殺意も敵意も無く、ただ立っているだけだというのに思わず膝を折ってしまいそうな威圧感に斗和子は知らず額や背中に冷や汗を流していた。自身が全盛期ならいざ知らず、主と同様に弱体化し、使えなくなった能力すらある現状ではまるで勝ち筋が見えない。歴戦の妖である彼女は瞬時にそれを悟ってしまう。
そして、ベナレスとは初対面の斗和子以上に紅娘はベナレスの力をなまじ知っているがゆえにガタガタと震えていた。幼げな体躯は弱々しく縮こまり、尻尾も垂れ下がっている。
「あ、あなたは……」
二人の視線を追いぱいも自らの状況を悟る。
額に刻まれた赤い
「まさに聖者の帰還か……ご苦労だったな
「!?」
意味不明な言葉を口にするベナレスにぱいはシヴァの爪を左手に付け臨戦態勢を整える。だが、焦るぱい達に対し、ベナレスはまるで意にも介さず、それどころか親し気な様子ですらあった。
「もはや
まるで部下を労うような言葉。その言葉は紅娘や斗和子にではなく視線を合わせるぱいに向けられているのは明白であった。
だが、ぱいにはベナレスの態度や言葉に思い当たる所はまるでない。噛み合わない会話にぱいは訝しむが、同時に心の何処かでベナレスの言葉を肯定する意志が有る事にぱいは言い様のない恐怖を感じ始める。
「な、何を言ってるの!?私はぱい、パイよ。パールバティー四世よ!!」
そんな恐怖を払拭するようにぱいは精一杯の大声で虚勢を張る。少しでも時間を稼げば白と八雲が来てくれる。そんな希望に縋る。
ぱいのそんな思いを込めた声に対し、ベナレスは威圧感を霧散させ、まるで似合わないぽかんと間の抜けた表情を浮かべていた。まるで今の状況が自分が想定していたそれとはかけ離れている。そんな表情だった。
「く、くっくっ」
僅かな沈黙の後、状況が飲み込めたのかベナレスはくつくつと喉を震わせた。
「よもや、お前まで記憶を失っているとはな、想定外だった」
「な、なによ!?」
ベナレスの言葉にぱいの中で何かが悲鳴を上げる。それはチョアンリンリンの術を見てから無意識に気付かないようにしていた何か、だったのかもしれない。
「思い出せ!お前はシヴァが妻、パールバティーでは無い!その体に取り憑いている我が下僕、化蛇だ!!!」
衝撃。まるで頭を叩かれたかのような衝撃がぱいを襲う。無論、痛みは感じてはいないが、その代わりの様に心臓の鼓動が早まり、先ほどとは違う理由で冷や汗が止まらない。
「貴様も違和感は何処か感じているはずだ。思い出すがいい四年前を!お前がまだその体に憑りつく前を!!」
「わ、わたしはぱいよ!ぱいなの!!」
押し寄せる不安感と鳴り止まぬ警鐘にぱいは声を張り上げる。それはベナレスの言葉を否定するというよりも自分に言い聞かせるような声色だった。
「それはお前が記憶を失ったために人間どもが与えた間違った認識だ」
「っ!!」
ぱいとの会話に集中した為か、僅かに出来た隙を逃さんと斗和子がベナレスに躍り掛かる。
「む!」
斗和子は獣の如きしなやかな動きでベナレスの顔面へと右足を放つ。しかしベナレスはまるで意にも介さず虫でも払うかの様な動作で斗和子の攻撃をいなしてしまう。
だが、斗和子は空中で巧みに体を操るとベナレスとぱいの間に立ち塞がる。
「斗和子さん!」
「その子と一緒に白様のところまで!ここは私が……っ!」
逃げてと訴える斗和子の言葉をベナレスの剛腕が遮った。しかし斗和子も只の妖怪ではない。すんでのところで躱した上で尾を伸ばす。
「その尾は……あの時の娘か?」
白とそっくりの姿にベナレスは眉を顰める。双子と言って遜色無い二人の容姿に加え、尾を自在に操る戦い方。白を一度しか見ていないベナレスが勘違いするのも無理はなかった。
