私には記憶があった。
胎児の頃より今に至るまでそれが途切れたことはない。産声を上げた瞬間も、父の逞しい腕に抱えられたことも、母の心底安堵した表情を今でも変わらず覚えている。
目を閉じれば容易に脳内で再生することができるほどに始まりの記憶は強烈で、命の奔流を、あの炎ような熱を放つ暖かく、しかし確かな煌めきを私は覚えている。
その想いは尊く、酷くかけがえのないものだと教えられたのは母が死ぬ直前だった。
私の赤い記憶。
__何故なのだ!景寿郎、どうして分からない!
父上が私を睨んでいる、ああこれは怒っているだろう。
分かりませぬ、少しも全く分かりませぬ。父上よ、どうして母上を労らねばならぬのです?
身体が弱っているのは知っている、そう長くもないこともわかっている。だがしかし…どうして皆は母を気遣うのだろうか。弱き者は死ぬ、そして強き者が生きる。それは至極当たり前の道理ではないのですか?
__兄上は人としての情はないのですか!母上が亡くなられて思うことはないのですか‼︎
杏寿郎が泣いていた、瞳を潤ませながら私に憤りをぶつけている。
あるとも弟よ。勿論悲しい、胸が張り裂けそうになるさ。
_ならば何故…涙の一つも流れないのですか!俺は貴方が表情を変えるのを見たことすらない!本当に偲んでいるなら泣ける筈だ!
弟よ、しかし分かっていたではないか。母上の老い先は短いと、お前は知っていた筈だ。
ならば覚悟はできていた筈だ、別れの挨拶も私は生前に済ませた。故にその遺骨はもはや母ではない。一銭にもならない只の塵だろう。物に魂は宿らない、あの人は生きていたからこそ私達の母だったのだ。
_もういい‼︎聞きたくない‼︎出て行け景寿郎、お前は何処えなりとも消えてしまえ!
承りました。ではこれより煉獄景寿郎、最終選別へ行って参ります。
__二度と顔を見せるな、貴様はもう俺の息子ではない!
委細承知。私は二度とこの家の敷居を跨ぐことはないでしょう。
それが父の望みなら、私はかまわない。きっと気味が悪いのだろう。母と瓜二つの顔をしていて、その実中身はかけらも似ていないこの私が。
_兄上…行ってしまわれるのですか?
すまない千寿郎、どうやらお前の稽古にはもう付き添ってやれそうにない。でも嬉しいだろう?ようやく厄介者が家から居なくなるんだ、清々したろう、稽古だって嫌々だったろう?
__そんな、悲しいことを言わないでください。僕は兄上のことをそんな風に思ったことはありません。
なんだ?世辞はいい。私のことは私が一番わかっているさ。
_いつか兄上のことをわかってくれる人にきっと出会えます。それまでどうかご自愛ください。いつか…きっと母様のような方に_
あの人は特別だ、紛れもなくな。弱くて脆くて…でも太陽のように暖かな人は後にも先にもいやしないさ。
微睡む、淡く、浮かぶ。
嗚呼、これは記憶だ。過ぎ去った、今は亡きあの人と交わした最期の記憶。緋色の思い出。
その日は晴々とした良い天気で、少しの間なら起き上がって屋敷を散歩できるくらいには母上の体調が良かった。
父上と弟達は何か精のつくものをと買い出しに出かけ、私は母に呼ばれていたので一人家に残っていた。
失礼します、景寿郎です。何用でしょうか?
寝室の襖を開けると心なしか顔色の良い母が此方を見つめていた。病で倒れる前よりか幾分かやつれたがその瞳は決して弱いものではなく、確かな強さを感じさせる。
__景寿郎。顔を見せてくれる?
はい。どうかなされましたか母上。
そっと私の頬を両手で挟み、私の瞳をじっと見つめている。
_いえ、ただ死ぬ前に息子の顔を焼き付けておきたいのです。私が一番はじめに産んだ貴方の顔を。
ただ見ている。愛おしそうにも恨めしそうにも感じられない、そういった情念を取り払ったある種の空のような目で私を見つめている。
それは意味があるのですか?貴女はもうすぐ死ぬる身だ、なるべく自由にやりたいことをやるべきでは。こんなつまらない息子に拘ってる暇はない。
どうにもむず痒く、手はそのままに首だけ動かして視線をずらした。
__……まったく。相も変わらず貴方はずれていますね景寿郎。気の使い方を間違えています、私は今この上なく我儘に命を使っているのですよ。
クスリと笑う。その顔に邪気はない。それが私には堪らなく居心地を悪くさせる。
理解できません。私の顔など面白いものではないでしょう。父上か弟達の方がよほど貴女を喜ばせられます。
父ならば母を身を粉にして気遣い、つまらぬ願いでも全身全霊で叶えようとするだろう。
弟達ならば母を慈しみ、別れを嘆き悲しんでくれるだろう。
私には何も無い。掛ける言葉も想いも祈りもありはしない。吐けども吐けども出てくるのは虚ろな言葉ばかりで、本当に大切なものが抜けている。
_いいえ、面白いほど私にそっくりですよ。そして私は貴方をつまらない男に育てた覚えはありません。全てを教えました、誰よりも厳しく、そして愛情を込めて。
……それこそ時間の無駄だった。私はどうしようもない人間だ、下らなく、酷く矮小で冷徹だ。この家には不釣り合いなほどだ、自慢できることと言ったらせいぜいが剣の腕くらいだ。
__いいえ貴方は確かに煉獄の子。槇寿郎と瑠火の子供です。下らなくありません、矮小でも冷徹でもありません。あなたは優しい子。
不意に手を離すとゆっくりと抱きしめられた。暖かで、けれども今にも消えそうな弱い鼓動が私を包み込んだ。太陽の、陽光の微熱。
病床の母親に気の利いたことの一つも言えない私には過大な評価です。
引き剥がそうと力を込めるも何故だか一向に距離は開かない。母は振りほどこうとすればするほど離さないとばかりに強く細腕を回らせる。
_いいえ、あなたは人よりもほんの少しだけ心が折れにくいだけの可愛い私の子供です。腕がいくら立とうが子は子、親は親です。目に入れても痛くないものですよ。
…こんな私が、ですか?
人の何たるかを知らず、また育たなかった私がか。
顔を上げ縋るように目を見やる。
_そんなあなたが、ですよ。
ああ、この人は今日死ぬのだ。なんとはなしにそう悟った。
なれば余さず、一言一句聞き逃さない様にしよう。それが私にできるせめてもの恩返しだ。
「よく聞きなさい、景寿郎」
「はい」
「あなたは__」
末期の言葉を、私は聞いた。
楔は打たれた、がらんどうはその日人の形を保たれたのだ。
弱きを助けるのは杏寿郎に、優しさを持って尊ぶのは千寿郎に。
「あなたは誰よりも自由に生きなさい、それが私が託せる唯一の言葉です」
それは
それはなんと残酷なのだろうか。ああ指標がないとはなんと辛いものだろうか。
私には何もないのに、目的も、大義も、希望すらも。
「悩みなさい、飽きるほど考えなさい、そして生きなさい。そうして見つけた答えをいつか私に聞かせてください」
…承知しました。
ではどうかご覧あれ、情を知れず、愛を知れず、心が分からぬ私ですが。
まあ、なにはともあれ。
「刀を繰るのは、得意ですから」
これは終わった記憶だ。
私の、炎柱煉獄景寿郎の紅い記憶。