涼やかな蒼銀の髪、深い情を携えた澄んだ瞳、良きを褒めて悪しきを罰する気高い平等性。そして、大人達が『あの美しさは人外のモノだ』と恐らくは褒めていたであろうキレイな顔とおっぱい。
僕はそんな先生が好きだ。とにかく先生が好きだ。だから、気持ちを伝えた。
「せんせぇ、ぼくが大きくなったらお嫁さんになってください!」
正直に思いの丈をぶつけた瞬間、先生はほんの一瞬だけ驚いて目を満月のように丸くして、直後に困ったように笑いながらぼくの頭に手を乗せて小さく撫でてくれた。
「そういうのは大きくなってから添い遂げたいと思った相手に言いなさい。明日は宿題を忘れるなよ」
了承でもなく拒否でもない返答、誤魔化されたのだろう。だから、僕は先生の言う通り大きくなってからもう一度求婚すると決めた。
◆
昨日、同じ年に産まれて共に勉学に励んだ友人の婚約が決まった。つまり、僕はもう伴侶となる相手がいてもおかしくない年齢となっていたのだ。幼かったあの日に決めた求婚の時が来たのだと悟り、かつてと変わらないどころか日々増しているこの思いを伝える決意を胸に寺子屋での授業を終えた時間を見計らって先生の元へと向かう。
「失礼します」
かつて毎日のように通い、今でも暇を作っては何か先生の手伝いになれる事はないかと足を運んでいる寺子屋の戸を開く。やはり、かつて通っていた頃と変わらない教室、そこで何か書き物をしている手を止めて花瓶に生けた花を眺めている先生を見つける事ができた。
「あぁ、桃之助か。先週やってくれた屋根の修繕のおかげで一昨日のひどい雨でも雨漏りはなかった、助かったよ、ありがとうな」
かつてと変わらぬ美しさのまま、かつてと変わらない微笑みを向けてくれる先生。かつてと変わらずに僕へと向けてくれる瞳がかつてより魅力的なのは、僕が大人になるまでの間で更に多くの教え子へ情をもって接したからなのだろうか。
「いえ、あれくらいなら容易いもんです」
かつてと変わらない接し方をしてくれる先生、それが嬉しい、嬉しいが悔しい。僕はもう大人なのだ、かつてのような子供ではない。下の毛だって生えている。先生は未婚の美しい女性でありながら下の毛が生えた大人の男と二人きりの空間で何一つ警戒する事なく無防備に微笑んでいるのが悔しい。──仮に僕が血迷って乱暴しようとしても半人半獣の先生ならばそのたおやかな手でも片手で返り討ちにできるのだが。
「アレを容易いと言えるのは大工として腕を磨いた者か桃之助くらいだろうな。お前は幼い頃から驚くほどに器用だ」
「それぐらいしか取り柄がありませんから」
「謙遜するな、お前のそれは十分に誇るべき物だ。それに、お前の取り柄はそれだけでは無いだろう。私は長く教鞭を振るっているが、お前程快く手伝ってくれるどころかここを出ても尚小まめに手伝いを申し出てくれる者を他に知らない、その優しさとマメさもお前の長所だよ」
慕う相手に手放しで褒められてむず痒くなるが、先生は少しだけ間違えている。僕は本来優しくもマメでもない、僕は友人同士で喧嘩してるのを見て関わるのが面倒くさいと第一に考える程度には人に無関心だし、部屋の掃除を適当に済ます程度にはものぐさだ。ただ先生に対してだけは少しでも気を惹きたいがためだけにちょっと頑張って格好つけているだけなのだ。
「それで、今日はどうした?」
そんな下心に気付いてない先生が微笑みを崩さぬままに僕へと問い掛ける。──今日の本題、僕の思いを伝える時が来た!
