それ以外、望むことはない。
「デートをしよう」
唐突に、それはもう唐突に。
膝の上で熱々のコーヒーをちびちびと飲んでいた彼女が、不意にそう提案した。
「……ひとまず理由から聞かせてくれ」
「ないぞ。今思いついたことだからな」
得意げな顔をしてふふんと、ラウラ・ボーデヴィッヒは鼻を鳴らす。
果たしてどう反応したものか、返答に窮したのでとりあえず彼女の頭をわしわしと撫で回した。
細工のような銀の長髪は滑らかで、ほんのりと甘い匂いがする。
「何をする」
「悪い悪い。にしても、デートか」
「うむ。週末の休みにでもどうだろうか? もちろん、無理にとは言わないが……」
「行くよ。行くに決まってる」
尻すぼみとなっていく言葉を最後まで言わせず、小柄な体を抱き締める。
「ラウラが望むなら応えるだけだ。そう決めたんだからな」
「……すまない」
「ありがとうって言ってくれよ。いいじゃないか、デート。あぁ、楽しみだなぁ」
「……そうだな。本当に、楽しみだ」
口元を緩め、マグカップを傾けるラウラ。こくりと喉が鳴り、熱っぽい吐息がこぼれた。
「一夏」
「なんだ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
こぼれる息は白く曇る。
デート当日、待ち合わせ場所に時間の三十分前に到着した俺は、ぼんやりと空を見上げていた。
空模様はあまりいいとは言えない。予報では午後からは雪が降るそうだが、どうやらその通りになりそうだ。
手荷物を増やしたくないため、傘は持ってきていない。最悪の場合、途中で調達すればいいだろう。
「一夏」
視線を前に戻せば、いつの間にかラウラがそこにいた。ベージュのダッフルコートを着ていて、防寒具としてマフラーと手袋を身につけている。こちらを見上げる赤い右目は、いつにもまして明るく輝いているように見えた。
似合っている、そう告げると彼女は嬉しそうに破顔した。
「待たせてしまったか?」
「いいや、全然。ていうか、まだ待ち合わせ時間にもなってないぞ」
袖を捲って腕時計を見せれば、「考えることは同じだな」と笑みが返ってくる。
「行こうか」
「おう」
手袋を外し、差し伸べてくる小さな手を、同じく手袋を外してそっと包み込む。
温かい手だ。それに柔らかい。
繋いだところを軽く緩めてやれば、するりと細い指が己のものとの間に滑り込んだ。さっきよりも強く結ばれた掌に、じんわりとラウラの体温が伝わってくる。
「ふふっ」
「なんだよ」
「いや、温かいなと思ってな」
身も心も、と。
微笑みと共に付け足したラウラに、何も言わず手を握り返した。
二人並んで歩くとき、少しだけ意識しなければならないことがある。
それは歩調だ。
歩幅の狭いラウラに合わせて歩くのは少しだけコツが必要で、普段よりゆっくり、そして気持ち小さめに一歩を踏み出さなくてはならない。
かつて転びそうになり、頬を赤くした彼女から頼まれて以来、いつも念頭に置いていることだ。
適当にぶらつきつつ、目についた場所や店を見て回る。俺たちのデートはそう決まっていた。
最初から目的地や物を決めていてはつまらない、新しい発見が出来ない、とはラウラの談で、二人で出かけるときはなるべく行ったことのない場所へ足を運ぶのだ。
公園、本屋、ブティックなどなど。やがて足休めのために訪れたのは、いわゆる猫カフェだった。
「猫カフェなど初めて来たが……これはなかなかいいものだな」
近寄ってきた毛の厚い猫──アメショーだと思うが自信はない──を優しく撫でながら、ラウラはふっと穏やかな笑みを浮かべる。
その姿はどこまでも慈しみに溢れていて、ある種の尊さまで見出だせるような気すらした。
飼われているだけあって人に慣れているのか、猫も猫でされるがままとなっている。甘い声で鳴く様子からするに、ああやってされるのが心地よいのだろう。
