ルシタニアの三弟   作:蘭陵

6 / 55
6.マンジケルト盆地の戦い

「………」

 相も変わらず、とんでもない奴だと思う。ボダンにわずかながら同情してしまった自分を、ギスカールは楽しんでいた。

「今後のことを考えると、軍資金に不安があります。パルス軍の強さも測っておきたいので、出陣の許可をいただきたい」

 セイリオスが、いきなりそう言ってきた。軍資金については、ギスカールも気にしていた。端的に言って金がかかりすぎている。奴隷のマルヤム入植、軍の整備に恩賞、街道の修復、各地城塞の補修etc.etc.……。

 それでも、パルスの宝物庫にあった財すべてを使えるのなら、大した問題ではなかった。しかし、エクバターナの陥落時に、兄が大半を教会の管轄として認めてしまったのである。

 

 宗教に金が集まるというのは、どこの国、いつの時代でも変わらない。パルスでさえ、高位の神官は庶民からかけ離れた贅沢な日々を送っていたのだ。

 ルシタニアになると、もっと酷い。これは多神教と一神教の差もあるが、いい事があればイアルダボート神の恩寵と考えるような国である。多大な返礼が集まる一方で、税金は免除。貯まる一方なのは明白だ。

「ボダンに唯一褒めるところがあるとすれば、その金を私しないことだ」

 ボダン大司教にとって、教会の金はあくまでも教会の物なのである。例えば、教会の新設に使うのは当然。内装を豪華にするのもかまわない。聖職者が絢爛な衣装を身に纏うのも、それは神の威光を示すため。

 だが、人の快楽のために使うのは許さない。賄賂などもってのほかである。一見ただの吝嗇に見えるが、底流にあるのは神に対する純粋な信仰なのだ。その点は、立派だと思う。

 そのボダンから、セイリオスはあっさりと財宝全てをかっぱらってしまったのである。

 

「異教徒の討伐のため、軍資金が必要である。イアルダボート神も了承したことであり、であれば大司教は率先して差し出すべきであろう」

 教会管轄としていた財宝をいきなり運び出そうとしたセイリオスに、ボダン大司教が怒り狂ったのは言うまでもない。その大司教に対し、しれっと言い切った。

「先ほど、『我が行いが御心にかなわぬ時は、今すぐこの身を雷にて焼き払いたまえ』と祈りを捧げたが、何事もなかった」

 この日、空は快晴。万に一つも雷など落ちるはずもない。しかしそれさえも「そうでなければ天罰か偶然か判らぬではないか」と論理の補強に使われる始末である。

 

 神の名によって行為を正当化するのはボダンの十八番(本人は「正当化してる」という自覚はないが)だが、それを見事にセイリオスに取られてしまった。話を聞いて、ギスカールは思わず噴き出した。

(なるほど、そういうやり方があるのか)

 ありえないことを罰として願う。当然、何も起きない。イアルダボート神は全知全能なのだから、どんなありえない事だろうができないはずがない。何もないとなれば、すなわち了承してくれたということになる。

 ボダンにできたことは、歯ぎしりして悔しがることだけだった。セイリオスの言葉が詭弁に過ぎないことは、ボダンとて理解できる。だが、彼にもう一度試すことは許されない。神を疑うことになるからだ。

 運び出した財宝の大半をギスカールに預けたセイリオスは、南の方に出撃していった。狙いはギランの港街。エクバターナに次いで財貨の集まる、パルス最大の貿易港である。

 その道中に、カシャーンの城塞はある。

 

 

「殿下!アルスラーン殿下!!!よくぞご無事で……」

 やや肥満気味の男が、恭しくアルスラーンの手を取る。カシャーン城塞の主、ホディール卿である。

「アトロパテネの敗北を知りましてより、国王(シャーオ)陛下と王太子殿下の安否を気遣っておりました。ですが、私一人の力を以ってしては、ルシタニアの大軍に復讐戦を挑む術もなく、ただ心を痛めるだけでございました」

 パルスの貴族で、領地と私兵を持つ者を「諸侯(シャフルダーラーン)」と呼ぶ。パルス全土でも100人程度しか存在しない、身分としては王族に次ぐ大貴族である。

 

「…自らの無力を歯がゆく思っておりましたところ、今日、ダリューン殿が我が居城に見えられ、私めに、殿下への忠誠を示す機会をくれたのでござる」

 その中でも、ホディールは有力な貴族であろう。彼の抱える私兵は、騎兵3千と歩兵3万5千。これだけの兵力を動員できる諸侯は、そうそういない。

 なお、パルスの全人口はおよそ2000万、そのうち奴隷が500万ほどである。王室直轄の国軍は騎兵12万5千、歩兵30万と言われていた。それに諸侯の兵力を総動員すれば、優に100万を超える兵を集められた。

 もちろん、現在の混乱の中では、それは絵空事だ。それにアルスラーンは、歩兵を構成する奴隷の解放を考えている。檄文を飛ばして集まる現実的な数字は、多くても15万程度とナルサスは見ている。

