元ホテルマンの支配人・東儀倫代とアイドルを目指す玉坂マコト。アイドル氷河期の中で彼女たちはどう立ち向かうのか...

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昨日、Tokyo7thシスターズのオンリーイベント・777フェスティバル(通称・ナナフェス)で出した小説です。


悪夢が終わるまで

 私は人を喜ばせることに悦びを感じることは無かった。子どもの時にタダで旅行ができるという理由だけでバスガイドを目指したものだが、大学に進み、リクルートスーツに身を包む就職戦士となった時、OBに入社後すぐに観光教本の読経だとか元ガイドの教官によるマンツーマン指導だとかハートマン軍曹のブートキャンプかというようなきつい研修の体験談を聞いて二十年来の夢は醒めた。しかし、観光業を志望していた私は大して勉強していたわけでもなく、当時五輪特需に燃え、人手を欲していたホテル業に就職した。東京の一等地にあるラグジュアリーホテルにエントリーするととんとん拍子で最終面接まで進んだ。「私は昔から人を喜ばせるのが好きで…」などと歯の浮くようなことを並べ、なんとかホテルマンとなった。入社後最初の仕事はベルマン。いわゆる案内役だ。フロントから部屋まで荷物を運びながらホテルの案内をしていく。さすが一流ホテルというべきか来る客の中には財界人や政治家、官僚、芸能人もいた。だからといって特別扱いや媚を売る真似はしなかった。仕事に愛着がなかったといえばそうなのかもしれないが、それよりも自分の中の平等主義がどんな客であろうとスタンスは変えさせなかった。それが彼らにどう取られたかは今にも分からない。

 次の仕事はドアマン。ホテルの第一印象を決める重要な仕事である。フロントにやってくるセンチュリーやマジェスタ、リムジンのドアを開けお客様を出迎える。白い手袋をするのだが、頻繫に交換する。黒く煤けた手袋をお客様に見せるわけにはいかない。気が利かなければラグジュアリーホテルのホテルマンは務まらない。ホテルで働きながら心遣いというものを覚えていったが、それは自発的なものではなく生存のためといっていいだろう。ドアマンは客が誰であれ、ドアを開けて挨拶をし、愛想話をしながらフロントに案内する仕事なのでベルよりはまり役であった。このままドアマンを続けていたいと思っていた私であったが…それは叶うことはなかった。

 その日は久々に帰宅できる日であった。更衣室で制服からスーツに着替え、GMの元に向かった。

「失礼致します」

「東儀さんお疲れ様。二日ぶりかね」

「いえ、三日連勤です。まぁ独り者なので私が頑張らないといけないんですけどね」

私の同期も少しずつ離職している。理由の殆どが結婚だ。プライベートの少ないこの業界で出会いといったら仕事しかない。みんな上場企業の役員や公務員など客に狙いを定めアピールをしている。私は誰かをひいきにするというのが嫌いなので今まで一人なのかもしれないが

「東儀さんはここに来て何年になるのかね。」

「もう8年になります」

「そうか」

GMは顎に手を添え、しばらくして口を開いた。

「実はそろそろ君にナイトを任せようと思うんだ」

「は。。」

一瞬GMの言った言葉が理解できなかった。GMに挨拶をして帰ったら酒でも飲もうとかそんなことを考えていた時に突然告げられたのだ。思考が整理できていない私にGMは続けて、

「君にナイトマネージャーを任せてみたいんだが、受けてくれるかね?」

ナイトマネージャーとは夜の支配人ということだ。ホテルでの事件は深夜に起きるといってもいい。それらに対応するのがナイトマネージャーである。この仕事はかなりの経験がなければできない仕事である。

「なぜ…私なんですか?」

もっともな疑問を投げかけた。

「東儀さんもある程度経験を積んだし、それに君の仕事の姿勢はナイトマネージャーに適任だと感じたんだよ。嫌でなければ是非お願いしたい。」

「…分かりました。謹んでお受けします」

私は二つ返事で重要な役を受けた。ドアマンの仕事を手放すのは惜しかったが、それよりもGMに私の仕事が褒められたのが何より嬉しかった。その日から私はナイトマネージャーとしてお客の要望やコンプレに対応する日々が始まった。

*******

「セブンス?」

休憩所でデュオを吸いながら後輩の話に耳を傾けていた。サービスマンは見た目に気を遣わなければならないが、タバコだけはやめられない。紫煙の向こうでは「ええー!先輩セブンス知らないんですか?」と驚嘆の声をあげていた。

「あのセブンスシスターズですよ。ここが娯楽特区になってからサブカルが盛んになったじゃないですか。今やセブンスはTokyo7thを代表するアイドルですよ」

「へぇ」

吸い殻を灰皿に押し付ける。口紅がフィルターに厭らしく着く様を見ると禁煙しようかと思うが、未だ事を運んだ試しはない。

 この街も数年で大きく変わった。日本はいくつかの特区に分けられ、東京はTokyo7thという娯楽の特区となった。だからといって若い娘のようにアイドルに熱狂的になるような年でもない。今の仕事は夜にある様々な事件を解決していくものだ。掃除が行き届いていないなどというコンプレはまだいい方だ。中にはUGの対応や財布の紛失など責任が問われる仕事もナイトマネージャーの仕事。アイドルの追っかけなどする暇もない。

「うちにセブンスが泊まりに来てくれないかなぁ」

「ほら、休憩はおしまい。フロントに行きな」

二本目のタバコを咥えながら顎をしゃくった。これだからフロントレディはいけない。色恋沙汰やサブカルに走ってすぐ辞めちゃうんだから。

 紅を引き直し、申し訳程度の消臭スプレーを体にまぶし館内の巡回に回った。腕時計を見ると短針は2を指していた。この時間に廊下に出歩く人と言うのはなかなかいない。電球が切れていないか上を見て歩いていると、インカムから声がした。

「東儀さん」

「何かあった?」

「予約なしのお客様です」

「部屋は満席よね。ノーショウは?」

「一名インしてませんが…」

「分かった。フロントに向かうわ。お客様を待たせておいて。」

予約なしで来る客はシティホテルなどではよく見るが、ここで見るのは初めてだ。一体どんな客だろうか。昇降機を降り、フロントに向かうと中年の男性が一人いた。

「お待たせいたしました。わたくしホテル御園尾の東儀と申します。お客様申し訳ございませんが、何名のご宿泊でございましょうか」

「6人でお願いしたいんだ。」

「6人ですか…お客様含めてでしょうか?」

「いや、私は別のところに泊まろうと思うんだが、彼女たちが明日この付近でライブなんだ。なんとか融通が利かないかね」

この付近のライブ会場というとドームしかない。客はそうだ、と言い私に名刺を差し出した。「スリーセブン」、どうもこの客はアイドルの付き人ということらしい。フロントの子が「777って言ったらさっき話したアイドルの所属先ですよ!」と耳打ちしてきた。 目なんかキラキラさせちゃって。仕事中だぞ。私はフロント嬢を睨めつけ、客に「少々お待ちいただけますか」と声を掛け、事務所に行った。

 キャンセルをせずインしていない客がいるが、一部屋ではエキストラベッドを用意してもあと一部屋足りない。私は受話器を取り、うちの系列で同レベルのホテルに空室があるかを確認した。幸いにも大人数向けの部屋が一部屋開いているとのことだ。その部屋をキープさせ、もう一件電話を掛け、急いでフロントに戻る。

「お待たせしております。お客様、現在お部屋をご案内することができないのですがここからタクシーで数分のところにありますグループのホテルで5人用の部屋が開いておりました。ベッドを追加すれば6名様をご案内できますが如何でしょうか。」

「そこはドームから近いのかね?」

「ドームからは距離がありますが、お客様はアイドルの関係の方とお見受けしましたのでバスを手配するようお願いしました。」

「そこまで…どうもありがとう!是非お願いするよ!」

「あ、お客様」

急いで玄関に走ろうとする客を止める。なんだね?と振り向いた。

「先ほど別の宿で宿泊されると申されておりましたので、勝手ながら同系列のビジネスホテルの方も手配させていただきました。もし、他の宿泊先を確保していましたら取り消しいたしますが。 」

「そういえば自分のホテルを探すのを忘れていた!是非お願いするよ。」

「では先方に伝えておきます。玄関にタクシーを三台手配致しました。どうぞお気を付けて」

玄関までお客様をお見送りする。この時初めてアイドルというものを見た。水色の髪に赤のメッシュが入った少女とその傍には冷たげな青髪の少女、そしてこちらにお辞儀をする上品そうな女性。

「おっちゃん先に行くよ~?メモル達先に行っちゃったし」

「ニコが急にホテルに泊まりたいなんて言わなかったらこんなことには…」

「ふふっでもみんなでお泊まり楽しそうね」

彼女たちは嵐のように去り、玄関前は静けさを取り戻した。深夜でも客を待つドアマンに声をかけ、「ここは私が見てるからこれで缶コーヒーでも買ってきな」と千円札を渡した。

後々聞いたのだが、あの水色の髪の少女は七咲ニコル。巷ではアイドルテロリストと言われているらしい。ナイトマネージャーからしても彼女たちはまさにテロリスト級の客だった。

*******

 セブンスシスターズは突然解散をした。彼女たちは解散後公に姿を現していない。セブンスの解散は劇場型アイドルスタジオ所謂ハコスタも灯が消えたように衰退した。アイドルは時代遅れという風潮が来てもTokyo7thは別のエンターテインメントで賑わっている。ありがたいことにホテル業もサブカルチャーの恩恵を受け生き残っている。

 私は未だにナイトマネージャーを続けている。だが、今でも私のスタンスは変わらない。客に喜んでもらうことがこの仕事であるからそれについて悦びを覚えてしまってはただの自己陶酔だ。それが当然である仕事をしなければならないと思っている。更衣室で出勤用のスーツから制服に着替え、メイクに入る。年とともに肌荒れが気になり始めてきた。やはりタバコ辞めようかしらん・・・BBクリームを塗りながらそんなことを考えていた。

 メイクをテキパキと済ませ、表に出る。今日は深夜ではなく何故か昼からの出勤でGMから呼び出しが掛かった。業務に何か問題があったのだろうか。若干身体の筋肉が強張る。自分の仕事への自尊心が相まってもやもやした気分で支配人室に入る。

