ルシタニアの三弟   作:蘭陵

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5.王子と王弟

「……そろそろ帰りましょうか」

 暗い顔で、エトワールが頷く。あの少年が嘘をついている可能性は低い。目的の一つは、永遠に果たすことができなくなった。

 3年前、11歳だったエトワールは少年兵としてマルヤム侵攻戦に参加した。その時のルシタニア軍は、援軍として駆け付けたパルス軍によって見事に粉砕され、捕虜となった。

 パルス軍の捕虜となった場合、金があれば身代金を払って釈放、なければ奴隷として売られる、というのが基本である。だがエトワールは、貴族の少年を人質をして、何とか自分だけ脱出に成功した。

(この3年、皆を何とかして助けてやりたいと、そればかり思ってたのに―)

 今朝、偶然その時の貴族の少年と再会した。この少年なら、仲間の行方を知っているのではないか。そう思ったエトワールの勘は当たったが、返ってきた答えは最悪の物であった。

「………あの日、暴れてどうにもならないからと、奴隷商が殺してしまった」

 

 書庫にこもりきりでは息が詰まる。一駆け、外に出ないかと誘われた。まだ朝霧が残る中を、エトワールは女性と馬を駆けさせた。

 連れではない。今はこの人が「主」でエトワールが「従」である。アクターナ公セイリオスの腹心、シルセス卿。翻訳作業の監督者なのだが、普通なら見習いにすぎないエトワールが親しくなれる人ではない。

 では何故一緒かと言うと、『同性』だからである。親しい人以外には隠していたことを、シルセスにはあっさり見抜かれた。

 

 ルシタニアの騎士見習いエトワール、本名はエステル・デ・ラ・ファーノという。騎士の家の生まれであるが、その家には彼女一人しか子がいなかったため、女子でありながら騎士となる道を選んだ。

 その際に、女であることを棄てた。そうしなければならないと、固く信じていたからだ。ところが隣の人は、どこからどう見ても『女性』なのである。エステルが、同性としてまぶしく思うほどの。

 金色の、少し癖のあるミディアムヘア。ルシタニア人としては非常に童顔である。絶世の美女とは程遠いが、整った顔立ちに穏やかな笑顔を絶やさない。柔らかく、温かみのある可愛さという感じは、自分には無い。

「シルセス様?」

 シルセスの顔を盗み見ていると、ぐい、と体を引き寄せられて抱きしめられた。人の温かさを感じる。不意に涙がこぼれてきた。エステルの慟哭が止むまで、抱きしめていてくれた。

 シルセスは22歳。姉がいたとしたら、こういう存在なのであろうか。一人っ子のエステルには、わからない感覚である。ただ、嫌ではない。

 

 帰りの道中、人狩りを行っていたルシタニア軍を見かけた。昨晩、ベルトランとアーレンスが取り逃がした四人と、その主君であるアルスラーン王太子を追っているのだ。

「……まあ、アクターナ軍でないなら、放っておきましょう」

 シルセスは感づいていた。今朝会ったあの少年。エステルの話によれば、少し剣を突き付けただけで追手がたじろいだという。もしかしたら、本物の王太子ではないか、と。

 そしてベルトランとアーレンスの二人は、功を焦ったと言うべきだ。セイリオスはむしろアルスラーンの健在を願っている。ボダン以下、邪魔者の処刑役として。

 

 

「…まずはルトルド侯爵。それにペドラウス伯爵、ゼリコ子爵、クレマンス将軍…。邪魔者は順次東に出陣させる。奴らも羽を伸ばしたがってるだろうし、カーラーンの出陣に触発もされたしな」

 カーラーンは2万足らずの軍勢を率いて、バダフシャーン方面に出撃した。騎兵が5千弱、歩兵が1万数千というところだ。

 彼にしてみれば信念に則ってアンドラゴラスに背いたわけだが、人はそう見ない。しかもそれを大々的に言えないのが辛いところである。

 万騎長として指揮していた1万の騎兵で、彼に従った兵は3千程度。全員が全員、裏切りを了承していたわけではない。アトロパテネで最後まで戦い散った者もいれば、裏切り者には従えないと去った者もいる。

 それに領地の私兵を総動員して、何とか2万の軍を編成した。バダフシャーンを制圧するには寡少な戦力でありながら、成功させねば彼の未来はない。

 

 一方で、ルシタニア内にもカーラーンのバダフシャーン公冊封は大きな波紋を起こした。

「恩賞が不公平ではないか。異教徒の裏切り者にこうも厚く、我らには薄い」

 そういう声を上げる者が多く出た。ただしギスカールに言わせれば、カーラーンのおかげで勝てたのだ。口うるさいだけの貴様らより、厚く恩賞を与えるのは当然ではないか。

「では、侯爵はパルスの北東を好きなだけ切り取られるがよい」

 その中でも最もうるさいルトルド侯爵を、ギスカールはそう言って放り捨てた。示した土地はダイラムといい、かつてナルサスが領していた地である。彼が返上してから後は、王室の直轄地になっている。

