毎週更新を追っていると週末が楽しみになるのでこの作品もそれになりたい
冷たい奈落の底で、今日も今日とてこつこつと、仏を削る音が静かに響く。
分厚く反りの無い短刀は仏師の手に収まり、よく馴染んでいた。
「それ、人を傷つける為の道具じゃないの?」
仏師の側の小ぶりな止まり木に止まった一羽の鴉が、さも当然のように人語で語りかける。
張りのある明朗とした声は本来の鴉の濁ったような鳴き声とは似ても似つかないが、しかしどこか知恵の足りなさそうな雰囲気も感じる。きっと本人の気質だろう。
頭部に結ばれた深緑の大きなリボンがよく目立つこの鴉もまた、お燐と同様にさとりのペットだった。
名を
尋常の鴉との分かりやすい差異として、お空の瑞々しい濡れ羽色の翼の表面にはガーネットを溶かしたような昏い紅色が、流れるように艶めいている。
地獄の業火に照らされて彗星のように煌めく地獄鴉は、灼熱地獄の代名詞だった。
前に仏師が地霊殿へ訪れた際には、さとりに灼熱地獄の温度調節を任されている為か姿を現さなかったが、噂に興味を持った彼女が過去に一度自発的に仏師の元にやってきたことがあった。
以来、彼女は何を気に入ったのか度々訪れる常連となっている。
彼女の止まり木も、来るたび所在なさげにバサバサと飛び回る空を見かねて仏師が作ってやったものだ。
細い倒木を加工して作った止まり木は程よく軽いので、気に入ったお空が毎回くちばしで咥えて仏師の様子を眺めるのに都合のいい場所に運んでいた。
「ああ。こいつはよく切れる、よい道具じゃ。だからこそ、人を相手に使うには……ちと勿体ない。仏を彫るのに使うくらいで、丁度いいのよ」
「んー。でも、仏さまを彫るための道具じゃないよ」
「道具も技術も、所詮は扱う者次第よ。今まさに儂が血に塗れた右腕で、人切り包丁を握って仏を彫っておるようにな」
「ふーん」
お空は納得がいったのかいっていないのか、気の抜けた返事を一言寄越すと黙りこくってしまった。
お空が口を開かないので、仏師も自然と仏を彫るのに没頭する。
お空が無邪気な問いを投げかけて、仏師がそれに答える。するとお空がじっと黙考して、仏師の岩を削る音だけが静かに響く。
これは、お空がここを訪れたときの決まった流れだった。
「……あれ、なんの話してたんだっけ」
「さてな」
されど、地獄鴉とて所詮は鳥頭。含蓄のある仏師の言葉を頭の中でかみ砕き、自分の価値観と照らし合わせて見識を深めようとはするものの、自らの智慧とする前に綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。
忘れるところまで含めての、いつもの流れだった。
仏師もそれがよくわかっているから、適当にはぐらかしてしまうのだ。
「ねえ、もっと色々話してよ」
「話したってすぐに忘れちまうだろう」
「そんなことないよ」
お空はやや感情的になって反論する。
「思い出せないだけで、忘れたわけじゃないもん」
「そうかい」
一見すると詭弁のように感じるが、事実その通りだった。お空は来るたび記憶を失っているのかというくらいの様子を毎回見せているのだが、それでも不思議と一度話した内容については前に聞いたことがあると明瞭に答える。
記憶を箱にいれた宝物に例えたならば、きっとお空は箱の開け方が分からないだけなのだろう。
開かない箱の中にある宝物は、果たして存在しないのと同じだろうか。答えは千差万別だろう。
「例え私が忘れても、相手は覚えてるから」
しかし、開かずとも人から授かり大切に仕舞いこんだそれは確かに彼女の宝だ。自力で開くことが叶わなくとも、宝物はそこにある。ならば、開け方を知っている者に開けてもらえばいい。
それがお空の答えだった。
おあつらえ向きに、地霊殿にはそれを完璧にこなす人物がいる。
それこそ、彼女の主人である古明地さとりのことだ。
「道理じゃな。お前さんらがさとりを慕うのもよう分かる」
心を読まれるのを厭う者がほとんどを占める中で、反対にそれを求める者もいる。
記憶とは、まさに謳歌した生の足跡である。だが、誰しもが自在にそれを振り返ることができるわけではない。
