「私が死ぬまで、私の主治医をしてください」
男は、女の身体に毒を入れる手伝いを始めた。

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胡蝶しのぶと先生

 つんつん。

 

 背中をつつかれるいつもの感覚に、わたしはため息を吐いて振り返った。

 

「……どうした?」

「みてください、先生」

 

 白い指先が示す方向を見てみると、一匹の蝶が花に止まっていた。黒い翅が特徴的な外見をしている。

 

「あの子、先生が前に標本を見せてくださった蝶じゃないですか? えっと……なんて名前でしたか」

「……ジャコウアゲハ、か?」

「ああ、そうです。そのような名前だったかと! どうです? あってますか?」

 

 正解か、不正解か、と。まるで解答を待つ子どものように両手を握りしめる姿がまた、なんとも可愛らしい。

 彼女の気まぐれに振り回されるのは疲れるが、嫌いではなかったし……なにより、蝶は好きだ。以前、自分の趣味で見せた標本を、覚えていてくれたことも嬉しかった。

 なので、わたしは刺激しないように音を殺して膝をつき、その蝶に顔を近づけてじっくりと観察することにした。

 

「どうですか? どうですか?」

「……ふむ。この子をジャコウアゲハとは、断言できないな」

 

 眉間に指を当てながら、わたしは答えた。

 

「え? どうしてですか?」

「よく似ている蝶がいるんだ。オナガアゲハという種類で……あ」

「どうされました? 続けてください」

 

 こういった知識を語り過ぎると、大抵の場合、女性には引かれてしまうものなのだが。わたしの目の前にいる女性は、普段から刀を持ち歩くような少々特殊な職業に就いているので、興味津々といった様子で耳を傾けてくれている。

 元々、好奇心旺盛で知識欲が強い人だ。蝶から顔を離して、わたしはそのまま説明を続けることにした。

 

「オナガアゲハはジャコウアゲハをの外見を真似るのが特徴……つまり、擬態するんだ。だから、オナガアゲハはジャコウアゲハの『コピー』や『ミミック』と呼ばれている」

「こぴー、みみっく……」

「まあ、難しく捉える必要ない。ただ、オナガはジャコウのふりをしていて、それは簡単に見分けることができない。だから、この蝶がオナガアゲハなのか、ジャコウアゲハなのかはわからない。そういうこと……だ」

 

 熱くなりすぎる前に途中で話を打ち切ったのがわかったのか、彼女はくすくすと笑った。これでも自重したつもりだが、勢いにのって喋り過ぎたな、と。少しばかり反省する。

 彼女は、また膝を折って蝶に顔を近づけた。また何か疑問が沸き上がったのか。こてん、と首が傾げられて、素朴な疑問がその口から飛び出した。

 

「でも、どうして他の蝶のふりをするのでしょう?」

「それは……」

 

 実に、尤もな質問だった。

 擬態の、理由。

 

「……ジャコウアゲハは、毒を持っている。だから、毒を持たないオナガアゲハは、外敵から身を守るためにその姿だけ真似をするんだ」

「へぇ」

 

 それまでとはまた違った意味で。強く興味を惹かれたのであろう彼女は、指先を蝶に向けて伸ばした。

 

「毒、ですか」

 

 そう。毒だ。

 だから、あまり言いたくなかった。

 

「……触らない方がいい」

「触ったら危ないんですか?」

「……いや、蝶の毒は触れただけでどうにかなるような、強いものじゃない。鳥などが捕食して、はじめて毒の影響が色濃く表れる」

「そうですか。食べられたら影響が出るんですね」

 

 白い指先に、黒い翅が乗る。

 

「この子、食べてみましょうか」

「おい」

 

 華奢な手首を、思わず掴む。たったそれだけの僅かな衝撃で驚いたのか。蝶は彼女の指先から離れた。

 

「ああ、行ってしまいました。先生のせいですよ、もう……」

 

 飛び去っていった蝶が、ジャコウアゲハなのか、オナガアゲハなのかは結局わからなかった。

 ただ、胡蝶しのぶは飛び去る蝶を見上げて、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「私みたいですね」

 

 

 

 毒を持つ、本物か。

 毒を持たない、偽物か。

 

 彼女の呟きがどちらを指すものだったのか。その真意がどこにあったのか。

 確かめる術は、もうない。

 

 

 

◆◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 彼女との出会いは、わたしの人生の中で二番目に最悪な夜だった。

 

 医者をやっていると、どうしても慣れてくるものが二つある。

 血の匂いと肉の色だ。

 普通の人間なら思わず目を背けるそれを、わたしは躊躇いなく直視できた。死体に慣れてくると、数日間放置されて腐った遺体を検死する時も「ああ、臭いな」という客観的な感情以外に、具体的な感想を持たなくなってくる。最低限、普通の感性を切り捨てていかなければ、医者としてはやっていけない。死体を見るたびに胃の中身を吐き出す医者など、論外である。

 だから、わたしは普通の人間よりは『人の死』に慣れているのだろうし、実際、感性が『死んでいる』自覚もあった。

 しかし、それにしても。

 目の前に広がる光景は、地獄のように酷たらしく、凄惨で、原始的な血の匂いに満ちていた。その濃さに、溺れそうだった。

 死んでいるのは、九人だ。

 視界の中、足元に広がる全てが、赤い。

 まるで、全身から血を抜き出し、ぶちまけたような惨状。目につく『肉』をひたすら食い荒らしたかのような、肉と骨の飛び散り方。

 

 下品だと思った。

 

 全て、喰われてしまったようだった。

 誰に?

