ルシタニアが順調どころか膨張する勢いで勢力を拡張していくのに対し、パルスはこの間アルスラーンとヒルメスの争いに決着をつけられずにいた。
全体として見れば、優勢だったのはヒルメスの方だ。イスバニルでアルスラーンが負った深手が、そこまでのものだったと言える。
ヒルメスはペシャワール及びソレイマニエの奪取に成功し、大陸公路を手中にした。そのまま、南方、ギランの港を狙う。ここでアルスラーンがギランまで失えば、国は破綻すること疑いない。
アルスラーンも重々承知だ。残る力を振り絞る、という感じで軍を動員し、それでもヒルメス軍の半数であったが、ここは兵力差を覆しアルスラーンが勝利した。その陰には当然、ナルサスの存在があった。
しかし、アルスラーンにできたのはそこまでだった。ヒルメスに致命的な損害を与えた訳でなく、奪われたペシャワール奪還に動くこともできず、ギランとの道をひとまず確保しただけ、という勝利であった。
ただ、この勝利でヒルメスの勢いを砕いたのも事実だ。ヒルメスの方も限界だったに違いない。彼の方もヘルマンドス城に留まり、しばらく軍の再建に務めることになる。
冬になった。西方ではセイリオスが『ミルバッシュの戦い』で完勝しながら冬の寒さを慮って軍を止めた頃である。この年はパルスでも寒気が強く、それはアルスラーンにとっては一息つけることを意味した。
「従兄殿と和議は出来ない物であろうか…」
アルスラーンが呟く。恒久的な和議のためには、どちらかがパルスの王位を退かねばならない。それは解っているし、無理だろう。そこまでいかずとも、数年の休戦くらいなら見込みはないものか。
「無理だろうな。相手は自分こそパルスの王様だって信じているんだろう?何かを強く信じていると、それ以外は頭に入らなくなるものだ」
エステルが言うと、人の三倍は説得力がある。「そうか…」と残念そうに呟いて、アルスラーンも諦めた。
二人のやり取りを見て、ナルサスがエラムに「どう思う?」と話を振った。対しエラムは、少しだけ機嫌悪そうに、わずかに口調に怒気を交えて答える。
「エステル卿の言は妥当でしょう。それにかろうじて勝利は収めましたが、いまだ敵が優勢な状況ですから、向こうには和議を結ばねばならぬ弱みもありません」
短い間だがセイリオスの薫陶を受けたというエステルの判断は、なかなか的確である。エラムと二人、アルスラーンの左右にあって切磋しながら支える存在になってくれればよい、とナルサスは考えていた。
しかし、どうもエステルに対するエラムの言動には棘がある。これまで常にアルスラーンの隣にいたのに、いきなりその居場所を取られたと感じているのだろう。少々嫉妬深いのが、エラムの欠点か。
「エラムが言うことももっともだ。……とにかく、この冬の間にできる限りのことをせねばなるまい」
エクバターナの財をルシタニアに取られた現状、国庫はほぼ空である。それに対しアルスラーンは国債の発行という手段を用いた。急場しのぎにはなったものの、あまり売れ行きがいいとは言えない。
「………嫌われているな、私は」
国債を買うほど余裕があるのは、富裕者に限られる。その富裕層をアルスラーンの奴隷解放宣言は直撃したのだ。人気が無いのも当然である。
一方で、何とか財源を工面して解放した奴隷たちも、まだ国富に寄与する存在にはならない。税収を得るまでに、数年はかかるだろう。
そのような状況で、会計を担当するパティアスは頭と胃を痛めながら、火の車状態にあるアルスラーンの財政を破産ぎりぎりで回していた。彼も、いなければ解放王の滅亡は確実だった、と言われる一人である。
この冬が、アルスラーンにとって最も辛い時期であったに違いない。ルシタニア戦役が夏に集結したのが救いと言える。秋の収穫を得ることが出来ていなかったら、確実に乗り越えることができない冬であった。
そのアルスラーンと対するヒルメスは、ギランの攻略で一敗地まみれたとはいえ、経済でも軍事でもアルスラーンより優位に立っていた。
「今度こそアルスラーンと決着をつける。そなたは身を大事に、この城で待っていよ」
イスバニル戦後、ソレイマニエを奪取してヘルマンドス城に退却したヒルメスがまず行ったのは、マルヤムの王女であるイリーナ内親王に頭を下げたことである。
ルシタニアとの交渉で、勝手にマルヤムを捨てた。ルシタニアが乗りそうな手札は王の返還以外にそのくらいしか無かったからだ。もちろん後になれば知らぬ存ぜぬで押し通し、マルヤムを奪還する肚であったが。
「私の存在が少しでもヒルメス様のお役に立てたのであれば、嬉しゅうございます。……マルヤムで無くとも、ヒルメス様の傍に居られれば、私は充分なのですから」