「東儀です。失礼します」

ラグジュアリーホテルに相応しい瀟洒な内装の部屋には支配人の他に以前どこかで見た中年の男がいた。

「東儀さん、来てくれたか。紹介しよう、劇場型アイドルスタジオ777の支配人をしていらっしゃる池戸さんだ。」

「セブンス…もしかして以前当ホテルにお越しになられた…」

「覚えていてくれていましたか!そうです私が初代支配人だ」

覚えていたことに感激したのか熱い握手を交わした。あんな手の掛かった客忘れたくても忘れられないが。しかし、その支配人が一体何故(ホテルの)支配人室にいるのだろうか。クレームにしては悠長すぎるし(先ほどの握手からしてそれはないだろう)、感謝の言葉を述べにわざわざ来たわけでもなさそうだ。呼ばれたことを思い出し、GMに「お話があると聞いたのですが」と話を促す。

「そうだった。池戸さんが君に話があるそうだ。これは君の進退にも関わることだ。」

GMは改まって真剣な面持ちで顔を向けた。支配人が私の前に立ち、口を開いた。

「是非、君に私の後継の支配人になってもらいたい」

「・・・・・えっと、どういう意味ですか?」

突然の出会いから突然のヘッドハンティング。狐につままれたような心地だ。しかも一流企業や急成長のベンチャー企業ならまだしも斜陽産業と化しているハコスタの支配人である。栄転ではなく転落だ。

「君ならセブンスシスターズ、いやそれ以上のアイドルを生み出せると思ったんだ!是非777の支配人になってくれないか!」

「え?なんですか突然・・・それに私が支配人になったら、池戸さんはどうなさるんですか?会長ですか?」

「いや、僕は旅に出る!」

「は?」

この人は何を言っているんだ。自分の会社をたった数十分接待してもらっただけのホテルマンに一任してもいいのだろうか。それにアイドル事務所の仕事など全く分からないのだが。ホテルに泊まる客の中にはアイドルファンもいたが、話を聞きながら愛想笑いをしていたぐらいに疎い。

「買い被り過ぎです…私にアイドルをプロデュースする能力なんて」

私は喉にまで上がってきている声を抑え、やんわりと断ろうとした。

「そんな謙遜しなくても。私はあの日感じたんだ。君なら今の状況を変えることが出来るって。」

「はぁ。しかし、私は今、ホテルの仕事もしていますし急に申されましても・・・ねぇGM」

GMに助けを求めた。しかし、その期待は裏切られた。

「・・実は、親会社の方から話を受けるように言われたんだ。君がどう言おうとここに居場所はないよ」

「え・・・・?」

それは最終通牒、戦力外通告であった。私は色々言いたかったこともあったが、最後の力を振り絞り「分かりました。」とだけ言い、悵然(ちょうぜん)としながらホテルを後にした。

 その後の事はよく覚えていない。恐らくヤケ酒をしたんだろう。しかし、その時思っていたことは今でも忘れない。

---

GMも

 

あの支配人も

 

ホテルのみんなも

 

御園尾コンツェルンのクソ野郎も

 

みんなみんな大嫌いだ!

*******

 朝起きると部屋にいた。1DKの家賃十一万の一人暮らしだ。上体を起こすと脳内の鐘が鳴らされるように頭痛がズキズキと来た。

 ミネラルウォーターをラッパ飲みする。一瞬着替えなくては・・と思ったが、自分がホテルマンではないことを思い出す。昨日失意の中、支配人に鍵とメモ帳に書かれた地図を渡された。無造作に机に置かれたそれを見つめる。行かないと無職だもんな・・・行けば業績はともかく事業主だ。二日酔いのからだを引きずり、新しい会社-777へ向かった。

 7th7丁目まで来た。隆盛を極めていただけあって設備は事務所にスタジオ、レッスンルームに大浴場まであった。今、従業員私一人だけの状況では無用の長物であるが。驚くことに所属アイドルは誰一人いないのだ。つまりあの支配人はハコだけを残し、残りを全て私に託してきたのだ。私はもう何も考えたくないと、誰もいない事務所でデュオをふかす。

 

このご時世アイドルになりたいなんて少女がいるのだろうか。

 

アイドル氷河期と言われる時代である。エンターテインメントの一番の客層たる若者は今やアイドルなど見向きもしない。スカウトが一番の試練だった。椅子の背もたれに寄りかかり間延びする。考えていたって仕方がない。行動あるのみだ。

 あれから数時間後、近くの喫茶店の喫煙席で突っ伏していた。

「全っ然、ダメ…」

路上に出て、スカウトを続けたが、「すみません。興味・・ないので」「オバサン、何?アイドル?マジウケる」「オバサン一人でアイドルしなよ(笑)」などことごとく断られた。ヤニ切れで休憩がてら喫茶店に入ったが、もう入って2時間になる。接客と営業とは全く違うものだとこの数時間で痛感させられた。ボディブローを食らった私の精神が再びリングに立ち上がらせることもなく、会計を済ませ事務所へ帰った。

 

総武線を降り、いつもの場所に行く。

何度来たら

何回足を運べば

どれだけ歩けば

 

アイドルになれるのだろう…

 

今日もその場所は重くシャッターが閉められていた。シャッターに触れると鉄の冷たさが手に伝わった。その温度はまるでシャッターが自分を見定めて、『お前にはその資格がない』と拒むように感じた。・・・でも、諦めないよ。明日もまた来るね。このシャッターが開いていることを信じて…

「あ、早く帰らないとお母さんが心配しちゃう…」

腰まで髪を伸ばした黒髪の少女はその場を後にした。

 

 「儲からない時には店の掃除をしろ」。昔、何かのセミナーで聞いた経営の神様なる人の言葉である。気持ちの整理も含め今日一日は事務所の掃除をすることにした。半ば強引に引き継ぎをさせられた事務所だけに化粧室やロッカールーム、事務所のソファーなどは生活感が漂っていた。給湯室の冷蔵庫には毒々しい色をした飲み物が入っていた。中身を出すのが恐ろしくて、容器ごと捨てたが。レッスンルームも手を付けたかったが、一日でこの広い事務所兼スタジオを掃除するのはとてもじゃないができるわけがない。とりあえずはスカウトをして、女の子たちを迎えられるくらいの部屋にしておきたかった。

 散らかっていたソファーや給湯室の掃除を終え、デスクの整理をしていく。机に置かれた名刺の束、これは取っておこう。これからアイドルの仕事をしていく上でコネクションは大切だ。古い書類は捨てていき、これから利用できそうなもの、役立ちそうなものは取っておいた。作業をしていくと、部屋も薄暗くなってきた。窓を見ると日が落ち始めていた。蛍光灯のスイッチを押し、今日の一日を本当に掃除に費やしたんだなぁと達成感と後悔の狭間にいた。デュオを一本取り、口に運んだ。殺風景な事務所に紫煙だけが揺らめいていた。

コツコツ…

下の方から聞こえのいい靴音がしてきた。誰かが階段を上ってきている。郵便屋か何かだろうか。東儀は意に介さず、ソファーにへたり込み、疲れた体を癒していた。

 靴音はしばらくすると、止まった。次のアクションを待っていたが、数分間何も起きなかった。ただ時間が流れ、2本目のタバコに手が伸びていた。先端に火を点けようとしたその刹那、ゆっくりとドアの開く音がした。ドアの先の黒い影は・・・・

サイドアップした艶のある長い黒髪、端正な顔立ち、枝のような細いカラダ。まるでフランス人形のような少女がそこにいた。彼女は何かに怯えるように「ここってスリーセブンで間違いないですか…?」と聞いてきた。私は火を点けかけたタバコを戻し、そうよ。とだけ答えた。

「あ、えっと、その…」

彼女は戸惑ったようにどもった。

「もしかして、アイドルに興味があるの?」

「は、はい…そうです。・・・マコト、ほとんど毎日ここに来ていて。でも、いつもシャッターが閉まっていたから…今日は開いていたので階段を上ってここまで来て…その、マコト悪い子ですね…」

マコトと名乗る少女は申し訳なさそうに俯きながら謝ってきた。

「なんで謝るの。いらっしゃいマコトちゃん。歓迎するわ。よかったらお話聞かせてくれるかな。ちょっとソファに座ってて。今ジュース出してくるから」

「あ、いえ…お構いなく。」

冷蔵庫に向かったが、そういえばさっき捨てたあのジュースとは言い難い代物しか入っていなかった。給湯室にはお茶とインスタントコーヒーがあった。インスタントコーヒーの賞味期限を見てみると大丈夫、あと数か月は持つ…粉末を入れ、湯沸かし器からお湯を出し適当に混ぜ、再び戻った。

「ごめんねマコトちゃん。コーヒーしかなかったけど、いいかな。砂糖とミルクいる?」

「あ、はい…お願いします」

二人分のコーヒーカップを机に置き、履歴書とペンを用意した。

「改めまして。私はここの支配人の東儀倫代。よろしくね。マコトちゃんのお名前と年齢を教えてもらっていいかな。」

「玉坂マコト、十四歳。よろしくね。支配人さん」

緊張も和らいだのか、はにかんだ笑顔を見せた。その笑顔は大人びた雰囲気とは違い、純朴で穢れのない笑顔だった。この機会を逃すまいと一番聞きたかった質問をした。

「その、どうしてアイドルになろうと思ったのかな?」

マコトは覚悟を決したように口を開いた

「マコト、男の人が嫌いで・・・その・・人と話すのもあまり得意じゃないけど・・・・マコト、自分を変えたいの!子どもの時に見たセブンスシスターズがかっこよくて、マコトもあんな風になりたいって…」

セブンスシスターズが解散して数年が経って今やアイドルに見向きもしないというのに・・・この子の意志は強いのだと思った。しかし、アイドルをやっていく中で厄介なのは男が嫌いという点である。彼女の着ている制服は有名な私立女子校の制服である。見た目からも変に男慣れしているような娘でもない。

「男の人が嫌いっていうのは、男の人と接することが少ないからかな?」

私が質問すると、急に顔を険しくさせ「言いたくないです」とだけ言い。刺激を受けた貝のように口を閉ざした。私はこれ以上詮索するつもりもなく、趣味や好きなものなど当たり障りのない質問をしていった。マコトちゃんは私立中学で手芸部に所属しており、手芸の他お弁当作りも得意で家庭的な女の子のようだ。好きなものは子猫でスクールバッグにも猫のストラップがついていた。数十分質問をしていって、最後に未成年ということで必要事項を告げた。

