時間は少し遡る。
連邦首都モスコーにあるクレムリン宮殿、その主であるジュガシヴィリは憂鬱であった。
各国に潜ませていたスパイが次々と逮捕されていく様子は、彼に深刻な猜疑心を巻き起こし、ロリヤに命じて次々と必要な処置を講じた。
党内をはじめとして多くのところで、スパイと思われる者達が逮捕・処刑されていったが、それでもまだどこかにスパイがいるのではないか、という疑いが彼にはあった。
ロリヤは非常に問題があるが、能力的に手放すには惜しい人物だとジュガシヴィリは確信している。
ただ、流石にこれ以上はマズイと彼がロリヤの息のかかっていない者に念の為、彼の身辺調査をさせたところ、問題があるものが出てきてしまった。
ジュガシヴィリも擁護のしようがない性的な意味で倒錯したことまでやらかしていた。
史実でいうところの、ベリヤのフラワーゲームだ。
これが各国にバレたら、ただでさえ良くない連邦の評判がより落ちると彼は恐怖した。
そのとき、件のロリヤが血相を変えて執務室に飛び込んできた。
ドアを蹴破る勢いであり、さすがのジュガシヴィリも眉を顰める。
「どうしたのかね?」
ジュガシヴィリはまた他国に潜ませていたスパイが逮捕されたのか、と予想するが、ロリヤの口から告げられたのは――
「同志書記長! ニューヨークにあるエンパイア・ステートビルを武装集団が占拠しました!」
ジュガシヴィリは嫌な予感がした。
こういう予感は当たるものだと彼は諦観しつつ、続きを促す。
「それで?」
「連中は我が国の国旗を掲げ、合州国を共産主義国家として独立させると宣言しています!」
ジュガシヴィリは自分でも驚くほどに冷静であった。
ただ、とりあえず手近な物――傍にあった椅子を思いっきり蹴飛ばした。
椅子が床に倒れるが、その様子を見て、非常に不快な気分になった。
彼自身でもよく分からないほどの精神状態だが、ロリヤの身を竦ませるには十分すぎた。
「やっていないな?」
ジュガシヴィリの問いかけにロリヤは何度も首を縦に振る、
NKVDの対外工作活動は一時的に停止している状態だ。
他国に尻尾を掴まれてはたまらない為、状況が落ち着いてから再開する手筈であった。
ジュガシヴィリは叫ぶ。
「資本主義のクソ共め! 自分達で火事を起こしやがった! そんなに我々と戦いたいのか!?」
善良なる市民を多数犠牲にしてでも、連邦との戦争を望んだとジュガシヴィリは直感する。
第三者からすれば、お前が言うなという状況だが、あいにくとここには彼とロリヤしかいない。
「同志……」
どうしましょう、という顔をしているロリヤにジュガシヴィリは告げる。
彼は憤慨していたが、ここで合州国が参戦してくると絶望的な事態になるということは理解していた。
「何としてでも、合州国の直接参戦だけは防げ」
「……善処致します」
ロリヤはそう返すしかなかった。
しかし、もはや全てが遅かった。
FBIの捜査により、指揮を執ったとされる大使館職員達の住居から文書などが多数発見されたことが発表された。
それから数日後、FBIは連邦が裏から手を引いていたという内容の発表をしたのだ。
ジュガシヴィリは激怒した。
しかし、彼が怒ったところで事態が解決するわけでもない。
一気に反共・反連邦へと合州国の世論は傾いた。
『合州国は自由と正義、そして民主主義の偉大なる兵器廠であり、また守護者である。私は合州国大統領として、ルーシー連邦に対する宣戦布告を提案する』
ラジオを通じて、それは全世界に向けて流された。
合州国議会は賛成多数により、連邦に対する宣戦布告に同意し、承認した。
合州国の国民は熱狂し、エンパイア・ステートの惨劇を忘れてはならない、共産主義者達を打倒する、と各地で決起集会が開かれた。
また同時に各地にある陸海軍のそれぞれの事務所には入隊を志願する者達が長蛇の列を作った。
待ってましたとばかりに多くの企業は戦争特需に沸き、早くも工場の拡大や新規設立へ向けて動き始める企業もいた。
1926年6月4日の合州国による連邦への宣戦布告は、各国に勇気を与えたかのように民衆からは見えた。
合州国に続くように、次々と欧州諸国や極東の秋津島皇国が連邦との戦争に加わってきたのだ。
さながら悪の帝国である連邦を、みんなで協力して倒そうという、とても分かりやすい構図になった。
そして、その構図を後押ししたのは帝国の政治家であるヒトラーだった。
彼はこの戦争を帝国や他国が個々に利益を求めて戦うのではなく、共産主義という大いなる脅威に対して一致団結し、打倒を目指す思想的な戦争という論を展開した。
連邦が最初に帝国との戦端を開いた後、各国が帝国へ宣戦布告してきた事実から、今回の欧州における戦争は全て連邦による謀略の結果であることが明らかである。
その真の目的は労働者による理想国家建設などではなく、連邦の実態を見れば分かる通りに、諸国の奴隷化であり、共産党における貴族達の私腹を肥やす為である――
彼の論は帝国国内だけでなく各国において――国民だけでなく、政府高官や軍人にまでも――広く、そして強く支持された。
各国の政治体制は色々あれど、共産主義を掲げている国家は連邦しかない。
共産主義の打倒というただ一点において、各国は一致団結でき、更に国民からの支持も強く得られ、また戦後の利益も裏で約束されている。
乗らない国はどこにもなかった。
連邦は外交的に四面楚歌の状態で、逃げ場はどこにもない。
軍閥の乱立で群雄割拠の時代となっている中国のうち、幾つかの軍閥が連邦への支援を行ってくれてはいたが、そんなものは焼け石に水であった。