 あとはもう、成功しようと失敗しようと知ったことではない。反旗を翻すなら、この弟に命じて叩き潰すだけだ。

 

「それは結構。しかし、手勢だけで喜び勇んで出陣するのは、自信過剰なのか、アトロパテネの大勝で敵を侮っているのか、はたまた単純に馬鹿なのか…」

「おそらく全部だな」

 ギスカールにあっさり返され、セイリオスは小さく笑う。アトロパテネでは完璧な罠に陥れながら、ルシタニア軍も5万を超える兵を失った。まともに戦っていれば、とても勝てる相手ではなかった。

「ルシタニア軍にも改革が必要です。…せめて、アクターナ軍と協調できるくらいには」

 ルシタニアという国は王制であるが、実際は諸侯の寄り合い所帯でしかない。諸侯が勝手に編成した軍がばらばらに戦っている、と言うのが実態なのだ。

 

「王室直轄の中央軍を整備するべきでしょう。それを核に、諸侯の軍が連動する。ひとまず、軍の再編を行いましょうか」

 ルシタニアを出発した時40万だった軍は、今では30万余に減った。戦死した諸侯も多い。指揮官を失った兵は、ひとまとめにされただけで戦力として機能してない。

「しばらくはアクターナ軍と一緒に訓練します。そのうち、指揮官も見つかるでしょう」

 兵士たちにとっては災難だな、とギスカールは思う。アクターナ軍の訓練は、生半可なものではない。ただし、育ち切れば精鋭が出来上がる。これからの統治にも、それは喉から手が出るほど欲しい。

 ただ、ギスカールが本当に欲しいのは『王室直轄』ではなく『自分直轄』の精鋭である。しかし、それを口に出せば、弟を敵に回しかねない。

 ギスカールは気付いている。ルシタニアという国にいまだ愛情を残す弟と、愛想が尽きたという諦念の中にいる自分。差は、そこなのだと。

 

「……話は変わるが、アルスラーンの追討には消極的なようだな」

 セイリオスは、改めてアクターナ軍にエクバターナ城内の警備を命じ、城外の捜索には出さなかった。ボダン派の諸将と噛み合わせるつもりなのは判るが、少々楽観的すぎないだろうか。

「パルスの残存戦力を集めれば、10万にはなる。諸侯の兵まで動員すれば、もう10万や15万を動員するのも難しくないだろう。アルスラーンがそれだけの力を持った場合、どうするのか」

「聞くところによれば、アルスラーンとアンドラゴラスの仲は極めて冷淡とのこと。アンドラゴラスを釈放し送り返せば、指揮権を巡って争いが起きます」

 聞いていてギスカールは不審に思う。争いが起きたとして、アンドラゴラスが勝ったらどうするのか。アトロパテネまでは、『不敗の王』として大陸公路に君臨していた猛将である。

「……私としては、アンドラゴラスより未知数のアルスラーンの方を恐れます。同程度の兵力で、私が整備した軍を率い、敵の指揮官がアンドラゴラスなら、まず勝てます」

 事もなく言う弟に、ギスカールはアンドラゴラスが軍を率いて向かってくる想像以上の恐怖を覚えた。

 

 

「ダリューン、ナルサス!!!」

「殿下、ご無事でしたか」

 どちらも、ほっとした声を上げる。次の合流地点として決めていた村で、アルスラーン一行は無事落ち合ったのである。

「エラム、よくやった」

 シルセス、エステルの二人に出会った後、エラムは即座に移動を決めた。その判断は正しく、ダリューンたちが戻る前にルシタニアの捜索隊がやってきた。

 一方、ダリューンたち4人は抜け道から脱出した後、遠回りを余儀なくされ、予定より遅れてしまった。元の隠れ家は捜索の手が入った後で、しかし争った形跡はないことから、無事を信じてここまで来たのだ。

 

「我が名はファランギース。フゼスターンのミスラ神の神殿に仕えていた者でございます。先代の女神官(カーヒーナ)長の遺言により、参上いたしました」

「我が名はギーヴ。王都エクバターナより殿下にお仕えするために脱出し、行方を捜しておりました」

 ファランギースの言葉は真実であるが、ギーヴのそれは嘘である。彼はたまたまエクバターナに居たところ、包囲戦に巻き込まれたというだけだ。

(少しばかり弓の腕を披露した結果、こんなことになるとはな)

 自分自身に毒づく。自由気ままに生きてきたのが、こんな子供に仕えることになってしまった。

 まあ愛しのファランギース殿のそばにいる代価と考えよう。それにルシタニア人を剣先にかける大義名分も手に入る。エクバターナ陥落のどさくさに紛れて財宝はたっぷりせしめたから、嫌になれば逃げだすだけだ。

