さて、ミスル国である。ルシタニアの宣戦布告を受け、国王ホサイン三世は仰天して思考が停止した。意味が全く解らないのは彼も同じだった。何故セイリオスが、今になってアルスラーンと組んだのか。
既にミスル軍は国境のディジレ川を渡り、パルスの南部に進軍中だった。王自ら軍を率いる、親征である。急いでエクバターナに進軍するような馬鹿な真似はしない。狙いはギランの港であり、南洋交易の覇権だ。
「アクミームが危うい。即刻、軍を返そう」
片足が義足の魔導士が話を持ってきたとき、好機だと思った。チュルクはバダフシャーンを制圧し、トゥラーンもダイラムに侵攻を開始した。ミスルは背後から挟撃する形になる。必勝の態勢だ。
ルシタニアにも参戦を呼びかける使者は送ったと言う。最悪でも中立を保つだろうとその男は言ったし、ホサインもそう思った。攻め込まれるはずがないと思っていた国の防御は、なおざりにしかしていない。
「急げ、急げ」
ホサインは決して暗愚な王ではなかったが、軍事には疎い。国都がモンフェラート将軍率いるルシタニア軍により包囲下にあると聞き、全体を俯瞰する余裕を無くしていた。
「お待ちください。ディジレ川を渡る前に、ルシタニア軍の動向を探るべきであります」
カラマンデスの諫言を、ホサインは聞き捨てにした。慎重策を取っているうちに国都が陥落したら、末代までの恥になる。
ホサインはまず軍を二つに分けた。自身が向かったのはディジレ川の河口にある、シイナという港町である。もう一つの軍はマシニッサに率いさせ、上流に向かわせる。
ディジレ川は大河でミスルが平坦な地形であることから、河口付近でいくつもの流れに分かれ巨大なデルタ地形を形成している。
その支流を一つ一つ越えるのは面倒だから、自身は海路、マシニッサは上流で分岐する前の地点を渡河させようとしたのだ。上手く行けばアクミームを囲むルシタニア軍を、南北から挟撃する形になる。
海路を進んだホサインの軍は、上陸を阻止しようとするルシタニアの海軍と衝突した。それは想定内のことであり、40隻余のガレー船を進ませた。ルシタニア軍はガレー船だけの50隻というところだ。
船数では若干劣るが、ルシタニア海軍はまだ改革が進んでいない、旧態依然としたものである。ミスルとて決して海軍国ではないが、戦えない相手ではない。
「……よし、予定通り、後背から襲え」
戦慄と共に命を下す。ルシタニアを出航したボードワンの軍は、セイリオスに命じられた通りパルスのタムル地方に停泊していた。マルヤムとミスルを陸路で繋ぐ地方だ。
ミスル軍に気付かれぬよう、マルヤムを周航してタムルに入った。そうしたらホサインが目の前に現れた。そのまま気付かれぬよう後を付けたら、絶好の機になった。解ることはそれだけである。
(殿下は何処まで読んでおられるのか―)
もしセイリオスが他国に生まれていれば、自分たちの考えることなどすべて看破され、今頃ルシタニアは滅亡していたかもしれない。セイリオスの存在は、ルシタニア人にとって天祐としか言いようがないであろう。
前方では、両軍のガレー船が激戦中。ミスルが若干優勢と言う所か。それをホサインは後方で、輸送船団と一緒に観戦していた。そこにボードワンが突っ込んだのである。
「一隻たりとも逃すな!まずは帆船を全て沈めろ!」
基本的に、輸送船は風頼みの帆船、軍船は櫓付きのガレー船と考えていい。小回りの利かない帆船の横腹に、衝角を突き出したガレー船が衝突する。突き破った穴から海水が侵入し、混乱する敵の様子が見て取れた。
もちろんホサインの旗艦はガレー船だし輸送船団を護衛するガレー船もいたが、数が違い過ぎた。ボードワンの60隻に対し、ミスル軍はわずかに10隻である。
「王の危機であるぞ!船団を回頭させよ!」
ホサインの号令が飛んだ。前方で戦っているミスルのガレー船団に、合図が出される。だが戦闘中の船団がそう簡単に回頭できるはずがない。生まれた混乱に乗じて、ルシタニアのガレー船団が反撃に出る。
