「………」
周囲から濃厚な殺意を感じる。まあ、当然だし予想していたことだ。そう思いながら、カーラーンはアルスラーンに頭を下げた。謝罪ではない。蛇王との戦いに参戦する許可を求めたのである。
「…………カーラーンよ、そなたの身をどうするかは、ひとまず置く」
アルスラーンも長い沈黙の末、それだけ答えた。彼にも内心の葛藤はあるに違いない。だが、最優先すべきは蛇王をどうするかだ。その点をアルスラーンは見失わなかった。
「……許したわけではない。蛇王を倒したのち、パルスの王としてそなたを裁く。不満であればルシタニアに亡命するなり、蛇王に寝返るなりすればよい」
「……ティグラネス様の安全さえ言質を頂ければ、この身については覚悟はできております」
それでも棘のあるアルスラーンの言葉に、カーラーンは静かに返す。ヒルメスが死んだ時点で、彼の人生はほぼ終わったと言っていい。残る気がかりはティグラネスのことだけだ。
自分が生贄になることでティグラネスに向けられる感情が和らぐなら、それでよいではないか。そしてザンデがいる。ティグラネスを守る立場は、息子に任せればいい。
「ティグラネス殿の身をどうするかは、まだ結論が出ておらぬ。………しかし、……これは私の個人的な思いでしかないが、殺したくないとは思っている」
「父よ、アルスラーン王の言ったことは嘘ではない。ティグラネス様は歓迎されていた」
アルスラーンの言葉を、ザンデが補足する。嘘はないであろう。不確かな言葉ではあるが、人が聞いている場でパルス王が言った意義は大きい。カーラーンは小さく息を吐いた。
「……カーラーンの軍は、後方に配置しましょう」
ナルサスの言葉に、カーラーンは疑念を抱く。当然ながら、先陣を強制させられるものと思っていた。逆に後方に置かれるのは、邪魔だと言いたいのだろうか。
「我らはチュルク軍を断ち割り、そのまま蛇王の元に向かう。チュルクの相手をするのがそなたの役目だ」
その疑念を見越して、アルスラーンが言う。策はあるのだろう。チュルク軍は多勢であるが、恐怖で縛り付けられている兵なので、戦意は高くないだろう。戦いようはある。
最後にトゥラーンについては、ルシタニアに任せたという。「考える必要はない」とそっけなく断言したアルスラーンに、カーラーンは内心首をひねる。信頼しているのか憎んでいるのか、よくわからない。
イルテリシュの目は、向かい合った敵の軍旗に二本の短い横線と一本の長い縦線を組み合わせた紋章を見て取った。遥か彼方の動物も見分ける遊牧民の優れた視力だ。見間違うはずがない。
「…あれは、話に聞いたルシタニアの紋章だな。ということは向かい合ったのはセイリオスか。……望むところの敵だ」
パルスの諸将が聞いたら憐れむか馬鹿にしたであろう言葉を、イルテリシュは呟いた。セイリオスと戦った者がどうなったか。イルテリシュとて知らないわけではないが、この俺が負けるかと思っている。
「……いや、アクターナ軍は軍旗の色が深緑だ。あの軍は赤いように見えるぞ」
横から口を挟んだのはガズダハムである。トゥラーン王に対し礼儀も何もない言葉遣いだが、イルテリシュは気を害したわけでも無くそれを認めた。前衛の旗はすべて赤だ。
「ルシタニア軍とて侮れぬぞ。かつてのパルス軍に引けを取らぬ練度を持っている」
続けたガズダハムの言葉に、イルテリシュはまた頷く。彼の軍事の才覚は、歴代のトゥラーン王の中でも上位に位置するであろう。その戦術眼は敵が強敵であることを見抜いていた。
……だからこそ、破りがいがあるという物だ。
「諸将、励め!あの敵を破り、エクバターナまで駆けるとしよう。エクバターナを落とせば、恩賞は望みのままぞ」
イルテリシュの鼓舞に、トゥラーン兵は雄叫びで答えた。10万の騎馬が疾駆を開始する。蛇王からの合図も待たずに戦端を開こうとするトゥラーン軍にガズダハムは舌打ちしたが、止められるものではない。
10万騎の突撃。ルシタニア軍の前衛は歩兵を中心にした2万。一息に押しつぶしてやると歩兵隊を押し込んだところで、騎馬隊の足がいきなり止まる。
「何だ、これは!?」
