ルシタニアの三弟   作:蘭陵

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45.そして再び歩み出す

 言い終えたナルサスはただ平伏したが、アルスラーンはそれに目もくれず、幽鬼のような足取りでイスバニルの野を見渡す丘の上に昇って行った。誰も声をかけられなかった。

「………」

 やらねばならないことは多い。だが、今くらいはそっとしておいてやろう。誰もがそう思った。同時に、自分たちの誰にもアルスラーンの絶望を癒せないとも確信していた。

 

 それでも、伝えなければならないことはある。

「………陛下」

 アルスラーンは無言のまま、ゆっくり振り返った。アンドラゴラス王に言上した時でも、これほど重々しい空気であったことはない。キシュワードはそう思った。とにかく、伝えるべきことは伝える。

「私を始め、イスファーン卿、トゥース卿ら、皆の総意でございます。今後は、陛下をパルス王と仰ぎ戦う所存。…アンドラゴラス王に従ったことが罪であるとされるならば、どうか罰するのは私だけにお留めください」

 キシュワードが掌握している兵は、2万5千ほどである。アンドラゴラスの死、イスバニルの激戦、特にダリューンの死を知った兵達の中から、逃亡する者が相次いだからだ。

 しかし、残った兵からアルスラーンを認めないという声は聞かれなかった。誰も勝てなかったアクターナ軍とここまで戦ったのだ。代償は大きすぎたが、王の名誉は守られた。

 

「……また、タハミーネ王妃でございますが、崩御なされておいででした。自害、とのことです」

 牢に放り込まれたタハミーネであったが、フィトナの死で生きる気力を無くしたのだろう。サハルードにヒルメスが出陣する中、手薄になった城内でかつての侍女に命じ、秘かに手に入れた短剣で自ら咽喉を突いた。

 ヒルメスも、タハミーネの自害に至った心境には多少の同情をしたのかもしれない。パルス王妃の礼に乗っ取って、棺に収められていた。

 そう聞いても、アルスラーンは「そうか」と返しただけである。

 

「キシュワードよ。そなたには大将軍(エーラーン)の位に就いてもらわねばならぬ」

「……ダリューンには遠く及ばぬ非才の身ではありますが、全身全霊を持って務めさせていただきます」

 アルスラーンが、作り物のような声で告げる。キシュワードは受けるしかなかった。この声を聞き、誰が断ることなどできるだろう。

(俺も、生きねばならぬ―)

 死んでしまえば楽になるが、それは許されない。アルスラーンが王として生きる以上、かつてのパルスを取り戻すところまで、自分たちは死者に嗤われぬよう生きねばならない。

 

 『イスバニルの戦い』におけるアルスラーン軍の損害は、死者1万1千、重傷者1万5千という。生き残った者でも傷を負わぬ者はないと言われるほどであった。アンドラゴラスの死が無ければ、さらに増えたであろう。

 対し、アクターナ軍の死傷者は合わせて3千8百。数字だけ見ると勝敗をどう評すべきか明らかだが、なんとこの数字はセイリオスが指揮するアクターナ軍が一つの戦で負った、最大の損害になるのである。

 解放王とその臣下はいかに勇敢に戦ったことか、とパルスの吟遊詩人は謳う。アルスラーンはそれをやめさせようとはしなかったが、一つだけ要求を付けた。「我らは負けた。それを、ありのままを伝えよ」と。

 

 アルスラーンの手元に残ったのは、ぼろぼろになった、かつてのパルスの半分だけである。アンドラゴラス軍を吸収したとはいえ、軍も崩壊寸前。退却するルシタニア軍の追撃など、考えられない事であった。

「……ダリューン」

 せめて、彼が居てくれたら。どうしてもそう思わずにはいられない。ナルサスがいる、キシュワードもいる、他にも自分にはもったいないほどの臣下がいる。そう思っても、心の穴はふさがらない。

