本間ひまわりが美しいだけの文学

1 / 1
この作品は作者本人がpixivにも投稿しています。https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11350822


第1話

 あなただけを見つめていました。

 初めてあなたに逢ったのは四月の半ばの事でした。いや、「逢った」と云うのは些か図々しい表現でしょうか。僕はあなたと目が合った訳でも、会話をした訳でも無いのですから。生温い空気に乗った桜吹雪の鬱陶しかったのをよく覚えています。当時高校に入ったばかりの僕は慣れない環境に慣れない電車を使って足搔くように通っていました。

 苦労して合格を掴んだ筈の進学校での生活に虚無感を覚えるばかりだった或る日、夕方の駅のホームであなたを認めました。僕が帰りの電車を待つホームの向かい、つまり僕が朝登校する為に降りるホームに制服を着たあなたは立っていました。

 心地好く揺れる明るい茶髪に、翠玉の如く輝く瞳、本当に咲いているかのような大きな向日葵の髪留め。僕は眼が離せなくなりました。スマートフォンを両手で弄りながら物憂げな表情で少しだけ俯いているあなたは大変芸術的で、それは翳の中に確かな美しさを感じてしまうベアトリーチェ・チェンチの肖像を思わせました。

 見知らぬ制服のあなたに我を忘れて釘付けになっていた僕の背後で、突然

「ひまーっ」

 と叫ぶ大声が響きました。頬杖を附きながら見ていた夢から覚めたように、或は莫迦な魚のように全身を弾ませ、僕は大袈裟に驚いてしまったのを記憶しています。

 その声に反応したあなたはバッと顔を上げ大きな瞳でこちらを見た刹那、大袈裟に手を振りながら破顔しましたね。その笑顔が暴力的なまでに華やかで輝々としていて、アルフォンス・ミュシャの絵画の美女たちに劣らぬ絢爛さを覚えました。先程の月の呪いのような魅力とは対照的な、光線(レイ)を放つ橙色の太陽の如き笑みを直視する事を恐れ、僕は地面から伸びた糸に顔を引っ張られたかのように咄嗟に下を向いてしまいました。

 嘲笑のような警笛にフッと現実へと引き戻されました。いつの間にか黄色い点字ブロックの半歩先に立ってしまっていました。慌てて後ろに一歩下がった後乗った帰りの電車の中では、始終月の瞳と太陽の笑みが僕を煩悶させました。一人の人間の中にあんな残酷なまでに対極の魅力が共存している事なんてあり得るのでしょうか。太陰と太陽とが表裏一体のあなたの惑星は、僕を恐るべき重力で引き付けて仕様が無いのでした。

 家に帰る前に、噛みきれなかった感情を喉の奥に流し込む為に自動販売機で百六十円のストレート・ティーを買って飲みました。どうにも好きではなかったあの独特の苦い後味が、この日ばかりは愛おしくて堪らなかったのです。

 

   * * *

 

 あなたと再会したのは三ヶ月が経った暑い日でした。夏らしい開き直ったような猛暑が訪れる前の、曇った空の陰鬱さに乗じて半端な熱気がひどく不快な七月。少しばかり温くなった紅茶の後味からはやはりあの時ほどの快感は得られませんでしたが、それでもペットボトルをゆっくりと流れる水滴を見ると僕は陽が出るのを待ち遠しく思うのでした。

 何年も、何十年も待っていたような、随分懐かしいように感じるあなたの顔は、常にあの太陽の笑顔に彩られていました。見慣れたスマートフォンの画面にあなたが映っているだけで大変に新鮮で、僕は小さい液晶にあなたを閉じ込めて独占した気分でした。加えて、あの日感じたあなたの月光のような情緒は、あなたを見てる何千、何万人の中でただ一人僕だけが知っている気すら覚えて、僕は勝手に優越感に浸るのでした。冬眠をする熊が冬を知らないように、実際に見ていなければ太陽の裏側は月面で覆われていたことなど誰もわからないのです。僕は誇らしい心持でした。

 同時に、悔しさが心の底の底から這い出てきたのです。どうしてあの時、タッタ一瞬でも眼を合わせておかなかったのだろう。今更画面越しにどれだけ視線が交わったところで、あなたの二つの翠玉は僕だけのものにはならないのでした。間違いなく、人生で一番の後悔でした。どうかもう一度逢いたい! もう一度逢えたなら、僕は灼熱の笑顔で焼け焦げてしまおうと構わない! ああ、どうしてあの時、タッタ一瞬でも眼を合わせておかなかったのだろう──。

 

   * * *

 

 それからは、毎日電子の太陽を拝みながら駅のホームであなたを探すようになりました。休日も毎週欠かさず、あの日の時刻になるとあなたのいたホームを血眼になって探してしまうのでした。しかし季節が巡りとっくに向日葵は萎れ、僕の焦りが顕現したような木々の紅潮すら引いて雪の降る頃になっても、あなたは現れませんでした。毎日あなたは確かに生きているはずなのに、どうしても見当たらない。僕は脆弱な精神をほとんど絶望に蝕まれていましたが、それでもあの日の記憶が煌々と輝いている限り僕は希望を捨てきれず、半ば取り憑かれたようにあなたを探すのでした。

 ちょうど一年が経ちました。死んだように、機械的に学校に通っていた僕は、その日の朝電車を降りた後、なんとなく反対側のホームを振り返りました。帰り際に逆のホームにいたということは、朝ならばあなたはそちらにいるのではないか、とふと思ったのです。

 向かいのホームに来た電車の窓を見ると、探し求めていた顔が奥に見えた気がしました。心臓が握りつぶされたような高揚感でした。喧しい朝の満員電車が発車するのを一日千秋の思いで待ちました。

 あなたはいました。僕が一年もの間追い求めていた輝く茶髪を春風で靡かせ、ああなんと改札へ向かうべく階段を上り始めてしまいました。僕は待って、と叫びました。鼓膜を錐で傷つけられたような痛みを覚えるほどの大声とともに思考を介さず走り出し、そのまま(くう)へと飛び出してしまいました。背後からキャアア、という声が聞こえた気がしました。向かいのホームの人間が一斉にこちらを向きます。有象無象の顔ぶれの中、あなたもこちらを向いてくれましたね。僕だけが知っているあの表情で、陽の光に照らされたような翠玉の瞳と、僕はようやく視線を交えることができたのです。少し困ったような、悲しいような、驚いたような、そんな眼をしていました。

 スロー・モーションのように体がゆっくりと線路へ落ちていく中で、僕は幸福に包まれていました。温い春の空気を劈くような五月蝿い警笛も、この瞬間だけは祝福の鐘に聞こえたのです。

 あなただけを見つめていました──。



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。