 目の前に立つ『鬼』に、だ。

 

 

「お前が、この診療所の医者だな?」

 

 

 闇の中に立つ、鬼が言った。

 明確に、こちらに向けて発せられた問いかけだった。

 

「この場所はいいな……弱った人間の肉はまずいが、しかし肉であることに変わりはない。おかげで、ひさしぶりに満足いく食事ができた」

 

 浸るような声だった。満足気な声音だったが、気が変わればすぐにでも首筋に噛み付いてきそうな、そんな予感があった。

 だから、鬼がそれ以上何かを言う前に。

 わたしは、頭を垂れて地面に這いつくばった。

 

「……何の真似だ?」

 

 心底不思議そうに、鬼が問う。

 

「助けて、ください」

 

 声が震えたのが、自分でもわかった。

 

「言うことは全て聞きます。望みのものは差し出します。だからどうか、わたしの命だけは助けてください」

 

 醜い命乞いだ。情けない嘆願だ。

 しかし、醜かろうが情けなかろうが。そんなことはどうでもよかった。わたしは、死にたくない。絶対に、死にたくない。

 こんな形で、死ぬわけにはいかなかった。

 

「……なるほど。お前は賢いな」

 

 顔を上げなくても、鬼がせせら笑ったのがわかった。

 

「オレは追われている。オレをここに匿え」

「わかりました」

「見ての通り、オレは人の肉を食う。新鮮な人の肉を用意しろ」

「精一杯用立てさせていただきます。ですが……この人数を用意するのは……」

「……ふん、皆まで言うな。わかっている。今は腹が減っていたからな。思わず食い散らかしてしまった。なぁに、無理はいわんさ。オレは大喰らいではない。とりあえず、腹が膨れればそれで良い」

 

 恐る恐る顔を上げると、鬼は口元を拭っていた。

 かっ、と。吐き出した口元から、血にまみれた骨が落ちる。

 額の奥の骨。蝶形骨だった。

 

「……わたしは医者です」

「知っている。だからここを襲った」

「幸い、この診療所には身寄りのない人間も運ばれてきます。手を尽くしても助からない者も、少なからずいます。そういった人間の死体なら、外の人間にばれず、あなたに提供できるでしょう」

「……くくっ。オレに死体を渡すことに、何の抵抗もないのか。お前は、随分と生き汚いな」

「自分の命と他の人間の死を、天秤にかけることはできません。わたしは、わたしの命が惜しい。それだけです」

「いいぞ。ますます気に入った」

 

 だが、と。言葉を繋げた鬼は、跪いてわたしの顔を覗き込んだ。

 

「死体だけでは、駄目だ」

 

 薄く薄く。残忍な狂気に染まった瞳が、すっと細められた。

 

「お前はオレを、そこらへんの犬か何かと勘違いしていないか? 怪我で血を流し過ぎた人間や、病でやせ細った人間の肉だけで、本当に満足できると思っているのか?」

 

 人間のものとは思えない膂力で、頭を掴まれる。

 恐い。重い唾を飲み込んで、緊張する体が岩のように硬くなった。

 

 

「ふざけるな」

 

 

 嗚呼、皿の上の肉のようだ。

 わたしは今、目の前の鬼に生存の権利を握られている。返答を一つ間違えば、その瞬間にただの血袋になってしまう。

 おそろしい。おそろしい。おそろしい。

 あまりにおそろしくて、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 

「月に一度だ。必ず、生きている人間を提供しろ」

 

 指先が震える。

 

「死んだ人間ではない。まだ生きている人間だ」

 

 呼吸が荒くなる。

 

「身寄りのない人間も運ばれてくると言ったな? どうせ、助からないような状態の者も多いだろう?」

 

 汗が止まらない。

 

「そんな人間は生きていても死んでいても変わらん。オレの糧になる方が、余程有意義に命を使えるだろう」

 

 もう、我慢の限界だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふざけるな

 

 

 隠し持っていたメスを、わたしは鬼の右目に突き刺した。

 

「あっ……ぎっ……!?」

 

 ぐちゅり、と。

 肉を突き潰す感覚に遅れて、一拍。

 

 

「ぎぃああああああああああああああああああああああ!?」

 

 絶叫が、轟いた。

 

「……き、貴様っ……貴様きさまキサマぁ!?」

 

 鬼に放り捨てられ、情けなく尻餅をつきながら。それでもわたしは、目を抑えて身をよじる鬼を見上げて、言った。

 

 

「煩い」

 

 

 鬼の額の血管が、怒りで盛り上がるのがわかった。

 

「わたしは医者だぞ。死んだ人間を提供するのは構わん。だが、生きている患者を鬼の餌にできるわけがないだろう?」

「戯言をっ……頭を垂れ。無様に命乞いをしていた人間が何をほざくかぁ!? 己の命惜しさに、死体は差し出せても、生きた人間は差し出せないと!? そう言いたいのか貴様はァ!」

「当然だ」

 

 はじめて。鬼の言葉を肯定する。

 

「わたしの患者に対して、生きていても死んでいても変わらない、とお前は言ったな? ふざけるのも大概にしろよ、薄汚い鬼め。わたしの仕事は、生きている人間を救うことだ。命の鼓動が尽きた人間は、ただそこにあるモノと変わらない。ああ、たとえ情けないと罵られようと、わたしが生きるためなら喜んで差し出そう」

 

 だが、

 

「その人の命は、その人だけのものだ。脈打つ鼓動を、心の臓から巡る血液を、全身の肉と骨を。どう使い、どう生きるかは、その人が決める。他人に、その使い方を決める権利はない。ましてや奪う権利などあろうはずがない」

 

 この鬼は、その権利を侵した。

 あるいは、わたしに力があれば。九つの命を奪った憎らしい悪鬼を、裁くこともできただろうが。

 口惜しいことに、非力なこの身では、目玉を潰して一矢報いることが精一杯だ。

 

「貴様……どうやら、よほど惨たらしく死にたいようだな」

「殺したければ、殺すがいい。わたしの命と生きている患者の命を天秤にかけることはできない。傾き過ぎて、比較にもならん」

 

 それに、ともう一言。冥土の土産代わりに付け加える。

 

「追われている、とお前は言ったな? それを聞いて安心したよ。何よりもどす黒く、汚らわしいお前の命は、必ず『鬼狩り』の方々が刈り取ってくださる」

「……ッ! もういい!」

 

 腹を蹴られた、と認識した時には、既に体は背後の壁に叩きつけられていた。

 

「がっ……は!?」

 

 痛い。肋骨が折れた。数本はやられたか。

 叩きつけられた勢いのままに、うつ伏せに倒れ伏す。

 