 シンドゥラで「自分は誰なのか」と暗い淵に沈み込んでいた自分を、「大事なご主君でいらっしゃいます」と救い上げてくれた人は、もういないのだ。

 

「アルスラーン」

 いつまでもただイスバニルの野を見ているだけだったアルスラーンが、ここで初めてはっと振り返った。エステルの声を聞き、感情を失ったような表情がようやく動いたのだ。

「セイリオス殿下から、借りを返してこいと言われた。ドン・リカルド卿も一緒だ。………その、私たちを許せないと思うパルス人も多いだろうし、私自身とんでもないことをしてしまったりもしたが―」

「君たちの責任ではないだろう。パルスの復興に力を貸してくれるというのなら、私は嬉しい」

 エステルの言葉を遮るように、笑顔を浮かべてアルスラーンが言う。しかし、その笑顔を見たエステルはつかつかと歩み寄り、アルスラーンの頭を掴んでいきなり抱き寄せた。

 

「泣け」

 いきなりのことで狼狽してじたばたもがいていたアルスラーンが、エステルの言葉で動きを止める。

「思いきり泣け。…それで、少しは楽になる。お前が失ったものの代わりになどなれるはずもないが、お前の傍にいてやることは出来る。どんな弱い姿を見せても一緒にいてやるから、だから泣け」

 そんな作り物のような笑顔を見せるなと言われ、しばらくアルスラーンは身動き一つしなかったが、やがて小さく嗚咽の声が漏れた。それは次第に大きくなり、ついには号泣となった。

 

 ―いつまでも続く涙の中で、アルスラーンは一つの決意を固めていた。

 良い国王(シャーオ)になろう。

 ダリューン、ジャスワント、メルレイン、レイラ、それに自分を信じて散っていった兵士たち。

 自分が良き国王として君臨すれば、彼らはその名君のために命を捧げた忠臣として名を残せる。そうやって名誉を与えることが、自分ができるせめてものことだ。

 それにクバードや歩兵隊のルッハーム、シャガード将軍も、パルスの未来のために戦ったのだ。その思いを、自分は受け継がねばならない。パルスをきっと、立て直して見せる。

 アルスラーンが顔を上げるその時まで、エステルは抱きしめてくれていた。

 

 解放王は、再び歩み出す―。

 

 

 一方、本人の気持ちはともかくとして、大勝利を収めたセイリオスは軍を纏めてザーブル城まで撤退した。

「随分やられたな」

 ギスカールが少し批難するように言うと、セイリオスは頭を下げた。アクターナ軍の損害3千8百という数字は、ギスカールの想定にはない。アルスラーンが予想以上に健闘したということだ。

 アクターナ軍でなければ、負けていたかもしれない。そうなればアンドラゴラスもヒルメスも一気に呑み込み、パルス西部の奪還にも乗り出していただろう。ここで大きく叩けたことは、結果としては良かった。

 とはいえ、セイリオスには反省してもらわねば、と思う。聞いたところによると、あと少しで死んでいたというではないか。自分の存在がルシタニアにとって、兄二人にとってどれほど大きいのか、よく考えてくれ。

 

「再編を終え次第、ルシタニアに向かいます」

 兵士の補給はセイリオスの方から断った。訓練する暇もない今では当然だろう。それに元々アクターナ領で養える軍を考えると、4万は少し無理がある。妥当な規模は、3万余だ。

 立て続けの戦となるが、神の名を持ち出すボダンに対抗するにはアクターナ軍の力が必要不可欠である。済まぬな、と肩に手を置き労わってやる。打算が入っているとはいえ、本心であるのも事実だ。

(こいつがいたから、ここまで来れた。そして、まだまだ先に進む)

 本国がどんな状況になっていようが、ボダンごときに負ける弟ではない。本国の教会勢力をも叩き潰したルシタニアは、世界でも屈指の超大国と化すだろう。かの大帝国を超えることも、夢ではない。

 

