地底の仏師   作:へか帝

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秘伝

 

 初めに勇儀が全員に酒を注いだ杯を配り、最後に仏師が酒樽をそのまま傾けて浴びるように酒を飲む。

 仏師は口を満たす酒を飲み下すと、同時にどんと大きな音を立てて酒樽を地面に降ろす。

 震える大地と一緒に、怯えた射命丸の肩が跳ねた。

 

「……プハァ。極上。その言葉に偽りはないか」

「応とも。手に入れるのに苦労したんだ」

「地上の酒か」

「少し違うな。地上に紛れた知り合いの鬼の秘蔵を強請った」

 

 続いて他の面々も酒を呷り、その味に舌を唸らせていた。

 鬼ほどではないにせよ、酒好きで知られる天狗の射命丸などは一時鬼の恐怖を忘れ、鬼秘蔵の酒にありつけた幸運に分かりやすく目を輝かせていた。

 仏師も多様な酒を嗜んだが故にわかる。この酒は、そう易々とお目に掛かれる品ではない。

 

 「そうか。そうか……」

 

 仏師は酒を口の中で堪能するさながら、勇儀の素振りを思い返し、自分で思っている以上に彼女の興味を惹いていたことを自覚した。

 

 勇儀は、人間との戦いを神聖視している。それは旧地獄の橋の上で勇儀と初めて言葉を交わした時から感じている事だった。

 恐るべき鬼と、それに立ち向かう勇敢な人間。勇儀はそんなおとぎ話じみた光景に強い憧れを抱いていた。傲慢な妖怪を相手に、知恵を絞り力を鍛え、恐怖に抗って心を奮い立たせた人間が、見事鬼退治を果たす。

 そんな、人と鬼の双方が一度は願う夢物語。

 

 鬼は強力で、人間は脆弱だ。

 この二つの種族の力の差は、想像を絶する。

 

 ──それでも、人間はその力関係を覆せる。

 人間には、可能性がある。不可能を可能とする力がある。

 たゆまぬ鍛錬を積んだ人間が、いつか鬼と人との間に横たわる大きな壁を打ち砕いてくれるに違いない。

 

 勇儀は心の底からそう信じ続け──ついぞその日は訪れなかった。

 待ち続けるうち、時代は移ろった。人間は変わった。

 ……変わってしまった。

 

 こいつになら、首をくれてやってもいい。そう思える人間がいなくなったのはいつからだったろう。鬼に挑む人間はいなくなっていた。人は鬼と争う事をやめてしまった。

 

 仕組まれた不条理。強者が弱者を蹂躙する理不尽。人ならざる、不可解な存在。

 人間がそれらに真っ向から立ち向かった時代は、確かにあったのだ。

 

 親か、友か、あるいは故郷か。鬼が蹂躙したすべての復讐の為、怒りに燃ゆる生き残りの男の決死の勝負を真っ向から受けて立つのが好きだった。

 鬼の積み上げた屍の向こう側に光る、憎悪を灯したあの力強い瞳が好きだった。

 背負った遺志に背中を押されて、鬼の前に踏み出す一歩が好きだった。

 

 憤怒、悲哀、絶望。それらを全て飲み下し、築き上げられた人間の力の粋で以って、鬼を討つ。

 鬼もまた、遺された者特有の悲痛な決意に全身全霊で応える。

 そんな時間が、大好きだった。

 

 ああ、けれど。

 鬼は、強すぎた。

 

 なぜ、鬼が最強と呼ばれると思う?

 ──誰も敵わなかったからだ。

 最も強かったから、最強の名を欲しいがままにしているのだ。

 

 そんな当たり前のことを、人間は理解した。

 理解した人間は、鬼を諦めた。それが道理と言わんばかりに。

 人間が鬼の元へと足を運ぶことは、なくなった。 

 

 鬼は来もしない勇者を待ちぼうけて、寂しく酒を飲むばかりの日々を送るようになった。

 待てど暮らせど、"鬼退治"は始まらない。

 ──人と鬼の関係は、知らず終わっていた。

 変わりゆく人間に、鬼たちは取り残された。

 

 偶に来る来客に心を躍らせ迎えても、やって来るのは生贄にと差し出された口減らしと毒の仕込まれた酒。

 

 やがて、おのずと理解した。

 我らは、人間に見限られた。いつかのあの日、どこかのあの場所で、殺されるべきだった。

 鬼は、人間に諦められた。その事実は、鬼たちの心に深い絶望を落とした。

 