「……け、慧音先せぅぃ!」
伝えると決意をしてきたのに、いざとなるとどうにも尻込みしてしまって言葉が震えて舌を噛んでしまった。胸に太鼓でも埋まっているのかと思えるほどに鼓動が喧しい。幼かったあの頃と同じように好意を伝えれば良いだけなのに、訳が解らないほどに緊張して声が上擦り、呼吸が浅くなる
「あ、あぁ、どうした?」
僕の緊張を察したのか先生が戸惑った様子を見せる。
幼い頃に好意を伝えれた時は、了承も拒否もされなかった。きっと、あの時は僕が幼過ぎたがために先生も敢えて答えを濁して有耶無耶にして当たり障りなく事を流したのだろう。だが、今、僕が一人の大人の男として好意を伝えて求婚したのならば先生はそれをしないだろう。
拒否されるかもしれない。
脳裡に浮かんだ思考に胸が苦しくなる。一人の大人の男として拒否されたら、今までのような先生と教え子だった男という関係ではなく、振った女性と降られた男の関係になったとして、その先でも先生の美しくてちょっと無防備な微笑みを見ることができるだろうかと、怖くなる。──だが、この好意を伝えると決意してここに来ているのだ。今更臆病風に吹かれてたまるものか。
「大きくなりました」
「は?」
「もう十五の歳です、大人になりました」
「…………?」
ゆっくりと首の角度を傾けていく先生、考え込んでいるのか少しだけ眉間が寄っている。
「慧音先生が好きです、生涯を共にしたいと思うほどに、夫婦になってください」
「なっ!?」
先生の表情が驚きに染まり、傾いていた首が跳ね上がって元の角度へと収まる。
伝えたいことは伝えた、後は返事を待つだけだ。鼓動がうるさい。
「そ、そうか」
驚きの表情から頬に朱を差しながらはにかむ先生。かつて好意を伝え時を含めて先生のこんな表情を見るのは初めてだ。とても、綺麗だと思う。なによりも綺麗だと称する他ないほどに、綺麗だ。
そして、その顔がはにかみを残したままくしゃりと寂し気な表情へと変わった瞬間、僕は答えを察した。
「すまない、私はその求婚に応じる事はできない」
やはり、断られたか。
ほんの少しの沈黙、先ほどまであんなにも騒がしかった鼓動の音が急速に萎えていくのがわかる。
「桃之助の何かが悪くて断る訳ではない。むしろ、私はお前の良さをずっと見てきた。教師としてお前を誇りに思うし、好意を寄せられた事も嬉しく思う」
「……じゃあ、なぜですか」
何故断れたのかと、女々しくも訊いてしまった。
先生の顔がほんの僅かな笑みだけを残して色濃く寂しさを浮かべる。
「私は半獣で、桃之助は人だ」
種属の違いなんて、とは、喉が掠れて声に出せなかった。
「私は長く生きてきて、これからも長く生きていく。桃之助は絶対に私より早く、私の生きる長い生の中で短い時の内に寿命を迎えて死ぬだろう」
人の一生は精神の存在である妖の生きる時と比べてあまりにも短い。半分人で半分獣、半妖とも言える先生は純粋な妖怪ほど長くは生きないが人と比べればそれでもかなり長い時を生きるのだ。
「長く人の営みの中で生きて、たくさんの人の最期を見送ってきた。桃之助、お前の祖父の祖父だって見送ったぞ、あいつは小さな頃からかなりのスケベでな、隙を突いては尻を触ろうとしてきたよ」
ほんの一瞬、欠片分の微笑みすら無くして寂しさ聞かない表情になり、それが気のせいだったのかと感じるほどの自然さで微笑みを顔に張り付ける。
「寿命は仕方ない事だ、解っているがそれでも教え子達を見送るのは辛い、とても辛い。……もしも、見送る相手が夫婦として愛するような相手だと想像するとな、もっと辛いんだ」
「そう……ですか」
「すまない。桃之助の好意に応えれないのは、私が臆病だからだ」
「……そう…………ですか」
何も言えなかった。
祖父の祖父が産まれるより前から生きる先生の抱える思いに対し、たかだか十五年しか生きてない僕が何を言っても戯れ言にしかならないと、もしかしたら、その言葉で先生の嫌な思いをさせてしまうかもしれないと考えると、何も言葉がでなかった。
「解ってくれたか」
だけど、それでもこの想いを諦める事なんてできなかった。
寂しくなるのが辛くて嫌なら、寂しくならないようにすればこの思いに応えてくれるかもしれない。
「でも、諦めません」
「……む?」
「僕が究極的に長生きできれば、慧音先生と同じだけの時を生きられれば、先生と僕が夫婦になっても慧音先生が夫となった相手を見送る辛さを知らなくて済みますよね!」
「む? むむ?」
やるしかない、やってみせる、やる!
究極的な長生きをしてみせる! それで、先生の心を射止めてみせる!
