二〇時過ぎ、雪子から連絡を受ける。
「一夏くんと箒ちゃんが疲れて寝ちゃった。今、母屋で寝かせてるから千冬ちゃんも一晩泊まっていきなよ」
帰りのバスを降りて神社へ戻ると、果たして一夏が箒に寄り添って床に就いていた。神主の妻君と雪子に礼を告げ、千冬も離れに泊まると言い添える。
帯を解き、雪子から寝間着を受けとる。
千冬はネックレスを外し、ためらいがちに段ボール箱へ戻した。
箒ちゃん・いっくん・箒ちゃん・いっくん……。幼児の寝姿を目にして以来ずっと聞こえていた心の声が絶え、軒天をぐるりと見まわしてから束を探す。
蚊の侵入を恐れて勝手口の錠をかった。しばらく空模様を眺めていると、遠く、行き交う貨車の車輪とレールがこすれ合って空を震わせた。
しばらくしてから母屋の燈が消えた。薄闇のなかで白々と瞬く星々に見とれていると、向かいの小山から、ゴゥン・ゴゥン・ゴゥン、と鐘が鳴る。
千冬は湯浴みをすべく、
脱衣所は石けんの香りを匂いたつ。真ん中の籠には見覚えるのある下着が無造作に放り込まれている。純白のコットン地。籠を整えながら、タグを盗み見る。隣の籠も。
(……大きいな)
千冬は、束の緩みきった
(特別? 特別とはどんな意味なのだろう)
他人に冷たくして、寄せ付けないようにする彼女。他人を目にしては愚かだと侮り、馬鹿だとさげすむ。教室では浮いた存在でもある。彼女の見た目の美しさに惑わされて、愛と情欲を混ぜ合わせた思いをぶつける少年たちがいる。無知・無念・無残……。
電球の灯火が千冬の裸体を仄かに彩る。
「いやあ、遅かったね。束さんは待ちわびちゃったよ」
長髪をアップにした彼女は、浴槽の真ん中を陣取って顔だけ後ろへ振り向ける。桶に湯を溜めて一浴びし、髪と身体をサッと洗う。
沐浴は手早く済ませるのが千冬の信条だ。加藤と島津、続いて伊佐敷、加賀が脱衣場へ消える。富山は浴場の隅で念入りにストレッチしている。
指を折って残った面子を確かめる。束、富山、生瀬。
(あれ?)
生瀬の姿が見えない。風呂上がりにたゆんたゆんの秘訣を聞き出すのだろうか? 或いは束が口にしたとおり一足遅かったのか。
「とみー。生瀬の居場所を知っているか? 母屋で別れてから姿を目にしていないんだ」
富山が顎をしゃくる。風呂だ。
礼を言い、湯船につま先を浸す。と、そこへ微かに漏れた艶めかしい声音。
「霊」
千冬がいぶかったのは、篠ノ之神社には旧い言い伝えがあるからだ。
江戸後期、神主の祖先である篠ノ之
篠ノ之某は旅籠を営んでおり、多くの使用人が働いていた。弥兵衛なる男がおり、女と恋仲になった。
篠ノ之某は別の男と婚儀を図るため女と弥兵衛の仲を引き裂く。
弥兵衛は逐電。
一年後、旅籠に届けられた文には弥兵衛がべつの女と夫婦となったことが書かれていた。
弥兵衛を忘れることができない女は失意のあまり、旅賃代わりに預かっていた脇差しで喉を突き自害。
女の鮮血が激しく飛び散り、柱や襖にかかった。それ以来、どれほど浄めても決して血の痕が消えなかった。
篠ノ之神社には大正九年頃まで、旅籠の建物がそのまま残っていた。
関東大震災の予震で傷んでいた建物の一部が倒壊したため、取り壊しとなっている。
自害に用いた脇差しや旧い柱は神社に奉納し、今でも蔵に大切に保管されていた。
そして女が自らを殺めた現場というのが、ちょうど千冬たちが湯浴みしている浴場であった。
「……ぅうぅ……」
幼い時分から言い伝えを聞かされて育った。
集落のなかには旅籠の使用人の子孫がいる。すでに八十代後半へとさしかかっており、健康を害して伏せりがちだ。
実父は震災まで、ちょうど旅籠で働いており、
「ほら、あそこ」
富山に肩をたたかれ、鳥肌を立てる。
示す先には束がいて、生瀬が華奢な肩肘を震わせ、顔を俯かせていた。
「霊なんていないのですよ。奇妙な声は、ほら、肌を触れられて慣れぬ刺激に脳が反応している。篠ノ之束さんは生瀬真裕なる人物が生きた証を直接触れて確かめていたにすぎません」
束はとがめられると察して、無邪気な笑みを浮かべたまま手早く用を済ませる。
残されたのは息も絶え絶えといった風情の生瀬だ。富山は身体を湯へ浸したあと、再びストレッチを始めた。
生瀬を気づかうつもりでいたが、びくっとされては何もできない。心配するうちに、ついうとうとしてしまった。
「風呂場で眠ると死にますよ」
富山に呼ばれ、風呂からあがる。生瀬の姿は消えており、使用済みの脱衣籠が積まれていた。
髪を乾かしてから富山と一緒に寝所へ向かう。
横になっていた束の言い分はこうだ。
「ちーちゃんはのんびりさんだね。さては寝てたでしょ。大きないびきをかいてたんじゃないかな。
とみーさん。こんなんじゃあ、むすめさんの霊はよそへ行ってしまったんじゃありませんか?」
富山? 千冬は傍らにいたはずの富山透を見やる。
富山は蚊取り線香を焚いて縁側に腰かけていた。突然合掌して目を伏せたので、千冬は驚いて顔をこわばらせた。
「大丈夫です。ほら、季節外れの蛍が一匹、つぅーー、と」
千冬たちの地域では蛍は六月から七月にかけて観ることができる。
今は九月だ。見慣れた色よりも淡く、売り物の蛍が逃げ出したのではなかろうか。千冬は弱々しい光跡を追った。
一分弱のあいだ、母屋の軒で燈が点る。目を離した隙に蛍を見失ってしまった。
「蛍は、行ったのか」
「ええ、先ほど逝きました」
富山が手を合わせて祈る。
千冬は横になって掛け布団のなかに潜りこんだ。
瞼の裏では、先ほどの蛍が河へたどりつき、まばゆいばかりの光へと迎え入れられる光景が広がっていた。
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