『この時エステル卿が傍にいてくれたことは、解放王にとって何よりの救いだった』
アルスラーンの生涯を間近で見通すことになる、エラムが後に残した言葉である。セイリオスがそこまで狙ってエステルを派遣した、ということはないだろう。結果としてそうなった、というだけだ。
エクバターナに入城したアルスラーンは、パルス第19代
「……無理もございません。このところ、ころころ主が変わりましたからな」
ボダンが統治していた頃ならともかく、1年近くのセイリオスの統治で、住民はそれなりの満足の中を生きていた。それがフィトナ、ヒルメスと代わり、今度はアルスラーン。情勢を把握している者などいないだろう。
「民が求めるのは『誰が為政者であるか』ではなく、『良き為政者』です。善政と思えれば誰であろうと、どのような政治形態であろうと、一向に構わないのです」
新王に政治の心得を説くナルサスに、アルスラーンは深く頷いた。笑顔を見せることが減った、一人で物思いに耽ることが増えた、とは思うが、虚ろの状態からは甦った。とりあえずは安心できる。
エステルの方も、どうやら聖マヌエル城であったことを知ったようだが、大丈夫なようだ。イスバニルの丘でアルスラーンと話す前はおどおどしていたのに、連れ戻ってきたときには気丈な女騎士の顔になっていた。
「しばらくパルスに留まる。よろしく頼む」
アルスラーンの絶望を見て、自分が支えてやらねばと思ったのか。それとも自分のことなど大したことではないと開き直ったのか。とにかく、アルスラーンを救い上げてくれたことには、感謝してもしきれない。
ただ、困る事がないわけではない。二人の関係性が全く分からない。果たしてこの二人に、男女の想いはあるのかないのか。キシュワードからもルーシャンからも聞かれたが、ナルサスも答えようがなかった。
もちろんルシタニア人ということで嫌悪を見せる者も多かったが、アルスラーンがそれを窘めた。彼がエステルにした特別な事と言えば、そのくらいである。
ほどなく、間諜からヒルメス軍の動きが伝えられた。軍を分断し、本人は北東のソレイマニエへ。もう一隊はさらに東。狙いがペシャワールの奪取であるのは明らかである。
「援軍を送らないというわけにはいかないだろう」
軍議の席で、アルスラーンが苦々しく言った。しかし、動かせた兵力は騎兵3千に歩兵1万でしかない。エクバターナの防衛と軍資金、兵糧の不足が、今度はアルスラーン軍に圧し掛かっていた。
ひとまず、その部隊をイスファーン将軍に率いさせ、東に向かわせる。情けない話だと誰もが思う。あのパルスが、たった1万3千を動かすので精一杯というのだから。
将軍も減った。生き残った者でも、右腕を失ったザラーヴァントと左肩を貫かれたジムサ、背中に大怪我を負ったエラムは療養中だ。エラムも、医師の必死の治療で何とか命を拾うことができた。
だが、片腕を失ったザラーヴァントが今後前線に出るのは無理だろう。回復したならエクバターナの城司に任じようとナルサスは考えている。彼に代わり、ドン・リカルド卿に軍を率いてもらう。
「……内憂外患とは、このことだ」
私邸に戻ったナルサスが、顔に手を当てながらつぶやく。正直に言って、兵力がない以上ペシャワールは諦めるしかない。ナルサスは魔術師でも錬金術師でもない。無いものは、どうしようもない。
「ダリューンの奴、俺にこんな面倒を押し付けて逝きやがって……。あの大馬鹿野郎め……」
当然ながら、ダリューンの死がアルスラーンにだけ影響したわけではない。例えばキシュワードは大将軍として軍の再建に励む傍ら、自己の鍛錬に費やす時間が増えた。ギーヴは文句を言わず騎兵隊を指揮している。
ナルサスは絵筆を置いた。アルスラーンとの約束であった宮廷画家の地位も、パルスの復興が成し遂げられるまで据え置いた。ダリューンが生きていれば、「実に結構なことだ」と言ったであろう。
しかし、酒量が増えることだけはどうしようもなかった。控えようとしても、夜に一人になるとどうしても酒が欲しくなる。潰れるまで飲まずにいられない。
いくら後悔してもしきれないのは、やはり連環馬だ。あれだけは読み損なった。そして、その読み損ないが致命だった。今の窮状もダリューンの死も、あれさえ読んでいれば防げたはずだ。
「……一人で飲んでいると、体に毒だよ。……気持ちは解るけど」
心配して訪れてきたアルフリードを、うるさいと追い返そうとして思いとどまった。彼女も兄と一族の大半を亡くしたのだ。いつもの様に明るく、気丈に振舞っているが、無理をしていないはずがない。
「なら、付き合ってくれ。……お前の方も、愚痴を聞く相手がいた方がいいだろう」
……翌朝、早々からナルサスはアルスラーンに目通りを願い、冷や汗を流しながら奏上した。アルフリードと結婚しなくてはならなくなった、と。