「なるほど……ふむ、見違えたぞ」
斗和子は人の胴体程も有ろうかと言う尾を十メートル近くの伸ばし岩へと変じさせ叩きつける。それどころか避けた方向に合わせ、幾つもの岩の杭が尾から生えベナレスへ向かって飛ばされる。
岩の杭は銃弾と変わらない速度で打ち出され、妖怪でさえも直撃すれば只では済まないだろう。だがベナレスは岩の杭を巧みな体捌きで躱しあるいは四肢で打ち砕いていく。
ベナレスがその場から離れるまで続けられた攻撃だったが、ベナレスは掠り傷はおろか、服の解れすらも見受けられない。
「やるな、幾つか当たりそうになったぞ」
嫌味にも受け取れるベナレスの賞賛を聞き流しながら、ぱいを背後に斗和子はじりじりと間合いを測る。
(戦闘力はとら級と考えて良さそう。……戦況は少々、いやかなり劣勢)
自らの主から聞いていた情報、そして実際に目にしたベナレスの様子から斗和子は最大級の警戒を己に課す。体捌きは相当だが、それに加えてベナレスは古の魔術師としての側面を持ち、しかも不死。今までの動きからはスピードや腕力はとらに譲るだろうが、攻撃の多彩さやそもそも不死という事を考えるととらと比べても遜色はないだろうと判断していた。
(まぁとらも不滅と言ったら不滅……と余計なことを考えました)
かつての怨敵の片割れを思い浮かべながら、斗和子は更に攻撃を重ねていく。墓標の群れごとベナレスを薙ぎ払わんと尾を振り、緩急を織り交ぜ両手の爪で襲い掛かる。
「くっ」
だが当たらない。それどころか反撃をせずに笑みを浮かべ斗和子の出方を楽しんでいる節すらあった。
「そこそこ楽しめた。礼を言おう」
何度目になるだろう。斗和子の振るう腕が、尾が空を切る。そして……。
「あ……あぁ、あ」
ふと気づけばベナレスは恐怖で満足に逃げる事も出来なかったぱいの傍らへと移動していた。それを成したのはベナレスの短距離転移術であった。ぱいを積極的に追わなかったのもこの術があってこそだ。ようは斗和子達は遊ばれていたのだ。
「貴様!」
ベナレスの舐めきった態度にかつての大妖怪の化身のプライドが傷つけられたのか斗和子は歯を鋭い牙に変容させる。そのまま怒りに身を任せ斗和子はベナレスへと飛びかかる。獣じみたその動きは先までの体捌きの様な清廉さは無いものの、速さと勢いはかなりのものだった。
「悪いがここまでだ。三只眼が取り返したくば追ってこい。小僧にもそう伝えるんだな」
再び、ベナレスの体が忽然と消え失せる。後には愉快そうなベナレスの声が空気に響き渡るだけだった。
「申し訳ありません御方様」
地に頭を付け斗和子が平伏する。如何に強敵との邂逅とはいえ満足に時間すらも稼げなかったことを斗和子は恥じていた。ともすれば血が滲みそうな程に頭を地面に擦り付けていた。
「……謝るのは後だ。それに相手がベナレスではな」
かつてからすればあまりにも寛容な言葉だが、ここで無駄に士気を減らすのは得策ではない。それに四年前とはいえ白は二人掛かりでベナレスに惨敗しており、ベナレスの尋常ならざる力はその身で覚えていた。
「ん……ぱい?」
「八雲?」
「……こっちの方向にかすかにぱいのテレパシーを感じる」
「っそんなに離れちゃいないってことか……」
一点を凝視する八雲はどうやら主であるぱいの思念波を感じたようだった。ぱいが三只眼を自覚して日が浅いせいか、か細くはあるがそれでも八雲へと自身の窮状を伝えんと訴えていた。
「っ!?ダメだ途切れちまった。でも、向こうなのは間違いない!」
「行くぞ!」
「はい」
「まぁた走しんのか……」
八雲の言葉を皮切りに皆が一斉に走り出す。常識はずれの速度で走る人外三人に付き合わされる人間一人という図式だが、それでも各々が出せる力の限りその場へ向かって急行するのだった。