無意識の行動だった。その言葉が終わる前、気付いた時にはヒルメスはイリーナ内親王を抱きしめていた。「ヒ、ヒルメス様?」と戸惑う彼女より真っ赤になり、それでもヒルメスは言う。
「……………そなたを、王妃にしたい」
マルヤムの王女だからではない。俺も、そなたが傍にいてくれればいい。そう言い続けようとしたが、口にできたのは一言だけである。それでもイリーナ内親王は、泣きながら頷いてくれた。
そして冬の間に、イリーナ王妃の懐妊が明らかとなった。春を迎え、腹のふくらみも目立つようになってきた頃である。
しかし、ヒルメスの側にも問題がないわけではない。
「ペシャワールには替わりの将軍を入れ、サームを呼び寄せるべきでしょう」
ヒルメスとカーラーンが考えた作戦は、三方からの多面同時攻撃である。アルスラーン軍で恐るべきはナルサスとキシュワードの二人であろう。二人では三面攻撃に対し、どれか一面に対応できないのは当然だ。
だが、ヒルメス軍としてもヒルメス本人とカーラーン、それ以外に指揮を任せられる人材と言えばやはりサームしかない。そのサームは、ペシャワールを奪取して以後、その防衛に配置したままだ。
パルハームを前線に出す、という手もあるが、彼が居なければ軍政が回らない。地味ながらヒルメス軍の縁の下を一人で支えているのがパルハームだ。それに代われる人材は、まだ見つかっていない。
「……いや、ここはザンデを抜擢しよう。あいつにもそろそろ、一軍を任せてみるべきだ」
東方の国境はきな臭い空気が漂っていた。トゥラーン、チュルク、シンドゥラの三国とも内乱を片付け、パルスの混乱を蚕食の好機と見ていたのである。サームを動かせば、どの勢力が動くかわからない。
さらにヒルメスの考えとしてあったのが、軍の若返りである。アルスラーン軍と比較して、将軍の年齢は全体的にヒルメス軍の方が高い。カーラーンやパルハームが老いる前に、若手も育てておきたい。
もう一つ理由を挙げるなら、ザンデに代わる側近を得たことがある。ブルハーンというトゥラーン人である。トゥラーンの内乱で前王トクトミシュに味方し、敗れて流浪していた所を拾い上げた。
野垂れ死ぬしかなかったところを救われた、とブルハーンは歓喜しヒルメスへ忠勤を尽くしたが、それがヒルメスの一の腹心を自負するザンデには内心大いに不満らしい。
側近からは外れたが、他を差し置いて将軍の一人に昇格となればザンデの不満も消えるだろう。そう考え、作戦を実行に移そうと決めた矢先に、事件が起きた。
パルス歴322年4月―。突如、デマヴァント山が噴火した。同時に大地震が起きる。昨年3月にも二十年ぶりと言われる地震があったが、今回の規模はさらに大きい。軍を発するどころではなくなってしまった。
「集めた軍を各地に派遣し、復興に当たらせよう」
火山灰の降灰、家屋の倒壊、土砂崩れ、橋の崩落と、被害は多く出ただろう。王位のためにはルシタニアを引き込むまでしたヒルメスだが、王位に就いてからは領民思いの名君として通っている。
この『二人の王による戦争』とされる内乱で救いがあったとすれば、二人とも名君に分類される統治者であったことだろう。それゆえ、分裂し、争いはしたが、パルスの決定的な荒廃は避けられた。
ともあれ、この噴火と地震により戦機を逃がしたヒルメスは、秋には小さな軍事行動を起こし、アルスラーン側だった小さな城塞を二つ攻略した。戦略的価値はあまりないが、宣伝の意義はある。
そしてこの秋には、家庭的にも彼は幸福に恵まれた。イリーナ王妃が、男子を出産したのだ。戸惑いながら初めて我が子を抱いたヒルメスの腕の中で、赤子は大いに泣きじゃくった。
「この子の名前はティグラネスにしようと思うが、よいだろうか?」
第四代パルス王の名である。その父クシャーフルは王位に就くことが出来なかったが、彼は従弟の死後王位を奪取した。ヒルメスにとっては吉例と言える名であろう。
この時が、彼個人としても、国としても幸福の絶頂であった。アルスラーンとの対決は時間を掛ける程相手が回復し差が縮まるだろうが、まだ優勢である。来年こそ、と牙を研ぎながら、冬を過ごす。
影が差したのは、ペシャワール城を守るサームからの急報が入った時だった。奇妙、というより異様としか言えない報告である。
―チュルク国が、一人の騎士により滅亡したという。
「………なんだ、それは?」
チュルクが滅亡したと言っても、他国との戦争に敗れて征服された、というわけではなかった。チュルクの国都ヘラートの宮殿に一人の騎士が斬り込み、カルハナ王の首を取ってしまったという。
ダリューンがいない今、パルス第一の武勇の人といえばヒルメスであろう。そのヒルメスでも首をかしげた。とても人間技とは思えない。