 いつしか、鬼も同様に人間に見切りを付け始める。

 一匹、また一匹と、鬼が姿を消し始める。少しずつ、けれど確実に鬼はその数を減らしていき。

 地上には、最強の名だけが残った。

 

 この星熊勇儀という一匹の鬼もまた、その一人だ。

 人間を諦め、人間に諦められた悲しい怪物。

 

 ──それでも。

 それでも、手前が勝手に見限っておきながら、未練がましく夢想せずにはいられないのだ。

 だって、あの頃の人間たちはそれほどまでに輝かしかった。

 鬼は、どうしたって鬼。心の根っこの部分はどれだけ時を経ようと、あの時代から変わらない。

 勇儀はずっと、恋に焦がれる乙女のように、血沸き肉躍る人間との戦を求めていた。

 瞳の奥で、鬼さえ斃しかねない強い人間の幻を追わずにいられなかった。

 

 ……だというのに、それが目の前の深紅の鬼ときたら。

 

 ──顔を割る巨大で深い刀傷。

 ──滑らかに斬り落とされた左腕。 

 どこからどう見ても、明らかに類まれなる強者と死闘を繰り広げた痕跡があるではないか!

 

 で、あるならば。

 この鬼ならば、ずっと信じてやまなかった人間の強さを知っているのではないか。

 いや、絶対に知っている。

 勇儀が胸の底から焦がれて止まないあの憧憬を、この鬼は。

 

 ならば、せめてこの仏師が戦いの中で感じたものを聞いて、見果てぬ夢を思い描きたい。

 そう思う事の何がおかしいだろう。

 この寡黙で思わせぶりな言動の鬼の口を割らせるためなら、出し惜しみなぞしている場合ではない。

 持ち込まれた上等な酒は、つまりそういうことだ。

 

 これでつまらん話をしたら承知しないぞ。腕を組んだまま仏師に視線を寄越す勇儀の目は、言外にそう語っていた。

 しかし仏師はそんな勇儀の視線など気にも留めていないようで、酒気によって滾る血潮を堪能しつつ、気兼ねなく口を開く。

 

「……一人の、人間の話をしよう」

「それは、どんな人間かね」

「儂の左腕を落とした男じゃ」

「「き、聞きたい!」」

 

 果たして、仏師の語り口の切り出しは大変に興味を惹くものだった。

 仏師の言葉には勇儀だけでなく射命丸もが食い付き、さとりに至っては休ませたがっていた第三の目を露骨に仏師へと向け、一人だけ心を読んで先を見ようとしていた。

 

「……ぷはぁ! やはり、いい酒は染みる……」

 

 だが、あくまでも仏師は自分のペースで酒を嗜む。仏師の心の焦点が酒へと移ったことで、さとりの読心は不発に終わった。仏師の振る舞いにやきもきしつつも、誰も話の先を急かさずにじっと言葉の先を待った。

 

「……名を、葦名一心。戦乱の世にて、国を盗んだ怪傑よ」

 

 もっとも、この幻想郷にその名が伝わっているかどうか。仏師はそう続けた。

 

「あの覇気、咆哮、剣圧。……今でも偶に夢に見る」

 

 酒気に浮かされて熱っぽく語る仏師。葦名一心は仏師の生涯で相対した剣侠において、間違いなく頂点に位置する実力者だった。

 

「死闘。そう形容する他にない戦いじゃった。繰り出される全てが必殺の一撃。儂はそれを、いなし、弾き、耐え続けることで致命の一撃を狙う隙を窺い続けた」

 

 手段を選ばぬのが忍びの常。どんな外道にも手を染めよう。

 打たせずして打つ。斬らせずして斬る。その強みを何一つとして発揮させぬまま殺す。

 忍びは勝利を何よりも重んじ、正道を外れた絡め手の助けも厭わない。

 尋常な戦い、武士道精神、名誉ある勝負。そんなものは犬にでも食わせておけばいい。

 死んで晒す屍に、いったい何の名誉があろうか。

 

 けれど、それが出来る相手ばかりでもない。

 強者との戦いともなれば、また戦いのやり方も変わってくる。  

 仏師の語る戦法は、不意を突いた暗殺以外の場での忍びの戦闘の定石だった。

 