「もういい!もういい!もうたくさんだ! 噂通りの……いや、噂で聞いていた以上の、偏屈で最低な医者だった! 貴様の説教など、聞くに堪えん! ここで死ね!」

 

 ここまでか。

 惨たらしく殺してやる、と鬼は言った。有難い。守れなかった九人の誰よりも苦しく、誰よりも凄惨に殺されるなら本望だ。それで償いになるとは思わないが、しかし、死んだ彼らへの些細な慰めくらいにはなるだろう。

 

 目を閉じる。その瞬間を、静かに待つ。

 

「…………」

 

 しかし、どれだけ待っても。死神の鎌が、わたしの首に振り下ろされることはなかった。

 どさり、と何かが倒れる音がした。

 

「……ふぅ。あぶないあぶない。間一髪でしたね」

 

 鈴の音を転がすような、女性の声が聞こえた。

 

 何が起きた?

 鬼はどうなった?

 この声の主は、どこから現れた?

 

 朦朧とする意識の中。辛うじて上げた視線の先。

 

 

 

「もしもし。大丈夫ですか?」

 

 

 

 わたしは、蝶の羽根をみた。

 

 

 

◆◆◇◇◇◇◇◇

 

 

「お加減はいかがでいすか?」

 

 助けられたあと、丸一日寝ていたらしい。

 

「ええ、おかげさまで」

 

 体を起こしてみても、痛みは少ない。ここがどこの病院かはわからなかったが、わたしの体には実に適切な処置がなされていた。

 

「ああ、無理に体を起こさないでください。どうか、そのままで」

「いえ、この程度なら起き上がって話を聞くのに、支障はありません。命の恩人を前に、寝たままで話を聞くというのは、どうにも座りが悪いでしょう」

「ふふっ……命の恩人だなんて……照れてしまいます」

 

 彼女は、美しい女性だった。

 語彙の不足を馬鹿にされても仕方がないかもしれないが、とにかく美しい。無骨な印象を受ける詰襟の制服とズボンには、色気は欠片も感じられなかったが、その上から羽織る『蝶』の翅を模した羽織が、その無骨さを打ち消していた。瞳も、艶やかな髪も……そして、その可憐な容貌を損なわないように添えられた『蝶』の髪飾りも。全てが美しかった。

 

 憎らしいほどに。

 

「自己紹介が遅れました。私は、鬼殺隊『蟲柱』。胡蝶しのぶと申します」

「鬼殺隊……やはり、鬼狩りの方でしたか」

「我々をご存知なのですか? 郊外ならともかく、街の方では『鬼』の存在は、噂話程度にしかとられていないと思っていたのですが……」

「……ええ、まあ。わたしも、噂以上のことは存じ上げません。鬼の存在についても、実際に目にするまでは半信半疑でした」

 

 眉間をかきながら、わたしは言った。嘘は吐いていない。

 

「なるほどなるほど」

 

 彼女は、話が巧かった。

 鬼殺隊は、政府非認可の組織であり、人知れず鬼を狩っていること。この場所は病院ではなく、鬼殺隊の施設であること。自分には医療の心得があり、わたしの怪我の処置を彼女が行ってくれたこと。今回、わたしの診療所を襲った鬼は、他の隊員が逃がしてしまった個体であったこと。そして、駆けつけるのが遅れ、わたし以外の人間を助けられなかったことを、最後に彼女は謝罪した。

 

「大変申し訳ありませんでした」

 

 深々と下げられた頭に対して、わたしは慌てて首を振った。

 

「どうか、顔を上げてください。感謝しなければならないのは、わたしの方だ。危ういところを、救って頂いた。なんとお礼を言っていいかわかりません」

「ありがとうございます。先生にそう言っていただけると、わたしも少し、気持ちが軽くなります」

「…………先生?」

「はい。先生。私も、以前から先生のお話を聞いておりました。この界隈では名前を知らないほどの名医。怪我の処置は素早く、病気の診察は的確で、不治と言われた病も、身体に刃を入れて原因を取り除き、たちまちの内に完治させてしまう! 日の本一の名医だと、お聞きしています!」

「……それはまた」

 

 なんとも、大袈裟に話が盛られたものだ。

 患者でもない人間に『先生』と呼ばれるのは、気恥ずかしいものがある。

 

「わたしは、そんなに大した人間ではありません。医者としても、そこまで尊敬されるような者ではない。過剰な評価です」

「そんなことはありません!」

 

 本当に、急に。

 整った顔をぐっと近づけられ、わたしは思わず仰け反りそうになった。仰け反りそうになったところで、傷がひどく痛んだので、結局仰け反らなかったが。

 

「先生は素晴らしい名医です! なので、その……命を救ったから、というわけではありませんが……お願いがあるのです」

「お願い?」

「はい」

 

 どんな男の心も、それだけで落としてしまえそうな素晴らしい笑顔で、胡蝶しのぶは言った。

 

「先生には、私の主治医になっていただきたいのです!」

 

 

 

◆◆◆◇◇◇◇◇

 

 

 

 寝てばかりいると、時間が過ぎるのが遅い。

 最初は傷ついた体と心を休めるために必要な時間だと思っていたが、わたしはこの場所での療養が数日で嫌になってしまっていた。

 治療の手際が悪いわけではない。出される薬は医者のわたしが文句をつけたくなるほど苦く、不味い代物だったが、彼女が直々に調合しているものらしく、効能は抜群だった。傷の治りが早いのが、自分でもよくわかるほどだった。

 問題は、ただ一点。

 

「考え直していただけましたか?」

「お断りします」

 

 彼女の要求が、しつこいのだ。

 

「……胡蝶さん」

「しのぶ、で結構ですよ先生」

「…………胡蝶さん」

 

 重ねて、言い聞かせるようにして、わたしは言った。

 

「やはり、わたしには……あなたがなにを言っているか、よくわからない」

「おかしいですね? お医者様に、主治医になってほしいとお願いすることの、何がおかしいのでしょうか?」

「いいや、おかしい」

 

 即答した。

 

