ルシタニアの三弟   作:蘭陵

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43.イスバニルの戦い・決着

「………」

 視線だけで、見れるだけの周囲を見る。正面には魔導士が一人。霧の中には、何が潜んでいるかわからない。だが馬がある。相手は徒歩だ。反転し全力で駆ければ、脱出は可能なはずだ。

 機を窺う。今だ、と決断し、馬首を返す。駆ける。一歩二歩三歩と、勢いに乗りかけた。よし、と思ったところで、がくんと馬が足を折った。その勢いで、アルスラーンは投げ出される。

「覚えておくとよい。『操空蛇術(グールイラムツ)』という。空気の蛇を操る術だ。逃げようとて、逃げられはせぬ。それにこの霧は人の感覚を狂わす『迷いの霧』。助けも来ぬわ」

 地面に叩きつけられたアルスラーンが、痛みをこらえて身を起こす。そこに黒い影が襲い掛かった。有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)だ。

 

 霧の中からいきなり現れてくるから、何体いるかわからない。怪物の爪を、ルクナバードで受け止める。いや、ルクナバードの刃は逆に爪を切り裂く。そのまま、顔面に突き立てた。

 怪物の体を蹴り飛ばす。その力でルクナバードを抜き、次の有翼猿鬼の右手を斬り飛ばした。

「………むむう」

 アルスラーンの奮闘を見て、『尊師』は小さく舌打ちした。五体の有翼猿鬼で充分だと思っていたが、どうやら甘かったらしい。ルクナバードの力は彼らの力も縛る。その所有者には、魔導が通用しないのだ。

 

 だが、アルスラーンも霧の中、上方から攻撃を仕掛ける有翼猿鬼にばかり気を取られ、足元の注意がおろそかになった。

「え?」

 不意に全身から力が抜ける。痺れるような感覚に、立っていられない。何が起きたのか、辛うじて確認したところ、左足の鎧の隙間から、蛇が噛みついていた。力を振り絞り、その蛇を両断する。

「ルクナバードの加護があろうと、こういう魔導の使い方もある。冥途の土産に、これも覚えておくとよい」

 視界が揺らぐ。その中で、風を切る音を聞いた。『尊師』が仰け反ったように見えた。体が浮く感じがしたところで、アルスラーンは意識を失った。

 

 

「………あ」

 視界がぼやける。体が浮く感じはまだ続いていた。そうか、死後の世界とはこんな感じなのか、とアルスラーンはまず思った。それが、鷹の鳴き声で破られる。

「………告死天使(アズライール)?」

 そうぼそっと呟くと、周囲の光景が戻ってきた。天幕の中で、寝台に寝かされている。生きている…のだろうか。周囲に喧騒はあるが、戦闘が続いているという雰囲気はない。

 

「お目覚めになられましたか、陛下」

 横から、よく知った女性の声がする。ようやく視界がはっきりしてくると、ファランギースの顔が見えた。隣にはギーヴもいた。

「……ファランギース、何がどうなった?……戦はどうなったのだ?」

 あの時、ぎりぎりのところでファランギースが間に合った。魔導の霧も、女神官(カーヒーナ)である彼女には通用しなかったのだ。そうでなければ、アルスラーンの命はなかった。

 だが彼女が到着したのが、アルスラーンが毒蛇に噛まれた直後。『尊師』に向けて矢を放ち、アルスラーンの身を抱えて一目散に走り去った。体が浮くと感じたのは、毒のせいだけではなかったのだ。

 

「解毒が間に合い、ようございました」

 ファランギースが心底ほっとしたように言う。アルスラーンが王族として過ごしてきたことが、ここで幸いした。蛇王に対する反呪の中には、蛇毒に対する物もある。そのおかげで、命を拾った。

「そうか…。私は、生きているのか」

 ようやく得心がいったアルスラーンが、落ち着いて言う。だが犠牲は大きかった。まずファランギースの騎馬隊が、ほぼ壊滅。指揮官がいきなりどこかに行ってしまったのだから、当然ではある。

 さらにアルスラーンに付けた三百騎も、半数以上が死んだ。こちらは霧の中で蛇王の眷属に襲われたようである。運よく霧から抜け出せた者だけが、生き残ることが出来た。

 

「……生存者の中にエラム卿はおられますが、背中を切り裂かれ、重傷にございます。……生死は、予断を許さぬと」

 何だと、と起き上がろうとしたアルスラーンが、つんのめるように倒れ込んだ。まだ毒が抜けきってないようで、体が上手く動かない。地面に激突する前に、ギーヴがそれを受け止める。

