強めの幻覚
修羅になり損ない、積もり重なった怨嗟の果てにみすぼらしい鬼へと身をやつした男がいた。
衰えることを知らぬ業火に身を苛まれ続けた男は、だが一人の忍びによって葬られた。苦悶の中にあってなお死を享受できなかった男は、鬼になり果てた末にようやく逝けたのだ。
だが、因果の輪はなお巡る。男は忘れ去られた者たちの集う楽園の更に地底。忌み嫌われた妖怪ばかりが集う旧地獄にて目が覚めた。
ここがどこであるのか、珍妙な装いの少女らは何者か。どれもこれも、さして興味はない。
けれど、鎮まりきった怨嗟の炎を傍らに、鬼はふと思う。
今ならあるいは、己にも穏やかな顔の仏さまが彫れるだろうか。
♦
いつとも知れぬ内に、この地底に鬼がひとつ増えた。
それは、見越すほどの巨躯に真紅に燃え盛るたてがみをそなえた鬼だ。左腕は半ばから切り落とされ、左目はえぐり取られている。
地底の旧都は、地上の人間に見切りをつけた鬼たちの楽園。忌み嫌われた妖怪が集い、独自の社会を形成している極めて特異な空間であり、稀ではあるのものの新参者が地底に現われることもある。
そうした場合は、旧都に居を構え少しずつ地底の社会になじんでいくものだが、その鬼は珍しいことに旧都には足を運ばず、地上と地底を繋ぐ唯一の通路である縦穴に住み着いた。
いや、住み着いたという表現では語弊がある。
鬼より鬼らしいその風貌のその鬼は、昼夜を問わず、縦穴の断崖を相手に鬼らしからぬ行為に耽っている。
とどのつまり──仏を彫っているというのだ、鬼が。
今や縦穴の厳めしい壁面には、その断崖に背中を預けるように巨大な仏像が無数に削り出されていた。それはこうした芸術に明るくない者でさえも感じ入るもののある、大層なものだった。
これについて同じく縦穴を住まいとするとある土蜘蛛がいるのだが、彼女に言わせれば『退屈な岩壁よりよっぽど映えるからオッケー』とのこと。それから、その巨躯と隻腕が嘘のような身のこなしで断崖を飛び回るのが見ていて面白いとも。地底の妖怪は底抜けに前向きである。
ただ、土蜘蛛が言うに人語を介さず奇行に走る低能な妖怪というわけでもないようで、会話を試みれば一言二言ばかりのひどく偏屈な返事が返って来るらしい。
そんな話題の尽きぬ鬼だが、実は稀に旧地獄街に姿を現すときがある。
それは、旧都の入り口の大橋の番をしている橋姫が手慰みに篠笛を吹いたとき。
誰の言葉にも耳を貸さずに、仏を彫ることに全霊を注ぐ鬼が、笛の調べが聴こえたときだけは橋のたもとにあぐらをかいて座りじっと橋姫の篠笛の演奏に聴き入る。やがて演奏が終われば、また仏を彫りに戻る。
橋姫も最初はすわ何事かと警戒したものだが、口を利かずにただ演奏を聴いて、満足したら帰るだけだとわかってからはそれもなくなった。燃え盛るような図体と厳めしい顔は恐怖を煽るが、所詮鬼など旧地獄ではごくありふれた存在。益もなければ害もないのだからと気にしなくなった。
むしろ、このごろは聴衆のいなかった篠笛の演奏を聴く者が現れたということで、一層演奏に力が入ったとさえ言える。
そして、ある時。
また笛の音に誘われた鬼が大橋へ足を運んだ。
いつも赤い大鬼が一匹。けれど、今回は一人先客がいた。
それは額に深紅の一角を備えた金髪の女だった。
「おお、本当に来た!」
「別に嘘なんてつきやしないわよ。ましてや鬼を相手に。軽口ばっか叩いて妬ましいわね」
大声を上げた女と、橋の欄干に背中を預けたままそれを迷惑そうに答える橋姫。わずかばかりの会話であったが、その気安さから二人が長い付き合いであることが窺えた。
けれども、鬼の興味はそこにはない
「……笛は、もう吹かんのか」