「マコトちゃん、未成年だから親御さんの許可が必要だからこれ、書いてきてね」

承諾書をマコトの前に差し出した。

「はい。分かりました。お母さんに書いてもらいます。」

「えーと、できるだけお父さんに書いてもらいたいんだけど…」

「お父さんは・・・いません。今日は帰ります。」

マコトは先程のような険しい顔をして立ち上がり、階段を下りていった。

 もしかして私、地雷踏んでしまったのだろうか。明日は歌やダンスの事前テストをすると約束したが、ちゃんと来てくれるだろうか・・・前途多難だ。

*******

 今日、セブンスシスターズがいたスリーセブンの事務所に入ることができた。支配人さんは女の人で安心した。手芸部も辞めなくていいって。とても優しい人だったけど、まだ上手く話せなかった。明日はテストと初めてのレッスン。マコト、上手くできるかな・・・

 

 約束の時間は9時。昨日は親しくなろうとし過ぎて懐に入りすぎたか。ホテルでは一期一会を大事にする仕事ではあったが、客の深層まで掘り下げる必要はなかった。しかし、マコトはこれから長い付き合いをする女の子である。今のうちに話題作りのために色々聞いておきたいという気持ちが裏目に出てしまった。昨日の様子を見るに家庭の話題や男に関する事は避けた方がいいだろう。マコトちゃんが来たら、昨日のことを謝ろう。

 今日はレッスンの先生に依頼をした。デスクにあった名刺の束からダンス教室、声楽家に電話をして彼女の実力と今後のレッスンについて相談しようと考えている。彼女にもスケジュールがあるのでそれを調整して、早くて数か月後には配信ができればいい方だろう。本当は何人かの女の子を集めてユニットを組ませて配信をしたいが、そんな余裕うちにはない。彼女を育成しつつ、スカウトも続けていくしかない。

9時になる十分前、マコトがレッスンルームにやってきた。

「おはようございます。支配人さん」

「おはよう、マコトちゃん。これ、用意したレッスンウェアなんだけど、サイズ大丈夫かな?」

「ありがとう・・・多分、大丈夫、です。着替えてくるね。」

マコトが着替え終えると、まず譜面を見せ即興で歌を歌ってもらった。私は素人だが、話す声とはまた違う大人びた妖艶さ、美しさがあった。しかし、歌う姿勢は自信がなく弱々しく見えた。予想はしていたが、人前で歌うのがあまり得意ではなさそうだ。ダンステストはまず先生が振りを教え、それを真似するというものであった。振り入れの時間はあっという間で三十分の自主練習の後、曲に合わせ踊るようだ。マコトは振り入れの時点で息を切らしていた。額に汗がにじんでいるのが鏡越しからでも分かった。マコトのもとに歩み寄る。

「お疲れ。少し水分補給する?」

スポーツドリンクの入ったペットボトルを渡す。しかし、マコトはただ頷き無言でそれを受け取った。

「マコト、やっぱりアイドルなんてなれないんじゃないかな…」

「いきなりどうしたのよ。そんなこと…」

「だって、ダンスでつまずいていて・・・・こんなんじゃ支配人さんに迷惑をかけてしまいます・・・」

汗とも区別のつかない水滴がマコトの頬を伝う。倫代はポンッとマコトの頭に手を置いた。

「初めから上手くいく人なんていないよ。・・・・実は私まだ支配人なりたてなんだ。アイドルに向いてる人なんて見ても分からないし、今ダンスについてどうアドバイスすればいいかも分からない。だから、一緒に頑張りましょう?」

倫代は手を離し「少し先生と話をしてくるから練習頑張って」とレッスンルームを出た。

「・・・・・優しいね。支配人さん」

 声楽の先生の総評を聞いた。声量や音程はレッスンで調整していかなければいけないと言っていたものの彼女は素質があると彼女の将来性に期待する前向きな評価であった。ダンステストの時間が来て、ダンスの先生と一緒にレッスンルームに向かった。私は後ろでマコトちゃんのダンスの様子を伺うことにした。

「用意はいい?」

「いつでも・・・大丈夫です。」

マコトの表情は先ほどの不安に染まった顔ではなく、真剣な面構えだった。

 ダンスの実技は少しリズムに遅れ気味であったが、最後まで踊り切っていた。踊りはカチカチに固まったものではなく、儚げで蝶が翅を揺らし跳ぶような踊りだったように感じた。

 ダンスの総評は厳しいものであった。まず、深刻なスタミナ不足。まずは基礎体力をつけるところから始めなければならない。話はそこから、ということであった。しかし、彼女は運動部に所属しているわけでもなく、ただの女子中学生である。それは少し厳しすぎやしないかと、思ったが顔に出ていたかの、先生が「それがプロになるということです」と諭すように言った。

 先生たちを見送り、二人だけになった事務所で今後のレッスンのスケジュールを組むことにした。

「クラブって何曜日にあるの?言ってもらえればその日はレッスン入れないようにするけど」

「月曜日と木曜日です。」

「オッケー」

スケジュール帳に書き込んでいく。

「あの支配人さん・・・・」

「どうしたの?」

机から顔を上げ、マコトの顔を見た。

「こんなにマコトのわがまま聞いてもらってもいいの?」

「勿論よ。マコトちゃんにも予定があるでしょ?それを無視するわけにはいかないわよ。」

「優しいんだね・・・」

「そんな。私は優しくなんかないよ。」

その時の倫代の影のある表情はマコトの印象に残った。当座のスケジュールはできた。週末を中心にダンスレッスンを入れ、平日はボーカルレッスンと営業廻りをすることに決めた。昼間も仕事を取りに行くが、やはり本人を見てもらった方がよいだろう。男性への免疫をつけるいい機会でもある。マコトも「頑張るね」と承諾してくれた。

 打ち合わせを終え、気が付けば日が暮れていた。夜道を歩かせるのもなんなので駅まで送ることにした。車内ではしばらくウィンカーの音だけがこだましていた。

「あの。」

沈黙を破ったのはマコトだった。

「さっき、支配人に最近なったって言っていたけど・・・前は何をやってたの?」

「それはね・・・・そうだ。マコトちゃん、少し寄り道してもいいかな?」

「・・・・?はい」

あと一つの信号で駅に着くが、道を右折し幹線に入った。しばらく走るとセブンスが最後のライブをしたTokyoスカイドームが見えてきた。さらに進むと車を止めた。

「あそこのホテルが私の元職場。支配人の前はあそこでホテルマンをしていたの。」

道の向こうにあるホテルを指して言った。

「大学を出て、なんとなく入った。初めのころはマコトちゃんみたいに自分に向いてないんじゃないか、辞めてしまいたいと思ったこともあるよ。でも、私の先輩が言ってくれたんだ。『最初からうまくできる人なんていない』って。さっきのは先輩の受け売りなんだけど・・・マコトちゃんは私とは違う。だってセブンスのようになりたいって理由をもって入ったわけだし、人の気持ちを考えられる優しい子だもの。きっといいアイドルになれる・・いや、私がしてみせるよ。」

「支配人さんだって、マコトのことをちゃんと考えてくれています。」

「ありがとう。でもね、それも仕事の一つだと考えているから・・・偽善って言ってもいいかもしれない。だから、私はマコトちゃんが思っているようなイイ人ではないよ。」

倫代は遠い目でホテルを見た。

「・・・・マコト、って呼んで。マコトも支配人さんのことお姉ちゃんって呼ぶから。それなら特別・・・だよね?」

 

『お姉ちゃん』

 

一人っ子だった倫代にとって新鮮な呼び名だった。

「頑張ろう。マコト」

「うん。お姉ちゃん」

ハザードランプを消し、発進した。

「マコト」

「どうしたのお姉ちゃん?」

「タバコ吸っていい?窓は開けるからさ」

「ふふっ・・・いいよ。」

そういえば半日ニコチンを摂取していなかった。ハンドルを持ちながら片手でデュオを取り出し、火を点けた。

*******

『仕事の一つだと考えているから』

『偽善といってもいいかもしれない』

お姉ちゃんの言っていた言葉を思い出す。お風呂で今日の疲れを癒していた。お気に入りのシトラスの香りがする入浴剤を入れ、子猫のおもちゃを浮かべた。

「本当の優しさじゃない・・・か。でも、マコトこんな気持ちはじめて・・・・だよ。」

初めて感じる何物にも形容しがたい気持ち。おもちゃを手に取り、軽く握って音を出した。

放課のチャイムが鳴り、ノートなどを鞄にしまっていた。

「マコトちゃん、一緒に毛糸買いにいかない?緑色切らしちゃってさ。」

「ごめんね。これから用事があって・・・・」

「そうなんだ。マコトちゃんバイトなんてしてたっけ?」

「ううん。もっと大事な用だよ。じゃあまた明日ね。」

またね、と手芸部の子に挨拶をして玄関に向かう。ホロコンにはお姉ちゃんからのメールが入っていた。「近くの駐車場で待ってるね」と簡潔に書いてあった。ホロコンをしまい、正面玄関を出てお姉ちゃんの車を探す。校門を出て、5分ほど歩くと反対車線にあるコンビニに車が止まっていた。その脇には自分に向け手を挙げるお姉ちゃんがいた。その時、スクールバッグが震えた。中を見ると、電話が鳴っており、通話ボタンを押す。通話相手はお姉ちゃんだった。

「あ、ごめんごめん。車持ってくるからさ、そこで待っててよ。」

コンビニの方に目を移すと、お姉ちゃんは車を動かしていた。指示通りその場に立ち、車が来るのを待った。車は私のだいぶ手前で止まった。直付けすればいいのに・・と思っていると、お姉ちゃんは何故か車から降りてきた。すると、助手席側のドアを開け、「どうぞ」と白い歯を見せた。私が車に乗り込むと、お姉ちゃんは運転席に戻り、アクセルを踏んだ。

 しばらくビジネス街を走り抜けると、「なんで前に止めないのって思ったでしょ?」と聞いてきた。私はただ「はい」と答えた。実際思ったのだから仕方がない。お姉ちゃんの前で嘘はつきたくなかった。