「そして戦は、……我らの大敗に終わりました。……セイリオス以下アクターナ軍は撤収中」

「……え?」

 何故だ、とアルスラーンは思った。決着をつける。セイリオスの覚悟は、ひしひしと感じていた。仮に負傷しようと、意識さえあれば自分を滅ぼすまで戦ったはずである。

「……アンドラゴラス王が、戦死されました」

 

 

 ここで、時間は少し巻き戻る。すなわちアルスラーン軍が撤退を開始する前、ナルサスがそれについて言上していた辺りのことである。

「………」

 エクバターナ、宮中。セイリオスとアルスラーンの激突の情報は、ヒルメスの下にも逐一入っていた。連環馬などという聞いたこともない戦法でアルスラーン軍を潰走させた時など、全員が唖然としたものだ。

 そこから息つく暇も与えぬ総攻撃に、カーラーンやサームでもどこか喜色を隠せないでいる。アクターナ軍に任せておけば、この戦は必ず勝てる。内心そう思っているのは間違いないだろう。

 その中で、ヒルメスだけが何処か不機嫌そうに寝室に引き上げた。

 

 宮中と言っても、ヒルメスが王侯貴族の暮らしを楽しんでいたわけではない。軍装を解いたことはなく、兵糧は兵と同じ物とし、(アンドラゴラスが使っていたものを使いたくないという思いもあるが)寝台も簡素なものを使っている。

 一人になったところで、彼は壁に拳を叩きつけた。

「おのれ……」

 情けない。情けないにも程がある。アルスラーンが倒れれば、アンドラゴラスも退くに違いない。自分は何もせずとも良い。それは解っているのだが、それでは自分の誇りは丸潰れだ。

 セイリオスもセイリオスである。イノケンティス王の返還を求める使者を寄越したきり、何も言ってこない。アルスラーンとの対決に夢中で、ヒルメスのことなど忘れているのではないか。

 

 眠れない夜を過ごす中、遠くに喚声を聞いた。見張りから、光が見えるという報告も入った。位置からして、アルスラーンが夜襲に出たに違いない。

「……全軍を叩き起こせ!!!」

 思わず叫んだ。アクターナ軍の優勢を崩すには、もはや博打に打って出るしかないだろう。つまり、この夜襲はアルスラーンの最後の足掻きである。ヒルメスはそう見た。

 

「全軍で出撃する!!!」

 ヒルメスがそう宣言したので、カーラーンもサームも顔を見合わせた。どうやって止めるべきか、と同時に思ったのである。

 出撃するなら、全軍で出る必要があるだろう。キシュワードを打ち破るだけでも、そのぐらいは必要だ。ただ、何故そんなことをしなければならないのか。戦略的な優位を捨てる意義があるとは思えない。

「このままエクバターナに引き籠っているだけでは、俺は今後ルシタニアに頭を上げられぬ王になるぞ!」

 ヒルメスとて、明快な考えがあったわけではない。今日この時に乗り遅れたら、全てが終わる。戦人の直感で、そう感じた。その前に、ルシタニアも含めて、何としても意地を見せてやると思っただけである。

 

「お待ちください。……全軍でとなれば、誰がこのエクバターナを守るのですか?」

 エクバターナは3万の軍がいるから何とか抑えられているようなものだ。仮に数千の守兵を残したところで、広大な城内を守り切ることなどできない。すぐ内通者が城門を開き、敵の部隊を招き入れるだろう。

「エクバターナは捨てる!!!アンドラゴラスの首を討ち、そのままバダフシャーンに走るのだ。それでよい!!!」

 サームの懸念を、ヒルメスは切って捨てた。勢いで宣言してしまったようなものだが、言ってみると名案のように思えてきた。

 元々、エクバターナを保持するのが問題だったのであって、捨てると決めてしまえば一気に身軽になれる。バダフシャーンに戻りさえすれば、再起は容易い。

 

 バダフシャーンにはパルハームが残っている。カーラーンが彼を推挙してくれたことを、今ほど感謝したことはない。

 彼はたびたび東からちょっかいを出してくるラジェンドラ王を都度叩き、主力不在の地を見事に守り抜いていた。ここ一連の情報も届いているはずで、ならば軍の再建にも手を付けているに違いない。

 問題は、この行動を人は、特にエクバターナの住民はどう思うか、だ。だからアンドラゴラスの首を取る。ただ逃げたのではないと示すためにも、アンドラゴラスかアルスラーンのどちらかは討ち果たさねばなるまい。

 

 朝になった。ヒルメスとしては、手持ちの軍勢すべてを投入し、一気にキシュワードの包囲を突破してアンドラゴラスを背後から襲いたい。キシュワードに手間取れば、アンドラゴラスを討つのが難しくなる。

 幸運が、ヒルメスを助けた。

「シャハールとクラテスが……」

 生きていた。それだけでなく、サハルードで散った味方を集め、5千ほどの軍になっていたのだ。そしてキシュワードを挟撃できる位置に来ていた。ヒルメスの出撃を見て、彼らはそれに呼応して攻め込んだ。

