「どうして助けた!?」
冷たい地の底で、無造作に転がされた正邪が吠える。
「誰がお前さんの亡骸を掃除すると思っとる」
それを仏師はにべもなく返す。縦横無尽の大闊歩の後だというのに、彼に息一つ乱した様子はない。
死体の始末は存外に面倒だ。自分で手に掛けたのなら上手くやるが、勝手に落ちて死なれればそうもいかない。ここは水場も近くないので、掛かる手間は考えたくもなかった。
「私は死なねぇ」
「死なずでもあるまいに、よう吠える」
死なず。あるいは蟲憑き。そう呼ばれる不死の存在を仏師は目にしたことがある。身中に蟲の宿る蟲憑きは、如何なる殺しの技を以ってしても死に至らない。
首を落とされようと体内に潜む蟲が強引に生命活動を維持し、やがては修復してしまうのだ。
あれは、まさに不死身の体現である。
それと比べれば、限りある生命に必死にしがみ付くこの小鬼のなんと人間らしい事か。
「使え」
仏師は腕に巻いた鉤縄を解き、正邪に寄越した。からり、と折れた刀が乾いた音を鳴らす。
正邪はそれを一瞥して、仏師を睨んだ。
「私に使えるわけないだろ」
「いや、できる」
ひたむきに挑戦を続けた正邪が零した初めての弱音を、仏師は即座に否定した。
思ってもみなかった返答に、正邪は僅かに怯む。
「どうしてそう思う。言っておくが私は弱いぞ」
「それよ」
仏師はしたりと答える。
その声に、見下したり揶揄うような色はない。
「お前さんには特別な力がない。故に、己の身と、技だけを頼りにするしかない」
「……そうだよ」
正邪は不貞腐れながらも、渋々と肯定した。言われずとも、自分自身の強さなど、他の誰より知っている。
正邪は妖怪でありながら、その力は人間とほとんど遜色がない。だからこそ、選べる手段というものもある。仏師はそう嘯いた。
「これは、言わば人の力よ。弱く矮小で、技を磨くことでしか力を養うことのできぬ、弱者の手段」
そも、妖怪であれば道具など使う意味がない。むしろ、枷になる場合の方が多いだろう。
それくらいには、妖怪という持つ力とは強大である。だが、何事にも例外というものは存在する。悲しいかな、正邪は自身の体こそが何よりの枷だった
「腕を捥がれ老いさらばえたこの儂が空を駆けたように、修め得た力は己の宝となる。こいつばかりは、何人たりとも盗めぬのよ」
正邪は転がされた鉤縄を見やる。蜘蛛の糸と砕けた刀で構成されたこのがらくたで、この隻腕の赤鬼は空を舞って見せた。
仏師の言う宝とは、鉤縄ではなく養った技術の事を指す。
弱者とは常に強者に蹂躙され、奪い尽くされる運命にある。
鉤縄を失おうと、修めた技は失われない。鉤縄は、また作ればいい。
決して奪われぬ宝。それは、常に奪われてきた正邪に甘美な響きをもたらした。
「私にもできるか」
「ああ。猿でもできる」
◆
「あげちゃって良かったのかい」
「ああ。所詮、仏を彫るには無用じゃ」
縦穴に橋のように架けられた糸に腰かけたヤマメと言葉を交わす。
あれは、より高所へと飛ぶ為の道具である。地上を目指すわけでもなく、地底に住まい仏を彫るのに没頭する仏師には必要のないものだった。
「にしても、本当にいいものが見れたよ。見事という他ないね!」
縄の伸縮と持ち前の跳躍力で縦穴を駆って見せた仏師の姿は、無事ヤマメのお気に召したらしい。魔法でも妖術でもなく、ただ練り上げた技術で空を飛ぶ姿は、まさしく興が乗る光景だった。
「昔取った杵柄というやつよ。それよりも、見てみろ。やはり上手い」
仏師の視線の向こうには、数刻前と変わらずに縦穴を登る正邪の姿がある。
前と違うのはその疲労の度合いと、到達した高さだろう。