「職業病っていうか、相手がドアを引く前に迎えなくちゃ・・・ってなるんだよね」

お姉ちゃんは苦笑交じりにハンドルを捌いていた。

「それも・・・ホテルマンの時のお仕事だったの・・?」

「そうだよ。ドアマンって仕事で…

お姉ちゃんはホテルマンの仕事について丁寧に教えてくれた。しかしそれは私の耳が入れるのを拒否した。

『仕事の一つだと考えているから』

あの言葉が私の頭の中でリフレインする。

 

(他の人にもしているんだ…)

 

お姉ちゃんは優しい。でも、その優しさを他の人に向けないで欲しい、マコトだけ優しくして・・・

ふとそんな自分勝手な独占欲が湧いた。マコトは自分の頭から邪な考えを打ち消し、今日の仕事の話をした。

「今日の営業はどこへ行くの?」

「出版社よ」

倫代はモデルの営業を掛けようと考えた。モデルであれば話す能力は必要ないし、マコトも手芸部に入っているように洋服に興味があるらしくマコトの初めてには打ってつけの仕事だと考えた。今回もあの名刺の束から大手出版社の名刺を見つけ出し、なんとか話だけ聞いてくれるという運びになった。小石川の坂を上っていくと要塞のようなビルが住居に紛れて建っていた。出版社がこのように強固な造りになっているのは過激派による出版物への抗議に備えているためだと、昔出版業界の客に聞いたことがある。腕時計を見ると約束の時間よりも十五分早く着いてしまった。助手席で緊張しているマコトに声を掛けた。

「緊張してる?」

「緊張・・・・というより、怖い・・・です。マコト、やっぱり男の人・・」

マコトの顔が不安に染まっていた。

マコトはこの事務所に入る時「自分を変えたい」と言っていた。その決意は噓偽りのないものだろう。だが、マコトだってただの女子中学生だ。その一歩は恐ろしいことだろう。

「無理は、しなくていいから。少しずつ慣れていこう」

「大丈夫・・・です。お姉ちゃんがついているから。」

マコトはこちらに顔を向け、微笑みかけたがその笑みはぎこちなかった。明らかに虚勢を張っていた。5分前になり、二人は車を降り受付を通った。

応接間に通され数十分が経ち、湯呑みに注がれたお茶も熱量を失っていた。待ちぼうけは想定内であったが、実際食らうと精神的にくるものがある。お茶にも手を付けず、ただ俯き待っているマコト。緊張の色を隠しきれていなかった。私は小さな声で「リラックスだよ」と囁いた。マコトは顔を動かさずただ頷いた。

「ああ、どうも。」

扉から小太りのサラリーマンが入ってきた。私はマコトに立つよう促し、挨拶をする。

「今日はお時間を頂きありがとうございます。777の東儀です。そしてうちの所属アイドルの、」

「・・・玉坂マコト・・です。」

「はぁ。まぁ座ってください」

男はマコトを一瞥し、女性社員が持ってきたお茶をがぶ飲みした。彼がファッション雑誌の編集長である。

ファッションの最先端をFukuoka-4thに奪われて以降Tokyo-7thのファッション系雑誌はアイドル同様衰退していったが、この出版社のファッション雑誌は「Tokyo-7thStyle」という独自の路線で生き残ってきた若者に人気の雑誌である。モデルは通常の雑誌のように専属モデルや読者モデルではなく、『エンターテインメント特区にあった着こなし』というコンセプトに沿ってアイドルやバンドなど芸能人を多用していることで有名である。この雑誌にモデルとして載ることが出来れば今後のアイドル活動も上手くいけるはずだと考えた。

「彼女はつい数週間前にうちに入ったんです。是非御社の雑誌に載せていただければと思いまして。」

「そう言われてもねぇ」

男は顎に手を添えた。

「今更アイドルじゃねぇ・・読者も食いつかないし。」

「ほら、逆に今アイドルっていうのは新しいんじゃないですかね?」

「うちはね、Tokyo-7thの最先端を行く雑誌なの。アイドルの宣伝だったら他所でやってよ。」

男はため息をつき、部屋を出ようとした。その時、マコトが「あ、あの・・」と声を発した。

「マコト・・・・何でもします。」

マコトの勇気を振り絞って言ったであろうその言葉はなんとか男の足を止めた。

「だから・・・・そのもう少しお話しを聞いて・・・ください。」

「君はもっと自己主張のない子だと思っていたよ。」

男はソファに座り直し、マコトに向けそう言った。マコトは初めて男に顔を向けた。そして、小さい声で途切れ途切れではあるが、思いの限りを伝えた。

「・・・確かにマコトはあまり人前で何かをする・・・っていうのは苦手だし、今もとても緊張して上手く話せないけど・・アイドルになりたかった理由はそんな自分を変えたくて・・・マコト、小さい時にセブンスシスターズを見て、こんな風にみんなを笑顔に出来たら、って思って・・・・だから、マコトどんなお仕事でもしますから、お願いします・・・」

マコトは深く頭を下げた。

 

苦手な男性に面と向いて自分をPRするのはどれだけ怖かったことだろう、

どれだけの力を振り絞ったことだろう・・・

 

倫代は今すぐにでもマコトを褒めたかった。男は「マコトちゃんは自分を変えたいんだね」と言い、立ち上がってマコトの傍に座った。マコトは「ひっ・・」と声にならない悲鳴をあげた。男は私を見てまるで邪魔者を見るような目をしていたが、無視してマコトを見守る。

「マコトちゃん、Tokyo-7thStyleはまだ難しいけど、グラビアとか興味あるかな?そこで成功すればモデルの仕事もお願いできるしさ。」

男はマコトにグラビア写真集を見せた。見るとビキニを着たマコトと同じくらいの少女が映っていた。中には露出度の高い服を着たものもあった。

「マコト・・・そんなの・・」

「さっきどんな仕事だってするって言ったじゃないか」

「・・・・・!」

男は卑しい笑みを浮かべた。そしてマコトの肩に手を添え、マコトに何かを囁いた。マコトの体は小刻みに震えていた。そんなマコトを見るのが心苦しく、気が付けば私の手がマコトの手にのせた男の手を払いのけていた。

「何するんだ!」

「そういう仕事であれば、お断りいたします。」

「おたくねぇ・・・アイドル事務所の支配人やってるんだからこの業界のことくらい分かるでしょ?」

私は別に好きでこの仕事を選んだわけでもないし、元はホテルマンでモデル業界の常識だとか暗黙の了解など知らないが、もしマコトがいかがわしい写真を撮らなければファッション雑誌のページを飾れないのであればそんなの願い下げだ!

「残念ながら分からないので帰ります。もうお会いすることは無いでしょうが」

子羊のように震えるマコトの手を引き、部屋を後にした。ドア越しに「二度と来るな。この業界で仕事ができないようにしてやる!」など騒いでいるが、知ったこっちゃない。うちの可愛いアイドルを傷モノになんてしてやるものか。

---

「マコトどんなお仕事でもしますから、お願いします・・・」

男の人の前でこんなに話すのは初めてだ。内向的で自分の意見を上手く言えなかった自分を突き動かしたのはアイドルになりたいという自分自身の夢と隣にいる支配人・・・お姉ちゃんのお陰だろう。

「マコトちゃんは自分を変えたいんだね」

小太りの編集長が突然私の前に座ってきた。身体が密着すると同時に体が硬直する。自分の体温がみるみるうちに下がっていくような錯覚に陥る。男は額に脂汗を浮かべながら私に向け、いやらしい写真を見せてきた。私はそんなことしたくてここに来たんじゃない!

「マコト・・・そんなの・・」

「さっきどんな仕事だってするって言ったじゃないか」

上手く言葉尻を捕えられた。私はそれから押し黙ってしまった。アイドルになるためにはそんな娼婦のような真似をしなければならないのだろうか。顔が青白くなっていくのが分かる。そんな私に編集長は耳元で、

「この仕事を引き受けたら支配人さんも喜ぶんじゃないかな」

とニタニタ笑いながら囁いた。

お姉ちゃんが喜んでくれる・・・

私の中で穢れた考えが生まれる。

(お姉ちゃんの為に頑張れば、マコトだけに優しくしてくれるのかな・・・)

マコトはそのとき悪魔に魂を売ろうとしていた。「やります」と言えば決まってしまう環境・・・・しかし、マコトにはそんな度胸は無かった。お姉ちゃんを独占できることよりも男の人への怖さが勝った。

答えを出すことなくただ座ったままでいると、左肩がふと軽くなった。何が起きたか分からずお姉ちゃんに手を引かれ会社を出て車に乗せられた。お姉ちゃんは、はぁはぁ・・と息を切らしていた。きっと、初めての営業で全然話せなかった自分に怒りを覚えたに違いない・・・

「ごめんなさい・・・・お姉ちゃん。マコト、本当に悪い子です・・・」

目にいっぱい溜めていた涙が堰を切ったように流れ出した。自分の不甲斐なさと期待に応えられなかったことを謝らずにはいられなかった。お姉ちゃんは何も言わず、私を抱きしめた。

「・・・・・えっ・・」

「私こそ・・・ごめん。マコトにこんな思いさせて。辛かったよね、苦しかったよね・・・・でも、マコトはよく頑張ったよ」

お姉ちゃんは泣きながらこんな私を褒めてくれた。それが余計にお姉ちゃんに気を遣わせてしまったようで涙がまた出る。

「マコトが男の人嫌いなの・・・・分かってたのに・・・」

「そうじゃ・・・ないの。マコトは・・マコトがお姉ちゃんの役に立てなくて・・・・それが申し訳なくて・・」

「別に私のことなんて考えなくていいから・・・!マコトは自分の事だけを考えて。私はマコトが自分のなりたい姿になってくれることが何よりうれしい。」

お姉ちゃんは抱きしめた腕を私の両肩に持っていき、私を叱った。お姉ちゃんに叱られるのは初めてだ。

「ご、ごめんなさい。マコト、間違えていました。」

「うん・・・・分かってくれたならいいよ。今日はお疲れ様。送っていくね」

お姉ちゃんは涙を拭き、エンジンを掛けた。私はお姉ちゃんの左肘の裾を引っ張った。

「待って・・・お姉ちゃんに話したいことがあるの。だからその・・まだ帰りたくない・・・です」

「話したいこと?」

「マコトが・・男嫌いになった理由です・・・」

倫代はマコトをじっと見て、「分かったよ。」と言い、駅と反対側の道にウィンカーを出した。

*******

私はマコトを喫茶店へ連れた。

ここは2034年の世でも全席喫煙の店である。私が社会に出てから、喫煙者への風当たりが強くなった。面積何百平米の飲食店は禁煙にしなければいけないとか分煙措置という名の隔離政策がとられ、街中でも喫煙所が減ってきている。しかしだ。喫茶店というのは元来酒の飲めない者の情報交換の場、憩いの場であるのにこうした喫煙者への圧迫をする必要はあるのだろうか。紫煙をふかしながら、変わりゆくTokyo7thへの無常を嘆く。