瓦礫、ひび割れた壁、欠けた階段。そして、それらの中心である祭壇にいつの間に裸にされたぱいがふわりとその体を空中に浮かばされていた。
魔法陣が敷かれ異様な雰囲気を放つ祭壇だが、それよりも更に異質なのは頭だけの三つ目の石像がそれを見下ろすように設置されていることだろう。怒りをこれでもかと表現したかのような異様な顔面はまさに破壊神と言える威容を放っており、見るもの全てに畏怖を与えるそんな石像だった。
そして、この石像が異様な気配を放つ理由。それはこれこそが妖怪の統治者、恐怖の王、
ベナレスは封印されし王への献上品としてぱいをこの場に連れてきたのだ。
「无にテレパシーを送っても無駄だ。……招かれざる客が一匹いるが、まぁいい。さぁ先ほどの続きだ思い出すのだ化蛇よ」
そんなベナレスの足元には血を流し倒れ伏す紅娘が横たわっている。ぱいを守ろうと必死に転移に付いてきたが、相手がベナレスでは相手が悪い。ロクな抵抗も出来ず痛めつけられてしまったのだ。
そこで興味を失くしたのか、ベナレスはぐったりとした紅娘を気にすることもなく、更にぱいに術を施していく。それは、記憶を呼び戻す類のもので、実質ぱいに危害が加わる事はない。だが、ぱいの中の何かが思い出すなと警鐘を鳴らし続けていた。
「う、あぁああ……!?」
やがて、周りの風景が過ぎ去った四年前と変貌していく。
「ベナレス様、三只眼吽迦羅が見つかったとは本当ですか?」
「あぁ」
「なんたる奇跡、まさか生き残りがいたとは……」
港の一角に腰を下ろすベナレスに竜の様な妖怪と牛鬼の様な見た目の妖怪が話しかけている。人間の世界でも伝承のみしか伝わらない三只眼吽迦羅だが、どうやら妖怪の世界でも相当に希少なのはその会話からも推察できた。
「で、如何なされるつもりで?」
三只眼吽迦羅は妖怪の王たる鬼眼王と同一種族、仲間に引き込めれば比類無き戦力ともなるが、逆に敵となれば最も厄介な敵となりうる。
「面倒になる前に殺そうかとも思ったが、せっかくの三只眼だ。王復活まで生かして―――――」
「王の滋養になってもらう」
ぎらりとベナレスの目が怪しく光る。確かに三只眼吽迦羅は味方にすれば心強く、敵対すれば難敵である。それは身に秘めた力が絶大であるからこそである。だが、それは取り込むことが出来れば極上の贄ともなる。同じ種族ゆえの親和性も有る。
「ならば……」
「うむ、チョアンリンリンを使う。化蛇は居るか!」
ここでチョアンリンリンと化蛇の名が出てきた。そして―――。
するりと物陰から尻尾が三つ股に分かれた蛇が現れる。そして、知性が有るかのごとく、うやうやしくベナレスへ頭を垂れた。
「この大役、貴様に任せた。三只眼に何処までこの術が通用するかは分からんが、見事三只眼の意識を封じて見せよ!」
そうしてベナレスはぶつぶつと呪文を唱えると人差し指と中指の指先が輝きだした。そうして頭を垂れたままの蛇の額に指先を押し付けた。
瞬間、光が辺りを照らす。
光が落ち着くと、ベナレスの指先には小さな菱形の結晶にこれまた小さな三つ股の尾の様なものを生やした何かが引っ付いていた。
「え……」
その菱形にぱいは覚えがあった。普段は目にする事は無いが、毎朝、毎夕、鏡を見るたびに己の額にそれはあったのだ。
「あ、あれは……じゃ、じゃあ、これが化蛇……」
ふるふると震える手でぱいは額の菱形を撫ぜる。その感触は幾度となく感じた事が有るはずなのに今は得体のしれない恐怖を伴うものだった。
「そうだ。思い出したか化蛇」
泡沫に漂う僅かな記憶の残滓、それが少しずつ繋がり始めようとしたとき、ベナレスの声がかかる。