いきなりすぎて「は?」と聞き返したアルスラーンに、ナルサスはより汗を増して説明する。まあ単純な話ではある。二人で泥酔するまで飲み、その勢いで行きつくところまで行ってしまったということだ。
「………」
記憶はないが、こうなってしまった以上責任は取らねばならない。決して嫌っていたわけではないし、相手がアルフリードで良かった、とは思う。
女の方は恥ずかしがったり「十八で結婚の予定だったのだけど」と照れながら言ったりしたが、願ったり叶ったりで嬉しそうである。
パルス一の智者らしくない失態に、アルスラーンは思わず噴き出した。結婚の許可を求めるナルサスに、笑いながら二人のことを祝福した。
「わかった。許可するも何も、臣下の結婚のことまで王が口を出すべきではないと思う。だが、このところ暗い話題ばかりだったのだ。盛大にやろう」
ダリューンの死から、初めて爆笑した。あのナルサスが、と思うと、どうにも堪えられない。自分を笑わせるために企てた、ナルサスの策謀ではないかと思ったほどである。
なにはともあれ、この一件以来、沈み込みがちだったアルスラーンの宮廷が少し明るくなったのは確かだ。ナルサスの酒量も減った。……療養中のエラムから軽蔑の眼差しを送られたことだけが、問題だったが。
一方、軍事的には明るい展望を描けそうになかった。ペシャワール城救援の見込みは立たず、大陸公路の支配権は諦めるしかない。大陸公路の関税以上に、パルス王の威信を失うのが痛い。
軍資金と兵糧はギランの港にいるグラーゼに連絡をつけ、何とかするしかない。今後は海路とエクバターナ=ギランを結ぶ南北の道が重要になるだろう。トゥースをその防衛として派遣した。
トゥラーンの内乱は終結し、イルテリシュが新王となったという。今後、ダイラム地方にトゥラーンの侵攻が予想される。チュルク、ミスルとてどう動くか判らない。
シンドゥラだけはいまだ同盟関係にあるが、あのラジェンドラ王の事だ。好機と見れば、直ちに掌をひっくり返す。ただ、ヒルメスの勢力圏と隣り合っている現状、今はまだ維持する方が彼の利となろうが…。
「ルシタニアが再び攻め込んでくる可能性は低いと考えていい、というだけが救いだな」
パルスを滅茶苦茶にした元凶の一人であるボダンが今の状況の救世主、というのは何とも皮肉だが、セイリオスをひきつけてくれるなら何でもよい。あの男とだけは、二度と戦いたくない。
さて、そのセイリオスはマルヤムを出航し、自領であるアクターナに寄港していた。留守を任されていたルッジェロは直ちに最新の情勢を伝え、同時に水や食料の補給を行う。
「本国は混乱しており、誰が敵で味方なのかもはっきりしません。ただ、ボダンに従っている者も、心から従っているわけではないはずです」
ボノリオ公爵とトゥリヌスは南部のマスティアという海港都市に逃げ込んでいた。ここは古来より海に突き出た岬を要塞化した、難攻の地として知られている。
二人が何とか粘っているのはそのためと、何よりボダンの政略性の無さが大きい。ボダンは全軍に対し、二人に味方した者は降伏を一切認めない、全て抹殺すると断言してしまったのだ。
彼にしてみれば背教者とそれに味方した者には死あるのみ、という当然の理であり、断言したことに後悔や反省は微塵もないだろう。実際、攻め落とした城塞の一つを鏖殺した。
さらに、一部の軍はお墨付きを得たと言わんばかりに、関係ない者に対しても略奪暴行に励む始末だ。背教者である、とさえ言えば、何をしようと咎められる恐れはない。
マスティアの住民は陥落すれば皆殺しだと恐怖し、必死で二人に味方している。
「……確実に味方と言えるのは、トロズ伯か」
最後に確認して、セイリオスは軍を進めた。出航した船団はマスティアではなく、そのトロズ伯の領する港に向かわせた。全軍をそこに上陸させる。
トロズ伯は素直で表裏のない人であるが、悪く言えば考えの底が浅い。今回ボダンに味方しなかったのは、政敵のコラード候が先にボダンに味方したためである。あいつの後塵を拝せるか、というだけだ。
それだけならまだしも、そのコラード候がトロズ伯の所領を狙い攻め込んできたため、反ボダン、王家支持に肚を決めた。一度そう決めたら考えを翻さない男である。表裏がない分、信用できる。
トロズ伯領に腰を落ち着けたセイリオスがまずやったのは、ボダンに替わって大司教になったエンゲルベルトの書簡を、敵味方問わず諸侯と教会に送り付けたことだ。
「ボダンは国政を壟断し、王家の継承にも関わろうとした。司教の分を超えた行いである。腐敗堕落がここに至るとは嘆かわしい。聖職者は世俗に関わるべきではなく、今は教会自身が変革しなければならぬ時である」
死ぬまでに一度でいいから見てみたいものの一つが、政治に介入しない聖職者と言われた時代である。エンゲルベルトの書簡は諸侯の心を揺るがすに充分だった。