前後から挟撃されたのはホサインの方になった。形勢不利、挽回の余地はないと見て、ホサインは逃げ出した。とにかく船を浜に乗り上げさせ、陸に逃れる。ディジレ川を遡れるほど喫水の浅い船ではない。
王が逃げたことで、ミスル軍の戦意は潰えた。その中でカラマンデス将軍は上陸させたわずかな部隊で殿を務めたが、ボードワンの軍が次々に上陸、衆寡敵せず、無念を抱えて捕虜となった。
カラマンデスの奮戦、というよりルシタニアがアクミームの奪取を優先した、あるいはホサインのことなど無視したため、彼はマシニッサの軍まで逃げ延びることが出来た。
「カラマンデスは生きていまい…。予に良く尽くしてくれた…」
自国の名将を哀悼するくらいには、ホサインとて情がある。対しマシニッサはそれに倣いながら、どこか喜色を隠せないでいる。これで自分がミスルの大将軍だと思っているのだろう。
カラマンデスが捕虜として生きていることは、二人とも知らない。
「………」
底の浅い男だ、と表情に出さないように軽蔑した。この男一人でルシタニアに勝てるかと考えると、はなはだ心許ない。兵数でも、敵は残ったミスル軍の3倍近い。
「とにかく、敗兵を集めて軍を立て直すのだ。それに手近な軍は、どんどん動員しろ」
ホサインの考えが、決して間違っていたわけではない。軍を再建しなくてはどうしようもないというのは、客観的に見ても事実だった。失敗は、先の大敗を受けて、今度は慎重策に傾倒しすぎたことだ。
ホサインは軍の再建に勤しんだが、その間にアクミームが陥落した。国王軍からの鹵獲品を見せられて、城内の兵はもう援軍の望みも絶たれたと思ったのである。城内の者全ての命の保証と引き換えに、開城した。
「もう少し粘っておれば…。不忠者め…」
内心、せめて城内から見える位置まで軍を進ませるべきだったと後悔したが、もう遅い。第三者から見れば、ホサインの行動はルシタニア軍を恐れて後方に留まっていた、と見られても仕方ないことである。
アクミーム陥落による動揺を抑える程の威厳を、ホサインは持ち合わせていない。城内に家族がいる者も多い。彼らにしてみれば、このままホサインに従い続けて家族が罰されてはたまった物ではない。
日ごとに、ホサインの軍は目減りしていった。国王の勅命で向かっていた軍も、アクミーム陥落を聞くと引き返していく。彼らの思考は、既にどうルシタニアに取り入るかに移っていた。
そこから7日、起死回生の策など無く、かといって万に一つの博打に打って出る気概もなく、ホサインは無為に滞陣を続けた。ルシタニアには完全に無視されている、という状況である。
「一度、南方に退却されてはいかがでしょうか?」
進言してきたのは、譜代の臣ではなかった。かつてパルスの諸侯の甥でミスルに亡命してきたナーマルドである。落ち目の国王などすぐ見捨てる男だと思っていたため、ホサインは多少見直した。
それはともかく、この言は聞くに値するだろう。ミスルの南方、ディジレ川上流にあるアカシャの街で、ナバタイ国の侵略を防いでいる軍がある。この『南方軍』は、まだ健在のはずだ。
この時の南方軍を指揮する『
「よし、南方に向かい、体勢を立て直すとしよう」
ホサインの知らないことである。カラベクにはテュニプとビプロスという息子がいて、彼らが何を考えているかなど…。
さて、南方に向かうとなると、陸路よりディジレ川を遡る水路の方が便利である。将来の捲土重来を図る上でも、輸送のための船は必須だ。
マシニッサの努力で、船の数だけは充分集まった。ホサインが乗った船は国都に残してきた国王専用の周航船とは比較にならないぼろ船ではあるが、贅沢は言っていられない。
幸い、カラベクからは承諾の返事が届いた。案内役として次男のビプロスという男を送ってきたのだから、異心はないであろう。カラベクは本心から、ミスル国王への忠義を尽くそうとしているようだ。
「……しかし、カラベクは軍から外すべきであろうな。宰相に出世させ、文官の頂点とすることにしよう。……マシニッサよ、アカシャに着いたら、直ちに軍を掌握するのだ」