「むむむ?」
「僕、なにがなんでも長生きします! その方法を探してきます!」
言い放ち、すぐさま踵を返して早足に出口へと向かう。人の一生は短いのだ、今から寿命をどうにかする方法を探さなければ間に合わないかもしれない。
「あっ、おい、ちょっ……どういう事だ? 振った私が言うのもなんだが求婚を断られた直後にいきなり元気になられたらなんだか怖いぞ」
「大丈夫です、なんとかなります、してみせます!」
背中越しに聞こえた先生の戸惑いと焦りが混じった声に元気良く返す。なんとかするのだ。
自分の生きた人生の半分以上の期間思い続けてきた女性に降られた日、寿命という理を打破すると誓った。
◆
人里中を駆け回り、見つけた文献を漁って資料を読み解いたり、時には里を出て妖精に土下座したり幻想郷縁記に危険度低いと記された妖怪に用意できる内で最高峰の酒を交換条件に渡したりして話を聞いたりと血眼になって長寿の手掛かりを探したのは何年も前。当時にやった様々な無茶のお陰で僕はようやく長寿の手掛かりを見つける事ができた。
捨食の魔法と捨虫の魔法というものがある。捨食の魔法とは人間として食事なしでも生きられるようになる魔法で、捨虫の魔法とは捨食に至った魔法使いが自身に掛けれるようになる成長や老化を止めて寿命という概念を失くす魔法だ。
人を辞め、職業ではなく種族としての魔法使いになるための魔法。それが捨食と捨虫の魔法なのである。
僕は今、それらを習得するために研究を重ねている。進捗としては最近になってようやく魔法の源、魔力という物を感覚で捉える事ができるようになったのと、初歩の初歩みたいな魔法を扱えるようになったくらいだ。
「捨食も捨虫も間違いなく存在する魔法だ、なのに何故こんなにも手掛かりが少ないんだ」
うっすらと髭が生えるようになった顎を撫でつつ呟く。人から種族的な意味での魔法使いに存在を変えた人物が何人も確認されて資料に残されているのだからどちらの魔法も確かに存在しているはずだ。仮に存在しなくとも後天的に人から種族を変えた存在が認識されているのだから似て非なる魔法があるはず。しかし、それらの手掛かりを見つける事ができない。
このまま研究が進まなければ浪費している時と同時に加齢し、老い、寿命を迎えてしまう。それは絶対に避けたい。
先生に、愛する女性に僕を見送らせてなるものかと、焦りが募る。
あの日に先生が見せた寂しさを張り付けた微笑みで隠した切ない表情、あんな顔を僕のせいでさせたくない。むしろ、求婚した瞬間に見せてくれたなによりもキレイだと称せるはにかみでいて欲しいと切望する。
もう一度、あのはにかみが見たい。
資料を漁る手を止めて、鮮明に記憶へと焼き付いたキレイな顔を目蓋の裏で眺める。
「桃之助、いるか?」
「! ……はい」
ほんの一瞬だけ記憶の中の先生が勝手に喋ったのかと思ったが、あまりにも鮮明に聞こえたその声に先生が現実で僕の住むあばら家に訪ねて来たのだと気付いて声の元へと振り替える。研究の資料や道具が散らかったままな空間の先、呆れたように鼻で嘆息しなが腕を組んだ先生が常と変わらない美しさで立っていた。
組んだ腕に豊かな胸部が乗って形を変えている艶やかさから必死に目を逸らして先生の顔を見る。やはり、時を重ねる度にその魅力を増していた。
「随分と散らかしているな、少しは掃除した方が良いのではないか?」
「いやぁ、お恥ずかしい。研究に集中するとどうにも身の回りを後回しにしてしまって」
言い訳だ、このあばら家は常にこんな感じである。直後に先生が床に散らばっていた文献の一冊を拾い上げて表紙を手で軽く払った。
「……ふむ、そこらに放置してある文献に埃が積もる程度には長く集中していたらしいな」
どうにも僕のズボラはバレてしまっているらしい。なんとなくばつが悪くて苦笑いが浮かぶ。
「私も手伝うから掃除しなさい、要件の話はその後にしよう」
「いえ、先生にそんな事をさせる訳には──」
「どうせこのまま放っておけば散らかりっぱなしにするだろう。これだけ埃をためてしまっては人の体に悪影響があるだろうし私も落ち着いて話ができん」
そう言うやいなや散らばっている資料を拾っては丁寧に埃を払い空きだらけの資料棚に一冊づつ納め始める先生。拾い上げるさいに屈む視線になったが故に見えてしまった深淵のごとき胸の谷間に鼻の下が伸びて視線を突き刺してしまったが、先生一人に掃除させる訳にはいかないと慌てて動き出して研究の道具を片付ける。
片付けながら記憶に焼き付いた谷間を何度も反芻する。
「桃之助、雑巾は何処にあるんだ?」
「ぉっぱ!」
「? 何を急に驚いている」
「いえ、何でもありません」