 

「………」

 内心でそう結論付けたギーヴを、ダリューンは疑うように見ていた。確かに腕は立つ。だが、果たして信用していい者なのか。

「そう構えずともいいだろう。少なくとも、ルシタニアに内通しているという可能性は低い」

 ギーヴが内通者なら、今頃この家も踏み込まれているはずだ。神官であるファランギースが精霊(ジン)の声を聴き、「ルシタニアを憎む心に限っては偽りはない」と断言もした。

 であれば、とりあえずは心配しなくていい。悪意を持って殿下に近づいてきたわけでないのなら、人は一人でも多い方がいい。

 

「……さて、これからどうするかだが」

 内偵の結果から、王妃タハミーネの生存は明らかになった。おそらくエクバターナの宮中に軟禁されているのだろう。アルスラーンとしては母の救出を第一に考えたいのであるが、残る全員の反対にあった。

 王妃救出を第一とするとなると、戦術上の幅は大きく狭まる。今回のことで、エクバターナの警戒もさらに増したことであろう。その上、警戒に当たっているのはあの精鋭部隊だ。

 

「諸国を巡っているときに、噂で聞いた。ルシタニアのアクターナ公の軍は、精強無比だと」

 ギーヴと同じ噂を、ナルサスも聞いたことがある。しかし、想像をはるかに超えていた。パルス軍を結集させればルシタニアなどたやすく叩き返せると思っていたのは、少々傲慢であったか。

 とにかく、今エクバターナに乗り込んでタハミーネ王妃を救い出そうというのは、勇敢ではなく無謀と評するべきである。

「ルシタニア国王が御母上と結婚を望んだところで、おいそれと周囲が認めるはずもございません。近々にどうという事態は起こらぬと存じます」

 ファランギースの言葉に、ナルサスとダリューンも同意する。むしろ、ひとまず王妃の安全は確保されていると考えよう。助け出す機会は、この先にきっとある。

 

「……うん、そうだな。…うん」

 内心の葛藤を沈めるように、大きく息を吐いてアルスラーンは言った。一国の王としての度量と責任が、個人の義務より優先する。14歳の少年に酷なことであるが、それができなければ王たる資格はない。

 さて、いずれにしろ喫緊の問題は、アルスラーン一行がたった6人しかいないことである。これでは作戦など立てようもない。とにかく、味方を増やすことだ。

「完全な正義というものを、地上に布くのは無理でしょう。ですが、条理にあわぬことを無くすことはできなくとも、減らすことはできるはずです」

 今までのパルスや、今のルシタニアによる政治より良い政治。それを示すことが王者の役割である。味方を増やすには、まず、アルスラーンが将来そうすることを、パルスの人民に知らしめることだ。

 しかし、ナルサスの意見は本質を突いたものであったが、アルスラーンの期待したものではなかった。彼はもっと直接的にどうするべきか、という策を聞きたかったのだ。

「王者たる者は、策略や武勇を誇るべきではありません。それは臣下たる者の役目です。まず殿下の目指されるものを明らかになさいませ。それが叶うよう、我らは協力させていただきますから」

 アルスラーンは自らを恥じた。答えをナルサスに求めるだけでは、自分の存在など必要ない。自分はまだまだ未熟だ。それはいい。だが、「未熟である」という言い訳に安住してしまうのは、許されない。

 

 では、自分はどうすればいいのか。アルスラーンは考える。解っていることは、このまま放っておけば、いずれパルスは他国に分け取りにされるしかない、ということである。

 西からルシタニア、東からはトゥラーン、チュルク、シンドゥラの各国が版図を広げ、残されたパルス勢は各個撃破される。パルスの民は、征服された第二級の市民として生きることを余儀なくされるだろう。

 そうなる前に、パルスの残存戦力を結集させ、国土を回復する。その旗印になれるのは、国王が行方不明、王妃が捕虜となっている現状、王太子である自分しかいない。

「であれば、必要となるのは拠点となる城と核となる戦力でしょう。近隣の諸侯の助力を仰ぎ、そこを拠点に各地に檄文を発するのです」

 この近くで有力な諸侯というと、まずニームルーズ山中にあるカシャーン城塞の、ホディール卿である。彼の人となりを熟知している者はいなかった。悪い噂は聞かず、領地はそれなりに治まっているらしいが…。

 しかし、ここにいる6人の誰も知らないことだった。この時、そのカシャーン城に向けて、アクターナ軍が進発していたのである。

 




ルシタニアの変革を進めるセイリオスと、パルスの回復を志すアルスラーン。
そしてその陰でギスカールがだいぶ丸くなってます。

なお、アルスラーンとエステルの関係は漫画版より。

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