「にゃーお」
「ふふっ、にゃーん、なんてな。……一夏? どうかしたのか?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
首をかしげるラウラから顔を背け、用意されたドリンクに口をつける。
にゃーん、ってなんだ。にゃーん、って。あんなの反則だ、いきなり過ぎる。
「ん?」
息をついて顔を上げると、一匹の猫がこちらを見ていることに気がついた。ほっそりとした胴体の、真っ白な猫である。
その瞳は右が青く、左が金色だった。
「おいで」
声をかけながら手を招くと、白猫は軽い足取りで俺のところに寄ってきた。
隣に並んだ小さな体を、ラウラに倣ってそっと撫でる。
「ラウラとおんなじだな、お前の左目」
「ん、何か言ったか?」
「目の色が同じだって言ったんだ。ほら、この子」
「どれ……あぁ、本当だな」
色の異なる双眸を覗き込んだラウラが頷き、何を思いついたのか、おもむろに左目を隠す眼帯を外した。露になるのは猫と同じ金色の
俺が首をかしげて見守る中、彼女は顔の横まで持ち上げた手首を軽く曲げ、上目遣いのまま口角を悪戯っぽくつり上げた。
まずい、と気付いたときには遅かった。
「にゃあ」
「!? ~っ!!」
「ぷっ──ははははははははっ! 動揺し過ぎだろう! このくらいのことで!」
喧しい、笑うな。
抱腹して哄笑するラウラに耳の先まで赤くした俺ができたのは、そっぽを向いて彼女の頭を乱暴にかき回すことだけだった。
「楽しいな、一夏」
不意にそう呟いたラウラに、一拍遅れて返事をする。
猫カフェを後にしてからというもの、何かと理由をつけてちょっかいをかけてくる誰かのせいで、少なくない疲労感も溜まってはいるが、それを引っくるめても楽しいことに間違いはなかった。
「あんまりはしゃぐなよ。転んでも知らないぞ?」
「私を誰だと思っている? こんなくらいで転ぶものか」
上機嫌に、それこそスキップでも始めそうなくらい弾むように前を歩いていたラウラが振り返り、微笑を投げかけてくる。
視界には微かに舞い出した雪がちらついており、そんな中で浮かべられた無邪気な笑顔に、足を止めて魅入った。
「あぁ、本当に──」
──
隠しきれない諦観の念を滲ませるラウラに、意識が急速に現実へと引き戻されていった。
口の中が乾いて、言葉がすぐに出てこない。
「一夏、私はあと何年生きていられるんだろう? 何年お前と一緒にいることができるんだろうな」
「ラウ、ラ……」
「……すまない。気を悪くさせてしまったな。今のは聞かなかったことにしてくれ」
そう言ってラウラは寂しげに笑った。
赤い瞳を細め、眼帯という無機質なものをつけていながら、どこまでも美しい彼女のことを、俺はただただ抱き締めた。
分かっている、分かっているのだ。
彼女は長く生きられない。
こうしていられる時間も、そう多くはないということくらい。
ラウラ・ボーデヴィッヒはデザイナーベビーだ。
戦いを生業とする兵士としてこの世に生を受けた彼女の寿命は、投薬を筆頭とした様々な処置により、普通の人間よりも遥かに短いものとなっている。八十年、九十年と生きる人がいる一方で、彼女の命はその四分の一にも満たないのである。
彼女の余命は、長く見積もっても残り数年。二十歳までは絶対に生きられない。
あまりに残酷で、無情な事実だった。
「ラウラ、俺は……! 俺はっ……!」
「大丈夫、私は幸せだよ。こんなにもお前に素敵なものを与えられて、かけがえのない日々を過ごせているんだから」
穏やかに告げたラウラの手が、俺の頬まで伸びてくる。しなやかな指先が、伝っていた雫に触れた。
幸せにしなければならない。
俺の命に懸けて、彼女のことを。
たとえ残された時間が限られていたとしても、最後の一瞬まで寄り添おう。
だからもう少し。
もう少し、このままでいさせてくれ──。