深夜―。
「……よし、行こう」
アルスラーンが静かに号令を下す。周囲の人間も声を出さず、暗闇の中で頷いた。姿はほとんど見えないので、気配で感じただけだ。
空は曇り、月明かりがないのは幸運と言える。鎧も、できる限り軽装にした。鎧ずれで音をたてないようにだ。夜目が利く者を先頭に、そろそろと、闇の中を這うように進む。
敵の篝火だけが、闇の中に浮かんでいた。不意に、それに向けて別の火が飛ぶ。苦し紛れの夜襲に見せかけた、別動隊が放った火矢だ。
参加している者の中に、これまでの戦いで重傷を負った者たちまでいる。見捨てるのは断腸の思いだが、撤退となれば置いていくしかないと判断した者たちだ。
そのため「朝になったらすぐ降伏しろ」と命じたところ、逆にまだ動ける者から「何でもいいから戦いたい」と言われたのだ。
「…パルスのためだ」
口の中だけで呟いた。今やるべきことは、心を殺し、そんな彼らだろうと躊躇わず犠牲にし、とにかく生き長らえることである。いや、それしかできないと言った方が正しい。
アクターナ軍だろうと、人知を尽くせば対抗できると思っていた。やはり自分もパルス人だった。パルスの騎馬隊は絶対無敵であり、何があろうと負けるはずがない。その常識が、セイリオスの力を見誤らせた。
宿営地を狙った派手な火計であれば、さすがに反応しないわけにもいかない。石造りの堅固な防塁を築くのは時間的に無理であり、建材は木を使うしかなかったからだ。
その騒ぎの中、柵しかない場所に向けて、アルスラーンの歩兵がにじり寄る。1ヵ所ではない。4か所同時の突破だ。これも、攻勢に出ると決めたため、さほど頑強な物を作る時間はなかった。破れないはずがない。
「敵襲!」
闇夜に鐘の音が鳴り響く。突破が察知されるのは当たり前である。ただ、4隊のどれにアルスラーンがいるかまでは、どんな人間だろうと判別できないはずだ。
「4隊に部隊を編成します」
当初5万いたアルスラーンの歩兵隊は、3万5千程度まで減っている。4隊に同等に分けたとすれば、一隊につき8千程度。それに騎兵隊が加われば、1万弱。
こちらも4隊に部隊を分割して追撃する。シルセスはそう考えた。デューレンは反対した。逃げるなら無理に追撃する必要もない。これまでの戦いで、勝敗がどちらにあるかは明らかだ。
シルセスとて、実を言ってしまえばそう思っている。ただ、今回だけはそうできない理由がある。
「殿下が珍しく乗り気でして…」
ばつが悪そうに言うシルセスの言葉を肯定するように、すぐさまセイリオスの指示が来た。全軍を4隊に編成し追撃するというものだ。
むう、とデューレンが唸った。セイリオスとアルスラーンの間に何があったか知らない彼としては、何にそれほど執着しているのか判らない。
ただ、アルスラーンは間違いなく名君であろう。少なくともその素質はあるに違いない。ここまでアクターナ軍と戦って壊滅していないというだけでも、それは判る。ならば、ここで潰しておくべきか。
「……もはや策を廻らすほどの余裕もなかろう。叩くのであれば、徹底的に叩くぞ」
全軍を叩き起こし戦闘準備、そこから4隊編成に移行となると、出立は明け方近くなる。アルスラーン軍の突破は許したが、闇夜では大した距離は進めないだろう。充分追いつける。
当然、ナルサスも考えている。戦闘中に軍の再編を行うような敵だ。闇夜で身動きできないなどという甘い予測ができる相手ではない。追撃を受けるまでの時間は、さほどない。
(さて、ここまではいいが―)
ここからどうするかは、各隊に任せた。4隊を統括して指揮するなど無理な状況であるし、むしろそちらの方がセイリオスの意表を突く動きになるのではないかという期待もある。
最大の問題は、セイリオスがどの隊を追うか。
「前方の部隊に、ナルサスおよびアルスラーンと思われる姿を確認しました」
夜明け。早速の偵騎の報告に、セイリオスは首を傾げた。土埃に邪魔されない風上に回り込んで、黄金造りの兜をかぶった少年とその横で指揮を執る男の姿を確認してきたという。