「船の手配は、既にゴドフロワに命じて始めさせているが、急な事なので渡せる兵力は5万から6万というところだ」

 ボダン軍は10万を超えているだろう。こちらも10万を渡すとなると、準備にさらなる時間が必要になり航海が冬期にかかってしまう。冬は嵐が多く、航海を避けるのが常識である。

 かといってのんびりと来春まで待っていたら、トゥリヌスたちが耐えきれるかどうかわからない。

「充分です。今はとにかく早くルシタニアに着くべきでしょう」

 それでも護衛のガレー船、人員輸送の帆船、馬のための平底船を合わせれば、数百艘の大艦隊になる。荷を積み込むだけでも大仕事だ。それを滞りなく進めるギスカールの行政手腕は、流石であった。

 

 パルスでの戦を終えた軍神は、次の戦場へ―。

 

 

 バダフシャーンに撤退中のヒルメスが、イスバニルの結末を知るのは、少し先のことになる。カシャーン城に入城し、援軍と合流する当てもついた。諜報を再開したのは、それからだ。

 アルスラーンはアンドラゴラス軍を吸収しエクバターナに入城したが、軍はぼろぼろであるらしい。特にあのダリューンが戦死したというのが、一同に衝撃を与えた。

「………これからどうするべきか、皆の存念を伺おう」

 引き返してアルスラーンと決戦に及ぶ、というのも手ではある。しかし、大博打だ。特にエクバターナに籠城されたら面倒である。兵糧と攻城兵器が足りない。ぼろぼろなのは、こちらも似たようなものだ。

 そして何より、ただ一人のパルス王になった瞬間から、セイリオスが牙をむいてくる。

 

 バダフシャーンに戻り勢力を扶植するというのが、一番安全だろう。カーラーンは軍の再建を考えそう主張したしヒルメスも妥当だと考えていたが、サームは攻勢に出ることを提案した。

「ペシャワールを奪取するだと?この状況で、か?」

 サームが示した攻略目標はエクバターナではなく、東のペシャワール城。確かに大陸公路を抑える要衝であるが、難攻不落の城だ。そのイメージに躊躇したヒルメスを叱咤すべく、サームは言葉を続ける。

「アルスラーン軍は大打撃を受けました。我らに対応できる兵力はたかが知れておりましょう。しかも、アンドラゴラスがペシャワールの軍を呼び寄せたため、かの城も手薄。千載一遇の好機です」

 

 ヒルメスもカーラーンも、そう言われてはっとした。確かにその通りである。しかも大陸公路を取ればそこを通る商隊からの関税が見込め、それを失ったアルスラーンはさらに苦しくなるだろう。

「よし、サームよ、精鋭を率いてペシャワールに向かえ。俺はソレイマニエに向かう」

 ソレイマニエはペシャワールとエクバターナの中間辺りにある街だ。ここも要衝ではあるが、攻めるのは陽動である。取れればいいが、取れなくてもいい。アルスラーンの援軍を阻止できれば、それで充分。

 

 主従はそれぞれの目標へ向かう。パルスの混迷は、まだまだ続く―。

 

 

 そして、エクバターナ地下。蛇王を信奉する魔導士のねぐらである。

「おのれセイリオスめ…。あの女神官(カーヒーナ)め…」

 アルスラーンの殺害に失敗した『尊師』は、忌々しそうに呟いた。受けた矢傷も、じわじわ痛む。どうやら破魔の力が込められていたようで、治癒が遅い。

 これでアルスラーンも用心するだろう。手駒が少ないことを考えると、暗殺はよほど機に恵まれなければ難しく、失敗した時のリスクは大きい。蛇王の復活は、何もせず時間を待った方が良いかもしれない。

 セイリオスが討ち取っていれば事は簡単だったのに、と嘆くが、彼に言わせれば「そんな事情は知ったことではない」であろう。

 

「……だがしかし、ザッハーク様の依代に最もふさわしい肉体が手に入った。……此度の戦、勝者は我らよ」

 




これが物語としては事実上の最終回になります。
(アルスラーンの涙で終わりにしようかと考えてましたので…)
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