きょとんとした顔で小さく首を傾げる先生、はらりと、蒼銀の髪がしなやかに揺れた。
先生のありがたい協力のお陰ですぐに片付いたあばら家の中、潰れた座布団に座ってお茶を啜りながら向かい合う。
「それで、今日訪ねさせて貰った要件なのだがな。里の北にある川を渡るための橋が老朽化で壊れそうになっているのは知っているか」
「はい、先月には欄干の一部が壊れてもたれ掛かっていた子供が危うく川に落ちそうになったとか」
「あぁ、それでだな。里の寄合で橋を修繕する事が決まったのだが、橋脚だけでも桃之助の魔法でなんとかできないだろうかとの提案があってな。それができれば予算も作業の手間も大きく省けて非常に助かるらしい」
なるほどたしかに、僕の素人考えではあるが川の流れの中に根本がある橋脚というのは取り換えるにせよ補強するにせよとても大変な作業なのだろうとは察する事ができる。
僕の魔法の腕前など捨食と捨虫の研究を優先してばかりでそれ以外の魔法など火も金槌も無い場所で鉄を加工したり手を触れずに物を動かしたりする程度のものだが、それでも大変な作業を省略できるのならば頼りにしてみようかと考えるのも解る。
「協力するのは吝かではないのですがね」
「おぉ、協力してくれるか」
嬉しそうに口角を上げる先生、その眩しさに『全部任せて下さい』と言いたくなるが堪える。僕の魔法なぞ些細な物なのだ、調子には乗れない。
「僕は屋根の修繕程度なら容易いですがさすがに大きな構造物の根幹部分を治せるほど器用でも魔法に長けてもいませんよ」
「なに、駄目でもともとだ。難しい部分を少しでも楽にできるなら協力して欲しいと大工衆も言っていたし何ができるか解らないなら大工衆とちょっと話し合ってやってくれないか?」
まぁ、それくらいなら容易い事です。と、自分に出来ることならやりますよ。と、研究の時間が惜しいのに先生の言葉に二つ返事で頷いたのはきっと惚れた弱味なのだろう。
◆
いつの間に寝ていたのかと、そうぼんやりと思考しながら目を醒ましてまず目に入ったのは険のある先生の顔、そして、苦笑を浮かべる薬師の老人の姿だった。
「目が醒めたか馬鹿者め」
「慧、音……先生? おはよう、ございます?」
何故そんなにも不機嫌そうなのか、何故ここに薬師の老人がいるのか、僕の記憶ではつい今しがたまで一人で研究に没頭していたはずなのに何故馴染みのある潰れた布団で寝ていたのかと疑問符が頭の中を埋め尽くす。
「うんうん、意識もハッキリしてるようじゃし問題無かろ、儂はもう帰ります」
「あぁ、助かったよ茂吉。急に呼び付けて済まなかった」
「いあいあ、他ならぬ慧音先生の頼みにございますから」
状況を飲み込めない内にあばら家から出ていく薬師の老人。見送った後に恩師の前で寝たままなのは失礼にあたるのではないかと思い至って身を起こそうとしたが、半獣故に細くとも怪力を秘めている先生の腕に額を押さえられて動きを止められた。
「寝ていろ、倒れていたんだぞ。それも、発見が遅れていたらどうなるか解らない状態でだ」
「なんと」
強い口調で言い聞かせるように放たれた言葉にギョッとする。
「不養生による疲労の蓄積、それと栄養不足だそうだ。桃之助、お前飲まず喰わずで研究にのめり込む奴があるか」
不機嫌な顔、強い口調、悲しみ溢れる声色に己の失敗を悟る。
擬似的に完成させたはずの捨食の魔法はただの失敗だった、空腹と疲労を感じなくなるだけで肉体はしっかりと餓えていたし疲労も蓄積していたのだ。
こんなのでは捨食の魔法とは呼べない、この魔法のあるべき形とは魔力で食事と睡眠を補える状態に至る事なのだ。
「お前が倒れているのを見つけた時、胸から胴体にかけて私には読み取れない紋様のような陣が刺青のように刻まれているのを見た。もしや、それもお前の倒れた原因か」
言葉尻に疑問符の付かない質問、先生は見抜いているのだろう。
「はい、まぁ、間接的ですが」
「そうか、それはいったいなんだ」
「不完全ではありますが、僕なりの捨食の魔法です。不老へ至るためにようやく踏み出せた一歩目の……失敗作ですね」
正直に答えると、先生が目で見て解りやすく動揺した。
「桃之助、お前は……」
僕の名を呼んだ後に俊巡しながら言葉を途切らせる先生、普段ならば何事もハッキリと言葉にするだけに非常に珍しい姿だと思う。
僕の額を押さえたままだった手のひらが滑るように動き、僕の視界を閉ざした。
「人であることを辞めようとしているのか」
黒だけの視界、色の無い先生の声が耳を打つ。
透明すぎる声色に、先生がどんな感情を秘めているかまるで推測する事ができない、
「はい、結果的にはそうなる予定です」
「………………そうか、それは……」