 マコトは前に置いてあるクリームソーダに手をつけること無く、くたびれた人形のように俯いていた。ここまで来るまで無言を通している。話す内容も内容なので切り出し方が分からない。マコトが語り始めるまで静観することにした。マコトの男嫌いの理由。それはマコトがうちの事務所に入ってきてからの大きな謎であった。面接の時は「言いたくありません」と拒んでいたマコトが今語ってくれようとしている。マコトが入りまだ1か月程度しか経っていないが、心境に変化があったということは仲が深まったと考えていいだろう。しかし、私にこれからマコトが語る理由(わけ)を受け止めることが出来るだろうか。はじめ、マコトから男嫌いであることを聞いた時でさえ、マコトの眼窩に眠る真実を探ることを躊躇った。今も心の整理がついていない。私は二本目のデュオを灰皿になすりつけ、珈琲を一口含んだ。腕時計を見ると、店に入ってきてからまだ8分しか経過していなかった。私には1時間か2時間のような感じがしていたが、針は残酷にも正確に時を刻んでいた。マコトの手を見ていると、ずっと制服のネクタイを締めたり緩めたりしていた。しかし、締め方があまりにも強く、心配になり声を掛けた。

「マコト・・・あの、大丈夫?」

「マコト、こうやって引っ張ると安心するの。首が締まって・・・・ふふっ」

「マコトっ!」

女の勘が止めなければいけないと信号を出した。リボンを締める手を両手で掴み、制止する。

「マコトのこと、心配してくれるの・・?」

「当然じゃない!」

「・・・!・・・ごめんなさい・・」

「ごめん。こちらこそ少し言い過ぎたわ・・」

倫代はコーヒーを一口飲み、話を切り出した。

「その、ずっと気になっていたんだけど。マコトの自分を過小評価してしまうのは・・その、これから話すことと関係がある?」

倫代が申し訳そうに聞くとマコトは「はい」と小さく答えた。

「マコトが初めてお姉ちゃんと出会ったとき、お姉ちゃんはマコトが男の人が嫌いなのはなんでって聞いたけど、その理由を答えなかったのは答えたことが一度もなかったからです。マコトの中でそのことについて整理がついていなかったし・・・その理由を言ってお姉ちゃんがマコトを捨てないか不安だったの・・・でも、お姉ちゃんは特別だから・・・今日お話しするね。

 マコトは今お母さんと二人で暮らしています。玉坂という苗字はお母さんの実家の苗字です。お母さんは旧東京の人じゃなくて和歌山の田舎に生まれて上京したようです。そこでお父さんに出会い、結婚をして前にお姉ちゃんから聞いたお姉ちゃんがホテルに就職した頃・・・2020年にマコトが生まれました。小さい頃の記憶は・・・・あまり憶えていないけど・・・マコトが2歳くらいの時、マコトが我儘を言ったり、粗相をすると平手打ちをしたり・・・ネクタイで首を締めてきたりして・・//っ・・マコトはずっとお父さんに「ごめんなさい、ごめんなさい」って言って出来るだけ自分を出さないようにしてきました・・・・//」

マコトは痛ましい過去を語る際、瞳が潤んでいた。しかし、マコトは涙をこらえ、話を続けた。私はマコトの話を聞きながら視界が悪くなるのを感じながら手で口を抑え、嗚咽を我慢した。マコトが先ほどまで飲み物に手をつけず俯いていたのも分かる。マコトは何度も言い留まろうか考えたことだろう。私がマコトと同じ年であればたとい気心の知れた他人であろうとも話そうとは思わない。マコトにこんな辛いことを話させてしまい、自分の冒険心・好奇心を苦々しく思った。

「マコトが5歳の時に両親は離婚しました。そこからマコトは男の人が怖くて・・・小学校も今と同じ学園の女子校に通っていました。男の人と接することはそれから殆ど避けるようにしてきました。・・・でも、それじゃダメだって。これから大人になっていくのに男の人が嫌い・・だなんて言ってられないし・・・自分を変えたいって中学に入った時に思ったんです。そんな時にお友達から見せてもらったの。セブンスシスターズが歌う姿を。あんな大勢の人の前でダンスや歌を歌っている七咲ニコルさんを見て、私もこんな風に自信を持てたらって思ったの。その気持ちはセブンスが解散してアイドルブームからバンドブームになってからも変わらなくて・・・一年間、晴れの日も雨の日も木枯らしが吹く日もシャッターの閉まったナナスタに行きました。そして、ある日ずっと閉ざされていたシャッターが開いていて「もしかして」と思って階段を上ったらお姉ちゃんがいたんです・・」

マコトは話し終え、一息ついてアイスの溶けきったクリームソーダを一口飲んだ。

「ありがとう・・・。マコト、私に話してくれて。マコトの男嫌いの理由も控えめな性格もマコトのアイドルになりたい意志も全部伝わったよ。」

倫代はマコトに向け、微笑んだ。

「でも、無理はしないで。今日みたいに急に男の編集長に合わせてマコトに怖い思いをさせてしまったり、マコトに暗い過去を話させたり・・・私、苦しいの。人のことを考えてこんな気持ちになるの・・・はじめてなの。」

マコトと接していくにつれて、倫代の中に母性本能のようなものが芽生えていった。それが今日マグマのように爆発した。

「お姉ちゃん・・・・マコトのことだけを思ってくれてるんだね。マコト嬉しいです。分かったよ、お姉ちゃん。マコトもう無理しないよ。お姉ちゃんのこと、心配させないから。」

今日はたった数時間だけのマコトとの時間であったが、これまでで一番濃厚でマコトの真意を聞き出せた一日だった。もう遅いから、とマコトを自宅まで送っていった。玄関の前にはマコトのお母さんが待っており、会釈をしてその日は帰宅した。

 マコトはお風呂に上がり、そのまま自分の部屋に向かった。マコトは机に向かい、日記をしたためた。

 

お姉ちゃんにあの事を話した。

ずっと話してお姉ちゃんがどんな反応をするのか心配だったが、お姉ちゃんはいつも通り優しかった。それにお姉ちゃんは初めて複雑な気持ちになったって・・・マコトに。お姉ちゃんがマコトだけを考えてくれればいいのに・・・

 

どうすればお姉ちゃんがマコトだけを見てくれるのかな・・・

お姉ちゃん。

お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん…

*******

「あっ、おはよう。お姉ちゃん」

朝、事務所に向かうと、ドアが開いていた。最初閉め忘れかと思ったが、中に入るとマコトがいた。手には雑巾を持っており、デスクの掃除をしていた。

「どうしたのこんな朝早く。学校は?」

「お姉ちゃんに誰よりも早く会いたかったから・・・はい。お姉ちゃん、クリームはいらなかったよね?」

「あ、ありがとう。」

ホットコーヒーを渡される。コーヒーカップもお気に入りのもので、クリーム抜き砂糖入りになっていた。マコトにコーヒーの好みなんて言ったことあっただろうか。私は首をかしげた。

「あ、そうだ。鍵ってどうしたの?もしかして閉め忘れてた?」

「お姉ちゃん、忘れたの・・?マコトに合鍵渡してくれたよね?」

マコトは合鍵をチャリチャリと見せた。

「え・・・そうだった・・かな?」

そう言われればそうだった気もする。現にマコトが持っているのだ。恐らく自分が営業で留守をしていることがあるからマコトに渡したのだろう。私はコーヒーをすすった。マコトは「学校に行ってくるね」といい、事務所を元気よく出ていった。静かになった事務所で一人デュオを口に咥え、火をつけた。至福の煙をふかしていると、ズボンのポケットが震えた。見ると、メールの着信が入った。宛先はマコトだった。内容は『お姉ちゃん。今、駅に着いたよ。』とあった。私は取り敢えず『お疲れ様。気を付けてね』と返しておいた。送信ボタンを押すとまたメールがやってきた。宛先はもちろんマコト。『お姉ちゃん、電車に乗ったよ。女性専用車だから安心してね』とあった。その後も『駅に着いたよ』『道のわきに可愛い猫ちゃんがいたよ』『学校に着いたよ』とマコトからの登校実況がメールで配信されてきた。私は返信をせず、ただ読むだけでいたら先程よりも速いペースでメールが受信されてきた。私は急いでメールに一通ずつ返信をして、コーヒーを飲み干した。

 私は街に出て、スカウトを始めた。次のアイドルを探さなければならない。マコトのデビューは一週間後の配信に決まった。はじめの頃はスタミナがなく、数十分ダンスをするだけでばてていたが、今では激しい踊りもこなせるようになり、マコトの持ち味である儚げで触れると壊れそうな魅力がより磨かれている。ソロのアイドルというのは21世紀に入ってから生まれづらくなっている。私もナナスタでアイドルグループの結成を目指している。そのためにはアイドルをもっとスカウトしなければならない。手当たり次第女の子に声を掛けていった。しかし、以前のスカウトで何かを学んだわけでも、ハウツー本などを呼んで対策をしたわけではなく結果は、「すいません。急いでるんで」「いまどきアイドルなんてw」「おばさん、うちの彼女に何やってんの?宗教か何か?」と散々であった。指定喫煙所で一服した。街から隔離するように仕切られたこの場所だけは嫌なことを忘れられる。腕時計を見ると、もう昼過ぎであった。夕方からはマコトの配信で着る衣装合わせをすることになっている。今日も収穫なしに終わりそうだと諦めかけていた時、「お姉さん」と不意に声を掛けられた。振り向くと高校生くらいの活発そうな女の子がいた。