なんの歯車が噛み合ったか妖怪に成って半端な知恵を付けてしまったばっかりに、思い悩まされる動物たちがいる。
自分はどこから来て、どこへ行くのか。誰の生を糧にして、今日ここにいるのか。
何も知らぬ一介の獣畜生であれば、そんなことは考えずに済んだかもしれない。
だが、長く生きれば少しずつ記憶は欠けていく。
忘れたことさえ忘れてしまえば、一体何が己を己たらしめるのか。
自分がいつから自分なのかさえわからないのに、徐々に自分を失う恐怖に包まれている。
そういった者たちにとってさとりは一種の救済だった。
尤も、それに当てはめるにはお空は楽観が過ぎるかもしれないが。
「それに、本当に大切なことは覚えてるし」
「ほう。例えば」
お空の強気な発言に、仏師が試すような問いを寄越す。
「えーっと、さとり様のこととか親友のお燐のこととか、お仕事の事とか。ここに来れば仏師さんに会えるのも忘れてないよ」
お空は僅かに思案を挟んだものの、その後はすらすらと答えた。
不定期ではあるものの、お空はしばしばこの縦穴に立ち寄っている。覚えているというのも本当なのだろう。
だが、それが仏師には解せなかった。
「儂に会う事なんぞよりも、もっと覚えるべきことがあるだろう」
「そうかなぁ」
お空が、まるでそれ以外に重要なことなどないと言わんばかりに小さなその頭を傾げる。
しかし、お空は唐突に思い出したと快活に声を上げて仏師の方に向き直った。
「神様とお話したんだった」
「ほう、神と」
お空らしい脈絡のない話の飛び方だったが、興味のそそられる話題だった。
仏を彫る手は止めずに、お空の話に耳を傾ける。
神との対話なぞ平時なら一笑に付すところだが、ここは幻想郷である。即座にたちの悪い妄想だと斬り捨てる訳にもいかなかった。
それに、神仏の加護としか思えないような奇跡的な経験も数えるほどだが記憶にある。
「色々と教えてもらったんだ」
「神からの啓蒙。興味深い。何を教わった」
それが神を騙る何者かなのか、本当に神なのか。騙されやすいお空のことだからきっと相手は前者だろうが、それはそれで話は聞きたい。仏師はお空が極端に道を外しそうな内容であれば、それとなく押し戻してやるかさとりに声を掛けるつもりだった。
「まず分裂連鎖反応による格子欠陥構造上の原子配列の乱れに由来する脆化とそのフラクタルについてなんだけど」
「待て」
「うにゅ?」
さしもの仏師も流石に仏を彫る手を止めた。
想定していた話の流れのおおよそ斜め上を行くお空の発言をそのままにする訳にはいかなかったのだ。
神からの薫陶を受けたと言えど、まさかお空の口からこれほど難解で専門的な単語が流暢に飛び出すとは誰も思うまい。
肝心のお空は何がおかしかったのかまるで理解しておらずきょとんとした表情をしている。
「何があった」
「うんとね、足をもらったの。三本の足を」
話がまるで読めない。だが、お空自身は全てを確かに理解しているようだった。先ほどの専門用語の羅列も、表面だけの暗記ではなく意味と意図を理解した暗唱に思える。
追及してもきっと埒は開かないだろうが、聞かないわけにもいかなかった。
「三本の足とは、なんだ」
「えーっと……じゃあ、着替えるからあっち向いてて」
「心得た」
とっくに己の理解の及ぶ次元に話の終着点はないのだろうと仏師は察していた。そして、お空が事態の異常性をまるで把握していないことも。
これは明らかに異様なことだ。軽い与太話と思って聞いた神との邂逅は、嫌らしいまでに真実味を帯び始めていた。
「ん。もういいよ」
「……見違えたな」
振り返って見た空の姿は、既に鴉の形をしていなかった。
両の足で大地を踏みしめる姿は、人間の少女と何ら遜色がない。だが、異様だった。
右腕は半ばから橙の多角柱に変わり、右足は溶けた鉛の様な鉄塊が纏わりついている。左足にも見慣れない青色の光子が円周している。
胸元に大きく埋めこまれているのは、巨大な瞳のような緋色のブローチ。
彼女を包み込むように広がる、銀河を映した外套。
もはや彼女に霊烏路 空としての名残を感じられるのは、かつてと同じように漆黒の中に深紅を覗かせる長髪と背中の大きな翼のみだった。
「ほんとはずっとこの格好じゃないといけないらしいんだけど。仏師さんに見せるのは恥ずかしかったんだ」