「添い遂げたいと、慕う女性がいるのです。人のままでは、添い遂げられぬのです」
だから、だから僕は人を辞める。
息を飲む音、長い、とても長い沈黙。
「無理は……しないでくれ」
「寿命を克服する、その無理を通したいのです」
再び沈黙。
先生が僕の視界を塞ぎ続けている間、顔に感じる先生の手の温もりを堪能し、心に刻み付けた。
◆
里から集めに集めた文献、実験を幾度も重ねて記した記録、このあばら家に収まる程度の資料棚では足りなくなって来たことを感じつつも更なる実験にて新たに解った事を書き記す。ふと、集中が途切れて食欲をくすぐる蠱惑的な香りを鼻に感じた。
「あぁ、慧音先生、いらっしゃってたんですか。すいません、集中し過ぎていたようで気付いていませんでした」
「いや、気にするな。それより、丁度出来上がったところだ」
鼻に感じた匂いは米の炊ける匂いと味噌の匂いと魚の脂が火に炙られた独特のもの。
「鮭ですか、そういえばすっかり秋ですね」
産卵のために遡上してきたものが一部どうやってか幻想郷に迷い込む事がある。それが捕らえられて市場に出回ったのだろう。
言いながら腰を左右に捻って骨を鳴らして肉をほぐす。軽快に鳴った事に随分と長く集中していたようだと気付く。
ほぐれた体で先生が用意してくれた膳の前まで移動し、先生と向かい合うように腰を降ろす。
『いただきます』
示し合わせる事無く揃う食前の挨拶。
「うむうむ、我ながら漬物も上手くできてるな」
嬉しそうに漬物を頬張り、飲み込んだ先生が笑う。深い情の感じ取れる微笑みも美しいが、たまの機会に見ることができるこんな風に純粋さを感じ取れる笑顔もまた、先生の魅力の一つなのだろう。
「いつもの事ながら、ありがとうこざいます」
「ん? あぁ、勝手にやってる事だ、そんなに深々と頭を下げてくれるな」
あの擬似的な捨食の魔法に失敗して倒れてしまった日の少し後から始まった先生との食事。あれから何年が経過しているが二~三日に一度は必ず先生が訪ねてきてこのように食事の支度をしてくれるのだ。
「放っておけば桃之助は食事も休養も蔑ろにするからな、申し訳無く思うのならばもう少し身の回りの事に気を配れ。今日も来たときに何冊か文献が棚から出されたままだったぞ」
「あ」
そういえば、ちょっと調べ事をした後にうっかり資料をそのままにしていたなと視線を部屋に巡らせる。だが、散らかったままのはずだった資料は何処にも無く、代わりに整理された資料棚が目に入った。
「片付けておいた」
「申し訳ない」
「申し訳なく思うのならばもう少ししっかりしなさい」
「……はい」
幾度となく繰り返したやり取りだ。
なんだか可笑しく思えて、二人で小さく笑いあった。
◆
半分に狭まった視界に見えるのは荒れに荒れきった石造りの地下室。慣れない治療のための魔法でどうにか傷は塞いだが、片目の視力はもう戻らないらしい。
「くそ、とんでもないポカをやらかしてしまったな」
幾重にも張り巡らせた罠、幾重にも縛り付けたつもりの契約陣、知性を持ちながらも力は小さい物を狙った召喚陣。つい先日捨食に至った僕は、未だに手掛かりの少ない捨虫の魔法の手掛かりを得るために魔に通ずる存在である悪魔を召喚し、情報を得ようと試みた。しかし、うまく契約に縛れていたと思っていたのだがどうにも穴があったらしく容易く反逆され、罠によって悪魔を魔界に還す事は出来たが得られた情報は極々僅かなものだけだった。
「僅かだが情報を得られたけど、ここから先はまた手探りか」
溜め息を吐きながら地下室の掃除をつづける。
捨虫の魔法、これは、人の体内で寿命を減らしている虫を殺す魔法を指すらしい。解ったのはこれだけだ、それ以外はまるでわからなかった、虫の探しかた、虫の殺しかた、どんな姿をした虫なのか、とにかく何もわからない。全て自分で調べるしかないのだ。
「我流だけど完全に手探りで捨食までできたんだ、捨虫だってきっと……」
できる、できるはずだと自らを鼓舞する。だが──
「時間、足りるだろうか?」
掃除を止めて自身の手を見下ろす。実験に使う薬剤に肌が荒れた手、外的要因が無くとも肌の艶は無く、幼い頃とは違う張りのない皮膚。加齢している者の手だ。無意識に撫でた顎、手入れを少し怠ればすぐにだらしなく伸びる髭のコワゴワとした感触が指に伝わる。
老いた、というほどではないが、僕はもう若くはない。
これから先、徐々に肉体が老いていくだろう。
「間に合わせなければ」
想い人にもう一度は求婚するため、添い遂げるため、僕の最期を見送らせないため、なんとしてでも捨虫の魔法を完成させなければならない。ほんの僅かだが手掛かりは得た、ここからきっと研究は飛躍的に進むはずだと、もう一度自身を鼓舞する。