「だって、あなたは医者でしょう?」

「違いますよ」

 

 即答された。否定された。

 ニコニコと笑いながら、彼女は言う。

 

「私は、鬼殺の剣士です。その中でも『柱』の役を担う者です。まかり間違っても『医者』ではありません」

「……しかし、医学の心得を持っている」

「ええ、まぁ。それはたしかに」

 

 生傷や怪我の絶えない職場ですので、と彼女はまた笑った。鬼狩りという過酷なお役目において、医療の技術と知識を持つ人間の存在は、なによりも有り難いものに違いない。しかしそれを差し引いても、笑い事ではないだろうと思った。

 それを一笑に付してしまう精神性が、目の前の女性にはあった。

 ふぅ、と。少し長めに深呼吸をする。

 

「あなたの医療技術は、控えめに言っても素晴らしい」

「ふふっ……照れますねぇ」

 

 口元に手を当ててクスクスと笑う様は、実に愛らしく。そのあたりにいる男性を、コロリと食ってしまいそうだ。

 が、同時に小馬鹿にされているのが嫌でも伝わってくる。食えない女性だった。

 

「……あなたは既に、特定の分野で、わたしを上回る技術を持っていらっしゃる。とても、わたしの力が必要であるとは思えません」

「言い換えれば、その『特定の分野』以外は自分の方が上だと。そう仰っているように聞こえますよ?」

「…………」

「先生は、ウソが吐けない方なんですね」

 

 一本、取られた。

 動揺を見抜かれる前に、言葉を重ねて畳みかける。

 

「自分を治す術を知っている人間に、一体どうして治療を施さねばならない? なにより、あなたは健康体だ。わたしが診る必要があるとは思えない。確かにわたしは、あなたに命を救って頂いた大きな恩がある。しかし、それだけであなたの主治医になることはできない。あなたに割く時間があるなら、その時間で他に救える患者がいるからだ」

 

 時間の無駄だ、と言い切った。もはや、敬語はかなぐり捨てていた。

 朱色の口元がつりあがる。

 

「できないんですか?」

 

 整った口元から、そんな言葉が漏れ出た。

 

「…………なに?」

「いえ、ですから。できないのかなぁ、と、思いまして。医術の心得が私より上だ、などと言っておきながら、本当は私より上の治療を施す自信がないのかなぁ、と」

「……べつに、できないとは言っていないでしょう」

「本当ですかぁ?」

「本当だ」

「でしたら」

「断る」

「何故です」

「嫌だからだ」

「…………まったく。お聞きしていた以上に頑固な方ですねぇ」

 

 やれやれ、と大仰に肩を竦めて。

 彼女は水差しと丸薬を手に取った。きょろきょろと周位を見回して、念入りに人がいないのを確認する。

 

「なんだそれは」

「毒薬です」

 

 鬼に殺されかけた時以上に、心臓が縮み上がった。

 

「わ、わたしを脅すつもりか……?」

「いえ、べつにそのようなつもりはないのですが」

「そ、そんな脅しで、わたしが屈するとでも思っているのか?」

「声、震えていらっしゃいますよ?」

「震えてない」

「震えてますって」

 

 するりするり。

 蝶とは違う別の虫のようにわたしのベッドに近づいた彼女は、信じられないことにわたしの上に馬乗りになって。動きを封じてきた。それをはしたない、と咎める余裕すら、もはやわたしには残されていなかった。

 得体の知れない丸薬が、口元に迫る。

 

「はい。あーん」

「ふざけるな! 誰が口を開けるか!」

「え~? あーん、してくださいよぅ」

「……っ!」

 

 わたしは唇を強く引き結んで、首を大きく横に振った。大の男ができる抵抗がそれだけ、というのはなんとも泣ける話だったが、しかし大人しく毒殺されてやる気はなかった。というか、この女。いくらしつこいとはいえ、わたしに毒を飲ませて殺す気はないだろう。

 要するに、これは脅しだ。たちのわるい脅しなのだ。

 

「もう……本当に、仕方がない人です。じゃあ……こういうのはどうでしょう?」

 

 言いながら、彼女は丸薬を口の中に入れた。

 

「……は?」

 

 口の中に入れたそれを、飴玉のように転がして。喉を鳴らして、彼女はそれを嚥下した。遅れて、水差しの水を少し口に含み、飲んだ。

 

「……なんだ。やはり偽物か」

「いえ、この毒は本物ですよ。ただ、最初から私が飲むつもりだった、というだけです」

「……なにを馬鹿な」

 

 この数日で、彼女が薬学に精通していることは、嫌というほどわかっている。そんな彼女が、自分から毒を飲むわけがない。理性が、冷静に判断を下す。

 しかし、同時に。もしも彼女が毒を飲んでいたら?と、感情が囁き、彼女の声音は嘘を言っていないと、直感が警鈴を鳴らしていた。

 

「先ほど、先生は仰っていましたよね? 健康体である私に割く時間はない、と」

「たしかに。そう言ったが……」

 

 まさか。

 

「ええ。そのまさか、です。健康体であるのなら、不健康になればいい。私の身体は、たった今、毒に侵されました。さあ、治療してください」

「なにをっ……馬鹿なことを」

 

 両手を、掴まれ、組み伏せられる。

 

「馬鹿なこと、ではありませんよ。そもそも、私が身体の中に毒を入れたのは、今日が最初ではありません。少しずつ、時間をかけて。私は身体の中に様々な毒を取り込んでいるのです。あ、もちろん毒の調合と服用する量には細心の注意を払っていますよ。私、まだ死にたくないので」

 

 死にたくない、と言いながら。もし、今言っていることが本当なら、彼女が行っているのはまわりくどい自殺と何ら大差ない。

 

「どうして……そんなことを?」

「殺したい鬼が、いるのです」

 

 殺したい鬼。その一言で、心臓が強く跳ねた。

 彼女は、わたしの体に馬乗りになっている。気づかれるかと思ったが、その表情に変化はなかった。ただ、さらに顔を近づけ、わたしに対して自分の意思を強く主張するように、言葉を重ねた。

 