「どうしたの?」

「お姉さん、出版社の人でしょ?ずっと女の子に話しかけてたから」

「あはは・・」

どうもモデルのスカウトと勘違いされているようだ。しかし、今ここで「アイドルのスカウトをしている」と言ってしまえば逃げられてしまうと思った私は「まぁそんなところかな・・・」と言ってなんとか説得してカフェで話すことにした。

「えー!お姉さん、ホテル御園尾でホテルマンしてたんだ。ホテル御園尾ってマナ嬢のうちの御園尾コンツェルンがやっているホテルでしょ」

「そうそう。でも、うちは財閥の中でも下の方だから上層部との関係は殆どなかったけどね。」

「セブンスはホテルに来たことってあるの?」

「セブンスってセブンスシスターズ?セブンスの所属してたハコスタの支配人を相手したことがあるよ」

「え!ほんと!?セブンスは見たことあるの!?」

私が支配人になるきっかけとなる話をすると彼女は目を輝かせて話を聞いてくれた。熱狂的な人気があったセブンスシスターズといえども2034年にここまで食いつかれるとは思ってもいなかった。

「うーん。深夜に予約なしでうちに来てさぁ空き部屋がなかったから他のホテルを案内したから見てないんだよね。」

「もったいない!」

「でも、お仕事だから。有名人だからと言って特別扱いはできないよ。それにしてもセブンスシスターズ好きだったの?」

「好きだったって、今も好きだよ?もう解散してアイドルも下火になっちゃったけど。それでも私もアイドルやってみたかったなぁって・・・お姉さんがもしかしてアイドルのスカウトかな、と思ったけど。そんなわけなかったね」

彼女は小さく笑った。その笑顔は少し悲しみを帯びていた。私はこの機会を逃すまいと、新調した名刺を彼女の前に差し出す。

「スリーセブン・・・ってもしかして・・」

「そう。実は私、セブンスのいたハコスタの支配人をやっているの。もし、あなたにその気があるなら、アイドルになってみない?」

私がアイドルのスカウトというだけでなく、彼女が好きなセブンスシスターズのいたスリーセブンの支配人だということに驚きを隠せていないようだった。そして彼女は水をがぶ飲みし、「ちょっとだけ考えさせてもらってもいいかな。」とだけいい、その日は連絡先を交換し、解散した。

倫代はその時、気がつかなかった。

 

倫代がカフェに入ってからずっと店の外で二人の様子を虚ろな目で観察する少女の姿を。

 

 街を駆け出す。約束の時間は迫っていた。マコトはいつも時間よりも5分早く来るのでもうすでに来ているはずだ。急いで階段を駆け上がり、事務所に入る。しかし、事務所には誰もいなかった。腕時計の短針は4を指していた。約束の4時になっているがマコトはまだ来ていないようだ。電車が遅れているのだろうか・・・

 ホロコンにメールが入っているかもしれないと思い、ホロコンを開けると夥しい量の着信が入っていた。メールの相手は全てマコトである。着信件数は「99+」とオーバーフローを起こしていた。

『今学校終わったよ。お姉ちゃんに早く会いたいな。』『少し時間があるからお友達とクレープ食べに行ってくるね』『チョコバナナを食べたよ・・今度はお姉ちゃんと一緒に食べに行きたいな・・・』『どうして返信してくれないの?』『お姉ちゃん、忙しいのかな?でも、マコトのメール見てくれないとマコト、何するか分からないよ?』『お姉ちゃん、返事してください。ちょっとでいいから』『お姉ちゃん』『お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん・・・』

最初は朝のように学校が終わったことの報告など他愛もないことであったが、後半からは怖かった。返事を求めるメール、「お姉ちゃん」の羅列メールが中心であった。それも一分おきにである。百件以上はあるメールを一つずつ読んでいると、ドアの方から音がした。

「ごめんなさい・・・お姉ちゃん。遅刻しちゃいました。」

息を切らしながらマコトは謝った。しかし、私はフォローの声も遅刻を注意する声も出せなかった。

「どうしたの・・・?お姉ちゃん?」

「え・・・ああ。じゃあ、来て早々申し訳ないんだけど衣装合わせしようか。」

「はい」

私とマコトは衣裳部屋に向かった。この部屋には以前からある衣装が何百着とあり、セブンスのファンなら垂涎もののレアな衣装もあるはずである。その中で私はマコトに似合うであろう衣装を既に目星は付けていた。あとはサイズが合うかどうかである。私はハンガーラックからピンクのフリルの付いた衣装を取り出し、マコトに着替えるように促した。マコトは衣裳をとても大事そうに胸に抱き、更衣室に向かった。

 マコトは支配人から受け取った衣装を持ちながら、更衣室に入り自分のロッカーではなく「東儀」と書かれたロッカーの前に立った。

マコトは倫代のロッカーを開け、ハンガーに掛かったカッターシャツを手に取り自分の鼻孔に近づけた。

「お姉ちゃんの匂いがする・・・・・こんなところお姉ちゃんに見られたら、幻滅されるかな・・・」

マコトは自分の行動の異常さに気づきながらもシャツの匂いを嗅ぐことをやめなかった。視界にあるものが映った。ピンク色の口紅が入っていそうな可愛らしいパッケージのタバコ。支配人がいつも吸っているタバコだ。マコトはパッケージから一本取り出し、スカートのポケットに入れた。いけないことだがこれを持ち、吸うことが叶えば支配人を感じることが出来ると考えた。

 ドアの方からノックがした。

「マコト、着替え終わった?」

「あ、まだ・・・・です。」

「そう?急がなくていいから、着替え終わったらさっきの部屋に来て。」

「分かりました」

自分でも動悸が早くなっているのが分かった。もし、ドアを開けられたらお姉ちゃんはマコトのことどんな目で見ただろうか・・・しかし、自分の思いを知ってもらいたかったという気持ちも僅かながらあった。お姉ちゃんのロッカーを閉め、貰った衣装に着替えた。

「お待たせ・・しました。どう?似合うかな」

マコトが衣裳部屋に戻ってきた。ピンクを基調に黒のレースが全体に散りばめられ、胸元には大きな赤いリボンが施されていた。マコトのイメージにとても合った衣装だと感じた。

「ええ。とっても似合ってるわ。さすが私が見繕った甲斐があったわ。」

「お姉ちゃん、これ凄くかわいいね。お姉ちゃんってこういうのが趣味なの?」

「マコトはこういうのが似合うかと思って。」

私がそういうとマコトはとても嬉しかったのか、

「とっても趣味があうね・・・これって運命だよ」

と感激していた。

「今度の配信頑張ろうね!」

「はい・・・・お姉ちゃん、マコトだけを見ててね」

マコトの最後の言葉はただ配信の時にしっかり見ていて、という意味の他に何か深いものを含んでいるように感じた。

マコトは家に帰る途中、ライターを購入した。真面目そうに見られたのか店員に訝しがられることなく買うことができた。あたりが暗くなったビルの狭間でポケットからタバコを一本取り出し、先程買ったライターで火を点ける。火を点ける手はひどく震えた。

「お姉ちゃんとマコトが一つに・・・・ふふっ」

初めて吸ったタバコは罪の味がした。

*******

 この前会った少女からメールが一通も届いていなかった。メールフォルダにはマコトのメールで埋め尽くされていた。今日はマコトが作ってきたというお弁当を渡された。お弁当とはいうが、女の子が使うような可愛いコンパクトな弁当箱ではなく、重箱に入っており、しかも十段くらいある。私はつい「これ、マコト一人で作ったの?」と聞いてしまった。するとマコトは「うん。お姉ちゃんのことを想って作ったらこうなりました。残さず食べてね、お姉ちゃん」と満面の笑みで答えてくれた。しかし、こんな量食べきれる自信がない。朝ごはんを食べていないし、朝と昼で分けて食べよう…

マコトからのメールにも最初は戸惑ったが、段々と返信が早くなっていった。慣れというのは恐ろしいものである。

 箸箱から箸を取り出し、重箱を開ける。中はおにぎりやいなり寿司が入った段と煮物や玉子焼き、焼き魚が入った和食の段、ハンバーグやマカロニサラダなどの洋食の段と全部開けていないが、まるで仕出し弁当のようなクオリティであった。煮物を一つつまみ、口に入れる。みりんが効いた甘みで煮崩れもなくとても美味しい。お弁当作りが得意というのも頷ける。自分が思っていたよりも箸がすすみ、これから仕事に手をつけようと思ったのに食べ過ぎでお腹が苦しい。食後のコーヒーを入れようと給湯室に向かうと、ホロコンに着信が届いた。メールだ、相手は今学校にいるはずのマコトからである。「コーヒーが切れているはずだよ。上の戸棚にあるから補充してね」とあった。コーヒーマシーンのタンクを見ると、コーヒーが切れかけていた。上の戸棚を見ると封を切っていない新しいコーヒー豆の袋が入っていた。

なんで私がコーヒーを淹れようとしていたのが分かったんだ・・・全身に鳥肌が立った。だが、私は正気に戻り授業中にメールをしてきたマコトを叱った。

『ありがとう。でも、学校中にメールをするのは感心しないな。』

メールを送信すると直ぐに返信が来た。

『大丈夫だよ。休み時間中はホロコンを使っても大丈夫だから』

最近の学校というのはそんなに自由なのか。私の時代だと携帯電話だったが、放課後しか使うことを許されなかったのでジェネレーションギャップを痛感した。コーヒー豆を入れ、スイッチを押すとミルが作動し豆を粉砕してコーヒーがカップに注がれる。やはりコーヒーはインスタントよりも豆に限る。ホテルにいた頃もカフェテリアから豆を拝借してコーヒーマシーンに入れ飲ませていた。レストラン部門のチーフによく怒られたものだが。コーヒーが淹れ終わるまで給湯室でデュオを一服。コーヒーとタバコの相性の良さったらない。私が仕事を頑張れるのはこの時間があるからかもしれない。