「まあね。こいつに頼まれたから吹いただけだし」
「そうか。……邪魔したようじゃな」
一角の女が赤鬼を見つけたのをきっかけに、橋姫は演奏を止めてしまった。
笛の音が聞けぬなら、長居する理由はない。鬼に橋姫に演奏を乞うつもりもなかった。
「待ちなって! パルスィに頼んだのは私があんたに会いたかったからさ。なにせ、聞きたいことが山ほどある」
興味を失って踵を返そうとする大鬼を一角の女が慌てて引き留める。
大きく目立つ角もそうだが、尋常ならざる存在感の女だった。まるで霊峰がひとつ人の形をして佇んでいるような、荒唐無稽な威圧感を感じる。恐らくは、彼女も鬼なのだろう。
パルスィというのは、どうやら篠笛を吹いていた緑眼の橋姫のことで間違いなさそうだ。
「儂は、仏を彫らにゃあならん。他をあたりな」
「それだよ。お前さん、仏を彫ってるんだって?」
赤鬼が、傷だらけの骸の様な貌をしかめた。
「鬼が仏を彫っちゃあ、ならんのか」
「まさか! そんな決まりはここにはないよ。私も一目拝んでみたが、ありゃ大したもんだ」
旧地獄街道のように人妖が集う場所であれば、規則があって当然。住まいを同じとする土蜘蛛からクレームは飛んできていないものの、あの縦穴に手を加える行為が彼らのコミュニティに違反してる可能性もあった。仏師も周囲と無用な軋轢を生むのは本意ではないので、それを聞いて少なからず安堵した。
「なら放っておきな。儂もお前さんらに迷惑をかけるつもりもない」
「別にあんたが仏を彫るのを邪魔しようってんじゃないさ。ヤマメともうまくやってみるみたいだしね。なあ、あんた名前は」
「名か。名乗る名など、元より持ち合わせておらなんだ」
「冗談はよしてくれよ、あんたほどの大仰な鬼に呼び名一つないなんて筈があるかい」
女の言葉に、赤鬼は目を細める。とうの昔に捨てたとはいえ、己は忍び。人に語れる名なぞ持ちうるはずもなし。誰に名乗ることもなく、人が付けた浮き名ばかりが揺蕩うばかり。そうして歴史にその名が紡がれることもなく、人知れず影に溶けるように消えていくのがさだめ。
忍びとして生きるとは、そういうことだ。
──けれど、その記憶。あるいは同じ時代が生きた人間が汲むこともあろうか。
「そう、じゃな。最期には──仏師と。ただそう呼ばれておった」
彼の脳裏には、己の事を仏師と呼び慕うあの無愛想な忍びの姿がよぎっていた。
力を求める男に、捨てられずにいた亡き恩人の忘れ形見を託してやったのが始まりだった。忍びを捨てど、道玄の掛けた時間と手間を思えばどうしても手放せなかった義手だった。それを死蔵するよりかは余程ましかと託して以来、狼は己を仏師殿と呼び慕い、幾度と牙の研ぎ方を乞いに来たものだ。いや、かの男に託したものはそれだけではない。とうに捨てたはずの、己の忍びとしての研鑽の記録。誰一人継ぐものがいないとわかってなお紡がずにいられなかった、道玄と共に苦心して拓いた義手忍技の在り様。あの男は、己がどうすることもできずに抱え込んでいた未練の一切合切の悉くを昇華させたのだ。己の磨いた技は、心は、あの忍びの中に息づいている。
その果てに狼は──己の業に終止符を打った。打ってくれた。因果とは、かくあれかし。
「やっぱりあんた、人間に討たれたんだね。顔を見ればわかるよ」
それは、二言目には妬ましいと続ける橋姫よりもよほど妬ましそうな声だった。
羨望の眼差しだった。
鬼はみんなそうだ。人に見切りをつけたと言いつつも、心のどこかで人間に期待をしている。地上を捨てた今もそれは変わらない。
「私の名乗りがまだだったね。私は星熊勇儀。鬼の四天王……って肩書にもう意味はないか。ま、ただの力自慢だよ」