「殺したい鬼がいるのです。その鬼を殺すために、わたしは身体の中に毒をいれる必要があります。ですが、自分で自分の体調を管理するのにも、限界がありまして……鬼殺隊の人間以外で、私の身体を客観的に診てくださる主治医が欲しかったのです」

「……そういう、ことか」

「ええ、はい。そういうことです」

 

 改めて、彼女は言った。

 

「私が死ぬまで、私の主治医をしてください」

 

 わたしは、観念した。これは、詰みだ。どうしようもない。

 医者が、死ぬための手伝いをするという矛盾。それでもわたしは、彼女を生かすために。

 

「……わかった。わたしでよければ、あなたの主治医になろう」

 

 この小さく、華奢な身体に、毒を入れる手伝いをはじめるしかないのだろう、と。

 

「ふふっ……ありがとうございます、先生」

 

 自分から身体の中に毒を取り込んだ女は、わたしを見下しながら、妖艶に微笑んだ。

 

「私を、ちゃんと『診て』くださいね?」

 

 

 

◆◆◆◆◇◇◇◇

 

 

 

「服を脱げ」

「………………は?」

 

 整った顔立ちがあからさまに引き攣るのは、見ていて気持ちが良い。

 わたしが完治し、医者としての仕事に復帰してから約二週間後。以前の診療所を引き払い(用具の処分や遺族への補償などは、鬼殺隊の関係者が用立ててくれたそうだ。頭が下がるばかりである)、彼女の屋敷にほど近い場所で新たな診療所を開いたわたしは、記念すべき患者第一号を受け入れていた。

 もちろんその患者第一号とは彼女……胡蝶しのぶである。

 

「聞こえなかったのか? 服を脱げと言ったんだ」

 

 ぴきぴき、と。額に青筋が浮かぶ。

 なんだ、そういう年相応の少女らしい表情もできるじゃないか。

 そう言ってやろうと思ったが、流石にこれ以上おちょくると、堪忍袋の緒が切れそうなので、黙って眺めて楽しむことにした。

 

「……先生」

「何か?」

「どうして、服を脱ぐ必要があるのでしょう?」

「それはもちろん、触診のためだ」

「触診の必要性は、もちろん理解しています。ですが、いきなり触診から入る必要性があるのでしょうか? まずは、軽い問診から入るべきなのでは?」

「必要ない」

 

 彼女の言い分を、一言で切って捨てる。

 

「服用している毒の種類と調合は、予め聞かされている。わたしに馴染みがない種類の毒に関しては、きみの記述を熟読したし、それだけで足りないと感じたものに関しては、実際に毒の種類を比べてこちらで調合実験なども行った。その毒から予想される副作用についても、概ね把握している」

「この短期間で……?」

「当然だ。わたしはきみが目をかけた名医だぞ」

 

 腹立だしいことに、彼女から提供された毒薬関連の資料は、わたしにとっても大きな収穫であったことを認めざるを得ない。絶対に口に出して言う気はないが、悔しかったのでかなり大人気なく追加の検証を行って、不足だった薬効に関する記述などを洗い出した。そちらも、あとでまとめて叩きつけてやるつもりである。

 

「体調に関しても同様だ。病の原因がわからないなら、患者の感じる違和感は貴重な情報だが、きみに関しては毒という原因がわかりきっている。顔色は見ればわかる。体温についても触ればわかる。ああ、それと体重だが……事前に提出された個人情報には『39キロ』とあったが……きみ、40キロあるだろう?」

「なっ……どうして」

「患者の体重は、見ればわかる。その返答は肯定ということでいいか? 何に対して見栄を張っているのかわからないが、申告は正確に頼む。診察と治療に差し障る」

「…………」

 

 こちらが患者だった時は、散々にやりこめられたが、今は彼女が患者で、わたしが主治医だ。

 やはり、主治医になってよかったかもしれない、などと。馬鹿なことを思った。

 

「……ふぅぅ……」

 

 実にわかりやすく、彼女は深く深く深呼吸をしている。何に怒っているのかは皆目見当がつかないが、どうやら怒りを収めるのに必死になっているらしい。

 もしかしたら、こちらが彼女の『素』なのかもしれない。ふと、そんな風に思った。

 

「……先生、貴方の診察がどのようなものか、よくわかりました」

「それはなによりだ」

「ええ、ですので……」

 

 詰襟の上着を、彼女は潔く脱ぎ捨てた。

 

「くれぐれも、私の身体をよろしくお願い致します。先生」

「ああ。もちろんだ」

 

 続けてシャツの前が開かれ、それも脱ぎ捨てられる。

 綺麗な、白い肌が露わになった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◇◇◇

 

 

 

 新しい診療所が無事に軌道にのる頃には、彼女に対する診察も随分やりやすくなっていた。

 

「化粧が濃いぞ。顔色が悪いのを隠そうとするな」

「……ッ!」

 

 毒の服用……というよりは、身体への『取り込み』を前提にした治療は、わたしにとってもはじめての経験だった。うまくできるか不安ではあったが、彼女の薬と毒物に関する豊富な知識のおかげだろう。特に問題なく、取り込んだ毒物の副作用を抑えながら治療できた。

 

「過少申告の次は、過大申告か? 体重の報告を誤魔化すなと言っただろう。一度言ったことはきちんと守れ」

「……っ!」

 

 嫌われても構わない。むしろ、嫌われるようにきつい言葉を浴びせ続けた。

 副作用を抑えながら治療できた、という表現には語弊があった。彼女は、毒物を接種し続けているのだ。根本の原因を取り除いていないのに、治療できるわけがない。

 体重の減少が、止まらなかった。

 

「また1キロ落ちたな。食事はきちんと摂れとあれほど伝えたはずだ。一度に量が食べられないなら……そうだな、前に話していた大食いの同僚と一緒に、桜餅でも食べに行ってこい。豚になるつもりで食べてこい」

「……っッ!」

 

 40キロから、39キロへ。39キロから、38キロへ。

 傍から見ていれば気付けないような変化だった。事実、彼女はその変化をうまく周囲に誤魔化しているようだった。

 治療はできない。対処するしかない。進行を遅らせて、少しでも彼女の身体を楽にするしかない。

 

