十一日、千冬は篠ノ之道場へ向かう途中だった。
自宅での用事を済ませてから山を目指して歩き、石段を登っていけば自然にたどりつく。
中程まで来たとき、以前学校でみかけたパンツスーツの女の背中が目に入った。
(あー……束が言ってたな。さらさらさらしきうこんさん? ま、いいや)
パンツスーツの彼女は汗を拭い、うんざりした顔で鳥居を睨んでいた。
(素通りはしないほうがいいかもな。束のスポンサー的に)
千冬は先日の祭りで三千円以上受けとったことを思いだした。金銭感覚に疎い束ではあるが、大金をあっさりと寄越す人物がいるからできることなのだ。
「こんにちは。あのー、神社へ参拝される方ですか? よかったら荷物を持ちましょうか」
にこやかに申し出る。
長い石段を登る人物がほかに現れるかどうか妖しい。女はしばらく逡巡してから、千冬に荷物を差し出した。
「重いですよ」
女は申し訳なさそうに告げた。
荷物を受けとった瞬間、腕が石段へと引っぱられた。高比重の金属でも持参しているのか、ずっしりと重い。
千冬は踏ん張りながら腰を使って抱え込む。後ろに倒れたら真っ逆さまだ……と嫌な想像をしてしまった。
「こ、これ……いったい、中に、何が……」
二〇キロ、いや三〇キロはあるのではないか。女性は無意味な微笑みを浮かべる。
彼女は無言でゆっくりと昇り始めた。置いて行かれると困るので、千冬はがんばって足を動かした。
(重い……重いぞ……腕がもげる……)
だれでもいいから代わってくれ。千冬は歯を食いしばって石段を登り切った。
ゼエゼエと息を吐き、瞳を閉じる。
呼吸を整えて、力が抜け掛けた膝に活を入れた。
千冬は切り株を探した。先日、神主が五右衛門風呂を思い立ち、薪を割った切り株が残っているはずだった。白く眩しい陽を避けるように木陰へ逃げこむ。
荷物を置いて座り込んだ。汗がどっと噴き出す。肘が震えている。もう一度持ち上げるのは難しいだろう。
「あ、ありがとうございます」
女が手巾で汗をぬぐい取る。疲労で頭痛がしたので、しばらくそよ風に身を任せる。
と、下の方から聞き慣れた声がした。
「……ぁあん」
「何の音?」
女が訊ねる。
「……ぃいちゃぁあん……」
千冬は流し目を送るのがやっとだ。
「ちぃいちゃぁああんっ……ちーちゃぁああんっ」
束仕様にデコった軽快車が石段から颯爽と飛び出した。
砂塵を舞上げながら、前輪から着地する。今朝、神主が丹精込めて整備した砂利道を盛大に荒らし、後輪ドリフトで勢いを殺した。
「ちーちゃん。ひどいよ。私をほうって先に行っちゃうなんてさ。なんだい。おとなの女の人といちゃいちゃしちゃってサ。束さんはジェラシーでメラメラしてるんだよんっ」
中学三年生にもなって駄菓子屋で道草を食っているからだ。
束仕様のデコチャリが駐まっていたら無視するに決まっている。
「おい、束」
「なんなのさ」
束がデコチャリのスタンドを立てる。
音に気づいた神主が飛び出してきて、荒らされた砂利道を目にするや真っ青になった。
千冬は親不孝者の惣領娘に、神主の心の叫びを聞かせてやりたかった。
「どうやってデコチャリで階段を上ったんだ」
「もちろんこいできたに決まってるじゃないか」
あっさりと言う。
だが、答えになっていないので質問を繰り返す。
「しかたないなあ。ぷんぷん。タネを教えてあげるから、ちーちゃんちょっと後ろ向いて」
汗ばんだ背中を向ける。
上着に白のブラウスを選んだのは間違いだったのかもしれない。濡れてストラップが浮きあがっているはずだ。
束は何もしないつもりか、無言を貫いている。
吹き抜ける風に枝葉がざわめく。大きな入道雲がひとつ、ぽつんと浮かんでいた。
風の抜け道が手に取るようにわかった。木陰から虫が這い出す様子、花びらがこぼれるように咲いている。
束の影が揺らめき、めまいとくすぐったさを覚えた。
「……んんんっ……」
触れるか触れないくらいの場所で、すぅー、と指先が流れる。
ゾクゾクとした感触に全身を貫かれて、力が抜けてしまった。
(身体に血が、熱が広がっていく……)
「いーよー。こっち向いてよ、ちーちゃん」
束はスカートのまま座禅を組み、真昼にもかかわらず背中から白い後光が差している。
「教祖さまである。みなのものひれふすがいー」
何をやっているんだ、という声をのみこむ。
束は空中浮遊をしていたのだ。
「ISを使ったな……?」
ISとはインフィニット・ストラトスの頭文字を組み合わせた言葉だ。
「インフィニット・ストラトスの部分展開、っていう技術だよ。ちょうど辛子大根さんがいるから見せてあげようと思ったんだ」
(辛子大根? そんなペンネームの人、いたっけか)
「更識、紺ですが」
教祖さまごっこを止めた束にむかって、女が名刺を差し出す。
「ほい。ちーちゃんには前にも見せたけど、もういっかい」
今更だが、名刺には「倉持技研 担当役員」とある。
「その若さで役員……」
束が耳打ちした。
倉持技研は国家プロジェクトの受注を確実なものにするため、天下りを受け入れたのだという。
更識一族は財界に大巾圧力を加える力を持っており、目の前の女は発言権の強い血筋だった。
「ところで楯無さんはお元気ですか?」
「……楯無をご存じで」
女の目つきが変わった。
束の出方を窺おうと、あからさまに警戒している。
どうやら束は更識家ゆかりの者でなければ知り得ない情報をつかんでいるようだ。
ふたりのやりとりを聞きながら、ぼんやりと更識家は甲府にゆかりのある一族ではないかと邪推する。
「暑い中ごくろーさまです。母屋に寄っていってください。
父に冷たい飲み物を用意させますよ」
束が更識紺の手を取り、母屋へ一緒に歩いていった。
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