異変前にもう一話だけ挟むんじゃ
お空が地霊殿に戻ってから数日。近ごろ、灼熱地獄の火力が不安定だ。
突然狂ったように急激に温度を跳ね上げたと思えば、思い出したかのように元の状態へと落ち着く。
不定期に吹き上げる熱風は地上に地熱をもたらし、繰り返すうちに温められた水脈はとうとう地上に間欠泉を生むに至った。
お空の暴走がさとりの怒りを買うのではと危惧したお燐は、他でもない親友のお空の為、間欠泉の水流に救援を求める狼煙を乗せた。
それは、地底に封じられた怨霊だった。
怨霊が地上に蔓延れば、聡い者はそれを危惧して調査に乗り出すだろう。お燐の狙いはそこにある。
増長したお空がさとりに罰せられる前に、地上の有力者へと助けを求めたのだ。
やがて怨霊の溢れだすこの事態を異変と見なした巫女が、重い腰を上げて解決に乗り出すだろう。
しかし今日は、それよりも少し早くこの地底の入り口に一人の客人が訪れていた。
「見事だね。敬虔な信者の姿には、やはり心に響くものがある」
その声は、仏師が断崖を削り出して彫っていた仏から聴こえた。
鈴のように鳴る柔らかい少女の声は、厳めしい仏が出すには似合わない。
「何者じゃ」
神秘的な現象に怯まず、仏師が素性を問いただす。
まさか、本当に仏に心が宿って語りかけてきたわけでもあるまい。
仏師の声に応えるようにするりと壁面をすり抜けて姿を現したのは、稲穂の様な金色の髪を揺らす少女だった。
「……お前さん、人間じゃあねぇな」
「あなたは神を信じますか?」
目玉のついた広く背の高い帽子を被った少女は、開口一番に無邪気な笑みで言った。
滑らかに紡がれる宣教師のような口上を一蹴するのは容易いが、仏師はそうしなかった。壁から現れる非常識さもそうだが、彼女から得体の知れぬ不気味な気配を感じたからだ。
「触らぬ神に祟りなし、という言葉がある」
「自分から寄ってくる祟り神とかいるかもよ?」
無邪気な笑みが意地悪な笑みにすり替わったのを確認した仏師は、そこで己がまた厄介な手合いに絡まれたことを自覚した。
「私は洩矢諏訪子。上で土着神の頂点とかやってる者さ」
「空の言う神とは、お前さんのことだったか」
「もう一柱いるけどね。言わせてもらえば、あの地獄鴉に何か吹き込んだのもお前だろう」
吹き込んだ……というよりはほとんど説教のようなものだったが。
お空は素直で聡いが、それ以上に愚かだ。ただの地獄鴉でも危なかっしいのに、太陽の力など手にすればどうなるか見当もつかない。
まだ彼女は、自分の持つ力の恐ろしささえ理解していない。起きる異変とその結末は、彼女にそれを知らしめるだろう。
そもそも持ちうる力の恐ろしさなど、人に言われて理解できるものでもない。他でもない本人が力を振るうことでしか、真の理解には至らないのだ。
だから仏師は、彼女には使い方を誤るなとだけ言い含めた。
「身に余る大力を手にすればすぐに増長すると思ったんだけど、これがどうして、中々に弁えている」
「生憎、言いつけた警句もすぐに忘れちまったようじゃがな」
「お陰さまでちょっと予定が狂ったけどね。でも面白いものが見れた」
目の前の少女は辺りの仏像をぐるりと見回したあと、最後に仏師と視線を合わした。
諏訪子は楽し気な表情をしているが、一方の仏師は対照的に苦虫を噛みつぶしたような渋い顔をしていた。
仏師にはこれからろくでもない事が始まるという確信めいた予感があった。それゆえにこの表情である。
「神が地の底に何の用がある」
「幻想郷の裏側には仏がいるという噂話を聞き付けたのさ。とんだ眉唾だけど、競合他社としては見過ごせないよね」
誰もが一度きりの話の種として終わらせた正邪の与太話も、信仰が存在意義に関わる神にとっては到底聞き流せる話ではなかった。
信仰の形は無数にあれど、仏とされる存在が幻想郷にいれば民衆の信仰心を根こそぎ持っていかれる恐れがあった。
まして諏訪子ら山の神は幻想郷に越してきたばかりのごく弱い勢力。神自ら敵情視察に向かうフットワークの軽さも、彼女らの置かれた境遇を鑑みれば必然だった。