 私はコーヒーカップをデスクに置き、パソコンに向かった。今日は明日に控えたマコトの配信の最終調整に専念する。昼過ぎからは音響の業者が来てセッティングの立会いをすることになっている。メディア各社へのメールの送付は済ませ、あとはアイドル専門誌の取材の交渉など今後のスケジュールを組んでいった。あっという間にお昼になり、マコトのお弁当を食べた。あんなに朝食べたはずなのにお腹は空くもので、一段丸ごと食べきった。しかし、量が多く食べきれない。夕食に回せるか・・・冷蔵庫に入れれば持つかな。2時に業者が来てスピーカーとマイクの接続テストや電子媒体に向け配信を行うので音に問題がないか念入りにチェックをした。4時、マコトが事務所にやってきた。ステージの準備が完了したので、リハーサルを通した。マコトは緊張している様子もなく活き活きと歌っていて最初の頃を見ていた私から見ても安定していて不安は薄らいだ。リハーサルが終わるとレッスンウェアを着たマコトが私の元に歩み寄ってきた。

「お姉ちゃん、どうだった?」

「うん!良かった。明日もその調子でね!」

「はい・・・・その」

「どうしたの?」

マコトは急にモジモジしだし、頬を赤らめた。

「マコトの頭を・・なでなで・・・して?」

上目遣いでこちらの様子を覗き、頭を撫でることをお願いしてきた。それくらいなら、と私はマコトの頭をよしよしと撫でた。マコトはとても嬉しそうだった。

「すいませーん、ここの配線なんですけど」

マコトの頭を撫でていると、電気配線の業者からステージ照明のことで相談があった。

「それじゃ、ゆっくり休憩してて」

「はい。お姉ちゃんも無理しないでね」

ステージ台の上には倫代のホロコンが落ちていた。マコトは誰かが踏んでしまわないよう、それを拾った。見ると誰かからメールの着信があった。

マコト以外からのメール・・・

マコトの中にどす黒い何かが生まれた。気が付けば、マコトは倫代のホロコンを開け、そのメールの内容を見ていた。マコトは衝撃を受けた。

メールの宛先は自分の知らない女の子だったからだ。マコトの中に生まれた黒い成分は血中を巡るかのように黒さを増していった。

(どうして・・・マコトだけを見てくれないの・・・マコトはお姉ちゃんだけのマコトなのに・・・)

メールの中身はこの前の話を受ける、といった内容であった。そう、あの時倫代と一緒にカフェで談笑した彼女である。元々からアイドルになってみたいと語っていた彼女は暫く考え、倫代に決心したメールを送っていたのだ。そして、メールの続きに今日の夜公園で会えないか、と書いてあった。マコトからすれば心底気分が悪かった。やっと手に入れた二人だけの空間を知らぬ女に奪われることが。自分の好意に対しうざがったり、嫌がるそぶりもない倫代にマコトは完全に支配人とアイドルという関係で割り切れないものを感じていた。

マコトはそのメールを倫代の目につかぬようゴミ箱のアイコンを押し、抹消した。マコトはそれだけで済まさず、ゴミ箱フォルダに行き永久的に見られないようにした。そこに罪悪感は僅かながらあったが、愛のためならどんなことも許されるという贖宥符を心に抱いていた。

「あれ、マコトまだいたの?もう着替えててもよかったのに」

「これ、落ちてたよ」

マコトは何もなかったかのようにホロコンを倫代に手渡した。

「わざわざありがとう。送っていくから着替えておいで」

「うん」

マコトは安堵した。どうやらこちらの様子は見ていなかったようだ。

 着替えを終え、倫代の車に乗り込んだ。車はまばらに電気のついているビジネス街を通り抜けていった。

「マコト、明日は完全配信だけど・・大丈夫?」

倫代は心配であった。今回の配信では初めて一般の人々に向け、歌を聞いてもらうことになる。アイドルのファンというのは女性もある程度いるが、多くが男性である。今回は客をステージに入れず完全配信の状態で行うが、以前のように拒否反応がライブ配信中にでないか。しかし、マコトの反応は意外なものだった。

「お姉ちゃんが見ていてくれるなら・・・マコト、頑張れるよ。だからしっかり見ていてね」

「うん。明日はつきっきりで見守るから」

「本当ですか。マコト、嬉しいです。」

駅に着き、マコトを見送る。

「今日は早めに寝てゆっくり休んでね。明日は朝から最後のレッスンだから」

「分かりました。お姉ちゃんもちゃんと休んでね。最近、徹夜が多いからマコト・・心配です。」

「なんで私が徹夜してるって・・・」

「ふふっ・・おやすみなさい。お姉ちゃん」

マコトは意味深な笑いを残し、改札に向かった。倫代は謎を残したままデュオを咥え、火を点けた。

*******

 マコトを送り、来た道を戻るとフロントガラスに水滴がポツポツとついてきた。ワイパーのスイッチを入れる。雨の日に一人のドライブほど寂寥感を覚えるものはない。FMラジオからは洋楽のナンバー・・・ラジオも一時期は衰退の一途を辿るような話もあったが、時代を問わずラジオを愛する人々がいるお陰で2030年代でもこうして流れている。私もラジオを愛する人間の一人であるが。

明日はついにマコトの配信である。アイドルも今や斜陽産業であるが、情報の海の中には今でもラジオのようにアイドルが好きな人々がいるはずである。私はこのTokyo7thで一旗揚げようという気概は持ってはいないし、セブンスシスターズを超えるアイドルを生み出そうという度胸もない。マコトが誰か一人に元気や力を与えられる・・そんなアイドルになってもらえればそれで十分だ。

「もうひと仕事頑張りますか・・・」

肩を回しながら階段を上る。

ドアを開けると、私はのけぞった。暗い中に人影があったのだ。

「誰かいるの・・・?」

私は恐る恐る部屋の電気を点けた。明かりをつけるとそこには全身を濡らした少女が立ち尽くしていた。顔はしっかりとは見えなかったが、私には誰か分かった。この間会った少女だ。わざわざ会いに来てくれたのだろう。電気くらいつけてもよかったのに。私は彼女に近づいた。すると突然彼女は「ひどいよ!」と叫んだ。私は驚いた。一体どうしたというのだろう。

「私・・・ずっと待ってたのに・・雨が降っても。」

「え?一体どういう事?」

「メールしたじゃんっ!もしかして、見てくれなかったの!?」

私は急いでホロコンのメールボックスを見た。ずっとスタジオの設営をしていてメールを確認する時間がなかった。着信件数はいつも通り99+だった。メールの殆どはマコトからだった。家に帰ってからお風呂に入ったことを伝えるメールが延々と送られ続けていた。しかし、今はそれに目を通す暇はない。彼女が送ったというメールを探すため、下にスクロールを無限に繰り返す。しかし、彼女のメールは全く見当たらない。既に登録はしているはずだ。もしかしたらと思い、迷惑メールフォルダを確かめる。だが、残酷にも「件数なし」とディスプレイは表していた。

「私をスカウトするつもりなんて最初からなかったんでしょ!」

彼女の目には涙が浮かんでいた。

「ちが・・・私はそんなつもりじゃ・・」

私は本気で彼女をアイドルにしようと思っていた。だが、結果的にこんな事態になってしまったのは今の仕事に専念し過ぎたせいだ。これまでの私ならこんな失態はまずしなかった。どの仕事もみな平等にやってきた。何故なら全て大事な仕事だからだ。でも、今思い返せば、私はマコトに力を注ぎ過ぎて彼女を蔑ろにしていたのではないか・・・

こめかみから雨水とは違う冷たいものが流れる。

「もういい!・・・・私、信じてたのに・・・・っ」

彼女は袖で涙を拭きながら勢いよく事務所を出ていった。

「待って・・・違うの!私は本当にあなたをアイドルとして迎えたかったの・・・うちにもう一人アイドルがいて、その子と一緒にデビューさせようって・・・・だから待って・・・待っ・・・・・」

言い切る前に彼女は既に事務所にはいなかった。

私は・・・・最低だ。

 マコトは母の使っている高いシャンプーで髪を撫でていた。髪に触れるたび、倫代に頭を撫でてもらったことを思い出す。

「ふふっ明日も頑張れば、お姉ちゃん褒めてくれるかな・・」

マコトは忙しそうにホロコンをタップする。しかし、仕事で忙しいのか支配人からは返信が一切なかった。迷惑がられているのだろうか。マコトに不安がよぎる。そしてもう一つの不安事項を思い出した。

「明日・・・上手くいくかな」

倫代の前では気丈に振る舞っていたマコトであるが、失敗しないか、緊張していつもよりも上手くできないのではないかと不安で仕方がなかった。だが、支配人に安心してもらいたくて、自分の姿を見てもらいたくて「見ていてくれるなら頑張る」と答えた。でももし、失敗したとき、支配人はこれまでと同じように接してくれるだろうか。自分を見捨て、他の娘に目を移すのではないか・・・

「今日のメールの子・・・・マコト、嫌だよ。」

明日はマコトにとって自分の存在価値を支配人に示さなければならない日でもあった。

 夜が明け、ついにその日が訪れた。マコトはいつも通り約束の時間より3時間も早く事務所にやってきて掃除をしていた。今日くらいいいのに、と倫代が言うとマコトは「だって朝を待ちきれなくて・・」とにこやかに答えた。マコトが作ったという特製スープを飲む。とても優しい味だった。ふと、昨日の雨の夜のことを思い出した。

「・・・・・」

「どうしたの?」

ふと、ボーっとしているとマコトが心配そうにこちらを覗いていた。本番前にマコトを心配させまいと私は「何でもないよ。」と白い歯を見せはにかんだ。マコトはやや怪訝な顔を見せたが、納得したのか「コーヒーを淹れてくるね」と給湯室へ向かっていった。本番は今日の正午。残り3時間を切った。マコトは緊張をしている様子もなく普段通りに振舞っている。逆に私が緊張している。緊張を紛らわすために朝既に何度も喫煙室に行っていた。マコトはあんな華奢な体躯だが、芯は強いようだ。