彼としてもボダンのやり方には常々反感を覚えていたし、東方教会との融和を果たさねばならない立場にある。これまでの教義を捨てねば成せぬことであり、そのためにはボダンを悪役にするのが最も手っ取り早い。
もちろん打算もある。ギスカールやセイリオスの実力を間近で見て、自分たち聖職者が遠く及ばない存在であると重々承知させられた。ボダンの真似をして国政に関わろうとすれば、たちまち叩き潰される。
「神の言葉を聞かぬ背教者め!!!地獄の業火に焼き尽くしてくれん!!!!!」
ボダンが激怒したことは言うまでもない。それに放っておくと離反する諸侯が続出しかねなかった。トロズ伯領を攻めているコラード候に大部隊を合流させ、セイリオスを一気に討ち取ることに決めた。
この時のボダン軍は15万と言われ、ボダン本人は後方でさらなる軍の動員を進めていた。対してセイリオスはトロズ伯の1万弱を加えた6万余。しかしセイリオスに焦りは全くない。
「15万というが、精鋭はせいぜい2、3万だ」
農民や傭兵をかき集めた軍に過ぎない。コラード候は勇猛な軍司令官として知られており、彼に軍を任せたのはボダンにしては良い選択をしたと言えたが、やはり軍事には素人、数しか見えてないのだろう。
コラード候もさすがに理解している。正面から戦えば、アクターナ軍と戦った部隊が一撃で粉砕され、それが全軍に波及して潰走するであろう。無策のまま会戦を挑むのは、無謀でしかない。
だからといって時間を掛ければ、15万もの軍を支える糧食その他諸々が不足する。これもボダンの素人性を証明するものだが、兵站という概念を理解してないのだ。自腹を切るなど、絶対にやりたくない。
「………」
彼としては知恵を絞ったつもりだった。まず特に質の悪い部隊を各城塞に振り分けた。これは囮だから質が悪くともよい。そして自身は比較的質のいい部隊を連れ、セイリオスの進軍路に埋伏させた。
セイリオスは先鋒にトロズ伯の部隊、次いでアクターナ軍、後方にルシタニア諸侯軍、という順に行軍していた。後方から襲い諸侯軍を崩し、その勢いでアクターナ軍を叩く。そう考えたのだ。
地名から『カゼルスの戦い』と呼ばれることになるこの戦いで、コラード候は惨敗を喫する。後方の諸侯軍を崩すどころか逆に押し返され、そこに反転してきたアクターナ軍の突撃を受けて四散五裂したのである。
パルス戦役を越えたルシタニア軍は、かつての軍とは別物となっていた。それを考えなかったのがコラード候の失敗と言える。
そして当然ながら、セイリオスはコラード候の動きを掴んでいた。最後尾に置いたのが、サハルードで活躍した猛将プレージアン伯の部隊である。彼ならどんな大敵でも臆することはない。
「進め、進め!奴らなど木偶のようなものだ!臆する奴は、後で殿下の特別訓練行きだ!!!」
プレージアン伯には冗談交じりに鼓舞する余裕すらあった。だが兵士たちにとっては冗談ではない。セイリオスの特別訓練など、真っ平御免である。それなら今戦った方がいい。
「……まったく、あの男は勇猛と評するより、頭のねじが飛んでいると言うべきだな」
そうぼやいたゴドフロワも、諸侯軍全てを反転させプレージアン伯に続く。たった2万でしかない諸侯軍が、10万余のコラード候の軍の真央に飛び込んだのである。
コラード候の軍が統一された指揮系統の元、一糸乱れぬ動きができたのであれば、包囲殲滅に持ち込めばいいだけであった。だが予想外の敵の奮戦に気を呑まれ、圧倒的な大兵である彼らの方が臆してしまった。
その間にアクターナ軍まで戦場に到着したことにより、勝敗は決定的となる。コラード候は敵の中央突破を許し、逃げようと雑兵に紛れ込んだがエルマンゴーという騎士に討ち取られた。
当初、彼はそれが敵の総大将とは思っていなかったらしい。いい剣を持ってるな、と、それを奪い取ろうとしただけであった。彼は戦後の恩賞で重賞に加えて、その剣も正式に手にすることになる。
カゼルスの戦いの結果を受け、ルシタニアの国中に衝撃が走る。コラード候があっさり負けた上に戦死したと聞き、ボダンが集めていた軍も四散してしまった。諸侯はこぞって自領に逃げ帰る始末である。
セイリオスはそのままマスティアに向かい、そこを解放する。ボダンが送っていた包囲軍は、セイリオスがやってくると聞いただけで逃げ去った。
マスティアに入城したセイリオスを迎えたのは、ボノリオ公爵だけだった。トゥリヌスはどうしたと聞くと、つい先ほどアクターナ軍の軍旗を見た安堵で気絶したという。
「………あの男らしい」
げっそり痩せて顔色も土気色になりながらも最後まで頑張ったのだから、勘弁してやって欲しい。そうボノリオ公爵に笑いながら言われて、セイリオスも笑った。
イスバニル戦後の話はこのくらいの密度になります。