「もっとも、居たのは仏じゃなくて鬼だったけどね」
「そうか。満足したら上に戻りな。蜘蛛の糸も必要あるまい」
「こらこら、神を邪険にしないの。どう、仏を信じるついでに神とか信じてみない?」
気さくに語り掛ける諏訪子だが、冗談らしい雰囲気でもない。だからこそ、厄介だった。
「自分で自分を宣教する神がいるか。お前さんにゃ悪いが、儂は神も仏も間に合っとる」
「えー、いいじゃん神を信じるくらい。減るもんじゃないんだしさ」
諏訪子が小さな口を尖らせてなおも言い及ぶ。軽薄な物言いだが、それでいて中々に諦めが悪い。とっとと諦めて地上に戻ってくれればいいものを、諏訪子は完全に居座って、仏師が首を縦に振るまで宗教勧誘を続行する気だった。
「信ずる者が鬼じゃあ、神としても恰好がつかんじゃろうて」
「むしろ誉れじゃない? 鬼さえ信仰する神なんて。よし決めた。お前私を信じろ」
まさか、神の方から直々に私を信仰しろなどと要求される日が来るとは思うまい。
しかも神の肩書に恥じぬ傲岸不遜っぷりを遺憾なく発しているのだからたまらない。
諏訪子は仏師に屈託の無い微笑みを向けて、かわいらしく告げた。
「──さもないと祟っちゃうぞ?」
瘴気が満ちる。
小さく佇む童女を中心に大気がギリギリと軋み、たちまち辺りの空気がどろりと淀む。重苦しい空気が粘っこく喉に絡みつき、呼吸もままならなくなる。
まるで己の内を巡る血液が全て水銀に変わったような、おぞましい寒気。全ての生物が怖気づき、逃げ惑うような恐怖の感覚。
これが、祟り神の放つ瘴気。
これが神のやることか。仏師はそう口から出掛けた言葉を飲み込む。
恐ろしい祟り神は、得てしてその祟りの矛先を向けないことを報酬に信仰を集めるものだ。
民衆は祟り神を丁寧に祀って奉り、祟りから逃れる。祟り神は民衆に護りの恩恵を授けることで信仰に報いる。
だがそれは、民衆が神の機嫌を損ねないことが大前提にあるひどく理不尽で不条理な仕組みだ。
信ずる者には利益を、そうでないものには祟りを。どの道ろくでもないから、そもそも関わるべきではないのだ。
しかし今回はわざわざ向こうから寄ってきた挙句有無を言わさず祟りをプレゼントしてくるという、タチの悪すぎる祟り神が相手だった。
あこぎな商売を繰り返す河童でさえ思わず閉口するほどの悪徳商法である。
最低最悪な神に目を付けられるという空前絶後の不運を前に、仏師は過去さとりに言われた言葉を思い出した。
"厄介な連中の興味を惹くから、地上に出るのは勧めない。"
それはおおよそこんな内容だったが、確かにこんな連中に目を付けられてしまうなら、地上などまっぴら御免だ。
この頭の先まで沼に浸かったような倦怠感にひとつため息を吐いて、仏師は目の前の邪悪な神に声を掛けた。
「像の一つでも彫ってやるから、このけったいな瘴気を止めてくれんか。古傷が痒くて敵わんわい」
「ぃよっしゃ信者ゲットォ! 言質取ったからね!」
諏訪子の快心と同時に、満ちていた瘴気が一瞬で霧散する。
嬉しそうに飛び跳ねる現金な祟り神を見て、仏師はもう一度深くため息を吐いた。
「それで、儂はどんなのを彫ればいい」
「ぶっちゃけ私たち神に偶像崇拝は必要ないんだよね。だから分社を一つここに建ててくれればそれでいいかな。意匠も好きにしていい。お前の思う私をあしらった像を祀ってもいいし祀らなくてもいい」
「随分といい加減じゃな」
「神様ってわりとそんなもんだよ」
石や草木など、何にでも神は宿る。決まった形などは必要ないのだ。
一応、目の前の鬼の彫刻士としての実力は辺りに並ぶ大きな仏像群が身を以って保証してくれている。諏訪子も仏師が自分の似姿を彫るというのであれば、それはそれで吝かではなかった。
仏師も仏を彫り続けるうちに、ものを削って何かを象る技術は養ってある。仏以外も彫ることは出来るのだ。過去にはねだる小娘を相手に独楽などの玩具を作ってやったこともあった。