サハルードで展開した柵だ。それを、今度は歩兵の中に埋伏させていたのである。敵軍が渋滞したと見たところで、セイリオスは後方に控えていたアクターナ軍を動かした。トゥラーン軍の右から横腹を突く。
「………」
その展開に、イルテリシュはにやりと笑う。予想していないとでも思ったか。パルスの騎馬隊を破った策がトゥラーンの騎馬隊にも有効なのは認めるにしても、一度使った奇策をまた使いまわすとは。
「よし、後軍は、あの軍の横腹を突け!」
イルテリシュは軍を二つに分けた。元々前後で少し間隔を空けてある。前軍の横腹を突いて来るのも予想通り。こちらは、さらにその横腹を突く。
この速さで動いては、柵を展開する時間はない。邪魔する物なくアクターナ軍に斬り込める。セイリオスも噂ほどではない、とイルテリシュが思い始めた時、前が詰まった。
「何をしている!突撃だ!!!奴らを馬蹄にかけろ!!!」
何が起きたのか。アクターナ軍は3万5千。分割したトゥラーン軍は5万。抵抗は受けるにしても、全く押し込めないことなどあるはずがない。
「……予想していないとでも、思ったか?」
それが先ほどイルテリシュが心の中で呟いた台詞などと知る由もなく、セイリオスは呟いた。前衛と後衛の間隔が、わずかに広い。それで、イルテリシュが柵を想定していることは読めた。
ならば、イルテリシュの思う通りに動いてやろう。ただし、アクターナ軍の左側面に、全身鎧の歩兵隊を配置して。最も移動距離の多い部隊だが、エスターシュが見事に部隊を動かしたので、不自然には見えなかった。
その全身鎧の歩兵隊には、盾を持たせず槍を二本、両手で構えさせる。人で柵を作ったわけだ。その陰から、弓兵が敵の馬を狙う。トゥラーンの騎兵がぶつかったのは、この鉄壁だった。
「行くぞ、全軍、蹂躙せよ!!!」
盾は無くとも、敵の矢は全身鎧が防いでくれる。馬の突撃は普通の倍ある槍衾で止めた。そして動きの止まったトゥラーン軍に、アクターナ軍の騎馬隊が斬り込む。
「……!!!」
愕然とした。何だこの軍は。アクターナ軍の騎馬隊の前に、トゥラーン軍が逃げ惑う。イルテリシュは一瞬悪夢を見ているのではないかと疑った。同時に悟る。この軍には、勝てない。
「全軍、退却だ!!!!!」
叫んだ。耳を疑った側近を急かし、銅鑼を打たせる。イルテリシュの反応が早かったこと、トゥラーン軍が騎兵隊であること、セイリオスの目的がトゥラーンの壊滅でなかったことなど様々な要因があったが、トゥラーン軍は大損害を出す前に戦場から離脱した。
(それでも千は失ったか)
歴史上で見れば、セイリオスと戦ってそれだけで済んだというのは、充分褒められて良いことになる。イルテリシュが名誉だ何だと言って粘れば、それだけ損害が増えたであろう。
「……トゥラーンに帰還する」
最後にとんでもないケチがついた、とは思うが、やってしまった以上は仕方ない。トゥラーンはまた内戦になるかもしれないが、ここにいる者たちは自分の決断を理解してくれるだろう。
幸い、略奪した物資は失っていない。乏しい戦果ではあるが、それを慰めに戦場を去ろうとする。
「お、おい!何をしている!ルシタニア軍を蹴散らすのではなかったのか!?」
その中で、人を掻き分ける様にやってきたガズダハムが居丈高に叫ぶ。彼にしてみたら、イルテリシュの行動は背信としか見えない。そのガズダハムの脳天に、再び槍の柄を振り下ろした。
「うるさい。……あれには勝てん。……お前の自慢する蛇王とやらも、あれに勝てるものか」
今度は本気で殴られて気を失ったガズダハムに、イルテリシュは苦々しく吐き捨てる。そして諸将はその言葉に頷いた。
トゥラーンがあっさり撤退していくのを見て、チュルク軍は大きく動揺した。当たり前だ。あのトゥラーンがこんな簡単に敗走するなど、信じられることではない。
「………。今だ!!!例の策を実行しろ!」
ナルサスも、さすがにここまで早い潰走は予想していない。ただしこれはアクターナ軍の強靭さと言うより、イルテリシュの見切りの速さを褒めるべきことである。
トゥラーンとルシタニアが互いに大損害を出してくれればパルスにとってもっけの幸いではあったが、それはセイリオスが来た時点で諦めていた。
「……味方になると、これほど頼もしい相手もいない」