四天王というのがどれほどの地位を示すかはわからずとも、彼女が有象無象の一匹ではないことはわかった。それから、彼女がそうした地位に頓着しない気質であることも。きっと、かつての彼女は何物にも捉われない振る舞いで周囲の者を振り回したことだろう。
仏師も少しずつ、自分のいる場所がどのような場所か把握できていた。
ここでは、恐るべき化生たちが人の姿をして、人のように生活している。
縦穴の土蜘蛛にしてもそうだ。疫病を司る恐ろしいあやかしでありながら、同時に快活な少女でもあった。彼女には裸一貫で仏を彫る姿は流石に目に余ると言われ、有り合わせのボロ布で編んだ腰巻を用意してもらった恩がある。同じ空間を住まいとする以上、良好な関係を築けているのは幸いであった。ちなみに今度、しっかりとした衣服を用意してくれるらしい。仏師は不要だと言ったが、それでも好きでやっている事だからと聞く耳を持たない姿は記憶に新しい。
「……ちと、喋りすぎたな。儂は戻る」
「待て待て、ここまで来て逃すわけないじゃないか。心配しなくても"茶"の一つくらい振舞うさ」
「……茶か」
一角の女が一升瓶を取り出し、これ見よがしに揺らしてちゃぷちゃぷと音を立てた。
茶と聞いては仏師も足を止めざるを得ない。思えば、茶とは随分とご無沙汰だった。
まさか酒を目当てにこのなりで乞食をするほど落ちぶれたつもりもないが、向こうから酒、いや茶を振舞ってくれるというのであれば是非もない。
「ちょっと、私の橋で酒盛り始めるつもり? ほんと妬ましい図々しさね」
「いいじゃないか、どうせこの橋に往来なんてあってないようなもんだろう。そら、あたしの盃を使いな」
携えたえんじ色の盃に一升瓶が丸々に注がれ、無造作に差し出された。橋に腰を落ち着け、盃を受け取る。常人をして余りある大杯は、巨体の仏師にとっては程よい大きさだった。
「この香り……知らぬ茶だが、上物じゃな。それに、茶器も随分と品の良い」
「その杯は鬼の名器さ。比喩抜きで注いだものの位を一つ上げる奇跡の一品。丁重に扱っておくれよ」
大きすぎる盃も、鬼の為に拵えられたものとすれば頷ける。それに、注いだものの位を上げるというのも聞き捨てならない。昔、道玄に酒の湧きだす薬水瓢箪は用意できないかと軽口を叩いたものだが、鬼の伝手を辿れば見つかるだろうか。
「あら、珍しい。貴女がその杯を人に貸すなんて」
「それだけ興味があるってことさね。きっと面白い話が聞けると思ってね」
二人の会話を余所に、仏師が盃に注がれた酒を飲み干し、喉の焼かれる感覚を堪能しながら深く息を吐く。
「こりゃあ、良い。染みる……。」
「いい飲みっぷりだ、気持ちがいいねぇ!」
あとを追うように勇儀もどこからともなく取り出した大ぶりの瓢箪を呷り、浴びるように酒を飲んだ。この鬼、いったい幾つ酒を持ち歩いているのか。
「私はあんたの話を肴に酒を飲みに来たんだ。なあ、なぜ仏を彫る? 随分手に馴染んでるみたいじゃないか」
「……あの縦穴の仏様は、古い記憶にある仏様を模倣した手慣らしに過ぎん。本来は由緒のある技法かもしれんが、儂にその心得はない」
仏師が今縦穴の岩壁に彫っているのは、師を失くしたのちはぐれ忍びとして修行を積んだ地『落ち谷』の谷あいにある無数の仏像だった。今の仏師には、それまでのように仏像を彫るのは困難を極めた。なにせ、鬼と化した体はなにもかも勝手が違うからだ。故に、手慣らしである。
面長に杏仁型の瞳、対称性のある表情など、特徴的な様式の仏像はおそらくは鉄砲砦を構える落ち谷衆の信仰対象だろうか。落ち谷衆といえば古くは葦名に攻め入った淤加美の一族の末裔とも聞く。辿り続ければルーツも垣間見えようが、真相など仏師には知る由もない。