目星をつけたところに上手く投げられず試行するような拙さは見受けられるものの、使い方をよく心得ている。すいすいと飛び上がり、着実に地上へと近づいている
「自慢の技、盗まれたんじゃないの」
「さて、な」
ヤマメが小さな笑いを含んで言う。
盗めぬ技を見て盗む。いかにもあの天邪鬼が考えそうなことだ。あれは、ほどなくして正邪は地上へと抜けるだろう。
そう思っていた傍らで──上空に、こちらへ飛来する銀の光を見た。
それは、鋭い刃物だった。
気づいたヤマメが即座に糸を編んで仏師を守るように幕を張る。
だが、刃は風を切るように容易く糸を切り裂く。だが僅かに速度が落ちた。
仏師の脳天目がけて迫る刃。
それをすんでの所で首を逸らして避ける。
見上げれば、もう正邪の姿はない。
「とんだ置き土産じゃの」
「見事に恩を仇で返したね」
ヤマメと二人でため息を吐く。
今の一投は、疑いようもなく正邪の仕業だった。
唯一の武器を地上に上がる寸前まで秘め、自分が彼らから手の届かない場所に行く瞬間に牙を剥く。
百に一つも敵わない鬼を前に、自分の安全を保障してから傷跡を残さんと高所から投擲された短刀は、落下と共に加速し、恐るべき殺傷能力を伴った。
疑いようもなく致命の一撃を狙ったそれは、天邪鬼の歪な感謝の形だろうか。
「とんだじゃじゃ馬よ」
短刀は、背後にあった小ぶりの仏像に被せられた帽子もろとも貫いて深く突き刺さっていた。
引き抜けば、銀の刃が光を受けて煌めく。刀身には『多々良』の銘が刻まれていた。
長い間ろくに手入れも施されていないようだが、未だその切れ味に陰りはない。
「ありがたくいただくとしよう」
腕利きの刀匠の品と思われるが、恐らくは盗品だろう。だが道具に罪はない。
加えて、鍔のない匕首は仏を彫るのにも都合が良かった。
ここでふと、仏師は違和感を感じた。
──この帽子は、何だ。いつからあった?
最初からあったかもしれない。気にしたことも無かった。きっと刃が帽子に刺さらなかったのなら、今も気づいていなかっただろう。
心当たりは、一つある。
「無意識の妙。これが、か」
これがさとりの妹なる者の能力。これほど接近されて、その痕跡にすら意識を向けることができないとは。
忍びの目と嗅覚ならば容易に捉えられる。そう考えていた。だが、現実にはこの体たらく。仏師は己を恥じた。
どうやら、知らずに驕っていたらしい。
「だが掴んだぞ」
「わぁっ!」
すぐ足元、己の傍らの少女に手元の帽子をぽふりと被せてやる。
よもや気づかれるとは思っていなかったようで、少女は大きな声で驚いた。
それが気づきとなり、こいしの無意識が解かれ、始めからそうであったようにその姿が露わになる。
淡い緑の混じったセミロングに、黄色い衣服。その意匠は姉のさとりのものとよく類似している。
「なんでわかったの!?」
「二度も出し抜かれる儂ではないわ」
存在の察知は困難だった。だが、帽子に残された温かみから、まだ周囲にいることはわかった。
注視しようとすると不自然に意識が霧散する場所があったのだ。常人にはまるで気づけないような無意識のうちの意志の誘導。そこに隠密のからくりがあると仏師は看破した。
故に、意識をできずともその居場所にあたりを付けることができたのだ。
「おお、こいし様だ。顔を見るのは久しぶりだね」
「あ、うん。私はそうでもないんだけどね」
ヤマメの声に、こいしはふにゃりと笑ってみせた。その笑みには微かに哀愁がある。
気づかれなかったというだけで、きっと仏師がここに来る以前にも何度かこいしはこの縦穴に立ち寄っていたのだろう。
「ね、ね、それよりさ! なんで私を見つけられたのか教えてよ!」
「目が良い。それだけよ」
こいしの興味はわかりやすく仏師へと向いていた。対照に、仏師は短く返答する。