掃除を再開しようとして、結界を越えた来訪者を感知した。
「先生がいらっしゃったか」
人里で長らく住んでいたあばら家は老朽化的にも収納スペース的にも玄関だったために引っ越した先は里の外れと言うには外れすぎた場所、人里と魔法の森の間に新しく建てた小さな家屋だ。ここならば研究のために少々危険な実験をしても第三者に害は無いし、魔法の森へと研究の材料を探しに行くのも楽で、人里への往き来もそう苦ではない。しかし、人里から出ていると言うことは妖怪や獣の危険性がそれなりにあるので里の人間がここまで訪れる事は基本的に無い、例外として、半獣であるがために襲われる心配の無い先生が習慣で共に食事を楽しむために訪ねて来てくれるだけだ。それを、妖怪対策として構築した結界が感知したのだろう。
今日は何を共に作ろうか、そのためだけに広く作った台所で二人並んで料理をするのは研究の合間にとても良い気分転換になる。
掃除を中断し、荒れた地下室をそのままに地上階へとむかう。
潰れた片目を見た先生に『無理はするなと言っただろう』と、ひどく悲しまれてしまった。
◆
落ちた視力に隻眼の狭い視界が霞む、髪だけではなく顎に蓄えた髭もずいぶんと白くなった、誰からも器用だと褒められた指先も時たまうっかり滑らせる事が増えた。老いた、僕はどうしようもなく老いてしまった。
老いたが、どうにか捨虫の効果を擬似的に得る魔法を完成させる事ができた。完成させてしまった。
本来の捨虫の魔法とは人の体の中に住まう寿命を減らす"虫"と呼称されている概念的な存在を殺す魔法だ。概念的な存在を殺すには物理的な方法で殺す事はできない、概念的な方法でしか殺す事ができないのだ。しかし、寿命の克服のために人の肉体についてばかり研究を続けてきた僕には呪殺や概念の書き換えといった術などまるで修めていなかったので、本来の捨虫の魔法を構築する事ができなかった。
僕が完成させてしまった捨虫の魔法は、人道に背く外道の魔法だ。
虫を殺せないから自分以外の誰かに移す、たったそれだけの単純な魔法。だがそれは、移された誰かは本来の虫と移された虫により倍以上の早さで寿命を減らされ、その人が死ねば虫は僕に帰ってくる欠陥を持つ。しかも、虫は帰ってくる時に死んだ人間の中にいた虫を引き連れて僕の元まで戻り更に激しい寿命を減らすのだ。
きっと、その状態でもまた誰かに虫を移せば僕の寿命は減らないだろう。でも、その相手が死ねば三人分の虫が帰ってくる。つまり、この欠陥魔法は他者の寿命を喰らいながら寿命を遠ざけるだけの悪足掻きにしか過ぎないのだ。
「こんな魔法……使えないな」
たしかに虫が戻って来ても魔法を繰り返せば長生きだけはできる。しかし、そんな外道で得た長寿でどうして先生の傍にいれようか。先生はいつだって僕の失敗に気付いてきた、ズボラに対しての誤魔化しも実験にのめり込んで倒れた時もすぐに先生には気付かれた、片目を失った時も実験の失敗だと誤魔化したがすぐに戦闘での負傷だと気付かれたのだ、人の寿命を奪うなんて大それた事もきっと気付かれるだろう。そして、悲しませるだろう。そんな事はできない、先生を悲しませたくない。
最初から幅広く魔法の研磨を積まなければ完全な捨虫の魔法にはたどり着けない。長寿のみの研究ばかりだった僕は最初から種族的な意味での魔法使いになれなかったのだ。
頭を抱えながら自身への落胆に深い溜め息。こんな外道な手段以外の方法を残り少ない寿命で見つけられるだろうかとぼんやり思考していると、何者かが結果を越えて来訪した事に気付く。
「こんにちはー! 魔法使いのお爺さんいますかー!」
先生の声ではない幼い少女の高い声。こんな所に何の目的があって来たのかと不審に思いながらも玄関の戸を開く。傾き始めた陽の輝く空の下、鮮やかな金の髪を微風に靡かせた少女がそこにはいた。
「魔法教えてください!」
「うむ?」
顔を合わせるなり放たれる教えを乞う言葉と光を放っているのではと思える程に輝かしい視線。それ以上に里からの道中に獣や妖怪による危険があるはずのこの場所に幼い少女がたった一人で此処へと訪れていることに戸惑う。
「お嬢さん、一人で此処へ? 名前は?」
幼い少女を玄関先に立たせたまま話をするというのはどうにも落ち着かず家の中へと招いて訊ねる。聞けばこの少女、魔法使いに憧れているが家の者に猛反対され喧嘩となり家出してきたとか。それで、里の何処にいてもすぐに家へと連れ戻されるだろうから思いきって噂に聞いていた里の外に住む魔法使いの元まで弟子入り来たらしい。末恐ろしい行動力だ。
若さ、幼さ故の無鉄砲さが眩しく思えたのも、僕が年老いたからなのだろう。