 攻撃は硬く受けとめるのでは無く、柔らかく受け流す。連撃の合間に生まれる小さな隙に斬撃を挟み、裂傷にて流血を強いることで体力を奪う。

 失血によって回復力が低下する中、攻撃を弾かれ続けることによって蓄積した疲労がピークに達したとき、体幹が崩れる。

 そうして晒された大きな隙に、忍殺を叩き込む。

 それが忍びの戦術だった。

 

 忍殺は、忍びの殺しの美学だ。

 ただ殺すだけなら、剣を打ち合わずに避けて斬り続け、そのまま殺してしまえばよい。

 だが、それでは駄目なのだ。

 忍びが忍びである限り、己の事情でたった一つの尊い命を付け狙う畜生である限り、それでは駄目なのだ。

 殺しが忍びの業なれど、そこに一握りの慈悲を忘れてはならぬ。

 

 苦しませず、痛みもなく、一息で命の灯火を吹き消す。戦いの興奮も冷めやらぬままに。

 それが忍びにできる、せめてもの葬送だ。

 

「一心さまは、あらゆる剣術のあらゆる流派を貪欲に修めておった。嵐の様な激しい剣かと思えば、次の瞬間には糸を手繰るような繊細で流麗な太刀筋になる。変幻自在、千変万化。儂もそのすべてを防ぐことはできなんだ」

 

 仏師はもう一度酒を呷ってから、続きを切り出す。他の面々もそれに連られ、手元の極上の酒の存在を思い出し、口に含んだ。

 

「ぷはぁ。……だが、それでも追い詰めた。互いが死地に追いやられた。そして、あと一撃。あと一撃防げば、殺せる。その確信があった」

 

 仏師は右の手のひらに視線を落とし、当時の記憶を振り返っていた。酒が回っていても、仏師の脳裏に当時の情景は鮮明に浮かび上がっていた。

 

「じゃが……最後の一撃。一心さまは奥義を放ち、儂は敗れた」

「……奥義を防げなかったのか」

「ああ。僅かでも一心さまの刀に儂の得物を掠らせることができれば、それで体勢を崩させ、勝者は儂であったろう。じゃが、それすらできなんだ」

 

 淀みなく答える仏師に、重ねて勇儀が質問を投げかける。

 

「何をされた?」

「儂の斧を一刀にて弾き、返す刀で腕を落とされた……恐らくは、じゃがな。その軌跡はこの儂の目でさえ捉えられなんだ」

「──葦名十文字。それが、その奥義の名ですね?」

 

 熱心に仏師の話を聞いて手元の手帳に何かを書き残していた射命丸が、仏師より先んじて言葉を発した。

 

「知っておるのか」

「どんな技だ」

「いわゆる居合術に当たります。ただ、速きこと。それのみを一意に極めた技です」

 

 射命丸が葦名流の技の名を知っていたこと、そして更にその奥義の概要までも把握していたことに仏師は驚いた。

 

「葦名流。戦に勝つという一点のみに傾倒した剣術流派。その実践的な教えは広く世に知られています。というのも、幻想郷が創られるよりも前に、妖怪の山に葦名流の武士が訪れたことがありまして」

 

 葦名流は、葦名一心を起源とする剣術流派である。壮年の葦名一心が死闘を重ねることで修めた剣技をより洗練し、葦名衆の為にと束ねたものである。

 剣術流派は得てしてその中に儀礼的であったり、形式的なものが混ざることがあるが、葦名流はまさしく葦名一心の戦いの歴史そのものであり、その記述の全てがただ勝利すること一点に収束していた。

 

「武士の残した葦名流の伝書は、剣を扱う哨戒天狗などに特に好意的に受け止められ、修めているものも多いと聞きます。これははっきり言って異常なことですよ」

「確かに異常だ。天狗がまさか人間の剣術を修めるなんてねぇ」

 

 異常と語る二人の言葉は、天狗という妖怪の排他的な性質をよく知る故だ。そもそも妖怪の山は外から来るものを排斥する傾向にあるし、まして見下している人間の編み出した剣術など、鼻で笑って相手にもしないだろう。

 だが、そうはならなかった。

 哨戒天狗に傲慢な者が少ないというのもあるが、何より葦名流は合理に則していた。日々剣を打ち合い戦闘技術を磨く哨戒天狗たちにとって、無数の修羅場を潜り抜けた経験から生まれた剣技を記す戦闘技術書には、驕りと偏見を捨ててでも一見する価値があった。

 

「……あれ?」

 