 

「よく喋る男じゃ。舌に油でも塗っているのであろう。それも、あまり質の良い油とも思えぬな」

 ホディールに対する、ファランギースの論評は辛辣である。それに、ギーヴが頷く。二人とも、ホディールに対してあまり良い印象を抱かなかったようだ。

「まあ、しかし、善人だろうと悪人だろうと、それで葡萄酒(ナビード)の味が変わるものでもない」

 こう厚かましいことを平然と言えるのは、ギーヴという男ならではである。王太子をもてなすとなれば、当然ながら酒も最上の物が用意される。それを楽しまぬのは、酒に対して失礼だ。

 過剰なまでの料理と酒が振舞われた歓迎の祝宴を、ギーヴは大いに楽しんだ。

 

「さて、これからだが…」

 祝宴が終わり、用意された部屋に入るなり、ナルサスが切り出した。ホディールの魂胆はあからさますぎた。彼は祝宴の最中、自分の娘を王太子に売り込んだのだ。

「どうやらアンドラゴラス王がご生存、とは知らないようだ。ホディールの狙いは、娘を新王の妃とし、外戚として権勢をふるうことらしいな」

 アルスラーンはまだ14歳。即位しても、後見役が必要な歳である。舅という立場は、それに就く第一候補となるであろう。立ち回り次第では、影の王として君臨することができる。

 

「もう一つが、王太子と我らを纏めてルシタニアに売り飛ばし、恩賞を得るという道だ」

 どちらが得か、心の中で秤が揺れ動いている、というのがホディールの現状だ。一応、今のところは王太子擁立に傾いているようだが、どちらにしても邪魔なのは、王太子の腹心である自分たちになる。

「おそらく、今晩にも動くだろう。油断はできないな」

 しかし、ナルサスの予見は、珍しく外れた。いや、ホディールにその気はあったのである。それどころではない事態が勃発したので、やむなく延期したところ、機を失っただけであった。

 

「ルシタニア軍がこちらに向かっているだと?」

 驚愕したホディールであったが、兵力3万足らず、別の部隊は見当たらないと聞いて落ち着きを取り戻した。彼の私兵は3万8千。勝負になるどころか、それなら勝てると踏んだ。

「全軍で出撃し、そのルシタニア軍を叩き潰して見せよう」

 敵の兵力はこちらより寡少なのだから、籠城など必要ない。それに援軍を頼んで敵を打ち破ったら、自分の功績が小さくなってしまう。

 ここで華々しく功を立てれば、アルスラーンの心は大きく傾く。そうなればダリューンやナルサスといった邪魔者を排除するのは、易々たることになる。

(まるで、私のためにやってきてくれたようなものだ)

 ほくそ笑んだホディールは、知らない。敵がルシタニア軍最強の、アクターナ軍である、ということなど。

 

 

 ルシタニアの旗は、赤地の中央に二本の短い横線と一本の長い縦線を組み合わせた紋章があるという、極めてシンプルな意匠である。イアルダボートの神旗は、地の色が黒になる。

 しかし、ホディールが見た軍は、深緑に紋章という旗だった。その軍と、ニームルーズ山脈の只中にあるマンジケルト盆地で向かい合った。

「敵は兵法を知らぬようですな。ニームルーズの山中で大軍の展開に適した、このマンジケルト盆地にのこのことやってくるなど。戦力で勝る我が軍の勝利、疑いなしです」

 傍らのアルスラーンに語り掛ける。ダリューンやナルサスも、後方のこの本陣にいる。彼らに功を立てられては困るからだ。殿下の護衛を名目として置いているだけで、あとは無視している。

 敵勢は騎兵5千の歩兵2万という報告が入った。騎兵5千は少々厄介かもしれないが、所詮ルシタニア兵だ。パルスの騎馬隊の敵ではない。

「殿下、我が軍の強さ、とくとご覧あれ」

 敵が一歩動いた。ホディールは負けるなど、微塵も思ってない。しかし、その一歩で、ダリューンやナルサスは表情を変えた。

 

「敵軍、中央先鋒に騎兵3千、続き歩兵3万5千」

 セイリオスの元に報告が入る。敵軍の狙いは見え透いている。騎兵隊の突撃による、中央突破。パルスの基本戦法であり、アトロパテネ会戦までパルス騎兵は、無敵の名を欲しいままにしていた。

「中央、ルキア前進」

 騎兵2千5百のルキア隊が、一歩前進。釣られて敵騎兵3千が駆け始めた。200ガズ(200メートル)ほど前進したところで、斜めに方向を変える。ホディールの騎兵3千とぶつかると見せかけて、正面を開けた。

 