そこへ更に追い打ちを掛けるかのように、連邦軍の前線陣地は勿論のこと、連邦各地にある都市や街、村に帝国空軍により様々な種類のビラが大量にばら撒かれた。
それは連邦軍への降伏を呼びかけるものではなく、ルーシーに住まう民達に向け、共産主義に対して抵抗するよう呼びかけるものだった。
連邦軍将兵にとってルーシーは共産主義体制であろうと祖国である。
祖国を守るための戦争だから参加した――強制的に連れてこられた者も大勢いたが――というのが彼らの戦う理由だ。
一番衝撃的であったのは亡命ルーシー帝国政府の協力で作られた写真入りのビラだ。
それはアナスタシアが目を閉じて両手を組み、祈りを捧げている。
その後ろにはルーシー帝国旗と銃があり、ビラに書かれているのはたったの一文。
『ルーシーに住まう全ての民の為に、私は祈り、そして戦う』というものだ。
他にも父親であるニコライの前にアナスタシアが跪いている写真入りのビラもある。
こちらも文章は一文のみだ。
『皇帝になれ、アナスタシア。新しきルーシーを創造せよ』というものだった。
ビラは見た目のインパクトと内容がシンプルであることが大事だとして、ヴェルナーが手を回した結果である。
こういったビラ以外にも、近いうちに空襲が行われることを知らせて避難を促すものが都市や街、港などでばら撒かれた。
このような、将兵だけでなく国民にも動揺をもたらすこれらのビラは共産党により迅速な回収が行われたのだが、回収する速度よりもビラを撒かれる方が速いため――とある都市では朝昼晩それぞれ数十機の爆撃機による編隊で100トン単位でばら撒かれた――どうしようもなかった。
こっそり隠してビラを持ち帰る者も多く、また軍内部にも任務に対して消極的な態度を取る将兵が現れはじめ、共産党の統治体制は揺らぎ始めていた。
このままでは最悪の事態となると共産党の誰もが思っていたが、打てる手は何もなかった。
思想統治を強固にする、ということは決定されていたが、反抗的な者をスパイや反動主義者として逮捕などしてしまえば、それこそ取り返しのつかない事態になる可能性が高かった。
そのような情勢で迎えた6月15日早朝。
帝国陸軍及び海軍の攻勢に先立って、帝国空軍が遂に動いた。
『夏の嵐』と名付けられたこの作戦は空軍が保有する大半の爆撃機戦力を動員し、投入するものだ。
無数の四発爆撃機が編隊を組み、多数の戦闘機に護衛され西から東へと向かっていく。
それは帝国内における複数の基地から飛び立ち、それぞれの定められた地域を目指していた。
敵陣地に対する地域爆撃を実行するためだ。
当初予定されていたムルマンスク及びアルハンゲリスク空爆はレンドリースが打ち切られたことで中止された為、より規模は増している。
今日より1週間、帝国陸軍の攻勢が開始される22日午前7時まで、前線における連邦軍陣地は爆撃の標的となる。
投入される重爆撃機の数は史実における軍事目標への戦術爆撃として絨毯爆撃が行われたコブラ作戦の比ではなかった。
そして、投入される爆撃機は従来のもの以外にも先行量産機である新型が2種類交じっていた。
その2機種はそれぞれターボファンエンジンもしくはターボプロップエンジンを搭載したものだった。
メアリー・スーは目を見開き、大きく口を開けて、その大編隊が東へと向かっていく様子を見ていた。
その横では父親であるアンソンもまた同じような顔で遥か空を行く大編隊を見ていた。
軍から離れた身であるが、アンソンはかつての上官により説得され、協商連合から帝国へと魔導師として派遣されることとなった。
協商連合は連邦へ宣戦布告してはいないので、義勇軍としてだ。
そして、娘のメアリーも魔導師としての適性があった為、彼女は両親を説得し、義勇軍魔導師として父親と一緒に派遣された。
もう父さんと離れたくない、ルーシーの人々を救いたい、祖国を守りたいという3つの思いによるものだ。
母親も2人が行くなら、と待遇がいい帝国のとある企業へ短時間労働者として応募し、工場で働き始めた。
帝国軍の装備と戦術に慣れるため、アンソンとメアリーは協商連合の他の魔導師達と共に帝国の教導隊により扱かれている最中だ。
2人が見ていたのは2種類の大きな爆撃機の編隊だ。
一方の爆撃機はプロペラがエンジンごとに二つずつ――二重反転プロペラ――あり、それをゆっくりと回しているらしく、その動きが目で見えるくらいだ。
エンジンが発する重低音は非常に騒々しい。
もう一方はそもそもプロペラがなく、とても甲高い音を空に響かせている。
『訓練の最中に余所見とは親子揃って随分と余裕だな?』
アンソンにとって、話しかけてきた教官はかつて刃を交えた敵であった。
白銀と渾名されるターニャ・フォン・デグレチャフ少佐――その人だ。
教導において彼女は本来は相手の階級が上であっても手を抜かないことで有名であり、また教導の為にアンソンが一時的に特務大尉という階級に――教導終了後は大佐に戻る――なっていることもあって、容赦なく扱かれていた。
現役時代の勘を取り戻す為にはちょうどいいとアンソンとしては思いつつも、優秀な将校であり魔導師であるとターニャを高く評価していた。
『まあ、気持ちは分からんでもない。新型の編隊を間近で見れたのは自慢していいぞ』
その声は何だか弾んでいた。
航空機が好きなんだろうか、とアンソンが思い、メアリーは怒られないかどうかビクビクする。
『さて、共産主義者共を倒す為に訓練を再開する! ついてこい!』
そう告げるターニャの声は非常に気合が入っていた。