 ここで、仏師と射命丸の心象を読み取っていたさとりが不意に声を上げた。というのも、二人とも同じ葦名十文字という技を連想し、その動きを脳内に浮かべているはずなのに、その形に差異があったからだ。

 

「……あれは、葦名十文字ではなかった」

「しかし、葦名流の伝書は葦名十文字という奥義で締めくくられていたはず……」

「葦名十文字には、先がある」

 

 その答えを、仏師が話し始めた。

  

「確かに儂を斬ったあの奥義は『葦名十文字』ではあった。じゃが、死線の際にて研ぎ澄まされた刀が、奥義を新たな領域へと押し上げた。葦名十文字の延長線上にありながら、明らかにその技の形を逸脱していたが故に、のちにその名は改められた。

 

 ──奥義の名は、『一心』」

 

「自らの名を冠した奥義か……!」

 

 勇儀が感慨深く呟く。編み出した技に、自分の名をつける。つまりそれは、その奥義こそがまさしくその人物の剣の道における集大成という意味に他ならない。

 

「射命丸、といったな。なぜ儂がお前の速さを見切れたと思う。それより速い斬撃が、ずっと儂の脳裏に焼き付いておるからよ」

 

 そもそも例え忍びの目を持つとて、音の壁さえ越える射命丸の速さを見切るなど不可能だ。

 だが、仏師は見切って見せた。

 一番最初に背後を取りに来るという予想から、軌道の予測を立てられたというのもあるかもしれない。しかしそれ以上に、仏師の目は、速さに慣れていた。

 

「儂は剣の軌跡を目で追えなかったと言ったが。あれは、少し語弊がある。儂は腕が斬り飛ばされたあと、遅れてその十文字の残銀を見た」

「それって……」

「居合の速さが極まるあまり、光さえも置き去りにしちまったのよ」

「お、おいおい……」

「信じられぬか?」

 

 いくらなんでも話を盛っているんじゃないか。そう思った勇儀が、半信半疑に怪訝な声を上げる。勇儀のそれは、至って普通の反応だ。いくらなんでも人の放つ剣閃が光を超えるなど、荒唐無稽に過ぎる。だが、仏師の声色は真剣そのものだった。

 そんな勇儀の様子を見て、仏師が最後に酒樽の中身を全て飲み干し始める。

 

「……プハァーッ! ……丁度いい。酒の礼じゃ、芸の一つでも披露しよう」

「おおっ!」

 

 酒の匂いのする息を吐いた仏師が、あぐらを解いて立ち上がる。

 何が始まるかはわからずとも、勇儀は期待を込めて歓声を上げた。始めるのは、きっと先ほどの奥義に関わる何かだ。

 

「さて。儂は、その目で見た技を模倣することができる」

 

 そう言いながら、仏師は縦穴の底のはずれに落ちていた刀を一本拾い上げた。恐らくは、地上からうち捨てられたもの。刃の潰れたなまくらで、人斬りはおろか、刃物としての使用さえ堪えないだろう。

 

「射命丸や。お前さんは確か鴉だったな」

「え、あ、はい。そうです……?」

 

 射命丸は刀を片手に持った仏師から突然素性を問いただされたことに疑問を抱きつつも、とりあえず肯定を返した。はて、この質問にいったいどんな意味があるのだろうか。

 ここで射命丸は何かを察したさとりから向けられる憐みの視線に気づいた。

 その視線の意味は何だ。

 止まない悪寒の正体は、何だ。

 

「見事な翼よ。黒く艶やかで」

「ええっと、ありがとうございます……?」

「儂が手入れをしてやろう」

「──え?」

 

 この話の流れで? 

 射命丸は努めて冷静さを保ちながら、仏師の発言を時系列順に辿ってみることにした。

 まず腕を斬られた『一心』という、凄まじい奥義の話。そして、仏師は目で見た技を再現できるという話。

 おかしい。どう考えてもこの流れで仏師が射命丸の翼を手入れしようという形に落ち着くはずがない。

 だが、この感覚には身に覚えがある。太古に酔っぱらった山の鬼に絡まれる前など、こういう会話の流れだったような気がする。

 その手に持った刀は何に使うんですか? などと、怖くて聞けなかった。

 なので、射命丸は代わりにさとりに聞いてみることにした。

 

「ご愁傷さまです」

「えっ」

 

 聞く前に答えが返ってきた。諦めを誘うようなその言葉は、射命丸の不安を一層と煽る。そんな射命丸に、仏師が安心させるように声を掛けた。

 