「教えてあげるのは吝かではないんだがね」
「ホントか! あっ、本当ですか!」
輝きの瞳を更に輝かせる少女、少し崩れた口調の方が少女の素なのかもしれない。
「僕はもうこの通りお爺さんだ、近い内に寿命をむかえるだろう。そんな短い期間では中途半端な事しか教えれない、そんな無責任はできないよ」
「え~~、それじゃあもっと長生きしてよ」
「はっはっ、無茶を言う」
不貞腐れるように口を尖らせた少女の物言いに思わず笑ってしまった。それができたらと僕自身もどれだけ願っていることか。
「陽が沈むまでに里へ帰らねばね、さぁ、送ってあげよう」
「……帰りたくない、ちょっとだけでも教えてよ」
「そのちょっとだけ、というのが危ないのさ」
拙い知識と魔法だけでは逆に危険が及ぶ事が多い、それは僕自身が実験の失敗や片目を失った事で散々思い知ってきた。この少女にそれを味合わせる訳にはいかない。駄々をこねる寸前な雰囲気の少女をなんとか宥めて里に帰る事を了承させて共に家から出て、はぐれないように念のため手を繋いだ時にふと、魔が差した。
繋いだ手から感じる少女に秘められた魔力。才もなく非力な僕と比べて膨大とも言えるそれに魔が差した。
この少女は魔法を学べば大成するだろう、それも凄まじい早さで。些細な術理のほつれなど魔力で捩じ伏せて多くの事を成せる、それほどの魔力だ。
欠陥的な捨虫の魔法で僕の虫をこの少女に移し、止まった寿命の中でこの少女に魔法を教え、育ったこの少女と共に完全な捨虫の研究をすれば少女の寿命が激しく減らされたとしても──
「お爺さん?」
魅力的で都合の良すぎる妄想に取り憑かれそうになった衝撃に動きを止めた僕、少女が訝しみながらも輝く瞳で僕を見上げた。
「いや、何でもないよ」
そう、なんでもない。妄想はしょせん妄想だ。
「? そうなの?」
「あぁ、そうさ。さぁ、行こう、ちょっと喧嘩しても親というのは子供を心配するものさ、陽が暮れる前に帰らねばね」
沈みかけた陽によって空が朱に染まっていく中、二人で里に向かって歩く。その間に多くの話をした。少女の魔法への憧れ、僕の実験による失敗談、少女の里での日常、僕が魔法を志した理由。好いた女性の心を射止めるためだと話した時の少女の瞳はとても輝いていた。
「お爺さんの恋は叶ったの?」
「さて、どうだったか。歳をとると物忘れが激しくて」
なぜだか、つい答えを濁してしまった。
仮に僕が今寿命を克服したとして、その時点での僕は老人だ、美しい女性に求婚するには少々不恰好に過ぎるだろう。まあ、諦めはしないが。
様々な事を話ながら歩く。里のすぐ近くにまで来た頃にはかなり陽が沈み、辺りは薄暗くなってしまっていた。
「そろそろ妖怪が活発になる時間だね、急がないと──」
危ない。そう言葉にする直前に物陰から飛び出した影が僕と少女に向かって疾走するのを見た。
「あっ」
少女も影に気付いたのだろう、呆けたような声と共に身を強張らせた。そんな少女と繋いでいた手を引き寄せて庇うように懐へ納め、影へと手を翳す。
「教えれないけど、魔法を見せてあげよう」
「え?」
寿命の研究ばかりでその他の魔法を研磨をする事はほとんど無かったが、それでも数十年と魔法に携わってきた僕は初歩的な魔法ならば使う事ができる。例えば空間に光を灯すだけの魔法などだ。
閃光。老体に鞭打ちながら全力で魔力を注いだ光源の魔法、光の向きに指向性を持たせて影へと注ぐ。ただ眩しすぎるだけの無力な光の柱が影を呑み込みながら周囲を淡く照らす。
飢えた獣か人の血を欲した妖怪かまでは確認してないが、日の沈みきる前にこんな里の近くで人に襲い掛かってくる者ならば大した理性も知性も無いのだろう。その程度の者ならば光で目を焼いてやれば恐れをなして勝手に逃げていくはずだ。
光の柱の中から苦しみ悶えるうめき声と地にのたうち回って擦れる音が聞こえる。
「……わぁ……!」
危険な状況の中、懐に納めた少女の感嘆を耳にした。
うめく影がのたうち回りながらも覚束ない足取りで物陰へと下がって行く、影の姿が見えなくなった時点で再び老体に鞭を打って懐に納めていた少女を抱え上げた。
「すっごい……! 魔法、すごい!」
「今ので他の獣か妖かを呼び寄せてしまったかもしれない、急ぐよ」
懐ではしゃぐ少女をそのままに残り滓の魔力を使って疲労を誤魔化しながら里へと走る。幸運な事に今の影以外に何かと遭遇する事なく人里へ辿り着く事ができた。
「桃之助! 先ほどの光はお前か!?」
人里を守る門、それをくぐろうとすると血相を変えた先生と槍やら弓やらで武装した里の自警団と顔を合わせた。どうやら先ほどの光で里を騒がせてしまっていたらしい。