「ふざけるな。栄養が全て胸にいっているんじゃないか? 男の注目を集める部位ばかり育てるな。栄養は身体に行き渡らせろ、身体に!」

「……っッ~!」

 

 文献を漁った。実験を繰り返した。いっそのこと、解毒を試みようかとも考えた。

 しかし、彼女はわたし以上に、薬学の分野に秀でていた。その目を誤魔化して薬を処方しても、すぐにばれてしまう。なにより、彼女の身体を治療することは、彼女の要望に反していた。だから、それはできなかった。

 

「……よし、安定しているな。わたしの処置は的確だ。しばらくは絶対に大丈夫だろう」

「……」

 

 言いながら、眉間をかく。

 彼女の前で、仮面を外すわけにはいかなかった。わたしは、優秀で傲慢で、自信過剰な医者であり続けなければならなかった。

 

 心が、削られていく。

 

 わたしは、医者だ。医者の仕事は、患者を救うことだ。子どもでも知っている、当たり前のことだ。

 だというのに、わたしは彼女を救うことができない。

 

「先生」

 

 その日。

 診療を開始する前に、彼女に手を握られた。

 

「……ごめんなさい。もう、怒らなくて大丈夫ですよ」

 

 その日。

 わたしは、患者の前ではじめて泣いた。

 

 胡蝶しのぶの体重は、37キロになった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◇◇

 

 

 

「先生は蝶の標本の収集がご趣味なんですね」

「そうだが……言っていなかったか?」

「聞いていませんよ」

 

 わたしは、彼女に対して医者であることをやめた。

 というよりも、彼女に対して医者であること保てなくなっていた。患者の前で泣く医者は、それだけで医者失格だ。だから、よくも悪くも開き直ってしまったのかもしれない。

 

「いつ頃から、集めはじめたんですか?」

「……そうだな」

 

 眉間に親指を当てて、考え込む。

 

「たしか、前の診療所を開いたころだったから……数年前からだな」

「……そうですか。てっきり、私に会ってから蝶が気に入って集め始めたのかと思いましたよ」

「馬鹿を言うな」

 

 彼女は毒に詳しく、当然毒を持つ蟲に関しても詳しかったが、蝶の種類についてだけは、知識を得ることを避けているのだろう。そこまで詳しくなかった。だから、わたしが趣味で収集している蝶の標本について、彼女に話をするのは楽しかった。

 

「それで、聞いてくださいよ! 冨岡さんったら、それまでずーっと仏頂面だったのに、鮭大根を目にした途端にそれはもうすごい笑顔になってですね……」

 

 食事も、機会があれば一緒にとるようになった。鬼殺隊は鬼を狩る組織だ。部外者のわたしに、任務の話は詳しくできないようだったが、代わりに彼女の妹の話や、同僚の話をよく聞いた。

 

「その、冨岡という男性は、どうなんだ?」

「……はい? どうとは?」

「それはその、なんというか、顔立ちとか背格好とか……」

 

 人格に関しては多大な問題があるようだったので、そこが気になった。

 

「……ふーむ。ふむふーむ。なるほどなるほど」

「な、なんだ……」

「いえいえ。これはもしかしたら……本当に、もしかしたら、なんですけどね」

 

 箸を持ったまま、殊更楽し気に。口の端が、持ちあがる。

 

 

「先生。もしかして、妬いてらっしゃいます?」

 

 

 うるさい!と大声を出して店から叩きだされたこの出来事を笑い話にするのには、少し時間がかかった。

 

 楽しい時間だった。数年振りに、心から笑いあえる、楽しい時間だった。

 患者を救うことに、わたしは人生の充実を感じていた。彼女と過ごす時間は。患者を救う以外で唯一、わたしが満たされる時間だった。

 そして、わたしが患者を救えないことが確定している、唯一の時間でもあった。

 

「食事は素晴らしいですね、先生。食べるということは、生きることですね」

「人間、三食しっかり食べて休息をとっていれば、早々大きな病気にはかからないものだ。きみは、もっとしっかり食べろ」

「はいはい。わかっていますよ」

 

 三食。人が当たり前に食べるように、彼女は欠かさず毒を取り込み続けた。

 

「それにしても、すごくないですか、先生? 刃物を使って人を幸せにできるのって、料理人さんとお医者さまくらいだと思うんですよ。先生は、数少ない貴重な職業に就いてらっしゃいますね」

「それを言ったら、きみもそうだろう。鬼殺隊も刀を握って鬼を殺し、人々の笑顔を守るために戦っている」

 

 わたしがそう言うと、彼女は店の隅に立てかけてある袋を……その中に隠されている剣を見て呟いた。

 

「それは……少し違うかもしれません」

「違う?」

「鬼殺の任務は、鬼を殺すこと。人を守る、笑顔を守る、と。飾り立てようと思えば、いくらでも飾り立てることできますが……結局、私たちの行いの本質は『殺す』ことです。料理人さんやお医者さまとは、違います」

 

 人を殺すこと。

 鬼を殺すこと。

 それは違うのではないか、とわたしは彼女に問いかけた。

 

「そうですね。勘違いしないでいただきたいのですが……私は、鬼殺の務めを負担に感じて思い悩んだことはありません。鬼は殺すもの。倒すべきもの。その大原則は、決して揺るぎません。ただ……」

「ただ?」

 

 言葉が詰まる。

 それは、彼女にしてはとても珍しいことだった。

 

「……私の姉は、常日頃言っていました。鬼とも、いつか仲良くできる日がくる。共存できる日がくる、と。笑顔で私に語りながら、姉は鬼に殺されて死にました」

「…………では、きみは────」

 

 

 

 ────カナエさんのように、なりたいのか?