「死にはせん」

「いったい何が始まるんですか!?」

「剣を極めし男、葦名一心が奥義。その片鱗を味わうといい」

「え、ちょ、あの、また今度で──」

「動くな。手元が狂う」

「はい」

 

 そんなことを言われてしまっては、射命丸も逃げ出すことができない。

 これは邪推だが、ひょっとしてこれは先ほどに喧嘩を売ったことによる報復なのではないか。金縛りにあったように身を凍らせながら、射命丸はそんなことを考えていた。

 上司は絶対。逆らうことは許されぬ。なぜなら、逆らうとこんな目に合うから。

 

 射命丸は助けを求めに他の二人を見やって、すぐにそれを諦めた。さとりはこういうときに制止してくれそうにないし、勇儀に関してはむしろ止めようとする誰かがいたら殴り飛ばしそうだ。

 

「諦めるのが一番いいと思います」

「そんな……」

 

 さとりはそう言った。確かにそうかもしれない。もしここで逃げおおせたとして、絶対にこの星熊勇儀の反感を買う。俗にいう詰みという状況だった。

 

 

 仏師が射命丸の正面で地面に刀を突きたてて、そのまま力を加えることで鞘の代わりとする。ギリギリと抵抗を掛けられた刀身が、軋み声を上げる。

 仏師の手にあるそれは、何も特徴のないただの刀。何の異名も無く、何の特別な力も無い。刃は毀れ、刀身は錆びて朽ちている。そんな刀。

 

 高速飛行を日頃から行っている射命丸の優れた動体視力は、不幸にもピンと張った力の蓄積が限界に達し、大地から切っ先が離れる刹那を捉えて悲鳴を上げた。

 

「ぴぃ!」

 

 その斬撃に、音は無かった。

 その斬撃に、風は無かった。

 その斬撃に、光はなかった。

 

「……あれ?」

 

 仏師は刀を振り抜いており、射命丸もまた明らかに刀の届く範囲に入っている。にも関わらず射命丸に何の外傷もない。まるで、刀が射命丸の身体をすり抜けたかのように。斬撃など、初めから放たれなかったかのように。

 射命丸はこの事態を、仏師が自分を脅かすための小芝居だと認識して納得した。

 

「い、いやあ仏師さんも人が悪い──」 

「動くな」 

 

 その直後。空間が捻じ切れるような轟音と共に、銀の光に化けた二つの斬撃が遅れて殺到した。 

 

「ひ、ひえええええええ!」

「見事!」

「う、うわぁ……」

 

 光さえ、いや現実さえも追い抜く剣術の最奥『秘伝・一心』。まさに神業。

 いざそれを目にした勇儀は素直に称賛の声を上げた。妖怪が考える、人の届く限界。それを遥かに越えるであろう技は、勇儀が人間という存在に惚れ直すには充分すぎた。

 

 一方の人智を超越した奥義の餌食となった射命丸は、目に涙を浮かべ、情けない悲鳴を上げながらぺたんとその場で座り込んでいた。

 放たれた斬撃は射命丸の身体を蛇のように巧みにすり抜け、大きな翼の羽先だけを切り裂いている。確かにこれは、射命丸が僅かでも身じろぎしていれば惨事を引き起こしただろう。

 さとりなどはうっかり恐怖の真っただ中にいる射命丸の心を読んでしまい、思わず同情した。

 射命丸は今回の件で鬼の恐ろしさを再三味わい、今後どんなことがあろうと鬼には関わらないことを胸に誓った。

 

「儂には二撃が限界。じゃが、齢を重ね一層洗練された一心さまの斬撃は、十を優に超えよう」

 

 あの葦名一心が、たった二撃のみ光を置き去りにした程度で満足するはずがない。

 二撃ができるなら、次は三。三の次は四。葦名一心はそう考える男だ。今となっては二十近いのではないか。仏師は老境の葦名一心と立ち合ったことはないが、仏師には不思議とそういう確信があった。

 

「いいなぁ、いいなぁ……!」

 

 勇儀は何よりも、そんな人間と真っ向から戦えたことに羨望の念を向けていた。

 稀有な強者と出会えるだけでまず奇跡。そして、その強者が戦いに応じてくれるかどうかもまた奇跡。人間は脆い。病などに縛られその実力を発揮できぬことも多い。

 

 けれど、信じることができた。

 こんな人間が、こんな技を編み出すほどに人間離れした人間がいる。

 まだまだ、星熊勇儀は夢を見ることができる。仏師はそれを証明した。

 そのことが、無性に嬉しかった。

 