「へぇ、どこか余所でああいう仏像を目にすることがあったの。妬ましいわね、そうそうお目に掛かれるようなものでもないと思うけど」
むっつりと押し黙っていたパルスィがここぞとばかりに口を挟んできた。酒盛りに文句を垂れてはいたものの、それはそれとして仏師の身の上話には興味津々らしい。
「随分と奇妙な表情の仏像だったねぇ。泣いてるんだか笑ってるんだか……」
「……ふん」
仏師の返事は煮え切らないものだった。
それもそのはず、本来の落ち谷の菩薩像はアルカイック・スマイルと呼ばれる穏やかな微笑みを湛えた顔をしている。しかし仏師の彫った菩薩像は阿修羅もかくやという、如何様にも見て取れる複雑な表情をしていた。それは、荒れ狂う憤怒を抑えつけるようにも、深い悲しみを表しているでもある。
仏の顔には、彫った者の心が映る。怒り貌ばかり彫っていた頃よりかはよっぽどマシであろうが、これはどうしたことだろうか。その意味は、彫った仏師にも測りかねていた。
「お前さんもいつか仏を彫ってみるといい。そこで見えてくるものもあるじゃろうて」
「私がぁ? 無理無理、砕いちまうよ」
「そんなことしたら、地上から天狗がすっ飛んできて新聞の一面を飾るでしょうね」
「……天狗か」
仏師は天狗とは縁深かった。
天狗と言えば、葦名を陰で支える寄鷹の衆を思い出す。寄鷹衆は葦名城の屋根上を駆ける天狗面の忍び衆だ。重い大手手裏剣を得物としており、その重さから生まれる回転の勢いによって瞬時に間合いを詰めたり、一息に大きく飛び去って距離を離したりと縦横無尽の機動を為す技術を持っていた。一部においては、仏師も忍び義手を用いて同じことができると踏んでその忍び技を盗んだ経験もある。
また、それとは別に『葦名の天狗』と呼ばれる存在もまたいた。
外から葦名に潜み入る忍びを圧倒的な力によって斬り伏せることで主に忍びたちから畏れられる剣豪である。熟達した忍びが束になってもまるで歯が立たぬことから、顔を合わせれば最後、もはや首が繋がっていることはないとされる。
だが、二人の言う天狗とはまことの天狗の事を言うのだろう。神通力を持ち、山伏の装いをした妖怪だ。確かに鬼と土蜘蛛がいて天狗がいないというのもおかしな話である。
「天狗が今更地底に顔を出すとは思えないけどねぇ。おっと、そもそも約定があった」
「……約定があるのか。地の底と、地上の間に」
「ん、そうか、仏師は知らないか。あんたももう地底の住民だ、知っとかないとまずいね」
勇儀が語るに、地底の約定とはこうである。
本来地獄の一部だったこの地底世界は、閻魔による地獄のスリム化という名目のもと地獄から切り離された世界である。そうした旧地獄の廃墟に人間から離れられる新天地を探していた彼女ら鬼が目を付けて、廃れた繁華街を利用し社会を築いた。
それに脅威を感じた地上の妖怪が、地底の妖怪の地下都市を認める代わりに地底の怨霊の管理を担う事。そしてその見返りとして、地上の妖怪の不可侵を約束した──というものである。
特に、地底の怨霊の管理は灼熱地獄跡にある屋敷の住人が行っているそうだ。
「あんたも地底の世話になってるんだし、いずれ地霊殿のさとり妖怪に顔くらいは見せに行きな。地底の主みたいなもんだからさ」
「当人は頑なに否定してるけどね」
管理された土地で住まいを借りるというなら、やはりそのあたりの筋は通すべきか。仏だけを彫っていたいものだが、ままならないものだ。
話の続きが読みたくばぁー
感想を書くがよろしかろうー
あっちじゃー
感想欄は、あっちじゃー