「…?」

 3千騎を率いる隊長は、明らかに迷った。このまま歩兵に突っ込むべきか。だが背後から襲われる。敵の騎馬隊を追うか。だが役目は敵歩兵を切り崩すことだ。

 次の瞬間、ルキアの騎兵隊が急激に方向を変え、側面から突っ込んできた。楔のような陣形で、鋭利な刃物で断ち切られるように騎馬隊が分断された。

 何が起きたか、把握する暇もない。馬の脚が完全に止まった。正面からは敵歩兵が槍衾を並べて押し込んでくる。こうなってしまえば、騎兵は騎兵としての役を果たさない。馬に乗った歩兵でしかない。

 

「歩兵を進ませろ!何をやっている!!!」

 騎馬隊、苦戦。その報告にホディールの怒号が飛ぶ。その様子を見て、ナルサスはダリューンに囁いた。

「……殿下から離れるなよ」

 わかっている、とダリューンも頷く。この戦は負ける。敵が一歩進んだ時点で、そう予感した。放つ気とでもいうべきか、それがまるで違う。

「アクターナ軍か?」

 だろうな、と今度はナルサスが頷く。というより、こんな精鋭がごろごろいてたまるものか。案の定、歩兵の押し合いも劣勢だ。そして敵はまだ切り札を残している…。

「騎兵の残り半数が、本陣目指して突撃してくるぞ」

 

「突撃!!!」

 セイリオスが佩剣を抜く。天に向かって突き立て、正面に振り下ろす。先頭のクラッドが、待ってましたと言わんばかりに駆け始める。

 敵の左翼。斜め前方から、陣が緩んだところにクラッドが躍り込む。彼の武器は、大剣。それを、軽々と振り回す。切断できずとも、その打撃力だけで相手を戦闘不能に追い込む。

「アクターナ軍、急先鋒のクラッドだ!死にたくなければ道を開けろ!!!」

 その剛勇が作った亀裂に、2千5百の騎兵が雪崩れ込む。あっという間に亀裂が伸びる。引くなと声を嗄らす敵武将を、クラッドは駆け抜け様に切り落とした。

 

「わっ!!」

 司令官の死で、左翼が浮足立つ。そこに歩兵隊が一気呵成と攻めかかり、あっという間に崩壊した。クラッドは勢いを緩めず、本陣へと駆ける。その姿が遠目に見え、ホディールは脂汗を流した。

「……な、なぜ?」

 左翼の崩壊が、中央に波及した。後退が潰走になるのは時間の問題だ。負ける。それは理解できた。だが何故なのか。相手はたかがルシタニア軍ではなかったのか。

 とにかくここは逃げるべきだ。恐怖にかられたホディールは本陣を守る兵に後退を命じた。それが引き金となり、全軍が潰走に移った。

 もはやこうなると、立て直すすべはない。誰もが城に逃げ帰る事しか考えなくなってしまう。

 一足先に逃げたホディールだが、彼を守るはずの本陣は騎馬隊の一撃で砕け散った。乱戦となったところで馬を捨てて歩兵の中に紛れ込んだが、ルキアの騎馬隊に蹂躙され、その剣で首を刎ね飛ばされた。

 パルスの影の支配者を目指した男の野心は、好機を掴めずに終焉を迎えた。絢爛豪華な鎧が目印となり、逃げ延びることはかなわなかったのである。

 

 

 『マンジケルト盆地の戦い』は、規模としてはパルスの一領主とルシタニアの一部隊の戦いに過ぎない。アトロパテネからすれば格段に小さな戦いである。

 だが意義は大きかった。パルス軍が、正面衝突、しかも数で劣る敵に完敗したのだ。

「…あれが、アクターナ軍か」

 アルスラーンが、青い顔で荒い息をつく。手の震えが止まらない。ダリューンが有無を言わさず馬の手綱を取り、全力で駆けさせた。その判断がなければ、皆討たれていただろう。

 

 カシャーン城から外れた岩場に逃げ込んで、ようやく自分を取り戻した。ダリューン、ナルサス、エラム、ファランギースの姿が見える。ギーヴは偵察に出ていった。彼の部下たちは、皆無事だったようである。

「……強すぎる」

 ナルサスが、ぼそりと呟く。ホディールの軍は精鋭を集めたパルス国軍には及ばないにしろ、決して弱兵ではなかった。パルス軍の名を辱めぬ実力はあった。アクターナ軍は、それを容易く叩き潰した。

「奴ら、カシャーン城に向かったようだな」

 ギーヴが戻ってきた。ということは、アルスラーンがここにいたと知らなかったということになる。一安心とは言えるが、ゆっくりしている暇はない。

 

「……殿下を追ってきたのではないなら、狙いはギランの港町だろう」

 南に逃げることは危険になった。ギランには、わずか1万足らずの守兵がいるだけだ。海上商人たちが多くの私兵を抱えているものの、その協力を取り付けて編成し直す暇はない。

 アクターナ軍に対抗するためには、こちらも充分な訓練を積んだ精強な軍が必要だ。それがあるのは、一か所しかない。

「……ここはやはり、現時点で最大の兵力があり、信頼できる人物のいるところ―。万騎長キシュワードのいるペシャワール城を目指す」

 




その強さ、比べるもの無し。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。