しかし、素直すぎる。撤退するのにいつもと同じ目立つ黄金の兜を被り、偵騎の目に留まるなど間抜けもいいところだ。ただし、そう思わせてさらにその裏をかく、という場合もあり得た。
「ダリューンと、もう一隊の騎馬隊!」
別の報告が入る。ダリューンが慌てて駆け付けてきたということは、やはり前の部隊にいるのはアルスラーンなのか。となると、このまま追うべきか。
もう一隊の騎馬隊は、2千近くいる。どうやら先日合流したザラーヴァントの騎兵の様だ。さすがに2隊同時に相手にするのは無謀である。移動しながら隙を伺い、味方を待つ。
アーレンスの騎馬隊と、シルセスとベルトランの歩兵隊が追いついた。
「……ナルサスやダリューンは、無事だろうか」
神の視点から俯瞰した評価になるが、アルスラーンを逃がすことに関してはいくつもの幸運に恵まれた。まず本物のアルスラーンはセイリオスが追わなかった部隊にいた。ナルサスの傍にいたのは、影武者である。
ダリューンとザラーヴァントの騎馬隊は、アルスラーンの援護に動いたのではない。いかにもそれらしい動きを見せながら、ただセイリオスの妨害に動いたのだ。
「陛下、そう暢気なことも言ってられませぬ。ここからは、騎馬隊で先行します」
ファランギースの言葉に、アルスラーンは表情を消して頷いた。すなわち歩兵隊を見捨てるということだ。昨晩承知したこととはいえ、やはり気が進まない。
だが、アクターナ軍はもはや視界に入っていた。ただ逃げるだけでは追いつかれる。
「……すまぬ」
遠ざかる歩兵隊に対し、アルスラーンは小さく謝った。アクターナ軍に追いつかれれば、一方的な蹂躙となるだろう。果たして、彼らの何人が生き残れるか。
「騎馬隊を切り離したか。…歩兵を捨てても逃がすべき者がいる、ということだ。追え!」
これがアルスラーンにとって二つ目の幸運で、デューレンが命じた騎馬隊の指揮官はメルガルだった。つい昨日、ダリューンが討ち取ったクラッドの後任の男だ。
もちろん、彼とてアクターナ軍騎馬隊の副将を務めてきた男だ。無能とは程遠い。が、副将と主将では責任の重さがまるで違う。そのための萎縮は、仕方ない事であろう。
「…単調じゃが、速いな」
メルガルの動きは、これまでの指揮官に比べ駆け引きに欠ける。その分一直線に向かってくるので、速さはある。
ファランギースはすぐそれに気付いた。討ち取れる。ただし、アルスラーンがいなければの話だ。彼の武勇も大分上達したが、アクターナ軍の騎士相手では分が悪い。騎兵戦に巻き込むのは、危険すぎた。
上手くあしらって逃げるしかない。そう決めたファランギースは、騎馬隊の方向を変えた。南東に逃げていたのを、少し北寄りにしたのだ。そちらの方が、起伏が多い。
だが、進む先に砂塵が見えた。しまったと臍を噛む。味方はいるはずのない方向だ。敵の騎馬隊に先回りされていたとなれば、状況は一転し死地に変わる。
その騎馬隊はパルス軍の旗を認めると通路を開けファランギースを通し、後ろから追ってくるメルガルの騎兵隊に突っ込んだ。
「……ルーシャン?」
すれ違う時に指揮官を遠目に見たアルスラーンが呟く。ペシャワールの守将として残されたはずの彼が、サハルードの大敗で逃げ散った敗残兵を纏め直し、ここまで来ていたのだ。
「友軍を助けるのだ!」
ルーシャンの方もアルスラーンに気付いた。アンドラゴラスの命令は敗残兵を纏め直し自分に合流しろというもので、二人の関係性を考えればルーシャンの行動をアンドラゴラスが喜ぶことはない。
しかし、敵に追われているパルス軍を見て助けるのは当然のことだろう。東方にいた自分が状況を把握してないのも無理のないことだ。アルスラーンのことは気付かなかったととぼけ通す腹積もりである。
「ルーシャン、無理はするな!!!」
アルスラーンが叫ぶ。ルーシャンの騎馬隊は1千ほど。彼自身、決して戦下手な訳ではないが、ダリューンやキシュワードとは比較できない。アクターナ軍相手に、どれだけ戦えるか。