それ以降の状況は、不明。普通、こういう政変が起きれば逃げ出す者が出るはずなのだが、それが全くと言っていいほどない。もっともチュルクは盆地の中にあるので、取り締まり易いとは言えるが…。
当然、サームも間者を放ったが、一人も戻ってこなかった。あまりに異様なこの状況を知らせるため、とにかく現状の報告だけで急使を出したのである。
「……チュルクから目を離すな。情報は逐一送れ」
アルスラーンとの決着どころではない。ヒルメスもカーラーンも、表現しがたい不安に襲われていた。何か、とてもよからぬことが起きている。理屈ではなく、感覚がそう告げていた。
その不安が何によるものか、彼らはすぐ知ることになる。
チュルク軍、国境を突破。規模は10万という大軍である。まあ、簒奪者が自分の強さを誇示しようと他国に攻め込むのはよくあることだ。だが季節は真冬。しかもチュルクはパルスより寒冷の地である。
「常識も何もない奴らだ」
真冬に大軍を動かすなど馬鹿のやる事と言っていいが、ペシャワールの守兵はサーム以下3万。10万で遮二無二攻めれば、陥落させることもできるかもしれない。
ヒルメスは3万の兵を連れて援軍に向かった。6万で防御を固め籠城していれば、やがて敵は冬の寒さに疲れ、撤退するしかなくなるはずである。
簡単な戦だと見たので、カーラーンはバダフシャーンに残し、副将はザンデを選んだ。ブルハーンは
その予測は正しかったはずである。敵が、普通の軍であれば…。
ヒルメスは西側を包囲していたチュルク軍を蹴散らしてペシャワールに入城した。チュルク軍の戦意は低く、ヒルメスの精鋭が突撃すると逃げ惑うばかりである。
翌日には、チュルク軍の陣頭に首が二つ掲げられていた。先日西側の包囲を担当していた将軍である。不甲斐ない戦をしたことの罰であろう。
「……どうやら今度の新王は先王にも増して冷酷な輩らしいが、敵の気が引き締まったのも事実だな」
しかしヒルメスの口調には余裕がある。援軍到着で城内の士気は大いに高まった。少々敵が気を引き締めたところで、ペシャワールを陥落させるには至らない。
「御意。我らは油断せず、このまま守りを固めます。こちらは兵糧も燃料も充分。わざわざ出撃せずとも相手は消え去るしかありません」
サームも同じ考えである。敵が必死で攻めてくるとしても、三日も冬の寒気に晒されれば気も萎える。数日耐えることなどわけがない。敵はわざわざ負けに来たようなものだ。
実際、そこから五日に渡ってチュルク軍は攻撃を仕掛けたが、ペシャワール城は小動もしなかった。城内のヒルメスもサームも、「意外に頑張るな」と敵軍を褒めていたくらいである。
異変は、六日目に起きた。
「何だ、何だ?」
その異変に真っ先に気付いたのは、城内の塔にいた見張りである。東の空が黒い。大きな鳥の群れ…と最初は思ったが、どうもおかしい。鳥にしては大きすぎる。
「………
その正体に気付いた一人が叫んだ。すぐさまヒルメスとサームに報告が飛ぶ。二人も全く考えていなかった存在の登場に仰天したが、すぐさま我に返る。
「弩弓兵!!!」
サームの指示に従い、城壁上に弓兵が並ぶ。一度の斉射ごとに十体は落とすが、いかんせん数が多い。明らかに千はいるだろう。さらに地上ではチュルク軍が攻め寄せ、そちらの対応もせねばならない。
有翼猿鬼は上空から大石を投げつけ、下のチュルク兵に向いて頭上がおろそかになった兵を襲う。ヒルメスも自ら弓を取って奮戦したが、上と下から同時に攻撃されるなど初めての体験である。流石に分が悪い。
「
城壁に取り付くチュルク兵だけでも蹴散らし、弓兵には上空の敵にだけ専念してもらう。ヒルメスの判断は悪いものではない。城門が空いたぞ、と歓喜した敵兵は、すぐさま噴出した騎兵隊によって蹂躙された。
「ふん、チュルクには一人の勇者もいないと見えるな!!!」
ヒルメスの驍勇は、歴代パルス王の中でも三本の指に入るに違いない。彼が今まで恐れるに足ると評した相手はただ一人、ダリューンだけである。
最前線の指揮をしていたチュルクの将軍を一太刀で討ち取り、雑兵を蹴散らした。恐れをなしたチュルク兵が逃げ散っていく。
―不意に、戦場が静寂に包まれた。
ただ一騎。馬蹄がゆっくりと歩く音だけがその場を支配する。剣を構えた、黒い鎧の騎士。チュルク兵が怖気づいたように後ずさる。ヒルメスも、わけもなく冷や汗が噴き出した。
男が駆けた。遮ろうとした兵を吹き飛ばすように蹂躙し、あっという間にヒルメスに迫る。迎え撃とうとしたヒルメスの剣を軽く弾き飛ばし、振り下ろしの一撃。
「――――!!!」
その一撃は防ごうとしたヒルメスの剣を両断し、左肩を深く切り裂いた。
蛇王戦役、開始―。