 キシュワードの不覚と言えば言える。だが昨晩からは特にアルスラーンとセイリオスの動きを注視して、全体を俯瞰する余裕を無くしていたのだ。

 ヒルメスの出撃に対処しようとして、横合いから突きかかられる。軍の集合が遅れた。しまった、と後悔した時には、ヒルメスは包囲網を貫いて駆けていた。

 

 ヒルメスは全軍の先頭を駆けた。すぐ後ろに、ザンデが続く。アンドラゴラスはルシタニア軍に対するように布陣しているはずだ。キシュワードが早馬を出したとしても、陣を布き直す時間はない。

 さらなる幸運が、ヒルメスを助けた。

「前方で、ルシタニア軍とアンドラゴラス軍が戦闘中!」

 昨日、ザラーヴァント隊の離脱を許したモンフェラートが、失態を取り返そうと攻め込んでいたのだ。このままではセイリオスの不興を買ったままで終わってしまうと感じている以上、必死だった。

 

突撃(ヤシャスィーン)!!!」

 ヒルメスが、全力で叫ぶ。もはや考えることはない。パルス王の旗の元へ、一直線に駆ける。後方からの攻撃に、アンドラゴラス軍の抵抗はまばらだった。パルス兵が、無様に逃げ散っていく。

 アンドラゴラスは剣を掴み、ただ一騎で泰然としていた。周囲に、それでも彼に付き従おうという兵士がわずかに寄ってくる。

「アンドラゴラス!!!」

 この時ヒルメスの剣にあったのは、かつての憎しみではない。自分自身でも解らぬほど澄み切っていた。決着をつける。何の決着なのかも解らぬまま、ただそう思う。

 

 アンドラゴラスも馬を駆けさせた。ヒルメスと、正面から向かい合う。アンドラゴラスの剛剣が風を起こした。その風が、耳を打つ。

「おおおおあああぁぁぁ!!!」

 アンドラゴラスの剛剣をすれすれで回避したところからの、渾身の突き。馬の勢いまで加えた一撃はアンドラゴラスの鎧を突き破り、胸を貫通して背中まで突き抜いた。

 アンドラゴラスが、笑みを浮かべたように見えた。

「……これもまた、よかろう」

 その呟きを、ヒルメスだけは聞き取った。何が良いのか。ヒルメスには理解できない言葉を残し、パルス第18代国王(シャーオ)は息絶えた。

 

 

 ファランギースから一部始終を聞き、アルスラーンは大きく息を吐いた。父が死んだ。成程それならアクターナ軍が引いたのも理解できる。

 ヒルメスはそのままバダフシャーンに向かい撤退中、エクバターナは敗兵をまとめたキシュワードが占拠した。アンドラゴラスに従っていた将兵に、以後アルスラーンの指揮下に入るよう説得中との事だ。

「そうか、父上が―」

 アンドラゴラスの死を、アルスラーンに冷静に受け止めた。父とは言うが、情の通じ合わなかった人の死である。悲しみも喜びもない。何よりも「終わった」という思いだけがある。

 

 朗報が一つあった。ルーシャンが生きていた。兜に一撃を受けて馬上から転落した彼だったが、衝撃によって脳震盪を起こしただけだった。ぴくりとも動かなかったため死体と思われ、放っておかれたのだ。

「……最悪の目覚めでしたな。同胞たちの骸の中で一人起き上がるというのは―」

 その時のことを、彼はのちにそう語る。アルスラーンを救うためとはいえ指揮官が誰もいなくなった軍は、メルガルの死後すぐ次に指揮権が委譲し秩序を回復したアクターナ軍にとって好餌でしかなかった。

 

「他の者は?皆はどうなった?」

「…ジムサ卿は無事でございます。………ナルサス卿は、もうすぐ戻ってこられると」

 ファランギースの声に暗いものを感じたアルスラーンは、今度は慎重に立ち上がり、幕舎を出た。言葉通り、ナルサスの軍がこちらに向かってくるところだった。ぼろぼろである。激戦であったことは、一目で判る。

「……ナル……サス」

 先頭で向かってくるナルサスに、アルスラーンは声をかけるのを躊躇った。それほどナルサスの表情は暗く、何かがあったことは明白だった。

「陛下……、申し訳ありません……、ダリューン卿が、討死しました……」

 




感想で言っていた「最初に戦死が決定した4人」

一人目:クバード(サハルードの結果を変えるため)
二人目:ジャスワント(連環馬でアルスラーンの身代わり)
三人目:アンドラゴラス(ヒルメスに討たれ戦死)

そして四人目:ダリューン。

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