将来、もしカラベクが異心を抱いても、軍が無ければどうしようもできまい。問題はやはりルシタニアだ。南方軍を掌握しても、とても敵対はできない。
「国都を失った愚王として名を遺すか……」
ミスルの国力は、ディジレ川のデルタ一帯が生み出す農作物と、海洋での交易に拠ると言っていい。アカシャを中心に南方の領土が残ったとしても、国力はかつての5分の1あるかも怪しいところだ。
あの魔導士の口車に乗った代償は大きすぎたという他ない。と言って、誰がこの状況でルシタニアがアルスラーンと結ぶなど思えたであろう。それこそ魔術でも使ったのではないか。
取り留めのない思考が次々に浮かぶ。ルシタニアは沿岸部の制圧に熱中しており、ホサインとしては無視された不快感はあるものの、襲撃されることはないと思えばほっとできる船旅だった。
船団が、第一峡谷と呼ばれる難所に差し掛かった時だった。両岸の崖の上に人影が見えた。次に大量の火矢が降ってきた。それだけでなく、上流からは柴を満載して火をつけた船が押し寄せてくる。
「ルシタニアの待ち伏せだ!!!」
誰かが叫んだ。馬鹿な、とホサインは内心で叫んだ。沿岸部にいるはずのルシタニア軍が、どうやってここまで先回りしたと言うのか。理性はそう否定するが、口が動かない。
「落ち着け!敵は賊徒だ!」
マシニッサはホサインよりは冷静に状況を把握していた。遠目に見ただけでもルシタニア兵ではない。しかし、その冷静に指揮を執る姿が仇となる。
その姿は遠目からでも、大将だとはっきり見分けられた。すなわちその船こそ王とミスルの重臣たちが乗る船である、と。
大型の弩から放たれた矢が、ホサインの船に集中する。そのうちの一本がマシニッサの胸を貫いた。何故、賊徒がそんなものを持っている。持ち運べる大きさではない。であれば、この襲撃は綿密に計画されて―。
「裏切ったな、カラベク―」
マシニッサの思考は、惜しいところで断絶した。カラベクがルシタニアに内通して、あるいは独立するつもりでホサインを討とうとしたと思ったのである。
その最後の声は、ホサインにも届いた。ホサインとて判らなかったわけではない。だがマシニッサが死の間際に言った言葉の重みが、全ての希望を押しつぶしたのである。
マシニッサの死、そしてホサインの絶望により、指揮が途切れた。次にどうするべきか迷った船団は、ばらばらの行動を取ろうとする。岸に寄せる者、回頭して下流に逃げようとする者。もはや、秩序も何もない。
その混乱の中で、ホサインの船に別の船が衝突した。衝撃で、ホサインは水面に投げ出された。それがミスル王の最後の姿になった。溺死したか鰐に食われたか、ホサインのその後を知る者はいない。
「ちっ!」
それを見て、襲撃者の指揮官らしい、覆面をした男は舌打ちした。死んだか判らないのでは、後々面倒になるかもしれない。だがディジレ川に潜って川底を浚うわけにもいかない。
「まあいい、岸まで泳ぎ着いた奴は全員切り殺せ。死体は鰐の餌にすればいい」
冷酷な指示を下したこの男が、カラベクの長男のテュニプであった。理想的とまではいかなくとも、粗方望み通りには行っている。
国都アクミームが陥落した時、テュニプは国家を見限った。もはやミスルを捨てルシタニアに付くべきだ。アカシャを中心に、この地方の領主として認めてもらえれば良い、と考えたのである。
「ビプロスの馬鹿が、余計な事をしてくれやがって」
父も耄碌したと言っていい。国王を迎え入れようなどと言い出したのは弟だ。国王の歓心を買い、その後ろ盾を以って自分を追い落とそうとしたのだろう。その程度の腹の内も見通せないとは。
落ち目のホサインなど迎え入れてどうなるというのだ。南方軍にも、テュニプの賛同者は多かった。老齢の父に代わり、ここ最近の南方軍を動かしてきた実績がある。将兵はビプロスよりテュニプを選んだ。