 

 

 

 薄寒さを感じるほどの、一瞬の間があった。

 

 

「さあ、どうでしょう?」

 

 その一瞬だけで、彼女はいつもの笑みを取り戻していた。

 

「私が刀を握る理由は、先生が考えているほど綺麗なものではありませんよ」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◇

 

 

 

「今までのものより、ずっと強力な毒の調合に成功しました」

 

 藤の花の毒。

 それは、彼女が一人で作ったものではなく、鬼の協力者の力添えを得て、作成したものだという。

 鬼の協力者。これまでの鬼殺隊の方針を考えれば、絶対に受け入れられなかった存在だ。わたしのような部外者にもわかる。時代が、戦いが、少しずつ、しかし確実に。大きな転換点を迎えようとしていた。

 

「先生。この毒の取り込みをもって、わたしから貴方への依頼は完了とします。ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」

「…………は?」

 

 それ以上の、声が出なかった。

 彼女が、何を言っているのかわからなかった。

 

「まってくれ。これまでより強力な毒を取り込むなら、今までよりもっと慎重に経過を観察する必要がある。それを、どうして今……?」

「時間がないのです」

 

 決戦が迫っているのだ、と彼女は言った。

 いくら鈍いわたしでも、彼女の意思はよくわかった。彼女は、喰われるつもりなのだ。毒に満ちた身体を、鬼に喰らわせるつもりなのだ。

 

 そうして、死ぬつもりなのだ。

 

「……行かないでくれ」

 

 最初に出会ったころより、白くなった手のひらを、わたしは掴んだ。

 

「きみに、死んでほしくない」

「……ありがとうございます。先生」

 

 彼女は、薄く微笑んだ。

 今にも壊れてしまいそうな、儚い笑みだった。

 

「……でも」

 

 その笑みが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは、私が『姉の代わり』だからですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐるりと。反転した。

 

「なに、を……」

「ああ、やはり無意識に口にしていらっしゃったんですね。私は姉の話はしましたが……貴方の前では一度たりとも『胡蝶カナエ』の名前を出したことはありませんよ?」

 

 わたしは、愕然とした。

 ジャコウアゲハとオナガアゲハだ。

 

「如何でしたか、先生? 私は……『姉の代わり』をすることが、できていたでしょうか?」

 

 知っていた。

 彼女は、知っていたのだ。

 わたしが、胡蝶カナエのかつての恋人であったことを。

 知っていて、彼女のふりをして……擬態していたのだ。

 

「ご自身で気付かれていないようなので、黙っていましたが……先生は、ウソをつく時に眉間を触る癖があるんですよ。姉からの手紙に、書いてありました」

 

 ですから、貴方のウソはとても見抜きやすかったです。

 そう言って、彼女はまた笑った。あらゆる感情をないまぜにしたような……羽化する前の、蛹の中身のような。そんな、ぐちゃぐちゃな笑み。

 

「……違うんだ、しのぶ」

「ようやく、名前で呼んでくださいましたね?」

「……ッ」

 

 二の句が、続かない。

 

「ねぇ、先生。馬鹿な女の質問だと思って、どうか聞き流してくださいますか?」

 

 固まったままのわたしに向かって、一歩。

 彼女は近付いた。

 

「貴方と姉は、男女の仲でしたね?」

「……ああ、そうだ」

 

 わたしと胡蝶カナエは、好き合っていた。

 まだ、カナエが本格的に鬼狩りの仕事をはじめる前だった。しかしうっすらと、鬼の存在については聞かされていた。だから、知っていた。

 

「貴方は、私に姉の姿をみましたね?」

「……ああ、そうだ」

 

 彼女は……否、しのぶは、カナエに似ていた。

 しのぶの中に、わたしはカナエを見ていた。しのぶを愛しながら、わたしはカナエを愛していた。

 姉妹だから、似ているから。当たり前だと。

 そんな、最低な言い訳を心の中で積み重ねて、胡蝶しのぶという女を、

 

「私は最初にお願いしました。私を、ちゃんと『みて』くださいね、と」

 

 みていた。

 

 本当に?

 

 わたしは、彼女をみることができていたのか?

 

「先生。貴方は私に、姉さんを殺した鬼を、殺してほしいですか?」

「殺してほしい」

 

 即答、してしまった。

 そうだ。

 わたしは、彼女を飼っていた。彼女を愛していると嘯きながら、彼女を飼育していた。

 その身の全てを、毒の塊に仕立て上げるために。

 

「ありがとうございます。私も、先生と同じ気持ちです」

 

 ようやく、気がついた。

 彼女は、胡蝶しのぶだ。胡蝶カナエではない。違う女だ。

 こんなに近くに。彼女から寄ってくれなければ、気がつけなかった。

 

「先生。私は貴方に、深く感謝しています。貴方がいてくれなければ、私は身体をこの状態に維持できなかったでしょう。あるいは、最後の戦いに赴くことすら叶わなかったかもしれません」

 

 肌が触れた。

 体温がわかった。

 その姿が、声が、愛おしかった。

 

 本当に?

 

「鬼殺隊、蟲柱。胡蝶しのぶは、貴方が好きです」

 

 唇に、熱が移った。

 けれど、それは一瞬よりも短い刹那のことで。

 離れていく温もりが、ただひたすらに惜しい。

 

「そして、私は……」

 

 つんつん、と。

 人差し指で、眉間をつつきながら。

 

 

 

「貴方が、大嫌い」

 

 

 

 最も長くみてきた女性の身体を、わたしは強く抱き締めた。

 なによりも深い、後悔の念を抱きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたしのせいだ。

 わたしが、彼女の身体を作り替えた。わたしが、蛹の彼女に栄養を与えた。わたしが、彼女の羽化を手助けした。

 彼女が死ぬとしたら。彼女が鬼に喰われるとしたら。それは全て、わたしのせいだ。

 

 どうか。

 どうか、神様、お願いです。

 わたしはもう、どこで死んでもいい。どんな惨い最期を迎えても構わない。

 だから、どうか。どうか彼女の最期だけは。

 痛みも、苦しみもない。穏やかなものでありますように。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「言い残すことはあるかい? 聞いてあげる!」

地獄に堕ちろ

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 彼女の訃報を、風の噂で聞いた。

 月が綺麗な夜だった。

 わたしの中で、最悪の夜が入れ替わった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 数ヶ月の時が過ぎた。

 わたしの生活は、何も変わらない。

 患者が訪れる。救うために全力を尽くす。感謝され、一時の満足を得る。その繰り返しだった。

 胡蝶カナエは、別れる前にわたしに言った。

 

 

 ────人の命を救う、あなたが好きなの。

 

 

 だから、カナエが死んだと聞いた時。悲しむと同時に、わたしは救い続けようと思った。どんな泥水を啜ろうと、自分が貧しかろうと、人の命を救い続ける医者で在り続けようと思った。生き続けようと思った。鬼に頭を垂れて縋っても、人の命を犠牲にしない方法でなら、汚く生き続けようという執念があった。

 

 今は、どうだろう?