「三只眼の意識を封じ、その体を動かしているのは菱形に身を変じた化蛇、お前だ」
そう、チョアンリンリンとは記憶を封ずる術では無かったのだ。他者に異なる者を取り憑かせ、取り憑いた物が対象者を意のままに操る術だったのだ。
つまり今、ぱいの体を動かしているのは――――――――。
「あ……あ、あぁ!!」
意識体にも関わらずぱいの体ががくがくと震え、喉から拉げた悲鳴の様な声が漏れる。
ベナレスはそんなぱいの様子をまるで気にすることなく、更に言葉を続けていく。
「まぁ俺にも二つの誤算が有った。偶然、見つけた三只眼が白竜天に舞う年に生まれた最強の三只眼、パールバティー、パイだったことだ」
ベナレスは生を受け僅かもにしないうちに三只眼吽迦羅を貪り食うほどの力を持った大妖怪である。その身に宿す力は並みの三只眼ではまるで相手にすらならないが、パールバティーなら話は別であった。鬼眼王の未来の妻というのは伊達ではなく、その力は鬼眼王を除けば最強の名に相応しい。現にチョアンリンリンを掛けられながらも、囚われの身にならなかったのはその証左であった。
「かろうじてチョアンリンリンを施し、第三の目を封じたが、こちらは全身を吹き飛ばされ上に再生に一週間以上もかかってしまった」
愉快そうにベナレスは笑う。自身の失態ではあるものの、白や三只眼との戦いは彼にとっては慮外の娯楽だったようだ。
「そうして、私は記憶を無くして、おじいさまとおばあさまに拾われた……」
繋がっていく記憶と事実。ぱいは一つ一つを探るように思い出していく。だが、いまだに信じたくないせいか、自身が化蛇という事実に関しては実感を感じていなかった。
「そうして、もう一つの誤算は異なる人格を一つ憑りつかせるチョアンリンリンでは二つの人格を持つ三只眼では不完全だったことだ。パイの意識こそ封じることが出来たが、三只眼は記憶喪失に留まりあげくに化蛇、貴様も記憶を失い自分がパイだと誤った認識をしてしまった」
まるでぱいを射抜くかの如くベナレスの目が怪しく光る。
「おかげで貴様、俺に歯向かう気でいるな?」
威圧するベナレスにぱいは震えることしかできない。それは強者であるベナレスに対する恐れなのか、それとも上司の逆鱗に触れることの恐ろしさを化蛇と知っているかは定かではない。
「ふ……まぁそれも良い。だが!パールバティーならともかく、その体に憑りついているだけに過ぎない貴様では俺はおろか、この封印状態の王すらも倒すことは不可能!」
そういって口角をわずかに緩め、ベナレスは王が封印されている聖魔石を指さした。
そこで、ぱいの体に自由が戻る。やれるものならやってみろと言わんばかりのその態度は慢心などではなく、厳然たる事実を物語っていた。
(うぅ……鬼眼王は目の前……でもでも……八雲さん、どうしたら良いの)
攻撃しなければと思う心と、この男に逆らうなという相反する心がぶつかり合い、ぱいは動けないでいた。
そんなぱいを見透かしていたのだろう。ベナレスはぱいに一歩近づき、選択肢を与える。
「お前のとる道は二つ、その体のまま俺に付き従うか、三只眼の記憶を取り戻し、俺と王を殺すかだ」
ぱいが返事する暇を与えずベナレスはつらつらと言葉を並べていく。
「記憶を取り戻したくば、最小の魔法陣であるシヴァの爪にこう唱えよ!ルドラ・ムシャーテと。さすればすぐに三只眼とパイは復活する!!……ただし」
記憶が蘇る、その言葉にぱいの心が一瞬、どよめくがそれは次のベナレスの言葉で粉々に打ち砕かれてしまう。
「パイを復活させるということは貴様が醜い化け蛇へと戻るということだ!!!」
ぱいとパイ、記憶と過去。求めた記憶は本人が思っていた以上に残酷で非情なものだった。