「なんで目が良いの?」
「鍛えた」
「鍛えたって、なんで? 何に必要だったの?」
「儂の生きる道には、それが必要だったのよ」
「それってどんな生き方?」
「どうして?」
「何で?」
「理由は?」
こいしが追及し、仏師が端的に答える。
延々とそのような問答が何度も続いた。興味津々に目を輝かせるこいしを相手に、仏師はどうしようもなく押されていた。一方のヤマメはそれを生暖かい目で眺めている。
これがどこの誰とも知れないような馬の骨ならいざしらず、彼女はさとりの妹だった。しかも、以前よりさとりから直々に妹を頼むと言い含められている。一体どうして邪険にできようか。
仏師も過去に一人童女を育ててやった経験もあったが、今思えばあれは聡い子だった。このように質問攻めにされた覚えはない。
そうして、何度も何度も問いに答えていくうち、不意にこいしの質問の毛色が変わった。
「ねえ、仏師さん。仏師さんなら、次も私を見つけられる?」
それは、期待を込めた問いだった。この質問はきっと特別な意味を持つ。
仏師を見上げて素朴に訪ねるその姿は、とても小さく見えた。
だが、仏師の答えは一つだ。ただ、問いに愚直に答える。
「是、と答えよう」
「試してみよっか」
先ほどの短刀を手に取ったこいしの姿が、霞のようにかき消える。こいしは再び能力を発動させた。
それを仏師は凪のように落ち着き払った心持ちで観察する。
彼女は姿も音も、気配すらも隠していない。周囲の人間はもちろんそれを認識することができる。だが、意識することだけができない。目に映っていながら、見つけることができないのだ。
かつて仏師の記した忍び技の技法書の中に、『忍びの目』という項がある。
戦いの中にあって恐怖の心に囚われず、一つに絞らず、全を見渡す。
激しい剣戟の最中にあってなお、剣先を注視せず、相手の一挙手一投足を視界に収める。
一では無く、全。立ち合いながらも、茂る草木の上を歩む虫にさえ気を払う。
さすれば、見えぬものさえ見える。
「──すごい」
目を丸くして、半ば呆けるように驚くこいしの姿が出現した。
仏師は側面からの頸椎を狙って突き出された一撃を、大きな二本指で挟んで防いでいた。
「儂は是と答えた」
得意気な顔ひとつせずに、仏師は憮然と語る。
二言はない。見つけられて当たり前。そんな仏師の様子を見て、こいしの顔は喜色に満たされた。
「お姉ちゃんに自慢してくる!!」
こいしはそれだけ言い残すと、脇目も振らず地霊殿の方角へ飛んで行ってしまった。
誰に知覚されることもない生活を想像したことがあるだろうか。もしも自分が透明人間になったら、自分の声が、姿が誰にも届かなくなったら。
自分の前に人がいるのに、存在しないものとして扱われる。自分の登場しない劇場で、自分がいないまま成り立つ物語をぼんやりと傍観するだけの立場。
こいしの世界はそれだった。望んで瞳を閉じたとて、そこはろくなものではない。
だが瞳を開けば待っているのは姉のように誰も彼もに目の敵にされる日々。
どのみち居場所がないのは同じ。それなら、皆に指を指されて暮らすくらいなら、私は皆に見えなくていい。
こいしは枯れた諦観を抱きながら日々を過ごし続け、だが今日それを手放した。
人に見向きもされない寂しい生活は、一匹の鬼によって終わりを告げたのだ。
その日、地霊殿でさとり妖怪の姉妹は久方ぶりの再会を果たす。
一方で、地上では天邪鬼の吹聴するほら話が幻想郷で小さな話題を呼び始めていた。
曰く、地獄に落とされたものの、奇跡的に一命をとりとめやがて仏に見守られながら蜘蛛の糸を辿って地上に出た。
木っ端妖怪が考えたにしては、よくできた笑い話だ。
安定の難産。
誤字報告に感謝