 

 彼女は、わたしに何も遺さなかった。

 わたしが愛した女のふりをして、わたしが愛した女のように愛されて、そうして、先に逝ってしまった。

 わたしの中には、もう何も残っていない。

 死ぬのなら、毒で死ぬのがいいとおもった。彼女と同じ、藤の花の毒。すでに、致死量の毒の準備は済んでいる。だが、中々服用に踏み切れないでいた。患者が途切れないせいもあるが……きっと、わたしの勇気が足りないのだろう。彼女は、いつも笑顔で毒を飲んでいたというのに。

 あの世で会ったら、彼女はどんな顔をするだろう?

 笑うだろうか? 蔑むだろうか? それとも……悲しむだろうか?

 結局、彼女が泣いているところを、一度も見なかったな、と。今更ながらに気がついた。

 

 

「……あの、すいません」

 

 

 声をかけられて、顔をあげる。

 切り揃えられた前髪に、白磁のような肌が艷やかな、美しい少女が入口に立っていた。

 

「どうしたのかな? 悪いところはどこだろう?」

 

 我ながら、とぼけた返事をしたと思った。

 かわいらしいその少女は、しかしその見た目を明らかに損なうような、大きな傷を負っていた。眼帯だ。右目を負傷しているのか、彼女は黒の眼帯を身につけていた。明らかに、その治療が目的だろう。

 

「あの……違うんです。私……胡蝶しのぶの、使いで来たんです」

「…………え?」

 

 耳を、疑った。

 眼帯にばかり、目がいって気がつかなかった。少女は、蝶の髪飾りで黒の長髪をまとめていた。

 カナエの。彼女の。あの『髪飾り』だ。

 

「しのぶ姉さんは……いえ、胡蝶しのぶは、亡くなりました」

「……ああ。伺っているよ」

 

 そうか。この子が。この子が、きみたちの妹なのか。

 まだ、毒を飲まなくて良かった。一目会えて良かったと。そう思った。

 

「それであの……しのぶ姉さんの私物を整理していたら……これが、出てきて。あなたに渡すように、と。残されていたんです」

 

 おずおずと、少女は小さな箱を差し出した。

 藤の花の色の、小さな小箱だ。

 蓋が開く。

 

 それは、

 

 

「………………あ」

 

 

 

 

 黒い翅が鮮やかな、二匹の蝶の標本だった。

 

 

 

「それで、書き置きがもう一筆だけ、残されていて……」

「……彼女は、何と?」

「はい」

 

 左目だけで。しかし、とても興味深そうに。

 まるで彼女のように、じっと二匹の蝶を見詰めながら、少女は言った。

 

 

 

「────どちらが本物でしょう?」

 

 

 

 

 少女の姿が、

 

「と」

 

 彼女と、重なって見えた。

 

「……そうか」

 

 彼女は、遺してくれていた。

 わたしのようなどうしようもない男にも、こんな素敵な贈り物を、残してくれていた。

 

 ────ウソはいけません

 

 いつも飄々と、笑顔を絶やさず。

 それでいて、少しだけ怒りっぽい彼女が、わたしに残してくれた、これは『宿題』だ。

 

「わたしには、どちらも同じに見えるのですが……」

「そうだね」

 

 少女の肩に、手を置いた。

 

「きみには、どちらが『本物』に見える?」

「……難しい、ですね」

 

 ああ、そうだ。難しい。

 でも、いつかきっと分かるだろう。

 

「答え合わせをする前に……きみの眼を診せてもらっていいかな?」

「え? わたしの眼を……ですか?」

「ああ。こう見えても、わたしは医者でね。腕は確かなんだ」

 

 不思議そうに、左目だけをぱちくりと。

 まばたきを重ねた少女は、わたしの顔をじっと見上げて、ゆったりと口の端を持ち上げた。

 

「では、先生。あなたの名前を教えてください」

 

 柔らかで、綺麗で、なによりも美しい。

 姉たちの面影を感じる、温かい笑顔だった。

 

 

「そういえば、名乗るのがまだだったね」

 

 

 すまない、カナエ。

 すまない、しのぶ。

 

 

「わたしの名前は────」

 

 

 きみたちが残してくれた宿題を終わらせるまで、もう少しかかりそうだ。




リンドウの英語の花言葉。
「I love you best when you are sad(悲しんでいるあなたを愛する)」
「loveliness(愛らしい)」
「intrinsic worth(固有の価値)」






集計期間終了につき、匿名解除しました!龍流です。普段はワールドトリガーとか書いてます。感想の頭には「感想ありがとうございます」を付ける主義なので、一度返した感想にも一文を添えて、改めて送らせていただきました。二重送信になって、申し訳ありません。
さて……みなさんのおかげで、ハーメルン恋愛合同企画リンドウ杯、第一回を勝ち抜き、優勝することができましたイェーイ!! 本当にありがとうございます。

そんなわけで、碑文つかささんから優勝賞品として頂いたイラストをこちらにも掲載させていただきます。しのぶさん……しのぶさんうわああぁぁぁ(発作)


【挿絵表示】


ルシエドさんをはじめとして、様々な有名作品の作者さん達と競い合うのは、とても貴重な経験になりました。主催の世嗣さんと参加者のみなさんに、この場を借りてもう一度感謝を。期間は終了しましたが、どれも素晴らしい作品ばかりですので、読んでいない方は、是非他の作品も読んでみてください。

改めて、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!


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