つい、呟いた。複雑な心境だ。あれと今後ずっと向かい合わなくてはならない。今こそ味方だが、次はイルテリシュと組んでパルスに攻め込んでくるかもしれない相手だ。
ナルサスの号令に、パルス軍は中央を空けた。何だ、とチュルク兵が思った時にはもう遅い。噴き出してきたのは牛の群れだ。わざと怒らせた牛を、敵軍目掛けて解き放ったのである。
文字通りの奔牛の勢いに、思わずチュルク兵が道を空ける。そうしなければ轢き殺される。そしてその後を、アルスラーンとその本隊は一気に駆けた。チュルク軍は無視して、一気に蛇王の元まで。
このときチュルク軍を指揮していたのはゴラーブという将軍であった。彼は咄嗟に後背を突けと指示を出そうとしたが、アルスラーンに続いてカーラーンが押し込んできた。それを見て、出かかった声を呑み込む。
考えてみれば蛇王などという奴のために必死で戦う義理など無い。化物が怖いから従っているだけだ。アルスラーンがその化物を討ち取ってくれるなら、それも終わる。
「前から来る敵を防げ!決して隊列を乱すな!」
勝つための指示ではない。むしろ負けて散り散りに逃げてもよい。しかし、ある程度は戦わないと蛇王が勝った場合、チュルクの家族が殺されてしまう。カーラーン相手で手一杯の凡将。狙うべきはそれだ。
今後がアルスラーン次第であるのは、カーラーンとて同じだ。ここでチュルク兵相手に力戦する意義はない。蛇王が勝ったなら、もうイリーナとティグラネスの身を抱えてルシタニアに亡命するしかないのだ。
申し合わせたように一進一退の押し合いが繰り広げられた。犠牲はほぼない。
カーラーンとゴラーブの芝居が繰り広げられるのを後目に、アルスラーンは一気にチュルク軍を駆け抜けた。馬鹿な、と思っただけで、『尊師』は声も出せない。
アルスラーンなど、一息に踏みつぶすつもりだった。いくらセイリオスが敵に付いたとしても、ここまで追い込まれるはずがなかった。だが現実は、ほぼ無傷のアルスラーンとセイリオスが迫ってくる。
「アルスラーンを討ち取ればよいだけのこと。何をそれほど慌てておる」
アルスラーンを討てば、目的の無くなったセイリオスは必ず引く。眷属などどれほど失おうが、また
蛇王はアルスラーンに向けて馬を進めた。『尊師』はそれをただ見送った。逃げるべきではないか。最初はそう思ったのに、信ずる存在の御言葉に思考の全てを塗りつぶされたのである。
「蛇王様がアルスラーンめを討ち取るまで、耐えるのだ」
威勢よく言う『尊師』に、弟子のグンディーが前線に出ていった。指揮を執るつもりだろう。対しグルガーンは、無言のまま『尊師』の傍を動かない。
「………」
考えているのは、セイリオスは何なのだということだ。信仰も何もなく、何故ここまで強くなれるのか。いや、信ずる存在はあるのかもしれない。自分自身を、だ。
「何をしておるか。することが思いつかないなら、後ろの奴らを急かしてくるのだ」
『尊師』の言葉に、グルガーンは黙って従った。
蛇王の軍が二つに割れた。アルスラーンと、自分の方へ。トゥラーン軍を排除したセイリオスは、そのまま蛇王軍に突っ込んだ。
ここからの敵は人ではない。
「地上の物は、全て轢き殺せ!!!」
セイリオスの号令に、騎馬隊が噴出する。ただの騎馬隊ではない。イスバニルで使った連環馬だ。そして上空の敵は、
あっという間だった。化物の群れだろうが、まるで濁流が全てを押し流すように断ち割られていく。グンディーは成す術もなく討ち取られた。誰にも気にされることなく、である。
「ば、馬鹿な…」
耐える事すらできない。『尊師』はここで初めてアクターナ軍の、セイリオスの恐ろしさを身をもって知った。傍観者の立場からでは、決して解らないことを。
(ヒルメスの阿呆め―)
もっと扱いやすい奴と手を組め。よりにもよって、こんな化物をパルスに招き入れなくともいいではないか。アトロパテネで手を貸したことを、初めて後悔した。
それが最後の思考になる。呆然自失のまま、彼はアクターナ軍の濁流にのみ込まれた。
少し間隔が空いたのはようやく書けたためです。どうも今回はいまいちの文章しか思いつかずにいました。
あとは蛇王を討ち取って終わりだー。