「そうか」
無骨な柱と化した右腕を優しく撫でながら、お空が言う。
三本の足とは、右腕と右足と左足のことを指すのだろう。その三つからは明らかに強い力を感じる。儀式的な意味以上に、明確な機能がある。そういった造形だ。
「神様に教えてもらったんだ。私は八咫烏なんだって」
「……」
八咫烏。火の神、太陽の化身。
無論、お空はそんな上等な存在ではない。彼女は一介の地獄鴉だったはずだ。
だが、今の彼女は明らかにそれを逸脱している。騙されたか思いこまされたか、彼女は自分を八咫烏と思い込み、だが真実八咫烏へと変貌していた。
仏師はこれに酷似した一つの術法に心当たりがあった。
「御霊降ろし。いや、もはや御神降ろしか。これほどまでに完全なものは、初めて見る」
御霊降ろしは、金剛山の仙峰寺に起こり広まった術である。
構えを取り、御霊を自らに降ろすことでその加護に授かるというものだ。
御霊降ろしに構えをとるように、彼女の仮装じみた服装も、降ろすべきものを模しているのだろう。
きっとそれは、星海に浮かぶ太陽だ。
だが、御霊降ろしでさえも、人の身には余る術。使用時には術者に絶大な負荷が掛かるため、飴を噛みしめてそれに堪えるというのが通常である。
己の自我に執着せず、己の身を御霊に委ねることは決して容易ではない。
御霊降ろしとはそれほどに困難なものである。例え妖怪であってもそれは同じはずだ。
だが、彼女は神霊と呼べるそれを降ろしてあっけらかんとしている。
これは、彼女自身の才覚に依るものだろう。
「これは力。原初の炎。太陽の核熱」
お空が指先を天に向けると、そこから黒い太陽が生まれる。
かつて怨嗟の炎に巻かれた仏師だから分かる。これは、強すぎる。
火でも炎でもなく、日。
恐らく、自分でもまだ加減が分かっていない。びりびりと肌を焼く熱の強さは、きっと相手が仏師でなければ既に焼き焦がしてしまっただろう。
頭上に張り巡らされたヤマメの糸などは、低い位置にあるものはほとんどが熱で溶解していた。
「本当は仏師さんにこの話をするつもりでここ来たんだ。まあ、忘れちゃってたんだけど。私は、この力で地上も灼熱地獄にする。地上に進出するんだ」
「お空、お前さん……」
力に呑まれたか。そう続けようとして、止めた。彼女は頭が弱い。恐らく、力を手に入れて調子に乗っているに過ぎないのだろう。だが、それ故に短絡的で、危なっかしい。
仏師はお空に静かに語りかけた。
「お空、儂の話を覚えているか」
「……なんだっけ?」
「道具は扱う者次第という話よ」
「あ、うん。思い出した」
仏師が言葉を紡ぎ出すと、空は黒い太陽を消して正座し、話を聴く体勢に映った。
お空のこの素直さは美徳である。
「道具の中でも、一等扱いに気を付けなきゃならねぇものがある。それが火よ」
「うん」
「火は、畏れなくちゃならん」
「うん」
「理由は、わかるか」
「わかんない」
清々しいまでの即答だった。熱に鈍い体質故に仕方のないことかもしれないが、彼女は火に対して畏怖というものが無かった。
「誰しも、火には魅入られる。手にすれば、自分を見失う。今のお前さんがそうだ」
「そうなの?」
お空はきょとんと首を傾げた。
「お空よ。お前さんは、その力で何を為す」
「地上への進出! 大地を焼き払う! 失われた灼熱地獄の復活!」
「何の為に?」
「──」
一度目の質問に自信満々に声を張り上げたお空は、二度目の質問に閉口してしまった。
「目的と手段が逆転しておるのよ。力を振るう為の名分に、目的をでっち上げている。そして、それにさえ気づいておらなんだ」
「……あれー?」
「一度、頭を冷やすと良い。儂の警句、ゆめゆめ忘れぬことじゃな」
「はぁい」
一通り話を聞き終えたお空は、そのまま地霊殿の方へと姿を消した。
「……地霊殿に着くまでに忘れないといいが」
程なくして、地上の博麗神社の側で間欠泉が噴き出す。
それは、地霊異変の萌芽だった
チェルノブイリ原発事故の象の足には何故だかとてつもなくおぞましい何かを感じるんですよね。ただの金属の塊のはずなのに。
興味があればelephant foot Chernobylで検索してみてください