 仏師はそんな勇儀を一瞥したあと、腰を抜かして慄く射命丸に声を掛けた。

 

「そう泣くな、射命丸。何もいたずらにお前さんを斬りつけたわけではない。ひとつ、試しにその翼で羽ばたいてみろ」

「え、えぇ……?」

 

 流した涙を指ですくいつつ、とりあえず言われるがままに翼をばさりと大きく羽ばたかせた。

 すると、射命丸の姿が水に溶けるようにかき消える。

 

「え……ええ!? なんですかこれ!」

 

 少しすれば、消えていた射命丸が霧に色を塗ったように再び姿を現わす。

 目の前の現象に目を剥く勇儀とさとりだったが、一番驚いているのは間違いなく射命丸本人である。

 

「お前さんの羽を、霧がらすという鴉と同じ形に整えた。そら、手入れをしてやるといったじゃろう」

「た、確かにそう仰っていましたけど……」

 

 霧がらすは葦名から北に離れた薄井の森という地に住まう鴉の一種。霧深き薄井の森には正体の掴めぬ不可思議な猛禽が棲息しており、いずれも幻のように姿を眩ますのが特徴であった。

 霧がらすを捕まえたものは誰一人として存在しない。例え掴んだとて、不思議と羽だけを残して姿を消してしまうのだ。

 仏師にはかつて狼がその霧がらすの羽を持ち込み、それを義手忍具として加工した経験があった。

 

 鬼は嘘を嫌い、虚言を吐くことはないとされる。鬼と付き合いの長い射命丸は承知していたつもりだったが、頼んでもいない羽の手入れでまさかこれほどの副産物が得られるとは思いもしなかった。

 

 姿をくらまし、実体さえも誤魔化す霧がらすの羽は、公明正大な一人の記者として(あるいはパパラッチとして)幻想郷中を駆け回る射命丸には、大変ありがたいものだった。

 なにせ、この稼業はよく恨みを買う。決定的瞬間をカメラに収めた次の瞬間に射命丸本人ごと証拠を隠滅せんと殺伐とした弾幕に襲われることも珍しくない。

 仏師には散々ひどい目に合わされた射命丸だったが、これには無邪気に大喜び。

 

 

 ◆

 

 この後は、射命丸が姿を消すことへのからくりを問い詰めたり、射命丸が仏師に売った喧嘩の内容などを勇儀が聞き出し、大笑いするなどして、大いに盛り上がった。

 しかし、肝心の酒を切らしているので、酒宴は、ほどなくしてお開きとなる。

 

 勇儀は仏師から聞いた話を何度も思い返し、それを旧地獄街道のパルスィに自慢しようとして、逆にパルスィから相伴に預かれなかった恨み言を聞かされ続けることになる。

 

 腰を抜かしたままの射命丸は高速思考によって全力でさとりの良心に訴えかけ、なんとか肩を借りて地霊殿まで送ってもらう運びとなった。

 更に射命丸はそのまま地霊殿に居座り、そこで本来の目的であったさとりへの取材も果たしたというのだから、恐るべきはジャーナリスト精神の強かさである。

 

 さて、余談だが射命丸は地上に戻ったあと同僚や部下、取材相手に霧がらすの羽を自慢して回りそれはそれはウザがられていたのだが、あくまでも所詮は羽。

 時間と共に霧がらすの羽根は抜けて、生え変わってしまう。

 まさか他にそんな加工ができる人物に心当たりなどないので、射命丸は霧がらすの羽を散らすたび、怖いのを我慢して仏師の下へ翼の手入れを請いに来るようになった。

 

 もちろん、酒と自慢の新聞も一緒に持っていく。

 

 





 射命丸かわいそう。でもこれもかわいいのがわるいんだからね……。
 
 それはさておき、仏師から手渡される忍びの技術書には、なぜか梟の奥義である大忍び刺しが記されているんですよね。書いてあるからには仏師も使えるんでしょうけど、まさか奥義を赤の他人に伝授するとも思えません。私はここから仏師には見た技を模倣する能力があると捏造しました。
 梟は仏師を猩々と呼び、忍び義手を得物とすることを知っているので、仏師と梟が過去に戦闘したことがあり、その際に梟の大忍び刺しを見て習得したのではないかなぁと考察・妄想しました。寄鷹斬りとか習得してるしいけるって。


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