 午前十時。本番前の最終レッスンが始まった。二時間に控えていることからウォームアップや流しを中心としたレッスンが行なわれていた。歌の先生は有名歌劇団に五年間在籍していた経歴を持っており、現在は歌劇団に入るための予備校を経営しながら指導している。先生には自分の教室をやりながらマコトのレッスンもして頂いた。スパルタ指導であったが、今日は本番前か我が子を見るような眼でマコトを見ていたように感じた。ボーカルレッスンが終わると、先生はマコトの手を握り、「落ち着いて、これまで教えたことを思い出して楽しんでおいで。」とアドバイスを与えていた。マコトは目を潤ませながら「先生、ありがとうございます・・・マコト、頑張ります」と強く手を握った。ダンスの先生はかつてセブンスシスターズのダンスレッスンをしたという先生であった。はじめはマコトについて手厳しい評価を下していたが、それもマコトを思ってのことであることはマコトも分かっていただろう。マコトは苦手なダンスも必死についていった。レッスンが終了すると、ダンスの先生はマコトにハグをした。歌の先生と違い、クールな先生なのでとても意外だった。時間を確認すると本番三十分前だった。

「マコト」

「はい。お姉ちゃん」

私はマコトを連れて、化粧室へ向かった。衣装へ着替えさせると、マコトを私の前に座らせた。以前マコトと話をしていて、生まれてこのかたメイクをしたことがないといっていた。今日は折角の晴れ舞台なので私がマコトにメイクをしようとだいぶ前からずっと考えていた。

「マコトって本当に肌が綺麗よね。」

ファンデーションを軽くあてながら、私はマコトの肌にみとれていた。

「・・・・・」

「別に緊張したっていいんだよ。」

「えっ・・・」

「私もホテルマンだった時はいつも緊張の連続だったよ。程よい緊張っていうのは大事で、そこでいかに普段通りに出来るかだよ。」

「ほんとはね。マコト、失敗したらどうしようって思ってたの。お姉ちゃんがマコトを見放すんじゃないかって・・・」

「そんな訳ないじゃない・・・どんな結果でも私はマコトを見捨てたりしないよ。」

「・・・・マコト、なんだか安心しました。」

「そう。はい、出来上がり目を開けてごらん」

メイクを終え、マコトは瞼をゆっくりと開いた。マコトは言葉が出なかったようだ。

「とてもかわいいよ。今日はTokyo7thイチ可愛いアイドルとしてみんなの前にでなさい。私も前で見ているから。」

「うんっ」

本番五分前、マコトとステージ裏で別れた。私はステージの前、ちょうど配信カメラの後ろにいた。配信時間は三十分を予定している。これまでの約2か月間様々なことがあったが、全てが今日のこのたった三十分に費やされたと考えるとなんともあっけない。

 

頑張れマコト・・・・花のように綺麗に咲きなさい

 

「皆さん、こんにちは。玉坂マコトです。」

ステージの上のマコトはいつもの控え目で口数の少ない彼女ではなかった。その姿はエンターテインメントに生きる少女であった。

「今日この歌を誰よりもまっすぐに届けます。だからマコトから目を離さないでね・・・?」

その目線は真っ直ぐ前を見据えていた。こちらが吸い込まれるような魅力を放っていた。錯覚か私に向かって言っているようだった。

 歌声は大人びていて繊細。動く姿は蝶が翅を広げるように可憐。次第にマコトの笑顔も自然なものへと変わっていった。この配信を見ている人達の中でたった一人だけでもいい。アイドル・玉坂マコトのファンができて欲しいと心から思った。マコトが一曲目を歌い終える。

「ありがとうございました。楽しんでもらえたかな?マコトはこうしてステージの上に立つと、一つになれるの・・・・同じ気持ちでいてくれると嬉しいな。それでは次の曲にいきます・・・」

ステージの上に立つアイドルの前で倫代はぽつりと言った。

「・・・・アイドルになれたじゃないの。マコト・・・」

 

「今日の予約状況を教えて。林様、栗田様ね。林様は低い枕じゃないとダメだから枕を変えておいてね。あと、栗田様は電車で来られるから新白河でお迎えして。ケンさん送迎バスお願いね。じゃあ、今日一日頑張りましょう。」

朝礼を終え、私はホテルの見回りに向かった。

 Tokyo7thでの仕事を辞めはや2年が経とうとしていた。私は地元の福島に戻り、モーテルの支配人をやっている。ラグジュアリーホテルとは違い、コストを考えながらのサービスは骨の折れる仕事だが、とても充実している。玉坂マコトはあの配信では閲覧数「23」という現実的な数字を突き付けられたが、その時から熱狂的なファンを掴みアイドルファンから口コミが広がり五十、百とファンを増やしていった。それからもマコトを実際ファンに触れさせる機会を与えなかったことがある意味功を奏したのか「世界一遠い存在のアイドル」として人気を得た。アイドルの志望者も増え、何度もマコトとユニットを組んでみようかと考えたこともあったが、マコトが「マコト、もっと頑張るから・・・他の子を見ちゃダメ・・」と釘を刺され、新しい子を事務所に入れるということはできなかった。雨の日の出来事が忘れられなかったことも新しいアイドルを入れなかった理由にある。

 マコトが高校に入学する頃、アイドルを引退することになった。進学先は附属でエレベータであったが、「自分を変える」という目標が達成できたことそして、私のことを考えてくれての電撃引退だった。その頃、福島県の南部にある白河のモーテルから支配人をやってみないかとお誘いを受けた。元ホテル御園尾のナイトマネージャーだったことや私の生まれ故郷だったということでお願いされた。しかし、その時はマコトの人気が絶頂で男嫌いのマコトも少しずつではあるが男性のスタッフがいる会社との営業をこなすようになりこれからという時期であった。私は断ろうと考えていたその日、突然マコトが「マコト、アイドル辞めます」と言ってきた。

「はぁ?!マコト、自分が何を言っているのか分かってるの?」

「マコトは本気だよ。」

「どうして?理由を聞かせて。嫌なことでもあったの・・・?」

「お姉ちゃん、ホテルの支配人のお話断ろうとしているから・・・」

「私のことなんて気にしなくていいの!マコトは自分のことだけ・・・」

「お姉ちゃんのことはマコトのことだよ。マコトは・・・マコトはTokyo7thのアイドルじゃなくてお姉ちゃんのアイドルでいたいの。お姉ちゃん、ホテルマンの時のことを話す時楽しそうだもん。マコト、お姉ちゃんが幸せならそれでいいの・・・」

「マコトは本当にそれでいいの?悔いはないの?」

「マコト、もう満足だよ。」

これ以上説得してもマコトは折れる気配は無かった。しかし、突然引退をするというのは様々な会社に迷惑をかけると説明したら、「それじゃあ私が卒業する時に一緒に引退ならいいかな。」ということで中学卒業と共にアイドルも卒業することを決めた。卒業公演では最初で最後のファンを入れてのライブをナナスタで行った。チケットの倍率は当初の予想を上回り、11.65倍と抽選になった。狭いステージということもあるが、ファンがそれ程増えたという証拠である。マコトは初めて目にする男の群れに圧倒されるかと思ったが、普段通りに振る舞い彼女の2年間という短いアイドル人生に幕を閉じた。

「支配人」

廊下を歩いていると事務のみどりちゃんが私を呼んだ。

「どうしたの?予約の相談?」

「マコトちゃんが来ましたよ。」

玄関へ向かうとポニーテールに長い髪をまとめ、薄いピンクのコート、パステルカラーのスカートと春の装いをしたお嬢さんがいた。

「お姉ちゃんこんにちは。」

「あらマコト、いらっしゃい。」

マコトは月に2回くらい新幹線に乗り白河までやって来る。昔は新幹線でも2時間かかっていたが、今では半分の時間で到着するほど都心から近い場所になっている。マコト曰く私が他の子に目移りしていないかを監視に来ているらしい。マコトも束縛の強い彼氏のようなことを言うようになった。

「実は、お姉ちゃん・・お話したいことがあるんだけど・・大丈夫ですか?」

「まぁ・・・まだお客様も来ないしいいけど。取りあえず応接間に・・・」

「できれば外がいいかな。」

「・・・・わかったわ。ごめんみどりちゃんちょっと白河の関まで出掛けてくるから留守番お願い。何かあったら私に電話して頂戴。」

こうして二人でドライブをするのは久しぶりだ。私は助手席のドアを開けマコトを乗せた。

「お姉ちゃん。こうしてドアを開けてくれてたね。」

「そうね。つい反射神経で」

「マコト、あの時なんだか嫉妬しちゃいました。」

「嫉妬?」

私は白坂方向へ左折した。

「うん。お姉ちゃんはマコトにとって生まれて初めて優しくしてくれた身内以外の女の人だったから・・・マコトだけのお姉ちゃんでいて欲しかったの。

これは初めて話すんだけどね・・・・実は初めての配信リハーサルの時、マコトお姉ちゃんのホロコンで見たんです。他の女の子のメールを・・・」

「・・・・・」

白河実業高校の交差点を右折する。方向指示器の音だけが響く。

「マコト、お姉ちゃんがその子に取られると思って・・・心が苦しくなって・・・それでそのメールを削除したんです・・・」

「やっぱり、マコトだったか。」

「お姉ちゃん知っていたの・・・?」

マコトはこちらを見た。

「その子、マコトを送った後うちにやってきたの。その子はね、アイドルに憧れて純粋な思いで入りたいと言っていたけど、そのメールに書いてあった場所に私が行かなかったことで私は彼女をアイドルにする機会を潰したの。」

「違う・・・・・マコトが・・・」

「違わないよ!!」

ハンドルに水滴がつく。マコトは顔をあげると倫代は泣いていた。

「私はマコトを責めることをできない・・・・だって同罪だもの。私も結局はマコトのために仕事をしてたんだって・・・彼女のことをその時一瞬だけでも忘れていたんだから・・・支配人失格だよ」

この時、マコトは初めて自分のしでかした罪の重さに気づいた。倫代を独占したいという欲により起こした行動が倫代を苦しめていたのだから。

「お姉ちゃん・・・・お姉ちゃん・・ごめんなさい。マコト、悪い子です・・・・」

二人は白河の杜へと入っていった。




見ていただきありがとうございました。カバー付きの本にしたのですが、在庫を多く作ってしまったので欲しい方は@k_mteeeeepooまでご一報ください。

用語集
コンプレ…クレーム
ラグジュアリーホテル…都市にある高級ホテル
GM…ホテルの支配人。副支配人はRM
エキストラベッド…臨時に用いるベッド。通常ツインを三人部屋にする際に用いる。
デュオ…バージニアエスデュオ。タバコの銘柄。
UG…アンデザイアブル・ゲストの略称。ホテルにとって、招かれざる客を意味する


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