「…陛下、私は反転いたします。ルーシャン卿が駆けてきた方へ、このままお駆けください。エラム卿、しっかり陛下をお守りするのじゃぞ」
ファランギースが言う。ルーシャンの騎兵隊という計算外の要素により、余裕ができた。アルスラーンの護衛に一隊を割いても、敵を討ち取れる。そしてルーシャンが駆けてきた方角には、敵はいないはずだ。
「………頼む、ファランギース!」
自分も、と出かかった声を呑み込み、アルスラーンが指示を下す。昨夜、ナルサスから言われたことを思い起こしたのだろう。エラムと三百ほどの騎兵を連れて、駆け去る。
よし、とファランギースは内心で頷く。これで存分に戦うことが出来る。ルーシャンを圧倒していたメルガルの騎馬隊に、横から突っ込んだ。
メルガルは部隊を前後に分割し、ファランギースの突撃をやり過ごそうとした。だがルーシャンが上手く牽制をかけ、前方の部隊の反転が遅れた。
やり過ごされたファランギースも、急角度に方向を変える。元々狙いは敵の分断。メルガルは最前線に立っていた。反転が遅れたため、分断され挟撃された形になっている。
「今だ!」
好機と見たルーシャンが反撃を開始した。それを見て、ファランギースが焦る。アクターナ軍の騎馬隊は、この状況でも乱れることはない。ルーシャンは、それを知らない。
ルーシャンが知っている敵、例えばミスルやシンドゥラの騎馬隊なら、この突撃で崩れ去るはずだった。だがメルガルの騎馬隊はその突撃を受け止め、逆に押し返し始めた。
「くっ」
もう少し。あと少し近付ければ。ファランギースが矢を構える。だがその瞬間、ルーシャンは敵騎兵の一撃を兜に受け、馬上から転落した。それを横目に、心の動揺を抑え込んで矢を放つ。
狙いすました一矢は、見事メルガルの首を横から貫いた。この距離から狙えるはずがないと侮っていたのか、兵がルーシャンを討ち取ったのを見て意識がそちらに向いていたのか。とにかく、敵将を仕留めた。
だが、追撃、と叫びそうになった時、ファランギースの耳は精霊の声を聞いた。近くで邪法が使われていると訴えてきたのだ。愕然とした。指揮も放り出して駆けだした。副官に説明している時間も惜しい。
アルスラーンの身が、危うい。
「陛下、あちらの森へ!」
まだ後ろに敵の姿はない。木々に紛れれば、追手も完全に見失うだろう。エラムの考えを察したアルスラーンは、森へ馬首を向ける。
アクターナ軍だけを敵と考えるなら、森に逃げ込んだエラムの判断も部隊を分割したファランギースの判断も正しかった。アルスラーンの身を狙っていた存在が他にいるとは、誰の計算にも入っていなかったのだ。
森に入り、しばらく進む。不意に、肌に湿り気を覚えた。
「………霧?」
そんな馬鹿な、と思った時には、濃密な霧が取り囲んでいた。そればかりでなく、周囲には誰もいない。エラムの名を呼ぶが、返事はなかった。
「………!!!」
心拍数が一気に跳ね上がる。アトロパテネの戦場に一人取り残された時の記憶と、今の状況が重なった。違うのは、あの時は誰かの助けを乞うだけだったが、今は自ら道を切り開く気概があることだ。
馬を止め、ゆっくりとルクナバードを抜く。明らかに殺気を感じる。この霧の中に、何か禍々しいものがいる。
「……セイリオスも、詰めが甘い。あれだけ勝ちながらも、肝心な者を取り逃がすとは」
現れたのは、商人風の男。かつてフィトナにラヴァンと名乗った商人であるなど、アルスラーンが知る由もない。だが殺気の源は、間違いなくこの男。
「……まあよかろう。我らの手で、蛇王様の障害を取り除く」
霧が、一度ラヴァンの姿を隠す。霧が流れた時、そこにいたのは仮面と暗灰色のローブを身に纏った、魔導士であった。
この話を楽しみにしている方には申し訳ない話なんですけど、このイスバニル戦は「三国志で言うと五丈原」です。
当初構想ではイスバニル戦終結で終了、とも考えていたのですけど、その後のこの世界の行方がネタもあるし気になる人もいるだろうと思って書いてますが、かなりの駆け足になると思います。