国都の間諜から情報を得たテュニプは素早く動いた。旗下に賊徒の扮装をさせ、第一峡谷で迎え撃つ。それは上手く行った。マシニッサは討ち取ったし、ホサインも浮かんでこない以上溺死したのだろう。
あとは弟の死を確認できればいい。その弟を捕えたという報告が上がり、舌打ちと欣喜がない交ぜになった。やはり南方軍の兵士として、総督の息子を殺すのは気が引けるらしい。
「あ、兄者…」
覆面はしていたが、弟は気付いた。日頃は妾腹とか蔑んでいたくせに、最後は兄弟の情にすがろうというのか。しかし、どうでもいいことだ。
「賊徒に襲われて、国王と共に死んだ。父にはそう伝えておく」
ビプロスは鰐の餌になった。他の者も纏めて斬る。最後の最後まで助けてくれと哀願していたうるさいパルス人がいた。貴族だと言うので兵も躊躇したらしいが、テュニプは一瞥しただけで斬るように命じる。
その男は常日頃ビプロスから金銭を貰い、彼の間者として働いていた。今回もビプロスの意を受け、南方への避難を進言した。そんな内情など、知られたところで何の影響も与えなかったであろうが。
―この頃にはパルスの戦は終わっているが、先にミスルの行く末を述べることにする。
テュニプの計画は、ここまでは見事に進んでいたと言えるだろう。彼の不幸はカラマンデスが捕虜として生きていたことに始まる。
第一峡谷の襲撃を生き残った兵士たちは、ルシタニアに降伏した。その兵たちからカラマンデスは一部始終を聞き、テュニプの仕業だと断定した。
その彼はルシタニアの諸侯として認めて欲しいと言ってきていた。事件を知ったカラベクはショックで寝込んでしまい、程なく世を去る。テュニプが幽閉、暗殺したとも考えられるが、どうやらこれは本当の事らしい。
「………」
カラマンデスとて、ホサインにそう思い入れがあったわけではない。しかしミスル人として、国王をだまし討ちにした男をそのままにはしておけない。自分の、というより、ミスル人の恥だ。
「ルシタニアに降伏しましょう。その代わり、テュニプを討たせていただきたい」
かつて『アズザルカの戦い』で粘りのある指揮を見せたカラマンデスを、セイリオスは評価していた。人心を取るにも、彼の望みを叶えた方が聞こえがいい。ギスカールへの報告は自然、カラマンデス寄りになった。
「カラマンデスを、
カラマンデスにとっては法外な厚遇と言っていい。旗下はミスルで編成することも認められた。ミスルの人心を取る政略であるのは明らかだが、カラマンデスはそれに乗る。
「国が滅びたことに思う所はあるだろう。だがルシタニアは正々堂々戦った相手、テュニプは裏切り者。我らの憎むべき敵は明らかである」
ホサインの遺族はルシタニアに連れ去られ、対ミスル戦の戦勝を祝う凱旋式で見世物にされたが、殺されはしなかった。その後は地方の一都市に軟禁され、年金暮らしの生活を送ることになる。
ここでもルシタニアの変化は明らかである。以前なら、異教徒の王族など根絶やしにされただろう。ミスル古来の信仰も、文化も認められる。求められたことはルシタニアの統治を認め、その法に従うことだけだ。
カラマンデスはミスルの宿将として、なかなかの人望があった。少なくともマシニッサよりは慕われている。その彼が率先して反テュニプに起ったのだから、南方軍にも動揺が走る。
南方軍を調略するのは簡単だった。充分な根回しを済ませた上で、カラマンデスと乙女座騎士団は南方に向かう。
テュニプは再び第一峡谷で迎撃しようとしたが、裏切る者が続出して軍は崩壊、彼自身は断崖に追い込まれ、突き落とされるようにディジレ川に落ちた。ホサインと同じく、死体は浮かんでこなかった。
カラマンデスは乙女座騎士団の団長としてミスルに駐屯する軍の指揮官となるが、ルシタニアの将軍として忠誠を尽くし、裏切ることはなかった。以後、ミスルはルシタニアの一地方を指す言葉になる。
タムル地方…現実のシリア・パレスチナ地方に相当
カラマンデスの行く末は考えながら書いていったらこんなことに…。
アズザルカの奮戦がセイリオスに評価されていたなどあの時には全く考えてませんでした。