「……お前さん、白蛇に縁はあるか」
「無いことも無いかな。私が統括する土着神にそういうのもいる」
諏訪子が手を翳すと、黒い瘴気と共に赤い瞳の白蛇が大地を割いて姿を現した。
白い靄で構成された白蛇は実体を持っておらず、これは諏訪子の呼びだした神霊のようなものなのだろう。
だがその白蛇の姿に、仏師はよくよく見覚えがあった。
「これも因果かの」
かつての修行の地、落ち谷には山をも絞め殺さんとする威容の白き大蛇が潜んでいた。
落ち谷衆の信仰を集める白蛇はまさしく土地神と呼ぶに相応しく、仏師もその恐ろしさをまざまざと味わったこともある。
けれども、目の前の白蛇には人一人を丸呑みできる程度の大きさしかない。
仏師も薄々と感づいているが、この幻想郷と葦名は別の世界ではない。
違うのは時間軸だ。葦名と同じ日本という国のどこかにこの幻想郷は在る。ただ、ここは戦国の世にあった葦名の時代よりもずっと先の時代。
葦名に住まう白蛇の肉体は当の昔に朽ち、信仰さえも失って久しい。彼らのような力ない辺境の土着神たちは洩矢諏訪子という寄る辺に身を寄せ合う事で、か細いながらも生き永らえていたのだ。
今や同じく土着神であるミシャグジと融合を果たし、祟りを振りまく白い大蛇として姿を変えている。
神の形は、信ずるもの次第で如何様にも移り変わる。
こうした複数の神の同一視による融合もまた、神々にはよくあることだった。
神秘の失われた現代で生きる神達の、健気な生存戦略である。
今にも忘れ去られんとする、哀れな神の姿。
それは、かつての神格を知る仏師に痛ましく映った。
同じく葦名からこの幻想郷に至った者のよしみだ、ひとかけらの同情心をもってやるくらい、罰は当たらないだろう。
「儂はここで神の像を彫ろう。出来上がったら、どこへなりとも持ち出すといい」
「おっけい。分社はできるだけ早く建ててね、それを伝って飛んでくるから」
「……あいわかった」
それはつまり、分社を建ててしまうとこの祟り神がまたここに唐突に現れるということだろうか。
仏師としては一度ここで形に残る信仰を作り出してしまえばあとはもうこの凶悪な神とは無縁でいられると考えていたのだが、当てが外れてしまった。
むしろ、分社を建ててしまうことで一層顔を合わせる機会が増える可能性の方が高い。
「これは、ちとしくじったか」
「おっと、今更約束を反故にするのは無しだからね。さっきやったやつ、結構無理したんだから」
「神を前に二言はない。祟りが怖いからな」
「ならばよろしい」
諏訪子が大仰に頷く。土着神の力は、縁故のある地から離れれば離れるほど力が弱まる。
信者のいない幻想郷など、諏訪子が力を振るうには最悪の環境だった。
だが、だからこその強引な宗教勧誘である。
半ば博打だが、保険はあった。
彼女には、揺るぎない敬虔な信者が一人だけいる。彼女さえいるならば、神秘の色濃く残る幻想郷で存在できなくなることはないだろう。
とはいえ、もちろん信者は多ければ多いほどいい。
仏を彫るいかにも徳の高そうな信者なら尚更だ。
「そうそう、近々異変解決に巫女が動くと思うんだけど」
「巫女?」
「異変が起きたら、おっかない巫女が元凶をしばきに来るのさ」
「ふむ」
神と妖が入り混じる混沌としたこの幻想郷だ、確かに調停者が必要なのもわかる。
今回のお空の件に関しては、仏師もこれ以上首を突っ込む気はない。この縦穴にいれば顔を合わせてしまうだろうから、どこか別の場所に姿を隠すべきだろう。
そう考えていたところ、諏訪子が言った。
「巫女は私らの商売敵だから、私の像とか彫ってたら恨まれるかも」
「何?」
「じゃあよろしく!」
最後にそれだけ言い残し、諏訪子は湖に沈むように地に身体を落として消えた。
もう影も形もない。まさに神出鬼没である。
「……もはや疫病神じゃな」
小さく呟いた仏師の言葉を聞いてくれるのは、彼の彫った仏像だけだった。
ケロちゃんに宗教勧誘されたいだけの人生だった