「はい、今しがた……うっ、おっふ……何者かに襲われたので、ふぅ……脅かしてやりました」
「お、お爺さん、大丈夫?」
さすがに頑張り過ぎたらしい、少女を降ろしながら答えたが過剰に息が荒らぐ。そんな僕を見て少女が動揺してしまったようだ。
「お前はまた無理をしたのか」
「いやぁ、面目ない」
何があったのかと状況を説明すれば剣呑だった自警団達もすぐに門を閉め始めた。人里近くに人を襲う何者かが身を潜めているのだから当然の対策だろう。
「お爺さん、今日はありがとう! 今度また魔法を見せてよ!」
僕はちょっと疲れただけだと解って動揺を治めた少女が大きく手を振りながら去っていく。自警団もまた、里を守るために散開してこの場に残ったのは僕と先生だけだ。
「そうか、あの子を送り届けてくれたのか」
「はい、無事に送り届けれて良かった」
「獣か木っ端妖怪かに襲われたと言っていたな、怪我は無いか?」
僕に向けられた深い情の瞳が僕の身を案ずる。
「この通りですよ」
疲れに膝が笑いそうになるのこらえながらニヤリと笑ってみせる。すると、先生がゆっくりと息を吐きながら肩を撫で下ろした。
「慣れない荒事に疲れただろう、今日は私の屋敷で休んで明日帰るといい」
「いや、なんのこれしき」
「里の門だってもう閉められている、休んでいきなさい。それに、額に滲む汗と先ほどの荒れた呼吸で痩せ我慢などとうに見抜いているんだぞ」
やはり、先生にはなんでも気付かれてしまうようだ。
「無理はするな、お前はもう若くはないのだから」
「……そうですねぇ、老いてしまいました」
老いた、その言葉に先生がほんの一瞬だけ寂しげに視線を伏せた。それを見なかった事にして、二人で肩を並べてゆっくりと先生の屋敷へと足を向ける
「先生」
「なんだ」
「不老の魔法、僕はそれに辿り着きました」
隣から息を飲む音。
「何度見直しても術理にほころびは無く、扱うための魔力も非力な僕でも十分に支払える」
「そ、そうか……」
歩みを止めて先生の美しい顔を至近から見詰める。
深い情の瞳が揺れながら見詰め返す。
「ですが、僕が辿り着いた不老は、誰かを苦しめる外道の魔法でした。僕にあれは扱えません」
「…………」
「僕は近い内にこの命を終えるでしょう」
「……そう……か」
長い沈黙。
「……でも、僕は諦めません、足掻きます。この命を終えるまで別の不老を探し続けます」
「え……?」
見詰め合い絡んでいた視線をほどいて歩みを再開させる、先生が一歩遅れて足を踏み出した。
「一つ頼みがあるのです」
「……言ってみろ」
僕はもう老い先短いが、不老を、この恋を諦めるつもりなど更々無い。不老を成し、その後に若返りの方法を探し、もう一度この美しく情深い瞳の思い人に求婚するつもりだ。
たが、残された時間の短さばかりはどうしようもない。成せなかった場合の事も考えなければならない。
「僕の家の地下、あそこには研究の成果の多くを貯蔵しています」
「あぁ、私も何度か足を踏み入れたがあそこはまさしく桃之助という一人の人間の歴史を積み重ねた場所だ」
自分の事ではないのに、とても誇らしげに言い切る先生。僕を、僕の歴史を誇ってくれたのか。
「先ほど言った他者を苦しめる不老の魔法についてもあそこに貯蔵されてます」
その他にも人を害する事を躊躇わない者に渡れば悲劇を産んでしまうような物も多く貯蔵していると重ねて言うと先生は『そういった物を産み出せども悪用しなかった桃之助はやはり、私の誇りだよ』と微笑んだ。
とても、綺麗な微笑みだと思う。なによりも綺麗だと称する他ないほどに、綺麗だ。美しくて、愛おしい。
「不老を成せずに終わった時、あの地下を処分して欲しいのです」
「わかった」
力強い即答。
「私の誇る桃之助の善性、何者にも踏みにじらせないと約束しよう」
「ありがとうございます」
涼やかな蒼銀の髪をしなやかに揺らし、深い情を携えた澄んだ瞳で僕に微笑む思い人。この気高い思い人に任せておけば安心だろう。
月が昇ってきた夜の里、招かれた先生の屋敷で思い出話に華が咲いた。
◆
瞳に深い情と深い寂しさを携えた女性が墓石へと呟くように語りかける。
「お前の案じていた地下室、ようやく処理が終わったよ。これでお前の善性はもう踏みにじられる事はない、安心しなさい」
蒼銀の髪が風になびく。
「全てを処分するのはどうにも惜しくてな、私が見て解る程度の物の内、危険性の少ない物は残したよ。きっと、誰かがお前のように魔法を志した時に役立てるだろう」
しばし、無言。
沈黙の中で女性は故人との思い出に浸る。
「嗚呼、想像していた通りだった……」
とても、とても辛いよ、桃之助。
深い情の瞳が墓石を見詰めた。