスラーンの右のこめかみの辺りを切り裂いて兜を吹き飛ばし、衝撃で落馬させた。首を取ろうと、ルシタニア兵が群がり寄ってくる。
「………」
何故、セイリオスがここにいる。傷の痛みも忘れ、アルスラーンの思考は一瞬停止した。いくら連環馬を使うことが判っていたとしても、こちらの壊滅の時間を測り、それに合わせてダリューンを振り切るなど…。
呆然としたアルスラーンだが、剣撃と歓声、自分に向かってくる穂先の光に、すぐさま我に返る。だが遅かった。一人目はなんとかルクナバードで防いだ。そこに、騎兵の剣が迫る。かわせない。
「させるもんか!」
駆け付けた少女が、棒でそれを防ぐ。レイラだった。まだ子供ということでオクサスに残してきたはずの彼女だったが、こっそり紛れ込んでいたのだ。
レイラの奮闘は騎兵を馬から叩き落し、さらに一人の刃を弾き返した。そこに馬首を返したセイリオスが飛び込む。『アステリア』の刃はレイラの棒を容易く両断し、兜の上から頭蓋を叩き割った。
「あああああ!!!!」
レイラが崩れ落ちる姿をまじまじと見せつけられたアルスラーンは、怒り任せに敵兵を両断した。セイリオスが迫る。相討ってでも殺してやる。修羅の形相で睨むアルスラーンに、セイリオスはふっと笑う。
「陛下!!!」
その絶体絶命の危機に、数騎の騎兵が駆け込んできた。先頭の男が、セイリオスに曲刀を投げつける。ジャスワントだ。セイリオスの注意が逸れ、一瞬の隙ができた。
彼は渾身の力で、アルスラーンを馬上に抱き上げた。「防げ!」と部下に命じ、自分は全力で駆け去る。もちろん部下たちは自分が捨て石であることを理解している。決死の防戦が、セイリオスの追撃を遅らせた。
ジャスワントに抱きかかえられるようにして、アルスラーンは戦場を駆けた。とにかくセイリオスから離れるべく、必死で駆ける。ふと我に返った時には、自分の周りを騎兵が囲んでいた。
これまでか、と覚悟したアルスラーンだったが、よく見れば周りにいるのは皆パルスの騎兵である。寄ってきたのは、黒衣黒馬の騎士。ダリューンの騎馬隊だ。
「セイリオスに振り切られました。遅れて申し訳ありません。その額は、お怪我を…」
「……いや、浅手だ。心配ない。ジャスワントが護ってくれたのだ。ありがとう、ジャスワント。そなたのおかげで助かった」
ダリューンの姿を見て、ようやく人心地のついたアルスラーンが笑顔を見せる。しかしジャスワントはアルスラーンに覆いかぶさるように体重を預け、静かに答えた。
「…陛下、俺はシンドゥラで三度も貴方に命を救われました」
「…ジャスワント?」
様子がおかしい、と思ったところで、アルスラーンも気付く。腰のあたりが生暖かい。血であることは、すぐ気づいた。ジャスワントはアルスラーンの元に駆け付ける際に、腹を突かれていたのだ。
「………一度しか返せず、申し訳…、ありま……、せん」
「そんなことはどうでもいい!医者だ!!!いや誰でもいい、血を止めろ!!!ジャスワント、気をしっかり保つのだ!!!きっと助かる!」
馬の揺れで、支えていたアルスラーンの体からジャスワントの体が滑り落ちる。
アルスラーンの慟哭が、イスバニルの野に響いた。
そう言えば、以前感想で「作者はドS」と言われたことがありました。